‘2006/03/23’ カテゴリーのアーカイブ

小言がうるさいぞ! あの我が師の支配霊め!

2006/03/23

 質問者に対して説教臭くも、「己を審神《さにわ》せよ」……などと口幅ったい言葉を使って返信しようか、と考えていた午後。そのまま、思い出の中に沈んでしまった。

 二十代の前半、心霊の師匠宅に押しかけて、晩御飯をご馳走になるのがなによりも楽しみだった頃、私は経験則として、到着直後、先ず、師匠を審神するように心掛けていた。師匠に強い影響を及ぼしているのが、支配霊の某武家であるなら長居は無用である。たちまち小言の十字砲火を浴びてタダ飯がもたらす幸福感よりも遙かに多くのストレスを抱えて帰ることになるからだ。一方、師の守護霊の尼様が表面に出ているなら、もう、何もかも忘れて、自宅、自室にいるよりも寛げる。

「いや、君ぃ、心霊主義を学んで真の高級霊から癒された経験がないなんて、寂しいことだね、アハハハハ」と、天狗になって高笑いをしたくなるほど幸せな気分に浸れる。もうまったくあの尼様には、実にお世話になった。おかげで我が師にはまったく頭が上がらない。相当に無理難題というよりも支離滅裂をいう師であるが、あの守護霊と、師の祖母の霊が立っていたらもう返事はタダ一言、「イエス、マム」である。

 その一方……まったく、あの金沢藩の某武士め、自分に芸の無いのを棚に上げて、無理矢理人を変えようとするな!!!! …… だいたいケンカになるのは、境涯が似ているからだろうがぁぁぁ!! などと未だに感情が高ぶるぐらい、私は師の支配霊の何人かと相性が悪い。

 思えばおかしなものだ。私と師匠の相性は良いのか、悪いのか。その日によって大きく変るというのだから。等と思いつつ、ふっと我に返った。 「北風と太陽」の寓話ではないが、小言で人を変えようとするのは無理があるというよりも無駄である。

「和顔愛語」――人を押すよりも良き方に導く方が効率が良いに違いあるまい。そう考えるなら…… 思わず冷や汗が流れるようだ…… 最近私のブログは小言が多すぎるかも知れない。小言は簡単ではあるが効果は薄いものなのに。

 我が師の、守護霊と、支配霊の某武士――我が師の、守護霊と、支配霊の某武士――どうせなら、我が師の守護霊のような態度をとりたいものだ。うん、そうだ、手本にするなら、あの小言の多い、大人気のない武士の霊などではなく、守護霊の尼様のように寛容で鷹揚な態度だ。私はそれを追求しよう!!

・・・・・

 もっとも、ブログのネタを作るのには、小言が一番手軽なのは、この原稿を読み返すとよく分る。

お彼岸の話題

2006/03/23

 精神統一をしても、なかなか先祖の霊格が上がらない人が居る。いくらなんでも進歩がないのは、指導する側が無能ではないかと自責せずにはいられない。当然、その問題点を洗い出したいと思っていたが、思い詰めていると受信がおろそかになるのは心霊研究的エッセイに纏めているとおりである。

 ぶっちゃけた話、忘れた頃に教えられた。

・・・・・

仕事中に『ちょっと覗いてみよ』と小言でいわれる……といって私は、PCの前に座ったままで動くわけでもない。…… 心を充分に静めると、そこは小さなお堂の前、戸の置くを覗き込むと、神道風の祭壇に大きなロウソクが二本燃えさかっている。祭壇の前には巫女風の装束を着た、白髪の老婆。……こちらはまるで萌えていない。いや、この表現を一度使ってみたかっただけだ。

 その背後にはおよそ5列4行の二十人の老若男女が詰めかけて一心に祈祷をしている。祝詞なのやら、お経なのやら、良く聞取れないのは精神統一が浅いためだ。(念のため後で確認してみたが、この数字は別にどこかの家の祖先の数を表しているのではなく、まあ、お堂の規模を教えているのだそうだ。)

 案内の老翁が口元に指を当てて、「静かに」のジェスチャーをする、一緒にそっとお堂から離れて、広場の石に腰を下ろす。

『どう見たぁ?(どう思う)』……なにやら語尾が妙に間延びして聞える。なんだか、トンネルの中で話しているような感じである。

「お願いします! とねだるばかりで神様も返事が出来ないでしょう。」

『そうよぉ。信心深いのも程ほどにせねば、神を強請《ゆす》って、神がおびえる。』

「神がおびえる?」……

『そうさぁ。手出しは出来んわさぁ。』

 何となく表現に違和感があるが、意味は何となくわからなくはない。話の続きを促す。

『神を強請れば霊覚が上がると思うから、若造霊媒なんぞ相手にするのも詰らんことさぁ。』

「当人等に向上の手応えがなければ、途を変えるのでは?」

 老翁は大笑いしていう。

『要は、何の不自由も無いのさぁ。生前も死後も。だから、「真剣」という意味がわからず、下らん真剣をやっている。真剣というのは相手を切る覚悟であって、刃のついた刀の事じゃない。切る覚悟がなければ木刀よりも役にタタンのが真剣さぁ。』

「はぁ?!」……なるほど、真剣とは使い手の心にあって、物理的な刀をいわぬというのは面白い。

『自分らは、「懸命に修行しています。向上いたします」と祈ってはいるが、祈って向上するかぁ?』

老翁がまたもや大笑いする……

『神様が向上させてください、と大勢が、大音声で祈りを捧げる。やれやれこれでは、自分の神格が汚されてしまうと、神様もびくびくものじゃ』……さらにまた大笑い。

確かに……指導して貰わなくても格が上がるなら楽だな。そこで、お約束のつっこみを入れる。

「私も仲間に入れて貰おうかなぁーなんちゃって。」

『だから神様は、なおびくびくものじゃぁ!!』……一声大笑いして、老翁は立去った。

 そう、類は友を呼ぶ……この同類に集られては確かに神様の無能の証と受取られるだろう。……オイ待てよ? 原因は教えて貰ったが、対策は教えてくれてないぞ? しかもいっちゃったぞ!!

 仕方がない、後は自分で捜すか。

 再び、お堂に意識を合わせ、覗き込む。今度は女神とおぼしき女性が奥に座って、皆に語りかけている。

女神『修行というのは、ただご祈祷三昧ではなく、自ら学び、心を浄め、人様をお助けして徳を積重ねていくなのですよ』

一同からブーイングが上がる。

『だって、私のような無学者が、一体何を勉強せよというのです。お経なんて読んでも意味はちんぷんかんぷん、祝詞だって有難いけど、有難いだけだし』

女神『学ぶべき本はまだまだあります』

更にブーイング。

『生きている内に出来なかった勉強を、死んでからせよなんていうのは、地上で教わった神様とは全然違う。あんたはニセモンじゃないか!!』

……困惑する女神。すると、再び老翁から肩を叩かれ、うながされてその場を再び外れた。

『もう十分じゃろ、今の問答は本当ではない。ただそうなるのだ、ということを示して見せたのみ。』…… 続けて見ようにも後はないらしい。

『生前に間違った信仰をすると、こういう事になる。神のなんたるかも知らずに、有りがたや、有りがたや、と拝んでいるから、真の神のなんたるかを見分ける力がない。

『まっこと無信心も困るが、信仰が篤ければよいというものではない。大切なのはただ、ありがとう、どういたしまして、という日常の挨拶の延長にある信仰かも知れん。それは俺《わし》等が強いるべきものでもない。

『まあ、悪さをするわけでなし、抛っておけばよい』

……? 良いの? それで?

『今、生きている子孫が、真の信仰に目覚めたら、祖先も恥じて修行に打込むであろうさ。言い諭すよりも簡単さ。何せ、時間だけは何百年でもあるからなぁ』……とまた大笑い。

・・・

いいか、私が呑気にしているんじゃないぞ!! と、次のオフ会では釘を刺しまくってやろう。

・・・

 あう!?。この女神様は萌えるかって? なるほどではもう一回お堂に集中しなくてはなるまい……………………が、眼裏に映るのはPC画面のまま。私用は不可であった。


 先祖供養を重視する霊媒が多い中で、どうも私は仏事を覚えるのが苦手だ。その場が来ればやらねばと思うが、普段はまったく関心が生じない。墓参もなにも、時機もなくその時々に思い立ったが吉日で出掛けていくからだ。まして、混み合う時期に出掛けることをバカにもしている。おかげで盆と彼岸を取り違えることはしょっちゅうだ。

 祖先にしてみれば肩身が狭いかも……とも思うが、彼岸の前にはお墓も掃除にいくし、本来お彼岸は祖先の霊が家に帰る時期だし、厳密に言えば我が家に帰る死者はいない。というわけで、別段この時期、墓参に行くこともないし、祭壇を祀るわけでもない。いや確かにこの時期、知人の祖先の霊から援助を求められることは多い。そういう時には私の守護霊と引き合わせて私の仕事は終わる。

 お彼岸にも意味はある。地縛の霊を救う切っ掛けになる事を私は知っている。ただ虚礼には意味がない。とは私の持論だが、人の中には死んでからも虚礼に頼って神仏に救いを求めているらしい。

お彼岸の話題

2006/03/23

 精神統一をしても、なかなか先祖の霊格が上がらない人が居る。いくらなんでも進歩がないのは、指導する側が無能ではないかと自責せずにはいられない。当然、その問題点を洗い出したいと思っていたが、思い詰めていると受信がおろそかになるのは心霊研究的エッセイに纏めているとおりである。

 ぶっちゃけた話、忘れた頃に教えられた。

・・・・・

仕事中に『ちょっと覗いてみよ』と小言でいわれる……といって私は、PCの前に座ったままで動くわけでもない。…… 心を充分に静めると、そこは小さなお堂の前、戸の置くを覗き込むと、神道風の祭壇に大きなロウソクが二本燃えさかっている。祭壇の前には巫女風の装束を着た、白髪の老婆。……こちらはまるで萌えていない。いや、この表現を一度使ってみたかっただけだ。

 その背後にはおよそ5列4行の二十人の老若男女が詰めかけて一心に祈祷をしている。祝詞なのやら、お経なのやら、良く聞取れないのは精神統一が浅いためだ。(念のため後で確認してみたが、この数字は別にどこかの家の祖先の数を表しているのではなく、まあ、お堂の規模を教えているのだそうだ。)

 案内の老翁が口元に指を当てて、「静かに」のジェスチャーをする、一緒にそっとお堂から離れて、広場の石に腰を下ろす。

『どう見たぁ?(どう思う)』……なにやら語尾が妙に間延びして聞える。なんだか、トンネルの中で話しているような感じである。

「お願いします! とねだるばかりで神様も返事が出来ないでしょう。」

『そうよぉ。信心深いのも程ほどにせねば、神を強請《ゆす》って、神がおびえる。』

「神がおびえる?」……

『そうさぁ。手出しは出来んわさぁ。』

 何となく表現に違和感があるが、意味は何となくわからなくはない。話の続きを促す。

『神を強請れば霊覚が上がると思うから、若造霊媒なんぞ相手にするのも詰らんことさぁ。』

「当人等に向上の手応えがなければ、途を変えるのでは?」

 老翁は大笑いしていう。

『要は、何の不自由も無いのさぁ。生前も死後も。だから、「真剣」という意味がわからず、下らん真剣をやっている。真剣というのは相手を切る覚悟であって、刃のついた刀の事じゃない。切る覚悟がなければ木刀よりも役にタタンのが真剣さぁ。』

「はぁ?!」……なるほど、真剣とは使い手の心にあって、物理的な刀をいわぬというのは面白い。

『自分らは、「懸命に修行しています。向上いたします」と祈ってはいるが、祈って向上するかぁ?』

老翁がまたもや大笑いする……

『神様が向上させてください、と大勢が、大音声で祈りを捧げる。やれやれこれでは、自分の神格が汚されてしまうと、神様もびくびくものじゃ』……さらにまた大笑い。

確かに……指導して貰わなくても格が上がるなら楽だな。そこで、お約束のつっこみを入れる。

「私も仲間に入れて貰おうかなぁーなんちゃって。」

『だから神様は、なおびくびくものじゃぁ!!』……一声大笑いして、老翁は立去った。

 そう、類は友を呼ぶ……この同類に集られては確かに神様の無能の証と受取られるだろう。……オイ待てよ? 原因は教えて貰ったが、対策は教えてくれてないぞ? しかもいっちゃったぞ!!

 仕方がない、後は自分で捜すか。

 再び、お堂に意識を合わせ、覗き込む。今度は女神とおぼしき女性が奥に座って、皆に語りかけている。

女神『修行というのは、ただご祈祷三昧ではなく、自ら学び、心を浄め、人様をお助けして徳を積重ねていくなのですよ』

一同からブーイングが上がる。

『だって、私のような無学者が、一体何を勉強せよというのです。お経なんて読んでも意味はちんぷんかんぷん、祝詞だって有難いけど、有難いだけだし』

女神『学ぶべき本はまだまだあります』

更にブーイング。

『生きている内に出来なかった勉強を、死んでからせよなんていうのは、地上で教わった神様とは全然違う。あんたはニセモンじゃないか!!』

……困惑する女神。すると、再び老翁から肩を叩かれ、うながされてその場を再び外れた。

『もう十分じゃろ、今の問答は本当ではない。ただそうなるのだ、ということを示して見せたのみ。』…… 続けて見ようにも後はないらしい。

『生前に間違った信仰をすると、こういう事になる。神のなんたるかも知らずに、有りがたや、有りがたや、と拝んでいるから、真の神のなんたるかを見分ける力がない。

『まっこと無信心も困るが、信仰が篤ければよいというものではない。大切なのはただ、ありがとう、どういたしまして、という日常の挨拶の延長にある信仰かも知れん。それは俺《わし》等が強いるべきものでもない。

『まあ、悪さをするわけでなし、抛っておけばよい』

……? 良いの? それで?

『今、生きている子孫が、真の信仰に目覚めたら、祖先も恥じて修行に打込むであろうさ。言い諭すよりも簡単さ。何せ、時間だけは何百年でもあるからなぁ』……とまた大笑い。

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いいか、私が呑気にしているんじゃないぞ!! と、次のオフ会では釘を刺しまくってやろう。

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 あう!?。この女神様は萌えるかって? なるほどではもう一回お堂に集中しなくてはなるまい……………………が、眼裏に映るのはPC画面のまま。私用は不可であった。


 先祖供養を重視する霊媒が多い中で、どうも私は仏事を覚えるのが苦手だ。その場が来ればやらねばと思うが、普段はまったく関心が生じない。墓参もなにも、時機もなくその時々に思い立ったが吉日で出掛けていくからだ。まして、混み合う時期に出掛けることをバカにもしている。おかげで盆と彼岸を取り違えることはしょっちゅうだ。

 祖先にしてみれば肩身が狭いかも……とも思うが、彼岸の前にはお墓も掃除にいくし、本来お彼岸は祖先の霊が家に帰る時期だし、厳密に言えば我が家に帰る死者はいない。というわけで、別段この時期、墓参に行くこともないし、祭壇を祀るわけでもない。いや確かにこの時期、知人の祖先の霊から援助を求められることは多い。そういう時には私の守護霊と引き合わせて私の仕事は終わる。

 お彼岸にも意味はある。地縛の霊を救う切っ掛けになる事を私は知っている。ただ虚礼には意味がない。とは私の持論だが、人の中には死んでからも虚礼に頼って神仏に救いを求めているらしい。

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死者の供養について

2006/03/23

2006年 03月 22日


 死者の供養は、どうしたらよいか、という質問が時折寄せられます。大抵の方は霊媒を、供養の専門家の様に思っていらっしゃるようですが、そういう儀式的なことは、僧侶や神官の事業であって、一部(大部分?)の霊媒が、その事業の一翼を担っているとしても、それは本来の霊媒の仕事とはいいかねます。

 例えるなら、結婚式と結婚の違いとでも申しましょうか。いくら盛大に式を行ったところで、新郎新婦の間の絆が充分でなければたちまち離婚の恐れがありますし、一方で、式らしい事は何もせずとも当人の絆が充分であれば、長く添い遂げることになりましょう。死者の供養も同様であって、墓参の回数や、仏事・神事の経費が大切なのではなく、遺族の真心のどこにあるかが大切なのです。

 そして、心霊家としていうなら、人が生まれてくるときに医師や助産婦の助けを得るように、人の死ぬときも死後の世界で高級神霊の援助を得ているので、概ね地上側の手助けは必要とはいたしません。理想をいうなら他界への再生を祝福するぐらいが良いのですが、これを広言すると、「まったく心霊家というのはけしからん。人が死んだらお祝いをせよという。遺族の気持ちを逆撫でしおって、お祝いは、お前が死ぬときにすればよい」…… などという面倒な話になるでしょうから、私は口を噤んでおります。

 ただ、少なくとも肉体の死というのは、戻ることの出来ない一方通行の道行きなのですから、行く者の後ろ髪を引くような態度だけはなるべく慎むべきだと思います。……悲しくとも、「行った先に早く馴染むように」 という励ましこそが死者には必要ですし、生き残った人に取ってみれば、 いなくなった生活に早く馴染むことが必要なのです。その辺の理解が足りない哀悼の言葉が世間にとても多いとおもいます。

 そもそも人が生まれてきた以上、人が死ぬことは避けようがありません。死は自然であって、不死こそが不自然、いや、生きていることすら実は奇蹟と呼ぶべきかも知れないのです。それをわざわざ自殺する者もおりますが、価値や意義が分らぬ者をとやかく言っても始まりますまい。

 その本来、自然である死ですが、準備もなく死を迎え、そして、逆戻りが出来ないとなると、往々、ごねる人が出て参ります。地上に再生するにあたっては事前に心の準備が出来ているものらしいのですが、死ばかりはなかなか、人格が出来上がらなければ教えて貰えないもののようです。かくして、霊媒の出番が参ります。

 死者の供養に関して、霊媒が為すべきは、墓相や供養法の心配ではありません。準備不足で戸惑い、地上に未練を残してごねている霊魂の心配を取り除くことなのです。……と、私は信じています。むろん、霊媒の数だけ意見はありましょうし、物事には需要と供給の関係もあります。

 が、神は騙せない……因果は眩ませず……と申します。ようするに、当人が努力した以上の高い境遇には、いくら霊媒に金を積み上げても、押し上げることが出来ぬのです。この点は、しっかりと吟味していただきたく思います。

・・・・・・・

 では、霊媒である私が、どういう供養をするか……私が心掛けていることをご紹介するなら……

 まず、心にゆとりのある時には、たびたび線香を手向け、静かに祈ります。……線香は良いものを一本だけ、大切なのは価格ではなく、心安らぐ香がして煙が少ないものを選ぶことです。それはつまり、祈りが穏やかになるための香の演出ですから、マメな人ならばアロマオイルを使っても良いし、コロンなどを使うのも良いかも知れません。

 花もあればよいのでしょうが、私は世話が下手なので、枯らすことを惜しんで、花には手を伸ばさぬようにしています。といって、造花等というまがい物はかえって心を汚す気がして手を伸ばしてはいません。

 墓参りは、なるべく家族のものと都合がついて、無理がない程度に頻繁に行きます。大切なのは、共有する時間だと考えます。

 まあ、この程度でとやかくはいわれずにおります。

 ただ、このやり方で済むのは、私の事情があるからで、人によっては前世の因縁などで、三界万霊(といえば聞こえが良いが)というか祀るものの無い無縁仏を延々と供養しなければならない人もいるようで……それはそれ。兎も角自分の都合を優先するのは、大過の可能性はあっても無事の保証は無いとお考え下さい。

 この辺は、霊媒に質問しても適切な答は得られないと思います。なぜなら、助けて欲しくても、助けよ!と主張できないのが日本人(当たり前か?)……良いよ、といいつつ、でも無視をすると嫌がらせをする霊も多いからです。日本人て、本当に面倒です。


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