‘2006/03’ カテゴリーのアーカイブ

自己嫌悪

2006/03/27

Q 「自己嫌悪に対してどう向合っていけばよいでしょうか?」

無知が敵――自己嫌悪に限らず、自立もせずに日常を悶々と、無限の堂々巡りに悩みを掻き回すものは、無知故に悩んでいることに気が付かぬ。方程式を解くにも必要な変数の数がある。答を得るには十分な手がかりが必要である。
 解くべき条件が整わぬのに、悩むことにいかなる意義があるのか。考えている振りをしているだけなら、その悩みは仮病に等しい。問題を先送りにしたところで解決力が身に付くわけではない。先送りにすれば、問題を克服した先にある幸福がただ目減りするだけであることも気が付かないというのか。
 あたかも、苦しむために苦しむのは、それ又無知が己を害しているのである。

魂心体の不調和――そもそも、人は心と体の二つから成立つ。さらにいえば、魂の働きを自覚せぬものもいるが、魂の働きこそが永遠に価値あるものである。
 すなわち、魂心体の三者が協調してこそ、真に価値ある行いが出来る。ここでいう、魂心体は、心霊主義者のいう、心・霊・体と読みかえても構わない。
 地上(物質世界)に生きる人にとりて、自己の魂を自覚することが少ない。心・体の目指すところが違うことにも気が付くことはない。だが三者の性質が異なればこそ、同じ方向を目指すのにも齟齬が生じるのは当り前のことである。
 魂の目指すことは遼遠であって計りがたく、しかも地上では実現が難しい、心は往々気ままに見えて頑固、強固に見えて流されやすい。身体は寡黙で従順に見えて、その内実はワガママで移り気である。
 遼遠であるが故に、魂の意図はなかなか人生に反映されず、肉体は寡黙でワガママであるから、肉体を上手に扱えず、心に思うことが実現できないことを人はなかなか自覚しない。
 まして、心と比べて、身体が起す変化……即ち行動はいかにも鈍重なものである。これら性質の違いを正しく理解してこそ、人は己を御することが出来る。

心が思い立ってもすぐには変れぬのが肉体なのである。

 故に、心を変えるには断固として、身体を変えるには寛容をもって段階的に行うのが自然であって無理がない。または、身体に染みついた習性を正すのに他人の助けを求めるのも自然であって無理がない。これはたとえば、禁酒や禁煙について当てはまるだろう。無意識に手が伸びるのだから、他人の注意があった方が良い。

 だが、人としての経験が不足している者は、思えば身体がついてくるものと思って行動を初め、思うように身体が動かぬ事を、己の御し方に問題があると思わず、己の不甲斐なさと認識する。
 身体の扱に上手になろうとせず、誤った認識である、不甲斐なさを解決しようというのである…… 設問を間違いながら正しい結果が得られるはずもない。延々と無駄な努力を重ねた挙句、何故それが無駄であるかに気が付きもしないで、再び間違った結果にたどり着く。……自分は駄目な人間である。と。

始めから外れている――「自分は駄目な人間である」このいかにも説得力がありそうでいて、その実全く無意義な回答を真実と信じるのはなにゆえか。解決策を答というのだ。解決策でなければいい訳であって答ではない。いい訳と答の区別もつかぬ知力であれば、そもそも成功への道筋から、歩き始める前から外れているのである。
 こういう努力をする者ほど、「努力に価値はあるのか」と訴える。その問いは正しく魂の叫びであり、同時にあまりにも不毛である。正しい努力に価値があり、間違った努力には価値がないのだ。……解決策と、いい訳の違いも知らず、無駄に考え、無駄に努力する者にとって努力は毒であって価値はない。その意味において、その叫びは確かに魂が言わしめたのであろう。だが同時に、正しい努力をせずに、成功を収められる筈もないのだ。
 世の中には一見、楽々と成功を収める者もいる。だがそれは、必要な努力を楽しみながら行える人…… 魂心体の三体が一致して成功を目指す者なのである。魂心体の調和が取れぬ者にそれを望むべくもない。

自分に甘えない――自分自身を御することは難しい、ならば、訓練を通じて己の限界を知り、限界を拡げていくことで魂心体の調和を整えていくことが大切であろう。

 しかるに、自分の思うとおりにならぬからと、自分自身まで嫌うその心は、あまりに幼稚で未熟ではないか。何より、嫌えば相手が困るというのか。赤子がむずがれば周囲の大人が機嫌を取るだろう。だが、大人がそれをすれば面倒がって誰も相手をしたがらぬだろう。他の面倒を見るべきが大人の勤めだからだ。自分の身体の面倒を見るべきを、むずがる身体と共に心までむずがってどうする。

 自己の年齢から、嫌いなものの数を引いてみよ。それが心の年齢である。


2006年 03月 27日

難多く、福少ない生き方

2006/03/27

2006年 03月 26日


宗教に関する通信を受けた直後、伝えたいことがある、という霊を感じた。知らない相手ではないので耳を傾けてみる。


 先ほど、宗教に関する通信を行っていらっしゃいましたが、誠にその通りと感じ入ります。私はここで、精神統一がうまくいかない或者の守護霊として、お時間を頂きたく思います。

 まず、いけないと思うことは、最初に理想の自分をもって統一にはいることです。確かに、精神統一の初期には、心を静めるために多少過剰気味に自信を持つことは結構です。しかし、修行が進んでも尚、同じ理想を懐き続けるのは、むしろ進歩を妨げていることを知るべきです。

 理想を持ちながらもちっともそれに近づかず、延々と統一を繰返しても飽きるだけです。実現しないのであれば、何故それが実現しないのか、または、自分に適切な理想であるのか、そういったことに疑問を持たなければなりますまい。

 生真面目であることは、その守護霊として誇りに思うところですが、(と、頭を下げられてこちらは赤面する)、要領が悪いのは何とも焦れったいところです。

 空虚な理想に決別して、真に理想を実現すること……それこそが地上に生れ出ずる意義であるのに、それをなおざりにすることは心霊学徒として不誠実であるばかりではありません。安全・順調な線路から外れているのですから危険が多くて遅れがちの生き方なのです。遅れるというのはチャンスを逃すという意味でもあるのです。

 難多く、福少ない生き方をしておいて、私(守護霊)を恨んでくださいますな。しなくても良い心配をさせられて、私が恨み言を言いたいぐらいなのですから。(ハラハラドキドキが伝わってくる)


 そう、幸運を求める人は、「幸運」を自家用車的に考えて、自分の元へ一直線に来ることを想像しているようだけれど、観念的には、バスや列車に例えるのが近いと思う。それはあちこちの人を繋げて、余る物を受取り、足りぬ所に運んでくるようにして、人に幸運をもたらす。

 だから、必要な時に必要なものを受取るためには、ジタバタせずに物事の流れに身を任せることが必要になる。でないと、乗り遅れて、次の機会を待たねばならなくなる。といって、焦って前のに乗ろうとすると、既に配る相手が決まっているからと断られもする。…… 人の物を欲しがる事がいたく嫌われるのも、こういう仕組みがあればこそだろう。


師を見送る……

2006/03/26

 師を見送る……といって、別に幽界/霊界に送ったわけではない。ある意味、もっと近くて遠い米国に送り出しただけだ。


 今日は、師の帰国日。師の宿泊先を午前11時に訪れて荷造りを手伝い、昼食を食べた後、1時に宿泊先を立って一路、成田に向かう。ところが二時半頃には成田周辺に付き、時間があるからと成田山新勝寺に立ち寄る。ちょうど、ご祈祷が始まったのでうろうろとご祈祷のご相伴に与り、立ち去り際に、ふと後ろ髪を引かれた気分でおみくじを買ったら、その二行目に……

「胡僧引レ途帰《こそうみちをひきてかえる》」……徳の高い師が、教えを広めて帰ろうとしている。

 とある。思わず師と爆笑してしまった。

 ちなみに、師に従い、その教えを守って実績を積むうちに成功するが、短気やわがままを出すとさんざんな目に遭う。神仏を信じて吉。…… だそうである。こちらについては、驕っていると誹られるかも知れないが、言われるまでもないと思う。まあ、師の言うことには時折怪しいことも多いし(?)、赤信号をわたって犬連れのオジさんに叱られもするが(!)、こと、霊憑っているときの師は言うことは端的、簡明、反論の余地無く、また、行うに無理もない。私は満点の弟子では無かろうが、落第点も貰っていない。

 等ということは後にして、一路空港に向かう。空港反対集会があるとかで、車の入場制限中とのことだが、難なく車は空港に乗り入れて、出発ロビー前に何とか停車スペースを確保し、師の大荷物をカートに積み替える。そして私は駐車場へ。駐車後に師を探しに行くと、もう姉弟子等が土産物を持って集まっていた。それでなくても荷造りに苦労したのに、ここでまた荷物の詰め直しに苦心する羽目になる。…… まあ、毎年の行事であるが、今年は特に酷い。

 そしてチェックインをハラハラしながら見守り、一同でお茶をし、ここで例のおみくじの話を開帳した。

「三行目を読んでみて、面白いから」と私はおみくじを回したが、読んだ姉弟子の顔がどうも面白そうではない。途中めんどくさくなった姉弟子が読み上げて気がついた。……面白いのは二行目だ。ちなみに三行目には……

「光花映2晩暉1《こうかばんにえいず》」……修行した甲斐があって自分にも徳が備わり、夕陽のように輝いている。

 無意識に自慢話をしてしまった v(^^)>

 十人の姉弟子に一斉に拍手されてバツの悪いこと……そんなこんなで、出国検査の時間がきて皆で師を見送る。師は次々に姉弟子等と握手し、私とも握手して、その直後に師はこういった。、

「八月頃は、注意しなさい」……へ!? (–?

時間の凍り付いた私をよそに、師と姉弟子達が手を振り合っている

「それじゃあねぇ~~」

 え!? えぇぇ!!! 六時間も一緒にいたのに、立ち去り際に警告だけぇ~~~!

「ええええ、立ち去り際に警告だけぇ!」と思わず声を出したら、姉弟子等が怒ること、怒ること。それ以上を求めるのは贅沢だという。

「そりゃそうだけどさぁ~~~」……(@@;

 まあ、毎年、二月八月は色々としんどいから油断はし無いつもりだし、どのみち出来ることは、大難は小難、小難は無事に、と祈るだけだけどさ。

 なんか、これ罠っぽくない? おみくじも、褒めているようで、どこか釘を刺しているしさ、姉弟子相手に自慢を放《こ》いて、褒め殺しに合うしさ……ちきしょう、成田山の天狗め、仕組んだな! (‘_’メ

 で、帰り道は、アクアライン経由。(^^;

 高速料金は往きのほぼ倍の五千円強。贅沢かな……とも思ったが、珍しく我が守護霊が表に出てきて、『明日の仕事に差し支えぬように、帰路は楽な道を選べ』……というので、自分を甘やかすことにした。渋滞でストレスが溜まると寝付きが悪くなって明朝は寝覚めが悪い。寝覚めが悪ければ午前中は頭が働かない。会社でボーッとしているわけにも行かないから無理はしない。結果、途中、夕食を摂り、海ほたるで夜景を撮影したりしたが、成田から二時間弱で神奈川中部の自宅にたどり着いた。

……成田山の天狗は、お茶目ではあるが、意地悪ではなかった。

信仰の意義と対象

2006/03/25

日本人は宗教に節操がないといわれますが、私は、まず信仰心があって、その時々に向ける対象が違うだけだと考えます。だから、七五三は神式、死ねば仏式、初詣に行く一方でクリスマスも祝う。対して外国の多くでは、先ず信仰対象があってその中で信仰心を育んでいるようです。だから、他宗教を敵視することも多いのでしょう。

他宗教を敵視する文化背景があるからか、キリスト教文化圏の霊界通信を読んでいると、どうも宗教に関する記述に引っかかりを感じます。(以上は質問の発端を説明するだけで、世間にある霊界通信などの具体的な問題提起はいたしません。)

Q「信仰とはなにか、信仰対象は何が適切か」

始めに信仰心が有るべき――始めに信仰心を掲げるべきである。真に全身全霊を捧げて信仰すべき何者も地上には存在しない。物質世界に降りてきた途端に、宗教は物質的属性を帯びてしまい、純然たるものではなくなる。すべての宗教は、生前私が一生を捧げた仏教でさえも、真と呼ぶべきものではないし、真を求めるべきものでもない。その状態の中で、人はまじりものの排除に努めて、より純粋に近づくことを大事とすべきである。

 より純粋なる宗教を求めるのは、過ちの元である。極論すれば何も信じないことが一番の純粋となるだろう。複雑な物には多くの交りものが入り込み、それゆえに経典の多い仏教こそが一番の偽物といえるかも知れない。だからこそ、仏教を学ぶ物は、まず最初に何が真であるのかを学ばねばならない。……何が真であるのか、つまり、何が真でないのか、だ。経典も言葉という未熟な表現を使う限り、言葉だけから学べば未熟な智慧しか得ることが出来ない。だからまず、その空しさを知らねばならない。

 ただ知り、ただ信じることには過ちが入り込む、それ故に、信仰から入って信仰心を育てるのは、同時に迷信をも育てることになる。世に宗教を理由とする暴力が多いのは、まず、信仰から入って信仰心を育てた結果である。

 信仰心から信仰に至った者なら、言語という未熟な表現手段に惑わされることなくその真意を汲取って、宗教を暴力の手段にすることは避けるであろう。

Q「すると、信仰対象の選び方という設問は無意味な感がいたします。」

他の霊が代りに答える。

 私が思うに、信心というのは人が善良に生きるための根幹であって、それを育てることはとても大切だと思う。人を信じるが故に人から信じられ、誠実であろうとするから誠実な態度で接せられる。

 それ故に、信仰の対象を何にすべきか、という問いは空虚である。

 そもそも人は何を信じるというのだろう? 天の公平さか、古代の英雄の叡智と力であるのか。信仰対象とは、いわば心の拠所とするものだが、働き以上の報酬を求めたり、人格以上の尊敬を求めたりする様な不誠実な者が何を信じたとしても報われるものではない。それは信心ではなく利用にすぎない。

 真に信心する者は、信じる事の意味を知っているが故に、信じられることの大切さも知る。だから善良に、誠実に生きる努力をしているはずである。そういう人達にとって、何を信じるかは問題にはならない。

盧氏

信じることを力とする――もしも信仰の対象を必要とするなら、自分が一番素直になれるものを選ぶべきである。あれこれと、期待を抱く相手を信仰対象に選べば、自分の欲に騙されてしくじるだろう。

Q 「困って宗教の門を叩くものは救われないと?」

困っている人に救いがあるのではない。――困っている人に救いがあるのではない。救われるべき者が救われるのである。救うのは宗教ではなく、切っ掛けをもたらすに過ぎない。

 自身に功徳無く、身内に功徳無く、努力無く……それでは救いが遠い。

 不平不満、愚痴を慎まず、恨み、妬みていれば、……親切すら遠ざけてしまう。

 自分を救いたければ、自ら努力すべきである。自らを救わずにいて、誰も助ける者がないと嘆く……それは救いを求める姿ではなく、憑依相手を求める地縛霊の姿である。


06年 03月 25日

墨をする間

2006/03/25

 通信があるというのでPCに電源を入れ、エディターが立上がるのを待つ。向うは速く伝えたがっているのに、準備はなかなか整わない。すると……

「昔は、御用があると墨をすり始めてから書出す。墨をする間が良い精神統一の時間であったが、今時の道具は待つことにイライラさせられて、通信をますます遠ざけてしまうのだな」……という。

 なるほど、墨を用意するのには手間が掛るし、ムラのない墨を得るためには心を静める必然もあるだろうが、PCで書くには機会に待たされることばかりで手持ちぶさただ。申訳ないという気持からイライラするわけだが、どうせ待たねばならぬ事情は同じなのだから、ここは一つ統一の時間にすべきなのだな。

なぜ守護霊が応えない?

2006/03/25

2006-03-25


 時折、変な質問が向けられる。変な、というか、筋違いな質問をしている事を当人も自覚しているのだろう、聞き返すと話題を変えてしまう。

「なぜ私には守護霊が応えてくれないのだろう」……私は、「誰でも祈れば守護霊が応えてくれる」などといった覚えは全くない。いった覚えのない事を、なぜと問われても返答に困る。むろん、中には応えを得られる人もいるだろうし、応えを得るために私は精神統一の指導を行っていてそこそこ実績も上げているのだから、あながち「デタラメでも教わったのでしょう」と答えるわけにも行かない。

 ただ、それぞれの質問の前後を考えると、行き詰まってこういう質問をしていることはよく分る。するとこうもいえる。

「御利益信仰に陥ったな」と。つまりは、「商業主義に丸め込まれたな」 ……と。商業主義が本当に潤すのは商売上手だけである。消費者が真に豊かになったなら、売り手はそれ以上売れなくなるではないか。価値がありそうで価値のない、いわゆるバブルを扱いたがるのが商業主義なのだ。


 

いつまで悩むのか?

2006/03/25

2006年 03月 24日


 とある霊が語る。

・・・・・・・

 思春期であるならいざ知らず、人、三十歳にいたらんとする時に、あれこれといろいろと思い煩うことは、危ういことであります。それは、自分の人生がいまだに自分の手中に納まっていないということ。生きるために必要な人生の智恵をいまだに持ち合わせていないということなのです。

 今般、このサイトで教えていることは、人生を手中に納め、もって、自分らしく生きることであるのに、それを読む者が、当座しのぎの問題解決策ばかり拾い読みしては、あれが足らぬ、これが足らぬ、私の人生をよく生きるためには足らぬものばかりだ、と不平を申しておりますが、世に摂理といわれ、神様のお計らい、などとも呼ばれる物事の自然な流れを、小手先の技、小ざかしい知識でどうこう出来るはずもなく、それでも何とかしようと摂理を欺く算段は、天につばを吐いてわが身を汚すような愚かなことでしかありません。

 いま、あなたを苦しめている諸問題にも、それぞれに原因があり、縁があり、そして今の苦しみがあるにせよ、それを事前に取り除けず、大きくなるのを止められず、悪い結果を消してなくせない、……乗り越えられるはずのものがぶつかって前に進めない、その己の非力さにも問題があるのです。

 中学生が、高校生の問題を解けないならば、分不相応をたしなめます。中学の問題が解けないなら、一生懸命に面倒も見ましょう。でも、小学生の問題が解けずにいるなら……嘆いて恥をかくのではなく、虚心・誠実に頭を下げて教えを請い、もって年齢相応の智識を身に付けることが大切でしょうに。

 個々の問題が解けない、その事も無論、当事者にとっては大変なことではありましょう。ですが、守護霊の立場から見れば、至るべきレベルに達することなく、いまだにそんな問題に引っかかっている、あなたの成長の遅れこそが一番の心配の種です。

 愚かさを心の中にしまって置けると思ったら大間違い。人の世にある限りは、心は心の中にとどまりますが、ひとたび霊魂として活動するなら、そして肉体を捨てて旅立つならば、心はそのままあなたの見る風景にもなるのです。

 愚かであるのもまた分相応で諦めねばなりませんが、隠したつもりで騙されているのが自分だけではあまりに情けなくもあります。そのような霊格がどれほど惨めな境遇であるのか……その場限りの対策がいつまで続くと思いますか。すでに破綻しているのに。


小言がうるさいぞ! あの我が師の支配霊め!

2006/03/23

 質問者に対して説教臭くも、「己を審神《さにわ》せよ」……などと口幅ったい言葉を使って返信しようか、と考えていた午後。そのまま、思い出の中に沈んでしまった。

 二十代の前半、心霊の師匠宅に押しかけて、晩御飯をご馳走になるのがなによりも楽しみだった頃、私は経験則として、到着直後、先ず、師匠を審神するように心掛けていた。師匠に強い影響を及ぼしているのが、支配霊の某武家であるなら長居は無用である。たちまち小言の十字砲火を浴びてタダ飯がもたらす幸福感よりも遙かに多くのストレスを抱えて帰ることになるからだ。一方、師の守護霊の尼様が表面に出ているなら、もう、何もかも忘れて、自宅、自室にいるよりも寛げる。

「いや、君ぃ、心霊主義を学んで真の高級霊から癒された経験がないなんて、寂しいことだね、アハハハハ」と、天狗になって高笑いをしたくなるほど幸せな気分に浸れる。もうまったくあの尼様には、実にお世話になった。おかげで我が師にはまったく頭が上がらない。相当に無理難題というよりも支離滅裂をいう師であるが、あの守護霊と、師の祖母の霊が立っていたらもう返事はタダ一言、「イエス、マム」である。

 その一方……まったく、あの金沢藩の某武士め、自分に芸の無いのを棚に上げて、無理矢理人を変えようとするな!!!! …… だいたいケンカになるのは、境涯が似ているからだろうがぁぁぁ!! などと未だに感情が高ぶるぐらい、私は師の支配霊の何人かと相性が悪い。

 思えばおかしなものだ。私と師匠の相性は良いのか、悪いのか。その日によって大きく変るというのだから。等と思いつつ、ふっと我に返った。 「北風と太陽」の寓話ではないが、小言で人を変えようとするのは無理があるというよりも無駄である。

「和顔愛語」――人を押すよりも良き方に導く方が効率が良いに違いあるまい。そう考えるなら…… 思わず冷や汗が流れるようだ…… 最近私のブログは小言が多すぎるかも知れない。小言は簡単ではあるが効果は薄いものなのに。

 我が師の、守護霊と、支配霊の某武士――我が師の、守護霊と、支配霊の某武士――どうせなら、我が師の守護霊のような態度をとりたいものだ。うん、そうだ、手本にするなら、あの小言の多い、大人気のない武士の霊などではなく、守護霊の尼様のように寛容で鷹揚な態度だ。私はそれを追求しよう!!

・・・・・

 もっとも、ブログのネタを作るのには、小言が一番手軽なのは、この原稿を読み返すとよく分る。

お彼岸の話題

2006/03/23

 精神統一をしても、なかなか先祖の霊格が上がらない人が居る。いくらなんでも進歩がないのは、指導する側が無能ではないかと自責せずにはいられない。当然、その問題点を洗い出したいと思っていたが、思い詰めていると受信がおろそかになるのは心霊研究的エッセイに纏めているとおりである。

 ぶっちゃけた話、忘れた頃に教えられた。

・・・・・

仕事中に『ちょっと覗いてみよ』と小言でいわれる……といって私は、PCの前に座ったままで動くわけでもない。…… 心を充分に静めると、そこは小さなお堂の前、戸の置くを覗き込むと、神道風の祭壇に大きなロウソクが二本燃えさかっている。祭壇の前には巫女風の装束を着た、白髪の老婆。……こちらはまるで萌えていない。いや、この表現を一度使ってみたかっただけだ。

 その背後にはおよそ5列4行の二十人の老若男女が詰めかけて一心に祈祷をしている。祝詞なのやら、お経なのやら、良く聞取れないのは精神統一が浅いためだ。(念のため後で確認してみたが、この数字は別にどこかの家の祖先の数を表しているのではなく、まあ、お堂の規模を教えているのだそうだ。)

 案内の老翁が口元に指を当てて、「静かに」のジェスチャーをする、一緒にそっとお堂から離れて、広場の石に腰を下ろす。

『どう見たぁ?(どう思う)』……なにやら語尾が妙に間延びして聞える。なんだか、トンネルの中で話しているような感じである。

「お願いします! とねだるばかりで神様も返事が出来ないでしょう。」

『そうよぉ。信心深いのも程ほどにせねば、神を強請《ゆす》って、神がおびえる。』

「神がおびえる?」……

『そうさぁ。手出しは出来んわさぁ。』

 何となく表現に違和感があるが、意味は何となくわからなくはない。話の続きを促す。

『神を強請れば霊覚が上がると思うから、若造霊媒なんぞ相手にするのも詰らんことさぁ。』

「当人等に向上の手応えがなければ、途を変えるのでは?」

 老翁は大笑いしていう。

『要は、何の不自由も無いのさぁ。生前も死後も。だから、「真剣」という意味がわからず、下らん真剣をやっている。真剣というのは相手を切る覚悟であって、刃のついた刀の事じゃない。切る覚悟がなければ木刀よりも役にタタンのが真剣さぁ。』

「はぁ?!」……なるほど、真剣とは使い手の心にあって、物理的な刀をいわぬというのは面白い。

『自分らは、「懸命に修行しています。向上いたします」と祈ってはいるが、祈って向上するかぁ?』

老翁がまたもや大笑いする……

『神様が向上させてください、と大勢が、大音声で祈りを捧げる。やれやれこれでは、自分の神格が汚されてしまうと、神様もびくびくものじゃ』……さらにまた大笑い。

確かに……指導して貰わなくても格が上がるなら楽だな。そこで、お約束のつっこみを入れる。

「私も仲間に入れて貰おうかなぁーなんちゃって。」

『だから神様は、なおびくびくものじゃぁ!!』……一声大笑いして、老翁は立去った。

 そう、類は友を呼ぶ……この同類に集られては確かに神様の無能の証と受取られるだろう。……オイ待てよ? 原因は教えて貰ったが、対策は教えてくれてないぞ? しかもいっちゃったぞ!!

 仕方がない、後は自分で捜すか。

 再び、お堂に意識を合わせ、覗き込む。今度は女神とおぼしき女性が奥に座って、皆に語りかけている。

女神『修行というのは、ただご祈祷三昧ではなく、自ら学び、心を浄め、人様をお助けして徳を積重ねていくなのですよ』

一同からブーイングが上がる。

『だって、私のような無学者が、一体何を勉強せよというのです。お経なんて読んでも意味はちんぷんかんぷん、祝詞だって有難いけど、有難いだけだし』

女神『学ぶべき本はまだまだあります』

更にブーイング。

『生きている内に出来なかった勉強を、死んでからせよなんていうのは、地上で教わった神様とは全然違う。あんたはニセモンじゃないか!!』

……困惑する女神。すると、再び老翁から肩を叩かれ、うながされてその場を再び外れた。

『もう十分じゃろ、今の問答は本当ではない。ただそうなるのだ、ということを示して見せたのみ。』…… 続けて見ようにも後はないらしい。

『生前に間違った信仰をすると、こういう事になる。神のなんたるかも知らずに、有りがたや、有りがたや、と拝んでいるから、真の神のなんたるかを見分ける力がない。

『まっこと無信心も困るが、信仰が篤ければよいというものではない。大切なのはただ、ありがとう、どういたしまして、という日常の挨拶の延長にある信仰かも知れん。それは俺《わし》等が強いるべきものでもない。

『まあ、悪さをするわけでなし、抛っておけばよい』

……? 良いの? それで?

『今、生きている子孫が、真の信仰に目覚めたら、祖先も恥じて修行に打込むであろうさ。言い諭すよりも簡単さ。何せ、時間だけは何百年でもあるからなぁ』……とまた大笑い。

・・・

いいか、私が呑気にしているんじゃないぞ!! と、次のオフ会では釘を刺しまくってやろう。

・・・

 あう!?。この女神様は萌えるかって? なるほどではもう一回お堂に集中しなくてはなるまい……………………が、眼裏に映るのはPC画面のまま。私用は不可であった。


 先祖供養を重視する霊媒が多い中で、どうも私は仏事を覚えるのが苦手だ。その場が来ればやらねばと思うが、普段はまったく関心が生じない。墓参もなにも、時機もなくその時々に思い立ったが吉日で出掛けていくからだ。まして、混み合う時期に出掛けることをバカにもしている。おかげで盆と彼岸を取り違えることはしょっちゅうだ。

 祖先にしてみれば肩身が狭いかも……とも思うが、彼岸の前にはお墓も掃除にいくし、本来お彼岸は祖先の霊が家に帰る時期だし、厳密に言えば我が家に帰る死者はいない。というわけで、別段この時期、墓参に行くこともないし、祭壇を祀るわけでもない。いや確かにこの時期、知人の祖先の霊から援助を求められることは多い。そういう時には私の守護霊と引き合わせて私の仕事は終わる。

 お彼岸にも意味はある。地縛の霊を救う切っ掛けになる事を私は知っている。ただ虚礼には意味がない。とは私の持論だが、人の中には死んでからも虚礼に頼って神仏に救いを求めているらしい。

お彼岸の話題

2006/03/23

 精神統一をしても、なかなか先祖の霊格が上がらない人が居る。いくらなんでも進歩がないのは、指導する側が無能ではないかと自責せずにはいられない。当然、その問題点を洗い出したいと思っていたが、思い詰めていると受信がおろそかになるのは心霊研究的エッセイに纏めているとおりである。

 ぶっちゃけた話、忘れた頃に教えられた。

・・・・・

仕事中に『ちょっと覗いてみよ』と小言でいわれる……といって私は、PCの前に座ったままで動くわけでもない。…… 心を充分に静めると、そこは小さなお堂の前、戸の置くを覗き込むと、神道風の祭壇に大きなロウソクが二本燃えさかっている。祭壇の前には巫女風の装束を着た、白髪の老婆。……こちらはまるで萌えていない。いや、この表現を一度使ってみたかっただけだ。

 その背後にはおよそ5列4行の二十人の老若男女が詰めかけて一心に祈祷をしている。祝詞なのやら、お経なのやら、良く聞取れないのは精神統一が浅いためだ。(念のため後で確認してみたが、この数字は別にどこかの家の祖先の数を表しているのではなく、まあ、お堂の規模を教えているのだそうだ。)

 案内の老翁が口元に指を当てて、「静かに」のジェスチャーをする、一緒にそっとお堂から離れて、広場の石に腰を下ろす。

『どう見たぁ?(どう思う)』……なにやら語尾が妙に間延びして聞える。なんだか、トンネルの中で話しているような感じである。

「お願いします! とねだるばかりで神様も返事が出来ないでしょう。」

『そうよぉ。信心深いのも程ほどにせねば、神を強請《ゆす》って、神がおびえる。』

「神がおびえる?」……

『そうさぁ。手出しは出来んわさぁ。』

 何となく表現に違和感があるが、意味は何となくわからなくはない。話の続きを促す。

『神を強請れば霊覚が上がると思うから、若造霊媒なんぞ相手にするのも詰らんことさぁ。』

「当人等に向上の手応えがなければ、途を変えるのでは?」

 老翁は大笑いしていう。

『要は、何の不自由も無いのさぁ。生前も死後も。だから、「真剣」という意味がわからず、下らん真剣をやっている。真剣というのは相手を切る覚悟であって、刃のついた刀の事じゃない。切る覚悟がなければ木刀よりも役にタタンのが真剣さぁ。』

「はぁ?!」……なるほど、真剣とは使い手の心にあって、物理的な刀をいわぬというのは面白い。

『自分らは、「懸命に修行しています。向上いたします」と祈ってはいるが、祈って向上するかぁ?』

老翁がまたもや大笑いする……

『神様が向上させてください、と大勢が、大音声で祈りを捧げる。やれやれこれでは、自分の神格が汚されてしまうと、神様もびくびくものじゃ』……さらにまた大笑い。

確かに……指導して貰わなくても格が上がるなら楽だな。そこで、お約束のつっこみを入れる。

「私も仲間に入れて貰おうかなぁーなんちゃって。」

『だから神様は、なおびくびくものじゃぁ!!』……一声大笑いして、老翁は立去った。

 そう、類は友を呼ぶ……この同類に集られては確かに神様の無能の証と受取られるだろう。……オイ待てよ? 原因は教えて貰ったが、対策は教えてくれてないぞ? しかもいっちゃったぞ!!

 仕方がない、後は自分で捜すか。

 再び、お堂に意識を合わせ、覗き込む。今度は女神とおぼしき女性が奥に座って、皆に語りかけている。

女神『修行というのは、ただご祈祷三昧ではなく、自ら学び、心を浄め、人様をお助けして徳を積重ねていくなのですよ』

一同からブーイングが上がる。

『だって、私のような無学者が、一体何を勉強せよというのです。お経なんて読んでも意味はちんぷんかんぷん、祝詞だって有難いけど、有難いだけだし』

女神『学ぶべき本はまだまだあります』

更にブーイング。

『生きている内に出来なかった勉強を、死んでからせよなんていうのは、地上で教わった神様とは全然違う。あんたはニセモンじゃないか!!』

……困惑する女神。すると、再び老翁から肩を叩かれ、うながされてその場を再び外れた。

『もう十分じゃろ、今の問答は本当ではない。ただそうなるのだ、ということを示して見せたのみ。』…… 続けて見ようにも後はないらしい。

『生前に間違った信仰をすると、こういう事になる。神のなんたるかも知らずに、有りがたや、有りがたや、と拝んでいるから、真の神のなんたるかを見分ける力がない。

『まっこと無信心も困るが、信仰が篤ければよいというものではない。大切なのはただ、ありがとう、どういたしまして、という日常の挨拶の延長にある信仰かも知れん。それは俺《わし》等が強いるべきものでもない。

『まあ、悪さをするわけでなし、抛っておけばよい』

……? 良いの? それで?

『今、生きている子孫が、真の信仰に目覚めたら、祖先も恥じて修行に打込むであろうさ。言い諭すよりも簡単さ。何せ、時間だけは何百年でもあるからなぁ』……とまた大笑い。

・・・

いいか、私が呑気にしているんじゃないぞ!! と、次のオフ会では釘を刺しまくってやろう。

・・・

 あう!?。この女神様は萌えるかって? なるほどではもう一回お堂に集中しなくてはなるまい……………………が、眼裏に映るのはPC画面のまま。私用は不可であった。


 先祖供養を重視する霊媒が多い中で、どうも私は仏事を覚えるのが苦手だ。その場が来ればやらねばと思うが、普段はまったく関心が生じない。墓参もなにも、時機もなくその時々に思い立ったが吉日で出掛けていくからだ。まして、混み合う時期に出掛けることをバカにもしている。おかげで盆と彼岸を取り違えることはしょっちゅうだ。

 祖先にしてみれば肩身が狭いかも……とも思うが、彼岸の前にはお墓も掃除にいくし、本来お彼岸は祖先の霊が家に帰る時期だし、厳密に言えば我が家に帰る死者はいない。というわけで、別段この時期、墓参に行くこともないし、祭壇を祀るわけでもない。いや確かにこの時期、知人の祖先の霊から援助を求められることは多い。そういう時には私の守護霊と引き合わせて私の仕事は終わる。

 お彼岸にも意味はある。地縛の霊を救う切っ掛けになる事を私は知っている。ただ虚礼には意味がない。とは私の持論だが、人の中には死んでからも虚礼に頼って神仏に救いを求めているらしい。

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お知らせBy老神いさお。

・PC再起動成功。
 動かなかったのは湿気のせいか、RAMを抜き差ししたら無事に再起動しました。

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移行途中のデータが時折、トップページに掲載されますが、編集作業の都合ですので、今しばらくご容赦ください。旧作については、本文右上に日付が記載されます。
 (最近は復旧する暇がなくて新作が多いですが。)

・東京オフ会: 
 7月度の東京オフ会は7月10日(土)
 に、開催いたします。

・東京オフ会: 
 8月度の東京オフ会は8月14日(土)
 に、開催いたします。

・静岡オフ会: 
 7月度の静岡オフ会は7月17日(土)・18日(日)を予定しています。(申し訳ありませんが、会場は未確保で代替日がなく、中止するかもしれません。)

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 次回の大阪オフ会は10月の予定です。

・ページ更新
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