‘2006/03/25’ カテゴリーのアーカイブ

信仰の意義と対象

2006/03/25

日本人は宗教に節操がないといわれますが、私は、まず信仰心があって、その時々に向ける対象が違うだけだと考えます。だから、七五三は神式、死ねば仏式、初詣に行く一方でクリスマスも祝う。対して外国の多くでは、先ず信仰対象があってその中で信仰心を育んでいるようです。だから、他宗教を敵視することも多いのでしょう。

他宗教を敵視する文化背景があるからか、キリスト教文化圏の霊界通信を読んでいると、どうも宗教に関する記述に引っかかりを感じます。(以上は質問の発端を説明するだけで、世間にある霊界通信などの具体的な問題提起はいたしません。)

Q「信仰とはなにか、信仰対象は何が適切か」

始めに信仰心が有るべき――始めに信仰心を掲げるべきである。真に全身全霊を捧げて信仰すべき何者も地上には存在しない。物質世界に降りてきた途端に、宗教は物質的属性を帯びてしまい、純然たるものではなくなる。すべての宗教は、生前私が一生を捧げた仏教でさえも、真と呼ぶべきものではないし、真を求めるべきものでもない。その状態の中で、人はまじりものの排除に努めて、より純粋に近づくことを大事とすべきである。

 より純粋なる宗教を求めるのは、過ちの元である。極論すれば何も信じないことが一番の純粋となるだろう。複雑な物には多くの交りものが入り込み、それゆえに経典の多い仏教こそが一番の偽物といえるかも知れない。だからこそ、仏教を学ぶ物は、まず最初に何が真であるのかを学ばねばならない。……何が真であるのか、つまり、何が真でないのか、だ。経典も言葉という未熟な表現を使う限り、言葉だけから学べば未熟な智慧しか得ることが出来ない。だからまず、その空しさを知らねばならない。

 ただ知り、ただ信じることには過ちが入り込む、それ故に、信仰から入って信仰心を育てるのは、同時に迷信をも育てることになる。世に宗教を理由とする暴力が多いのは、まず、信仰から入って信仰心を育てた結果である。

 信仰心から信仰に至った者なら、言語という未熟な表現手段に惑わされることなくその真意を汲取って、宗教を暴力の手段にすることは避けるであろう。

Q「すると、信仰対象の選び方という設問は無意味な感がいたします。」

他の霊が代りに答える。

 私が思うに、信心というのは人が善良に生きるための根幹であって、それを育てることはとても大切だと思う。人を信じるが故に人から信じられ、誠実であろうとするから誠実な態度で接せられる。

 それ故に、信仰の対象を何にすべきか、という問いは空虚である。

 そもそも人は何を信じるというのだろう? 天の公平さか、古代の英雄の叡智と力であるのか。信仰対象とは、いわば心の拠所とするものだが、働き以上の報酬を求めたり、人格以上の尊敬を求めたりする様な不誠実な者が何を信じたとしても報われるものではない。それは信心ではなく利用にすぎない。

 真に信心する者は、信じる事の意味を知っているが故に、信じられることの大切さも知る。だから善良に、誠実に生きる努力をしているはずである。そういう人達にとって、何を信じるかは問題にはならない。

盧氏

信じることを力とする――もしも信仰の対象を必要とするなら、自分が一番素直になれるものを選ぶべきである。あれこれと、期待を抱く相手を信仰対象に選べば、自分の欲に騙されてしくじるだろう。

Q 「困って宗教の門を叩くものは救われないと?」

困っている人に救いがあるのではない。――困っている人に救いがあるのではない。救われるべき者が救われるのである。救うのは宗教ではなく、切っ掛けをもたらすに過ぎない。

 自身に功徳無く、身内に功徳無く、努力無く……それでは救いが遠い。

 不平不満、愚痴を慎まず、恨み、妬みていれば、……親切すら遠ざけてしまう。

 自分を救いたければ、自ら努力すべきである。自らを救わずにいて、誰も助ける者がないと嘆く……それは救いを求める姿ではなく、憑依相手を求める地縛霊の姿である。


06年 03月 25日

墨をする間

2006/03/25

 通信があるというのでPCに電源を入れ、エディターが立上がるのを待つ。向うは速く伝えたがっているのに、準備はなかなか整わない。すると……

「昔は、御用があると墨をすり始めてから書出す。墨をする間が良い精神統一の時間であったが、今時の道具は待つことにイライラさせられて、通信をますます遠ざけてしまうのだな」……という。

 なるほど、墨を用意するのには手間が掛るし、ムラのない墨を得るためには心を静める必然もあるだろうが、PCで書くには機会に待たされることばかりで手持ちぶさただ。申訳ないという気持からイライラするわけだが、どうせ待たねばならぬ事情は同じなのだから、ここは一つ統一の時間にすべきなのだな。

なぜ守護霊が応えない?

2006/03/25

2006-03-25


 時折、変な質問が向けられる。変な、というか、筋違いな質問をしている事を当人も自覚しているのだろう、聞き返すと話題を変えてしまう。

「なぜ私には守護霊が応えてくれないのだろう」……私は、「誰でも祈れば守護霊が応えてくれる」などといった覚えは全くない。いった覚えのない事を、なぜと問われても返答に困る。むろん、中には応えを得られる人もいるだろうし、応えを得るために私は精神統一の指導を行っていてそこそこ実績も上げているのだから、あながち「デタラメでも教わったのでしょう」と答えるわけにも行かない。

 ただ、それぞれの質問の前後を考えると、行き詰まってこういう質問をしていることはよく分る。するとこうもいえる。

「御利益信仰に陥ったな」と。つまりは、「商業主義に丸め込まれたな」 ……と。商業主義が本当に潤すのは商売上手だけである。消費者が真に豊かになったなら、売り手はそれ以上売れなくなるではないか。価値がありそうで価値のない、いわゆるバブルを扱いたがるのが商業主義なのだ。


 

いつまで悩むのか?

2006/03/25

2006年 03月 24日


 とある霊が語る。

・・・・・・・

 思春期であるならいざ知らず、人、三十歳にいたらんとする時に、あれこれといろいろと思い煩うことは、危ういことであります。それは、自分の人生がいまだに自分の手中に納まっていないということ。生きるために必要な人生の智恵をいまだに持ち合わせていないということなのです。

 今般、このサイトで教えていることは、人生を手中に納め、もって、自分らしく生きることであるのに、それを読む者が、当座しのぎの問題解決策ばかり拾い読みしては、あれが足らぬ、これが足らぬ、私の人生をよく生きるためには足らぬものばかりだ、と不平を申しておりますが、世に摂理といわれ、神様のお計らい、などとも呼ばれる物事の自然な流れを、小手先の技、小ざかしい知識でどうこう出来るはずもなく、それでも何とかしようと摂理を欺く算段は、天につばを吐いてわが身を汚すような愚かなことでしかありません。

 いま、あなたを苦しめている諸問題にも、それぞれに原因があり、縁があり、そして今の苦しみがあるにせよ、それを事前に取り除けず、大きくなるのを止められず、悪い結果を消してなくせない、……乗り越えられるはずのものがぶつかって前に進めない、その己の非力さにも問題があるのです。

 中学生が、高校生の問題を解けないならば、分不相応をたしなめます。中学の問題が解けないなら、一生懸命に面倒も見ましょう。でも、小学生の問題が解けずにいるなら……嘆いて恥をかくのではなく、虚心・誠実に頭を下げて教えを請い、もって年齢相応の智識を身に付けることが大切でしょうに。

 個々の問題が解けない、その事も無論、当事者にとっては大変なことではありましょう。ですが、守護霊の立場から見れば、至るべきレベルに達することなく、いまだにそんな問題に引っかかっている、あなたの成長の遅れこそが一番の心配の種です。

 愚かさを心の中にしまって置けると思ったら大間違い。人の世にある限りは、心は心の中にとどまりますが、ひとたび霊魂として活動するなら、そして肉体を捨てて旅立つならば、心はそのままあなたの見る風景にもなるのです。

 愚かであるのもまた分相応で諦めねばなりませんが、隠したつもりで騙されているのが自分だけではあまりに情けなくもあります。そのような霊格がどれほど惨めな境遇であるのか……その場限りの対策がいつまで続くと思いますか。すでに破綻しているのに。


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