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憑依霊の害は誰の責任か

2006/03/13

2006年 03月 10日


 くどくなるがそもそも、人間の境遇が千差万別であるのと同様、人間の死後の境遇も千差万別であって、特定することは無理があるというより嘘が生じてしまうのだ。それをふまえて、時に曖昧となる表現に付合っていただきたい。

肉体起因の欲望

 食欲、飲酒欲、性欲の三つは、肉体基因のものであるから、肉体を失った魂である死者はこの欲を充すことが出来ない……とされている。霊界(幽界)通信に多い話ではあるが、歯切れの悪い言い方をするのは、このような制約は境涯の低い間だけであるからだ。といっても、このような欲望に駆られている魂にはたどり着けないという意味において、死者は絶対にこれらの欲を充せないというのもあながち無理のない説明である。

 もしも強欲なる死者が、これら三つの欲望を死後も充したいとするなら、執るべき手段は二つしかない。一時すべてを忘れて向上した後、高い境涯でそれを得るか、他者の肉体に憑依してそれを満たすかである。当然、欲望に引きずられやすい人が向上等という面倒を選ぶ筈もなく、憑依という安易な手段で自他を堕落させる悪行を選ぶのは不幸にして自然の流れである。

 需要と必然の強さから、このような憑依現象ははなはだ多いが、作用には反作用が生じるもので、霊にとっても憑依は決して楽ではない。憑依は快楽を共有するのである。ならば、苦痛もまた共有せざるを得ない。痛い時だけ離れていようなどと調子よくは行かぬらしい。なんとなれば……これは単に憑依霊側にとって不便であって、人間側にとって福音ではない。そして少なくとも、この憑依霊側にとっての不便は、同時に弱点でもある。

 滝行や水垢離などが、除霊に効果がなくもないのは(曖昧な表現で申訳ないが、絶対に効果があるとはいえないのだ)こういう理由である。

用語の整理

 肉体基因の欲望を満たそうとする憑依霊に対して、食欲の場合は概ね餓鬼霊、飲酒欲の場合は天狗や狸に比されたりする。性欲の場合は色情因縁などと呼び、どれも拝み屋文化の生み出したものでその使われ形には普遍性がない。また、餓鬼や色情、因縁、といった仏教用語を生半可に借用するのは誤解と嘲笑の種ともなろう。

 私としては、それぞれ、食欲障霊酒欲障霊、(薬欲障霊も追加すべきだ)、性欲障霊、その総称を欲求障霊とでも表現すべきと思うので、まあ将来的にはさらに別の呼び方を用いるかも知れないが、当面はこの表現による。おそらく私のオリジナル造語であるとは思うが、他に同様の表現を使っている方がいるなら、参考にしたいのでご一報願いたい。

極端な事例

 憑依霊の存在を自覚するほど、強い支配・圧迫を受けている人から見れば、肉体起因の欲望を満たそうとする憑依霊……上述の通り、当サイトでは欲求障霊と呼ぶ……は、欲望の充足を強いられると感じるわけだが、それは非常に極端な事例である。そんな極端で横暴な霊障を、その被害者の守護霊が放置するとしたら、その憑依霊がよほど強い悪霊と考えるよりも、憑依霊と被害者の間に重大な事情があると考える方がよい。職業霊能者の営業話を聴いていると、死後の世界はよほど治安の悪い、力が支配する暗黒世界の如く思われることだろう。だが、それを信じる者は絶望すべきである。生きている内はその霊媒に助けて貰えるかも知れないが、死んでその暗黒世界に入ったら誰に救って貰えばいいのか。もしもあなたが死後に救って貰える相手(霊)を知っているなら、高い金を払って霊媒に助けを求めるよりも、その死後の救い主に助けを求めるが良いだろう。

 私の知る死後の世界は、むろん一部には治安の悪いところもあるが、それは単に未熟な者達に自己反省のチャンスを与えているだけで、人情味も充分にあり、治安のしっかりとした世界である。……むろん、霊障に苦しんでいる人に取ってみれば、心の底から助けを求めても得られぬ救いに、霊界の治安の良さなど信じられぬ事だろう。特に、至らぬ所があるとしても、出来うる限り善良に生きようとしている人に取ってみれば。

 その理由は、それぞれの事情に由り、単純に説明することは出来ないが、そういう行き違いが生じて不思議のないことは、一つの事例だけで説明できるかも知れない。

 人にとって、生死に関わる重大問題であるとしても……救いを求める先である死後の世界の者達は、すでに死んでいるのである。これが詭弁であることを承知の上で表現するが、死を免れなかった者に、死なぬ為の援助を求めるという矛盾があることを先ず自覚すべきだ。死者たちが本当に重要に思うのは、生死ではなく、死よりも大切な事なのである。その価値観を共有しない限り、霊界の治安の良さについては体感することが難しくは無かろうか。

 ……このような特殊な事例については、個々の事情を問題にせねばならぬので、ここではそれ以上に触れることをしない。

 

欲求障霊の手口

 行動を強いられる自覚のある極端な事例の他に、結果として憑依・霊障が疑われる場合もあるだろう。以前より私は、色情因縁などというのは真義の分りにくい業界用語であって、霊視もしない素人がそれを案ずるのはナンセンスであると考えているが、木の種類を見るのにその実を見るのも、確かに一つの手である。

 つまり、身体的欲求に関する大失敗をしたなら、そこに霊障を疑うことも必要かも知れない。またまた曖昧な表現だが、霊障を判断する手段を持たぬ人が安易に霊障を疑えば、心霊詐欺の餌食になるかも知れないのである。手段があれば疑うべきだが、手段がなければ疑うことは失敗を増やすだけになり得る。……霊媒とは普段からの付き合いが大切なのである。

 このように、結果から欲求障霊の存在が疑われる人に共通するのは……手口を知ることは対策の第一歩だ…… 支配や圧迫を受けることではなく、ブレーキを外されることなのである。――にも関わらず、霊障の恐ろしさを知らない人や慢心している人は、自分は誘惑に負けないなどという。だが、人が失敗するのに誘惑は不用だ、ただ、自制心をちょっと弛めれば、それで大失敗するのである。

 どんな人だって、人として生きている以上は、食欲有り、性欲があって不思議はない。そもそも、食や性に関心の薄い人は生物的に淘汰されてしまうであろう。おそらくは現代を生きる我々は、食や性に強欲な祖先があるからこそ、その血脈の末に繋がっているのだ。であるなら、誘惑などされる必要はない。そもそも、人というのは気まぐれな者で、右に行けといえば左に行くもなり、背を押せばかえって下がる者有り、思うようにコントロールするには相応にその個人を研究する必要があるのだが、同一方向を我慢している者なら、コントロールは容易なのである。

 つまり、酒を飲んでいない人に、「酒を飲め!」と命じるよりも、もう一杯飲みたいけれど止めておこう……と考えている人に、「もう一杯ぐらいはいいさ」と吹き込む方が、圧倒的に楽なのである。この事は、「悪友」を持つ人なら容易に類推できるだろう。莫迦な親は我が子を庇いたくて、悪友をして、我が子を悪事に引きずり込む者と見なすが、悪友の実体とは、一人では気後れすることを一緒にやってくれる仲間なのである。そう、人が堕落するのは、堕落せよと背中を押す圧力ではなく、それぐらいは良いではないかという弛緩的な働きなのである。

 さらに比喩を使わねばならぬので、どうか迷わないようにしていただきたい。気の緩みは果たして悪友だけがもたらすものであろうか。たとえば車の運転手は、同乗者が話しかけるだけで、運転への注意が乱れて事故や道の間違えを起すものだ……なんのことはない、欲求障霊がいなくても、極端な話として、守護霊との意思疎通が悪いだけでも、守護霊の加護が仇となって堕落に手を出すことも起こり得ないことではないのだ。(また曖昧な表現だ)……実際は、そういうリスクを理解しているものが守護霊となるのだが、除霊してはいけない霊の存在を霊障と感じる人がいる可能性を考えてみて欲しい。

責任の所在地

 結局の所、特殊事例は別途扱うとして、欲求障霊の悪影響への対策としては、自制心を強化することが第一であると私は思う。それは言換えると、欲求障霊の被害者には、「自分に対する甘えがある」ということでもある。

 少なくとも、誘惑されようが、悪友に流されようが、悪事をすればその責任は我が身に有る。「誰それが誘惑した」、「誰それが共犯である」……そういう指摘は、地上では司法取引の材料として使われるかも知れないが、厳密には己の罪は罪である。

 出来ることなら、誘惑などに流されることなく身を慎むことが望ましいし、既にやってしまったことをとやかく言っても始まらないが、予防策としての除霊は有益であっても、除霊は償いの役には立たぬ事を知らなければ、その人生に救いはなくなる。つまり、いくら心霊の勉強をし、また除霊に努力し、金銭を使ってみても、それらは現実逃避にしかならぬということだ。そして夢はいつか覚め、覚めても事態は悪くなっているばかりなのだ。


悪霊の影差す家

2006/03/13

2006年 03月 12日


 三ヶ月ぶりの墓参からの帰宅の途中、母の知人宅に立ち寄った。ここ数年、何やら災難が続いている家である。

 気だての良いご家族で霊障と縁がある様にも思えないのだが、やはり家に何か影が差している。とはいえ、一時は商売が行き詰まっていたものが最近は好転しつつあるというので、ここで余計なことをいうのは時機ではないと判断し、口を噤むこととした。――不安があれば魔が差しやすいし、自信と希望があれば霊的加護もいやますものであるから、単に疑われるからといって見たもの、感じたものを霊媒が口にするのは避けなければならない。

 そもそも誤解されがちであるが、ある家に、またはある人の背後に、悪霊・低級霊がいることは、当事者にとって迷惑であっても、大局から見ればさしたる問題ではない。チャンスを与えなければ更正、向上の道が閉ざされてしまうのだ。人がそれぞれ、自分の幸せを先ず考えるのはやむを得ないかも知れないが、自力で足りずに他力を求めるとき、その救いを与えてくれる神仏等と呼ばれる高級霊が、いかなる動機、いかなる視点でそれを行うかを考えるべきである。

 地上で迷い、悩める存在であり、また、神仏の加護を必要とする我ら人と、霊媒等に悪霊・低級霊などと見下される存在との間にどれほどの差があるのだろう? すべては神仏の加護を必要とする未熟な存在ではないか。

 自分は助けて、悪霊・低級霊はその境涯の中に留まればよいという発想は、決して神仏等が好ましく思う想念ではあるまい。悪霊・低級霊を神仏が救うからこそ、自分は人としての勤めを果たせるのだ……そう思える人こそが高級霊から加護を得られる人なのである。

 だから……その家には不浄な霊魂の影が見えているし、家族には健康上の不安もあるが、知人等は明日に希望を持って毎日を努めているのだから、それはある意味、悪霊・低級霊の更正・向上のチャンスであると思えるのだ。

 また、不安を口にすれば、その後に何事もなければ「よかった」といえるし、何かがあれば「やっぱり」といえて、何やら私がその家に恩を施せたような気分も生じる(私はやらぬが、そうしている人もいるという、いわば嫌味である)が、不安を与えることで、高級霊等と家族との間に暗雲を生じさせては、この世の法で裁かれなくとも、真理の法に裁かれるだろう。それは心霊を学ぶ者として、なんとも情けないことである。

 だから私は、不吉なことを口にするのを止め、ただ心中で、手に負えないときには、霊達の加護があればよいと願うに止めた。

 蛇足かも知れないが……みだりに除霊をすると、拗れて悪縁が深まることもある。触らぬ神に祟りなしとか、見えるからといって手出しをするのは厳に慎むことである。また、霊が見える者から注意を受けたからといって、無闇に追い出そうとするのも危険である。先ずそれらの霊が、更正・向上することそして、手に負えぬ場合は助けを求めることを基本とすべきだ。神仏に特別扱いを願うのは、利己的な悪霊の価値観と同じなのだから。

・・・・・・・

 しかし、なんにせよ、どうしてこのような不浄の霊と縁を結ぶこととなったのか、その疑問については明らかにすべきであろうと信じる。会話のまにまに精神統一し、回答を願ったところ……

『近所に除霊で金集めをする宗教団体があり、集まる人々が不浄の霊を置いていく。置いて行かれた霊が居場所を求めてうろついているのである。この家に直接の悪縁はないが、霊らは、なまじ信仰に篤い家なので自分らも祈って貰いたくてイタズラをしている。また、この家が信仰に篤いといっても自分と家族の幸せを願うことが信仰と思い込んで、悩める者達への配慮が欠けている。悪とはいわぬが善に欠けたところがあるので、気がつくまで片目をつぶっているのだ』……と聞こえた。

 これについては伝えるべきかと一瞬逡巡したが、

『自分らで考えなければならない。言われてやるだけなら誠意が籠らない』

 とも聞こえた。実は文字通りの意味ではないと思う。もしも各自が皆、それを体験から学ばなければいけないのであれば、ここでこの話を紹介することに矛盾がでてくるだろう。ようするには、何か考えがあって今は伏せている話なのである。それに、この家には、何かあったときに相談する先の霊能者がいるようなので、私が口を出せば、同業者の客取り合い的な面倒が生じかねない。あそこに相談するのは止めた……と思わなければ、私が口を出すべきではないのだろう。やはり今は時機ではないらしい。


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