‘2006/03’ カテゴリーのアーカイブ

オフ会参加の栞

2006/03/31

2006年 03月 30日

不完全ですがとりあえず。


 「オフ会参加の栞」、もしくは、「精神統一の栞」なるものを作成しようとして失敗した。背後霊に「まだ早い」といわれたのだ。

 審神者(さにわ)的に断言し得るが、私は自分の精神統一会運営に過信するものではない。ただ、私には私の特徴があり、その特徴を良しとする者にとっては、おそらくは不二《二つと無い》であろうと思う。……この自負について背後は一言も否定をしない。ただ、依存心の強い参加者をあしらう術が私には未だに備わっていないと背後達が言う。これは事実であると認めざるを得ない。

 従って、当面、細々とやるしかあるまいと思う。進んで参加を求めれば、集まるのは依存心の強い人……結局、私が教祖様になってしまう。ここでいささか皮肉を表わすことを背後たちに許しを請う。世の中面白いもので、私を「教祖様」と揶揄する人がなかなかに多い。そういう人々が、他者を決めつけるその態度こそが、新興宗教の教祖の資質が多分にあると思うのは私だけであろうか。私は霊媒として為すべき事に誠意を持って行っている……実力の範囲内で。

 その霊媒として為すべき事について、少々掘り下げるなら、人間誰しもインスピレーションを得た経験があるはずである。そのインスピレーションを、自分の智力が生み出したものと思うのが常人、誰かから贈られたものと感謝するのが霊媒である。…… ここで大切なのは、霊感の生無とは、そのインスピレーションの内容・意義ではなく、その出先であることだ。

 つまり、良いアイデアを得て、「これは私のアイデアだ!」と、我を主張するのが一般人、「これは天からの授かり物だ」と、己を空しく、神仏に敬意を払うのが霊媒なのである。遠慮もなく自己主張を相手に押しつける者が、霊媒的資質に欠けている、というより、そもそも交霊という、協調・調和を必要とする事業に相応しくないのは言うまでもない。

 独善を押しうる教祖的霊媒が低級霊の奴隷であるなら、教祖的言動を行う(非霊媒)一般人は、主を理解することも出来ない低級霊の家畜でしかなかろう。

 何のことはない。人は皆、不足があるのである。ただ、不足を自覚して努力で補える者と、不足の自覚が無くて努力して恥をさらす者がいるだけのことだ。

 で、私は諭されたのである。慌てて手を広げれば、学ぶことよりも恥をさらす方が多いと。……私はそれに同意した。


 その上で本題に帰る。まだまだ試行錯誤のオフ会ではあるが、いささか、残念な問い合わせが舞い込む。

「都合がつかなくて参加できない。何とかならないか?」……むろん、何とでもなる。別に精神統一の指導をするのに、大がかりな装置が必要なわけでもなく、スタッフが大勢必要なわけでもない。私一人が行けば良いのだから、どこへだっていけなくはない。旅費の制約はあるが……いやいっそのこと、電話やE-mailによる指導も出来なくはない……同時性の制約はあるが。

 が、そんなことは愚問だと思う。そもそも精神統一の目的の一つには、思いを実現する法――夢の実現法、といったことが含まれているのである。つまり、都合がつかずにいるなら、オフ会参加、という夢の実現法をあれこれと試してみればよいのである。むろん、その為の助言も私は公開している。……多分。


 参加するのが精神統一ではない。精神統一というのは、いわば心の修行なのである。心の修行に肉体は不用だ。むしろ肉体がない方がどれほど楽か。身体を持ってこれないならば、心だけでも参加すればいい。ただ、心は移ろいやすく、留まりにくいからこそ、身体を持ち込み、そこを定点とするのが好ましいと言うだけである。――まあその意味において、初期は身体ごと参加すべきなのではあるが。

 それはさておき、参加の困難さを克服することからすでに、精神統一は始まっているのである。参加の努力に挫折するなら、仮に参加できても多くは得られまい……というより、自己満足に騙されて、何も得られないのが実体であろう。そうして縁遠くなる人もいる。逆に、困苦を乗り越えて来る人ならば、その努力も報われるであろう。……霊媒から報われるのではなく、自らが学ぶことが多いという意味でだ。

 大切なのは、身体を運ぶことではなく、心を運ぶことである。……あなたがそれに努力するなら、例え霊媒がピンぼけであろうとも、たとえばその霊媒を迂回してでも、あなたの背後の霊達が、あなたに助言を与えるに違いない。

 逆に、身体だけを運び込んでも、心はあらぬ所にいるなら、霊媒がいくらシャープであっても、背後は沈黙を重ねるだろう。

 その気配の違いを知ることも、精神統一の意義の一つである。

 無があるから、有が引き立つのである。……通信があればよいのではなく、無いことからも学ぶことが多いのだ。


自由・自在

2006/03/31

自由

2006年 03月 30日

人は自由という言葉にあこがれを抱く。
自由が幻想であると感じているから。

何かに縛られ、何かを縛って生きているのに、
 縛ることを辞めずに、自由だけを求める。

縛られるのは嫌うのに他を縛りたい気持を捨去れない。
 他を縛ろうという気持こそが自分を縛っているのに。

自由が幻想なのではなく、自由に憧れる心が妄想なのだ。
自由はある。すべての束縛を捨去った先に。

いや、すべてを捨去る必要はない。
ただ、負い切れないものを手放せばよいのだ。

それさえも出来ないというあなたは、
何に支配されているというのだろう。


自在

2006年 03月 30日

負けず嫌いが治らず、
生意気が頭をもたげてつい損をする。

失敗を重ね、あれやこれやと反省しても、
顔をつきあわせると負けたくない。

勝てないから、負けたくないのに。
負けているから、負けたくないのに。

負けることを確認するために
わざわざ負ける。

勝つために全てを棄てているのではなく、
勝つことに強欲だから負けているのに。

自分に勝つより、相手に勝ちたくて、
負けて、負けて、心がボロボロになる。

勝利者の座にしか、自分の居場所がないから。
自分の中に、自分の居場所がないから。

負けるために戦う。
負けるために争う。


返事の出来ない相談

2006/03/30

2006年 03月 29日


 私にとって、困るほどの話でもないが、塵も積れば山となる。揚足取りや非難とは考えずにさらっと読んで欲しい。


 おそらくは、気を遣った結果なのであろうが、「相談しても良いですか?」……と、メールが来た。だが私は、心霊相談を休止を公言している。にも関わらず、「相談しても良いですか」と問われて、「いいです」と返事をしたなら「相談休止」が嘘になる。

 別段、心霊相談などといって、特別な儀式が必要なわけでもなく、又、特別な供物が必要なわけでもない。別段私が霊感を失ったわけでもないし、といって、見えるものもあれば、見えないものもある事は依然何も変りがない。だから殊更に相談中止だ、再開だ、等と目くじらを立てるほどのものでもない。ただ、ウンザリするような愚痴っぽい相談者が増えすぎたので、客層が変るのを待っているだけである。

 だから何も厳密に、「相談を中止していますからお返事できません」等というつもりはない。来てしまったものに関しては、相談に応じるか、応じないかは別として返事ぐらいは出すつもりはある。だが、自分を嘘つきにするような返事を私は書けない。……というより、そういう気遣いのあり方に、相談者の悩みの元があるのではないか。

 紋切型に気を遣っても、相手の返事が難しくなるような問いかけでは良い答が得られない。まして気を遣っても拒絶されるのであれば、ますます気の遣い方に混乱が生じていくだろう。そうして失うものは、一つ一つはたとえ小さくても全体にしてみればとても大きなものになる。

 さらにいえば、この手の勘違いは、質問方法に限定されることは考えにくい。ようするに、こういう質問をする人は、霊査などをとるまでもなく、小さな損を沢山していると見なして大きな過ちがない。

 なによりも、答が得られない……という消極的な問題など、本来取るに足りない。生きていく上で必要な知恵は、如何に答を引き出すかと言うことだ。

 それこそが大切なのである。


 これは別な話題になるかも知れないが、霊感《インスピレーション》を受取りやすさには、肉体的性質による制約がとても大きい。つまり霊的影響を受けやすい肉体の持主のほうが霊感《インスピレーション》の獲得は容易である。が、いくら霊感《インスピレーション》が受けやすい体質でも、相手が答えにくい質問・疑問ばかりであれば返答が得られずに経験値が増えない。

 思考の整理は、霊媒にとっても大切なことである。


引き籠もりへのお節介

2006/03/30

2006年 03月 29日


 引き籠もっている人間を見ると、いわゆる健常な……もしくは鈍感な人は、もどかしい思いに駆られる。

しっかりしろ! まったく情けない!!

 まあ、端的な感想ではある。だが、人の感性には個人差がある。誰かが平気なことを、別な誰かも平気だとは限らないのだ。

 人間、何かに夢中になっていれば、周囲の雑音や振動、他人の評価、自己嫌悪の情などに振り回されることはない。逆に、為すべき事が無いと、やたらと神経が過敏になる。過敏になるが故に、鈍感(?)な人ならば平気なことが耐え難いのである。

 退屈しているときに過敏になるかというと、必ずしもそうとは言えないのは、ボーとした時間にも意義があるからだ。この事は精神統一を実習した人がよく分る。たった15分ほどの沈黙・静座(正座に限らず、椅子でも良いから、ただ静かに座ること)が、慣れぬ人にとっては耐え難いものなのである。すなわち努力しても困難な瞑想状態に、時として人はごく自然に入ることが出来る。…… この事は興味深いことで、考察のネタに扱いたいが、今は話題に戻る。

 夢を持て、理想を掲げろ、自分のやりたいことを見つければきっと自立できる。……私もそう思わずにはいられない。霊的云々の話ではなく、私自身も霊感発現直後は、人の視線が恐くて外出が出来なかったからだ。私はそれを自力で克服した。
 ところで、とある雑誌の人生相談コーナーを見て、ふっと疑問が湧いてきた。何やら無茶な夢を掲げて努力すると言っている。…… 実現できればいいよ。だが、出来なければさらなる挫折が待っているのではないか?

 そして今日、ふっと気がついたのである。

 知識はただ持っていても使いこなすのは難しい。何が重要で、何がつまらぬか…… 優先順序をきちっと出来なければ人は情報の中で溺れてしまう。そして知識を持っていても使いこなせないから、人は無能に見える。

 では、どうやって優先順序を決めればよいのか。人生経験に照らし合わせて、自分にもっとも適切な順位をつけていくべきであろう。 人生経験があればだが。

 夢や希望を持つにしても、その実現力を育むのは人生経験だ。 人生経験の裏付けもなくやたらと夢や希望を抱いたところで実現力が伴わない。すると……引き籠もっている者に向かって、夢や希望を持て、といったところで、つまらぬ夢を実現するか、無茶な夢に挫折させるかの二者択一でしかないのではと思える。

 いやいや、大人は無責任である。その無責任さで若者を振り回すから、若者は自衛のために引き籠もらずにはいられないのであろう。…… ま、大人に振り回されなければ良いのだが、その為にも人生経験が必要だ。

 何の事はない。悪循環なのである。……人生経験の不足から失敗し、失敗が嫌だから引き籠もり、引き籠もるから人生経験が増えず、年齢相応の人生経験が不足するが年齢相応の成果が欲しくて失敗し……

 若者に人生経験が不足しているのは当たり前。でも、その当たり前であることが、引き籠もりの条件であるなら、この引き籠もりなるものは一種の淘汰の過程なのだろう。引き籠もりの経験の無い親が、引き籠もりの子を育てられるかどうか…… 自分一代で評価するなら、引き籠もる者は人生の敗北者かも知れない。だが、二代、三代と代を重ねることを考えれば、引き籠もる経験がこの不自然で無理ばかりが多い世の中を泳ぎ渡れる子供を育てる必須条件になるかも知れない。……いや、そうなるようにすべきではないか、引き籠もりの諸君。


 ところで、私は何を切っ掛けに立ち直ったのだっけ?……霊的な理由もあるが、エーと、その引き金になったのは……ああ、あれだ。

私は、現実に絶望したが故に、理想を追求しようと心に決めたのだっけ。

 まあ、振り返ってみれば「理想」とは「晩酌」と同義語であるような……

いやいや、まだ結果は出ていまい。


でも私は、「親がない方が子は育つ。」――と思う。わが子の境遇に動転して、引っ掻き回して傷を広げる。


自己嫌悪

2006/03/27

Q 「自己嫌悪に対してどう向合っていけばよいでしょうか?」

無知が敵――自己嫌悪に限らず、自立もせずに日常を悶々と、無限の堂々巡りに悩みを掻き回すものは、無知故に悩んでいることに気が付かぬ。方程式を解くにも必要な変数の数がある。答を得るには十分な手がかりが必要である。
 解くべき条件が整わぬのに、悩むことにいかなる意義があるのか。考えている振りをしているだけなら、その悩みは仮病に等しい。問題を先送りにしたところで解決力が身に付くわけではない。先送りにすれば、問題を克服した先にある幸福がただ目減りするだけであることも気が付かないというのか。
 あたかも、苦しむために苦しむのは、それ又無知が己を害しているのである。

魂心体の不調和――そもそも、人は心と体の二つから成立つ。さらにいえば、魂の働きを自覚せぬものもいるが、魂の働きこそが永遠に価値あるものである。
 すなわち、魂心体の三者が協調してこそ、真に価値ある行いが出来る。ここでいう、魂心体は、心霊主義者のいう、心・霊・体と読みかえても構わない。
 地上(物質世界)に生きる人にとりて、自己の魂を自覚することが少ない。心・体の目指すところが違うことにも気が付くことはない。だが三者の性質が異なればこそ、同じ方向を目指すのにも齟齬が生じるのは当り前のことである。
 魂の目指すことは遼遠であって計りがたく、しかも地上では実現が難しい、心は往々気ままに見えて頑固、強固に見えて流されやすい。身体は寡黙で従順に見えて、その内実はワガママで移り気である。
 遼遠であるが故に、魂の意図はなかなか人生に反映されず、肉体は寡黙でワガママであるから、肉体を上手に扱えず、心に思うことが実現できないことを人はなかなか自覚しない。
 まして、心と比べて、身体が起す変化……即ち行動はいかにも鈍重なものである。これら性質の違いを正しく理解してこそ、人は己を御することが出来る。

心が思い立ってもすぐには変れぬのが肉体なのである。

 故に、心を変えるには断固として、身体を変えるには寛容をもって段階的に行うのが自然であって無理がない。または、身体に染みついた習性を正すのに他人の助けを求めるのも自然であって無理がない。これはたとえば、禁酒や禁煙について当てはまるだろう。無意識に手が伸びるのだから、他人の注意があった方が良い。

 だが、人としての経験が不足している者は、思えば身体がついてくるものと思って行動を初め、思うように身体が動かぬ事を、己の御し方に問題があると思わず、己の不甲斐なさと認識する。
 身体の扱に上手になろうとせず、誤った認識である、不甲斐なさを解決しようというのである…… 設問を間違いながら正しい結果が得られるはずもない。延々と無駄な努力を重ねた挙句、何故それが無駄であるかに気が付きもしないで、再び間違った結果にたどり着く。……自分は駄目な人間である。と。

始めから外れている――「自分は駄目な人間である」このいかにも説得力がありそうでいて、その実全く無意義な回答を真実と信じるのはなにゆえか。解決策を答というのだ。解決策でなければいい訳であって答ではない。いい訳と答の区別もつかぬ知力であれば、そもそも成功への道筋から、歩き始める前から外れているのである。
 こういう努力をする者ほど、「努力に価値はあるのか」と訴える。その問いは正しく魂の叫びであり、同時にあまりにも不毛である。正しい努力に価値があり、間違った努力には価値がないのだ。……解決策と、いい訳の違いも知らず、無駄に考え、無駄に努力する者にとって努力は毒であって価値はない。その意味において、その叫びは確かに魂が言わしめたのであろう。だが同時に、正しい努力をせずに、成功を収められる筈もないのだ。
 世の中には一見、楽々と成功を収める者もいる。だがそれは、必要な努力を楽しみながら行える人…… 魂心体の三体が一致して成功を目指す者なのである。魂心体の調和が取れぬ者にそれを望むべくもない。

自分に甘えない――自分自身を御することは難しい、ならば、訓練を通じて己の限界を知り、限界を拡げていくことで魂心体の調和を整えていくことが大切であろう。

 しかるに、自分の思うとおりにならぬからと、自分自身まで嫌うその心は、あまりに幼稚で未熟ではないか。何より、嫌えば相手が困るというのか。赤子がむずがれば周囲の大人が機嫌を取るだろう。だが、大人がそれをすれば面倒がって誰も相手をしたがらぬだろう。他の面倒を見るべきが大人の勤めだからだ。自分の身体の面倒を見るべきを、むずがる身体と共に心までむずがってどうする。

 自己の年齢から、嫌いなものの数を引いてみよ。それが心の年齢である。


2006年 03月 27日

難多く、福少ない生き方

2006/03/27

2006年 03月 26日


宗教に関する通信を受けた直後、伝えたいことがある、という霊を感じた。知らない相手ではないので耳を傾けてみる。


 先ほど、宗教に関する通信を行っていらっしゃいましたが、誠にその通りと感じ入ります。私はここで、精神統一がうまくいかない或者の守護霊として、お時間を頂きたく思います。

 まず、いけないと思うことは、最初に理想の自分をもって統一にはいることです。確かに、精神統一の初期には、心を静めるために多少過剰気味に自信を持つことは結構です。しかし、修行が進んでも尚、同じ理想を懐き続けるのは、むしろ進歩を妨げていることを知るべきです。

 理想を持ちながらもちっともそれに近づかず、延々と統一を繰返しても飽きるだけです。実現しないのであれば、何故それが実現しないのか、または、自分に適切な理想であるのか、そういったことに疑問を持たなければなりますまい。

 生真面目であることは、その守護霊として誇りに思うところですが、(と、頭を下げられてこちらは赤面する)、要領が悪いのは何とも焦れったいところです。

 空虚な理想に決別して、真に理想を実現すること……それこそが地上に生れ出ずる意義であるのに、それをなおざりにすることは心霊学徒として不誠実であるばかりではありません。安全・順調な線路から外れているのですから危険が多くて遅れがちの生き方なのです。遅れるというのはチャンスを逃すという意味でもあるのです。

 難多く、福少ない生き方をしておいて、私(守護霊)を恨んでくださいますな。しなくても良い心配をさせられて、私が恨み言を言いたいぐらいなのですから。(ハラハラドキドキが伝わってくる)


 そう、幸運を求める人は、「幸運」を自家用車的に考えて、自分の元へ一直線に来ることを想像しているようだけれど、観念的には、バスや列車に例えるのが近いと思う。それはあちこちの人を繋げて、余る物を受取り、足りぬ所に運んでくるようにして、人に幸運をもたらす。

 だから、必要な時に必要なものを受取るためには、ジタバタせずに物事の流れに身を任せることが必要になる。でないと、乗り遅れて、次の機会を待たねばならなくなる。といって、焦って前のに乗ろうとすると、既に配る相手が決まっているからと断られもする。…… 人の物を欲しがる事がいたく嫌われるのも、こういう仕組みがあればこそだろう。


師を見送る……

2006/03/26

 師を見送る……といって、別に幽界/霊界に送ったわけではない。ある意味、もっと近くて遠い米国に送り出しただけだ。


 今日は、師の帰国日。師の宿泊先を午前11時に訪れて荷造りを手伝い、昼食を食べた後、1時に宿泊先を立って一路、成田に向かう。ところが二時半頃には成田周辺に付き、時間があるからと成田山新勝寺に立ち寄る。ちょうど、ご祈祷が始まったのでうろうろとご祈祷のご相伴に与り、立ち去り際に、ふと後ろ髪を引かれた気分でおみくじを買ったら、その二行目に……

「胡僧引レ途帰《こそうみちをひきてかえる》」……徳の高い師が、教えを広めて帰ろうとしている。

 とある。思わず師と爆笑してしまった。

 ちなみに、師に従い、その教えを守って実績を積むうちに成功するが、短気やわがままを出すとさんざんな目に遭う。神仏を信じて吉。…… だそうである。こちらについては、驕っていると誹られるかも知れないが、言われるまでもないと思う。まあ、師の言うことには時折怪しいことも多いし(?)、赤信号をわたって犬連れのオジさんに叱られもするが(!)、こと、霊憑っているときの師は言うことは端的、簡明、反論の余地無く、また、行うに無理もない。私は満点の弟子では無かろうが、落第点も貰っていない。

 等ということは後にして、一路空港に向かう。空港反対集会があるとかで、車の入場制限中とのことだが、難なく車は空港に乗り入れて、出発ロビー前に何とか停車スペースを確保し、師の大荷物をカートに積み替える。そして私は駐車場へ。駐車後に師を探しに行くと、もう姉弟子等が土産物を持って集まっていた。それでなくても荷造りに苦労したのに、ここでまた荷物の詰め直しに苦心する羽目になる。…… まあ、毎年の行事であるが、今年は特に酷い。

 そしてチェックインをハラハラしながら見守り、一同でお茶をし、ここで例のおみくじの話を開帳した。

「三行目を読んでみて、面白いから」と私はおみくじを回したが、読んだ姉弟子の顔がどうも面白そうではない。途中めんどくさくなった姉弟子が読み上げて気がついた。……面白いのは二行目だ。ちなみに三行目には……

「光花映2晩暉1《こうかばんにえいず》」……修行した甲斐があって自分にも徳が備わり、夕陽のように輝いている。

 無意識に自慢話をしてしまった v(^^)>

 十人の姉弟子に一斉に拍手されてバツの悪いこと……そんなこんなで、出国検査の時間がきて皆で師を見送る。師は次々に姉弟子等と握手し、私とも握手して、その直後に師はこういった。、

「八月頃は、注意しなさい」……へ!? (–?

時間の凍り付いた私をよそに、師と姉弟子達が手を振り合っている

「それじゃあねぇ~~」

 え!? えぇぇ!!! 六時間も一緒にいたのに、立ち去り際に警告だけぇ~~~!

「ええええ、立ち去り際に警告だけぇ!」と思わず声を出したら、姉弟子等が怒ること、怒ること。それ以上を求めるのは贅沢だという。

「そりゃそうだけどさぁ~~~」……(@@;

 まあ、毎年、二月八月は色々としんどいから油断はし無いつもりだし、どのみち出来ることは、大難は小難、小難は無事に、と祈るだけだけどさ。

 なんか、これ罠っぽくない? おみくじも、褒めているようで、どこか釘を刺しているしさ、姉弟子相手に自慢を放《こ》いて、褒め殺しに合うしさ……ちきしょう、成田山の天狗め、仕組んだな! (‘_’メ

 で、帰り道は、アクアライン経由。(^^;

 高速料金は往きのほぼ倍の五千円強。贅沢かな……とも思ったが、珍しく我が守護霊が表に出てきて、『明日の仕事に差し支えぬように、帰路は楽な道を選べ』……というので、自分を甘やかすことにした。渋滞でストレスが溜まると寝付きが悪くなって明朝は寝覚めが悪い。寝覚めが悪ければ午前中は頭が働かない。会社でボーッとしているわけにも行かないから無理はしない。結果、途中、夕食を摂り、海ほたるで夜景を撮影したりしたが、成田から二時間弱で神奈川中部の自宅にたどり着いた。

……成田山の天狗は、お茶目ではあるが、意地悪ではなかった。

信仰の意義と対象

2006/03/25

日本人は宗教に節操がないといわれますが、私は、まず信仰心があって、その時々に向ける対象が違うだけだと考えます。だから、七五三は神式、死ねば仏式、初詣に行く一方でクリスマスも祝う。対して外国の多くでは、先ず信仰対象があってその中で信仰心を育んでいるようです。だから、他宗教を敵視することも多いのでしょう。

他宗教を敵視する文化背景があるからか、キリスト教文化圏の霊界通信を読んでいると、どうも宗教に関する記述に引っかかりを感じます。(以上は質問の発端を説明するだけで、世間にある霊界通信などの具体的な問題提起はいたしません。)

Q「信仰とはなにか、信仰対象は何が適切か」

始めに信仰心が有るべき――始めに信仰心を掲げるべきである。真に全身全霊を捧げて信仰すべき何者も地上には存在しない。物質世界に降りてきた途端に、宗教は物質的属性を帯びてしまい、純然たるものではなくなる。すべての宗教は、生前私が一生を捧げた仏教でさえも、真と呼ぶべきものではないし、真を求めるべきものでもない。その状態の中で、人はまじりものの排除に努めて、より純粋に近づくことを大事とすべきである。

 より純粋なる宗教を求めるのは、過ちの元である。極論すれば何も信じないことが一番の純粋となるだろう。複雑な物には多くの交りものが入り込み、それゆえに経典の多い仏教こそが一番の偽物といえるかも知れない。だからこそ、仏教を学ぶ物は、まず最初に何が真であるのかを学ばねばならない。……何が真であるのか、つまり、何が真でないのか、だ。経典も言葉という未熟な表現を使う限り、言葉だけから学べば未熟な智慧しか得ることが出来ない。だからまず、その空しさを知らねばならない。

 ただ知り、ただ信じることには過ちが入り込む、それ故に、信仰から入って信仰心を育てるのは、同時に迷信をも育てることになる。世に宗教を理由とする暴力が多いのは、まず、信仰から入って信仰心を育てた結果である。

 信仰心から信仰に至った者なら、言語という未熟な表現手段に惑わされることなくその真意を汲取って、宗教を暴力の手段にすることは避けるであろう。

Q「すると、信仰対象の選び方という設問は無意味な感がいたします。」

他の霊が代りに答える。

 私が思うに、信心というのは人が善良に生きるための根幹であって、それを育てることはとても大切だと思う。人を信じるが故に人から信じられ、誠実であろうとするから誠実な態度で接せられる。

 それ故に、信仰の対象を何にすべきか、という問いは空虚である。

 そもそも人は何を信じるというのだろう? 天の公平さか、古代の英雄の叡智と力であるのか。信仰対象とは、いわば心の拠所とするものだが、働き以上の報酬を求めたり、人格以上の尊敬を求めたりする様な不誠実な者が何を信じたとしても報われるものではない。それは信心ではなく利用にすぎない。

 真に信心する者は、信じる事の意味を知っているが故に、信じられることの大切さも知る。だから善良に、誠実に生きる努力をしているはずである。そういう人達にとって、何を信じるかは問題にはならない。

盧氏

信じることを力とする――もしも信仰の対象を必要とするなら、自分が一番素直になれるものを選ぶべきである。あれこれと、期待を抱く相手を信仰対象に選べば、自分の欲に騙されてしくじるだろう。

Q 「困って宗教の門を叩くものは救われないと?」

困っている人に救いがあるのではない。――困っている人に救いがあるのではない。救われるべき者が救われるのである。救うのは宗教ではなく、切っ掛けをもたらすに過ぎない。

 自身に功徳無く、身内に功徳無く、努力無く……それでは救いが遠い。

 不平不満、愚痴を慎まず、恨み、妬みていれば、……親切すら遠ざけてしまう。

 自分を救いたければ、自ら努力すべきである。自らを救わずにいて、誰も助ける者がないと嘆く……それは救いを求める姿ではなく、憑依相手を求める地縛霊の姿である。


06年 03月 25日

墨をする間

2006/03/25

 通信があるというのでPCに電源を入れ、エディターが立上がるのを待つ。向うは速く伝えたがっているのに、準備はなかなか整わない。すると……

「昔は、御用があると墨をすり始めてから書出す。墨をする間が良い精神統一の時間であったが、今時の道具は待つことにイライラさせられて、通信をますます遠ざけてしまうのだな」……という。

 なるほど、墨を用意するのには手間が掛るし、ムラのない墨を得るためには心を静める必然もあるだろうが、PCで書くには機会に待たされることばかりで手持ちぶさただ。申訳ないという気持からイライラするわけだが、どうせ待たねばならぬ事情は同じなのだから、ここは一つ統一の時間にすべきなのだな。

なぜ守護霊が応えない?

2006/03/25

2006-03-25


 時折、変な質問が向けられる。変な、というか、筋違いな質問をしている事を当人も自覚しているのだろう、聞き返すと話題を変えてしまう。

「なぜ私には守護霊が応えてくれないのだろう」……私は、「誰でも祈れば守護霊が応えてくれる」などといった覚えは全くない。いった覚えのない事を、なぜと問われても返答に困る。むろん、中には応えを得られる人もいるだろうし、応えを得るために私は精神統一の指導を行っていてそこそこ実績も上げているのだから、あながち「デタラメでも教わったのでしょう」と答えるわけにも行かない。

 ただ、それぞれの質問の前後を考えると、行き詰まってこういう質問をしていることはよく分る。するとこうもいえる。

「御利益信仰に陥ったな」と。つまりは、「商業主義に丸め込まれたな」 ……と。商業主義が本当に潤すのは商売上手だけである。消費者が真に豊かになったなら、売り手はそれ以上売れなくなるではないか。価値がありそうで価値のない、いわゆるバブルを扱いたがるのが商業主義なのだ。


 

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