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霊感を鈍くしたい

2006/03/09

06年 03月 09日


 霊感を鈍くしたいという願いは、経験した者でないとまるで理解できないことと思う。霊感の自覚のない人は霊感を強くしたがり、霊感の自覚のある人は、霊感を鈍くしたがる。この一見、滑稽な事態は霊感のいかなるものかを認識する者がいかに少ないかを意味する。

私の経験から

 私は本来、心霊相談を開設することなどに全く興味がなかったし、今でも全く未練がない。ただ、霊感発現当時、高校生で親に相談すれば親はおびえて役に立たず、心霊相談をさがすにも高校生のこと、金がなくてどうにもならなかった経緯がある。結局、紆余屈折、いろいろあって現在の師に巡り会ったが、それも恐怖で約半年間引きこもっていた状態を自力で脱出した後のことである。

 さすがに当時のことを思い出すと、未だに鳥肌が立つようである。今は充分に知識も技能もあり、同時に過敏状態を克服しているので、同じ目にあってもどうということはないが、恐ろしいと思うのは、自室で布団を被ってガタガタ震えていただけの日々が、いかに危うい状態であったかを理解しているからである。……良く自殺しなかったな、と思う。もっとも、あの状況下で自殺しても肉体がない分だけ低級霊の支配を強く受けることを理解していたからこそ…… 死ねばかえって救われない状態だとかえってそれが恐ろしくもあった。

 当時の経験のあまりに重苦しいことの清算が、実は私に心霊相談所の開設を決意させた。確かに霊障も辛かった。でも相談する先もなく、金もない当時の自分が、途方に暮れて日々を送ることが遙かに辛かったからだ。過去の自分を救うためには(つまり自分の苦労を無にしないためには)、同じ苦しみを持つ人を救わねばならぬと信じたのである。

 親切な人は多い。だが、有益な知識技能の持主があまりに少なかったから、心霊知識の普及が大切だとも思った。ところが、知識を生かすべき人間の素養を強化せねばならぬ事にも気が付き、精神統一の指導も始めた……ナンセンスというか、泥沼といおうか、自分の霊障は、まあ境界を引くことは困難ではあるが一年ほどで解決した。そのアフターケアが、余程困難な大事業というのは、何ともはや振返ると自分の愚かさが悲劇にも見えてくる。なんと悪霊よりも神様のほうが手間が掛るらしい。

 

そして心霊相談を始めた

 そうして心霊相談を始めたことを……隠しきれず(あたりまえだが)私の師は一笑に付した。

『人に頼って楽しようとする人なんて、救いようがないのだから』……これについては、霊障解決よりも遙かに多くの経験を積むことになった。数の問題ではなく、私の心に強く印象が残ったという意味でだ。

 ただ、見通しに楽観を与える知識もあった。基本的に、霊障の大部分は人間側の誤解がその原因にある。糸口が見つかればトントンと解決していくことが多いのだ。問題はその糸口が見つけにくいことである。…… 糸口が見つけにくい理由の最大の原因は、霊障を腕ずくで解決する類の迷信があまりに世に多いことにある。または、独りよがりな考えというか― ―助けを求めて来ている霊は、助けが得られなければそのうち去っていくのに、ヘタに素人除霊などをするから逆ギレされ、拗れて居座られてしまうのである。こういう事例が相当に多い。

 つまり、霊障の大部分は霊力がなくても解決するのである。むしろ、霊力が徒《あだ》になることがとても多い…… 悩めるときほど人の本性は現れるというが、必要なのは力ではなく、誠意なのである。少なくとも、相手が自分よりも強く、そして、数が多いときには。

 

誤解要因のあれこれ

 背後から注意を受けたが、なるほど誤解要因について記しておくべきだ。 特に霊媒初心者が、霊障を拗らせる理由の一つに「痛みの共有」がある。たとえば、あなたが自分の痛みを誰かに説明するなら、顔をしかめて、お腹をさすりつつ、「お腹が刺すように痛いんです」等と説明するだろう。だが、霊媒相手にはもっと効率の良い方法がある。痛みを共有・共感して貰うのである。… …これはてきめんに相手の痛む場所とその強さを理解することが出来る。と、同時に、こんな面倒事はなるべくせずに済ませたいものだ。

 便利だが、厭なこと……痛みを感じるのは、基本的にコミュニケーションであって攻撃ではない。だが人は本能的に痛みを恐れる。当然、共有・共感というコミュニケーションの存在を知らない霊媒初心者は、これを霊障、攻撃であると受止めて反撃してしまうのである。

 もう一つ……人には、救いが必要な時ほど横柄になる、一種、救いがたい人が居る。救いがたい人とは同時に救いを必要とする人でもある。こういう人は横柄さに目をつぶり、メンツを立てつつ影で助けてやるか、面罵して頭を下げさせるかしないと、やっかいな態度をとり続けるものだ。

 霊障を起すような悪霊というのは、上記のような人のなれの果てなのだ。……その解決法は推して知るべしである。

 

相対問題

 また、他の霊媒が言うことの中に、私が疑問に感じることもついで心の隅に留めて欲しい。

 敵が強大であっても、味方も強ければ害を受けない。 敵が非力でも、味方がいなければ侮れない。 味方が強くても意思疎通が悪ければ力を発揮できないし、敵を侮れば自分のミスが大きな害を生む。小さな障害でも、長い間少しずつ嫌がらせを受ければその害は計り知れない。

 物事というのは相対的な見方、全体を見通してこそ、始めて正しく認識が出来るものだ。それをしないで、「強い悪霊だから大変である」とか、「加護が強いので大丈夫」というの意見は、あまり助けにならない。まして、本当に障害を及そうとする霊なら、当人に憑依するよりも当人に死活的影響力を持つ人を標的に憑依する法が効率がよいのである。つまり、家庭で障害が起っているとしても、それを個人を標的とした攻撃と考えるのは適切とはいえない。もしも個人攻撃を目的とするなら、勤め先やら、取引先に工作すると考えるべきなのである。

 障害が、個人攻撃を目的としていないなら……除霊や封印やらという、スリラーめいた対処が拗らせると恐れるべきである。

 

でも効験あり

 かくいう私の言説がまともに見えて、迷信じみた用語の多い霊媒(特に御高齢者)を侮るべきではない。いっていることがまるで無茶苦茶なのに、問題解決力のすごい霊媒というのはあまた存在する。……なんのことはない。霊媒というのは氷山の一角、その霊力の源は、霊界にいる擁護団、背後霊団なのである。つまり、霊媒抜きでも問題解決は可能なのである。

 反対に、いくら理論整然とした霊媒であれ、背後霊が貧弱であれば出来ることに限界が生じる。そもそも理論構築は霊媒の仕事というよりも、研究家、もしくは審神者(さにわ)の仕事なのである。ただ私の場合、他に信頼できる者が見いだせないから自分でやっているだけのことだ。

 言うことが無茶苦茶でも霊力がある霊媒を相手にするときには、言動で見下したりせず、また礼金で頬を叩くような考えを持つことなく、失礼の無いようにすべきである――少なくとも私ならへりくだる。仁徳篤い祖先を持っていたり、想像もつかぬ荒行経験や、豊富な人助けの実績を持っているからだ。何しろ、背後霊達が大切に守っているのであるから、大切にして損はなく、敵に回して良いことはない。その会話にではなく、その体験に価値があるのだ。たとえば私だって寒中の瀧行ぐらい進んで行うが、早朝に腰まである雪をかき分けて瀧行場に行くなどという修行は出来そうにない。…… こういう迫力のある霊媒等の世代交代が進んでいるのはとても残念に思う。

 それはともかく……

 霊障問題の大多数は、あの世だけで解決可能なもの……ただ、霊達が問題を認知していないだけである。残る一部は、人と霊との相互関係に問題があるもの……この場合は仲裁者(霊媒)が必要となる。そして中には、一方的に人が悪い場合もある……この場合は、霊媒が取り直しても解決しないこともある。この三分類が、「霊障の大部分は正しい心霊知識が無いために起る」という所以でもある。

 もしもあの世だけで解決可能な問題であれば、素人祈祷でも十分に効果が生じる。要は問題提起があればよいのだ。ただし、仲裁が必要な場合は、やはり経験ある霊媒に頼らざるを得ない。……もっとも仲裁が無くても先方が諦めてしまうこともあるようだ。

 とにかく基本は、あの世のことはあの世で、この世のことはこの世で、仕事を分担してそれぞれに分を尽すことが大切である。逆に言うと、背後霊団を持たない霊媒は苦労を免れないとも言える。

 

あの世のことはあの世で、この世のことはこの世で

 むしろ難しいのは霊ではなく、人である。霊障を受ける要因が人にあるなら、その人が変らなければ問題は解決しない。だが人が変化するのはとても難しいのだ。霊と比べて感性が非常に鈍重。しかも物質と関わりが深い日常を送っているので、気持だけが少々変っても、肉体やら生活習慣やらの影響で又元の気持に戻ってしまったりもする。

 無理に気持だけが変れば、日常生活や肉体の生理面に無理が生じて病気をしたり、怪我をしやすくなりもする。

 あの世のことはあの世の連中にケアを任せておけば良いのだが、霊媒が担当すべき、この世の連中のケアはとても面倒である。何しろ、知識が足りない。知識があってもそれを生かす素養がない。目先の安心を求めて、安易な選択をしがちであるし、すぐにおたおたし、不安に流され、疑心暗鬼に陥り、ねたみ、ひがみ、腹を立てて墓穴は掘る。感謝すると泣いて見せてものど元過ぎれば熱さを忘れてまた同じ事の繰返し。

 時折、霊障に苦しむ人を見て、無性に除霊したくなることがある。霊ではなく、その人をだ。……それは私の担当ではないのだが。責任転嫁の多い人を相手にするのは難しい、私が逃げるその前に、背後達が嫌がってしまうのだから。


疑り深いと騙される

2006/03/09

2006年 03月 08日


 家庭に不運や病人が多いことから、風水、お祓い、東洋医学などへの関心を持ち始めた人が、いろいろと話しているのが、聞くともなく聞えてくる。

 経験値を増やしたがっていた頃の私ならば、または、自分を試したかった頃の私ならば喜んでくちばしを挟んだかも知れない。まして、まんざら知らぬ中でもなし、また、その人のお父様の霊から、何かにつけて、「助けてやってくれ!!」と懇願されたこともあるが、今回もまた断るべきであろう。

因果不昧

「因果不昧」――因果はくらませず。つまり因果の法則からは逃げられないことをいう。

 内在する因の解消に努めることなく、縁だけで結果を変えようとするのは無駄で不毛な努力だ。なにしろ、努力に応じて一時的には解決して見えるのである。ここでまんまと味を占めた人は、次々と因果をくらませようとするが、問題は先送りされただけで何も解決しておらず、自分が弱っているときに突然、すべてが降出しに戻ったりするのだから。高利貸からの借金で借金を返すようなものだ。無駄な努力が即座に無駄な結果が出るなら人に何ともわかりやすいが、悪い結果が出るのに時間が掛るから、無駄な時間を費やした上に利子まで付いてその返済に途方に暮れることにも成る。ところが、目先の利益である、「因果をくらます」事に気取られている人にこういう原則論を告げても理解しようとしないものだ。だからこそ沈黙を守ることに意味がある。

……といえば、なにやら厳かに思われるかも知れないが、横着者のおっちょこちょいが不運を招くのは、どんな神様の御札やお祓いだって解決しないと思うだけだ。さらにいえば、横着者が体を冷しがちで、冷えから来る病気にかかりやすいのも…… こういうことを言いだしたらきりがない。

そう、人の努力の余地あることを神頼みするのはナンセンスでしかない。

 ましてや、お節介じみた小言を聞かされるよりも、迷信を信じる方が気楽なのが人情で、それ故に、名ある霊媒が「狸の霊をとっておきましたが、あなたも○○に流されぬように注意しないと、又取憑かれてしまいます」等というとか。私にはこれが出来ない。なにしろ、無料相談なのである。よそで相談して念のために私の所に来る相談者も多いので、こういう詭弁を使うと事態を混乱させ、また善意で自分の立場を悪くしてしまうだろう。つまり、ばからしいのである。因果をくらませずに問題解決するのだって難しいのに、因果をくらませようとする根性を正すのはもっと難しいし、何より当人に直す気がないものを治そうとするのは不毛でしかない。

「私は疑い深いから」

 因果不昧に関することは常々思っていることを整理しただけであるが、耳を塞ぎたくとも話は更に続いて、ハッとひらめきをもたらし言葉がある。

「私は疑い深いから全部を信じているわけではないのだけど……」という、一種のいい訳じみた枕詞を聞いたとき、私の霊耳に、
『疑い深いから騙される』と聞えたのだ。やれやれ、ようやく人の話の立聞きから解放される…… この霊のいうことに耳を傾けてみる。

・・・・・・・

 疑い深いから騙されるのだ。

 ここでいう、疑い深いとは、つまり自分の知識と理解から外れたことを信じないということである。だが、理解しなくとも効果を眼にすれば、理解しないまま利用しようとするだろう。そして、力を利用するのに、正しい使い方をしらずにいることほど危険なことはないのである。

 むろん、彼が疑っているのは他人の力、専門家の力である。だが、その専門家なるものも、誠意を尽すために施術するのではなく、金を儲けるために施術をしているのである。理解しないまま専門家を利用しようとすれば、そこに騙される余地は多分にあるし、それ以前にすっかり霊的事実を誤解しているのではないか。これでは何を得られるのやら。

 自らの愚かさと、依存心を隠そうとして、「疑い深い」等といってみても、それは騙されやすさを他人に表明しているようなものである。いうことの一から三まで正しくても、十や百まで正しいとは限らない。疑問を真摯に見つめる者であれば、一つ二つの誤解があっても大筋に過ちなく真実を明らかにする者であるが、己の理解力の貧しさを、「疑い深い」等と言訳しているような者であれば、一つか二つの証拠を観ただけで、十も百も千も信じてしまうだろう。―― 宗教や心霊を扱う者の良くやる失敗である。とくに、疑い深い者が深く傷つく失敗である。

 盲目的に信じることが危険であることはいうまでもない。だが、誠実なる者ならば、「あれは怪しい」という周囲の助言にさえも誠実に応対するであろう。しかし、不誠実な態度の者ほど騙されても助言を得られず、頑迷な者ほど手玉に扱われやすく、愚かさと無理解さを自覚せずに「自分は疑い深い」等と自分自身を騙している者が他人に騙されても気が付かぬものである。

 疑うよりも誠実であれ。誠実であれば小さな裏切りを無数に経験するとしても、大きな裏切りからは守られるものだから。

 まして人間関係には誤解が伴って当り前であるから、小さな裏切りと、小さな誤解を踏越えていくことがどれほど人格陶冶に有益であることか。だが、愚者は小さな修行を嫌い、避けて、大きな修行を乗越えられずに挫折するのである。……しかも、何度、再生を繰返しても同じ過ちを繰り返す。プライドが邪魔をして課題のレベルを下げられないのだ。


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