霊感の主要因
2006/03/212006年 03月 20日
昨日は、一年ぶりに、師と一緒にあちこちに出掛けた。今回は用事が立て込んでのことで、興味深い霊体験などはないが、過去の思い出から考察してみる。
師と共に出掛け、その行く先々で、神社仏閣などをお参りするのは私にとっていつも楽しい経験となった。師と見たものを確認することで、自分の霊視内容に自信が得られるからだ。おおむね当るのである。ここでおおむねというのは、それぞれが印象を語るのであって、その内容の詳細を比べる手段がないからである。
たとえばとある神社に一緒に参拝したとき、瞑目した私の眼裏には炎状のラインで画かれた、五大明王が次々に映し出された。とにかく、線画であった事と、その線が炎状に赤く揺らめいて濃淡が変るところが印象的であった。すると、師がおもむろに言出す。「へんねぇ、ここは神社なのにね」……そう私は、描画方法に感心するばかりで、、神社なのに仏像が見えることに疑問を抱かなかったのである。
反対に、違うものを見て、それが一対であったことも印象に残っている。川崎太子を訪れたとき、師は龍を見、私は女神を見た。一対の竜神のそれぞれを見たのである。
では、私は師と同等の霊視能力を持っているのか……その精細さや表現方法などを比べることは難しい、なんとなれば我が師は、すこぶる表現がヘタなのだ。そのことは買物を頼まれていつも苦労するところである。「円くて、でっかくて、びゃーとなる奴」等という表現だけで、師の欲するものを買ってくる私は、我ながらいつも関心しているぐらいだ。だが、その制約があれど、口にするテーマが同一であることから、私は充分に師に追いついているといえるのだろう。……というだけなら、ただの自慢話である。
だが、師と一緒にいるときに感じるものは、私の普段よりも質が高いのである。実を言えば、買物も、車の運転手をするのも、他の誰かに頼まれ、又は一緒に行くときよりもよほど脳裏に対象がくっきりと映るから、うまくいく面が多い。何のことはない、師は口べたであるが、一種、テレパシーが巧く、私はそれを受信しているのだ。
これはつまり、霊媒を受信機に見立てたときにその仕組がよくわかる。おそらく受信機としての性能は、その感度に差があれど、私は必要最低限を充分にクリアーしているのだろう。残る差は、送信機の性能にあるのだ。
師の背後霊は、簡潔かつ必要十分の情報を提供することに長けている。一緒にいたときに私が多くを感じるのは、単にコピーを貰っているからに過ぎない。
霊能者(あえて表現を変える)の才能とは、霊媒の個人的才能で決るのではなく、その背後霊の能力・才能に大きなウエイトが掛っているのである。そして、その背後霊は、必ずしも霊媒の独占契約というわけではない。…… だから旅行時などに私が同じものを見ることもあるし、逆に私だけが見えたりすることもある。
……では、背後霊を継承できれば霊能開発も簡単に思えるだろう? 実際、イタコや、いわゆる拝み屋などでは、神憑け等と称して、背後霊の継承を行っているようだ。これに関してはおもしろい話がいくつかある。「神様」にも好き嫌いがあるから熱心な人には神が憑かず、ボンヤリしている人が選ばれたとか、「神様」が師から弟子に乗換えてしまって師が突然に霊感を失い、嫉妬のあまり悶え死んだ等ともいう。
ここで大切なのは、背後霊にも人格があり、好みがあって霊媒の思い通りにはならないと言うことである。私の師の背後霊達は、師の信仰心が素朴なところをとても愛していて、大半の霊達は、理論派である私のことを嫌悪……まではいかないが遠慮している。私のことを大事にしてくれるのは師の守護霊と祖母の霊ぐらいなものだ。その一方で、師のその又師の背後霊は、我が師が文物を大切にしないことから遠慮しているようだ。……背後霊たちの動機は、ドロドロはしていないが、実に人間的なのである。
なお、念のために明記するが、私は師を低く見るのではない。山口で滝行したときなど、身を切られるように冷たい水に足をつけたまま、弟子である私らが滝行を終えるまで読経を続けていたことは私にとって強烈な印象であった。姉弟子等は水の冷たさに岩の上に逃げだし、私は一番最初に瀧に打たされて、後は早々に追出されたのである。(行着は濡れると透けるので、女性行者の所では実質男子禁制だ。)まったく、その精神力には頭が下がる。それゆえ私などは「口舌の徒」扱されても口を噤まざるを得ない。私だって男の子、「おれだってな!!」という気概はある。が、努めてそれを慎む。何しろ、
巧言令色少ないかな仁……と、言われないだけ幸せなのだから。
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同時に思う。霊感の主要因が背後霊であるのと同様、霊能者の問題解決力の主要因は、相談者自身の背後霊の強さであると。
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霊界通信の多くはいう。霊界の者達が好む資質は、素直であることと正直であることだと。同時に利他的であることも好意的に受け止められる。自分だけ助かろうとすることがなにより嫌われるのである。……たとえば、根が善良な人も視野が狭くて家族以外をみな敵と見なす例もある。……敵多くして人は滅ぶのである。