‘2006/02’ カテゴリーのアーカイブ

神は愛より大なり(太上は天を師とし)

2006/02/21

2006年 02月 20日


「言志四録」なる本がある。従来から注目していたが手に取ってみるチャンスがなかった。ところが先日、書店で見つけてパラパラとページをめくってみた。結論からいえば購入には至らなかった。つまらなかったのではなくここ数ヵ月間の本代がかさみすぎていたからだ。まあ、それはさておき…… たまたま開いたページにかく記載されていた。

「太上は天を師とし、其の次は人を師とし、其の次は経を師とす」

 皮肉な想いに、思わず笑みがこぼれてしまった。心霊家足るもの、常に天に目を向け、天の言葉に耳を傾け、天の意志に従うように勉めなければならないと自認していたからだ。一方で残念に思うのは、書物至上主義や、教主至上主義的な人々の存在である。受売りを自慢し、受売りだけで充分とし、受売りに反するものをすべて拒絶する人々など面白みもない。どうせならオリジナルと接したいし、読む者、聞く者に受売りを強いるような人の言葉なら聴く時間も勿体ないと思うからだ。

 ところで(実はここからが本題だ)、この文章をまとめるに当って、なにぶん購入していない書籍の内容なので、うろ覚えを廃するためにネットで検索をしてみところ、不可思議に感じたことがある。この太上(最上の人)が師とする「天」の解釈だ。

 ちなみに、「人を師とし」とは、つまり教師について学ぶと読み替えて問題はないし、「経を師とす」とは、経典、又は書物と読み替えても問題はないと思う。なんとなれば表現の問題であってそれぞれの読換えは事実上等価であるから。問題なのは、「天を師とし」だ。

 一書に曰く「自然から学ぶ」又別な書に曰く「宇宙の真理から学ぶ」 ……これらの解釈は果たして適切なのだろうか。経が、書物を表わすのは単なる用語上の違いに過ぎない。だが、天という言葉を「自然」と読み替え、または、「宇宙の真理」と読み替えるのかなり乱暴な解釈に思える。……まあ、「天」の思想が抽象的に過ぎるから、一般向けにかように解説するのは必然的かも知れないが。

 マイヤースからの霊界通信である、「永遠の大道」中に、「神は愛より大なり」 という一節がある。これは、「神は愛である」という従来の言語表現に疑問を提示した結果である。それをした智識として言志四録に思う。

「天は自然より大なり」そして、「天は宇宙の真理より大なり」と。

 もしも「天」が「自然」・「真理」と等価であるならなぜ敢えて天という言葉を用いるのか。まあ、私も含めて概ねの人にとってその差はさしたるものではないだろう。ただ、皮肉なことにこれだけは提示できそうだ。

「太上は天を師とし、其の次は人を師とし、其の次は経を師とす」……これを読み、そして、天について、「自然」であるとか、「宇宙の真理」であるとかの解釈を示した者は、果たして経を師としているのか、人を師としているのか、それとも天を師としているのだろうか?

 私は、この一文を読んで、経ではなく天を師にしたいものだと切に感じた。


なるほど奴には骨がない。

2006/02/20

2006年 02月 19日


 入浴していたら、ふっと某知人の事が頭に浮かび、『夢が叶わぬ事で日々ジリジリと暮らして、だんだん態度も悪くなって迷惑だなぁ…… 』等と思って、ふと我に返った。

 私の想いではなく、通信だ、と。面白そうなので耳を傾けてみる。

・・・・・・・

『素人建築家は、家屋を思うに柱の太さも、基礎の深さも考慮しない。間取りの工夫に、部屋の広さ、そして内外装の美しさだけを気にする。そう考えれば何とか実現が叶いそうだと浮かれて省みないから実現がしない。それどころか往々、柱を立てるのも基礎を掘るのも勿体ないなどと考えている。だが、デザインが悪かろうが、基礎と柱さえしっかりしていれば家は建つ。

『夢を実現するのも同じ事だ。基礎も柱もなく、見てくれだけに凝っている……夢の中だけでしか実現しないから夢のままなのである。夢を理想に高めていかぬから、いつまでも実現に進まぬのだ。

『お前は(霊媒)は、某氏を指して、とんとん拍子に物事が好転していき不可思議な物だと思っているが、なんのことはない。彼にはそれだけの実力があったのだ。ただ、柱と基礎を想わずにいるから実現が今まで滞っていただけである。

『一歩前に進みたければ、足下にも、裏にも留意することだ。現実的であるというのは、夢を否定することではなく、夢を実現する力でなければ成るまい。』

……嗚呼、確かに彼奴(某知人)には日常生活力が不足しているなぁ。

『人生の基礎を疎かにする者が、自分の夢に丈夫な基礎や柱を用意できるものか。無理に実現を図っても、自重に耐えきれず倒壊するのがオチである。それみよ、夢が実現しないというだけでも自分の重みに耐えきれずにもがいているではないか。』

 あ! と気がつき、悪寒が走る。

『ああ、そうとも。夢幻の住人……実現出来ない夢しか持てぬ者は、死後においては独り引き籠もって安穏と、夢幻界で暮らすが、地上においては夢と現実の間に挟まれて地獄の苦しみを味わうものだ。そして、夢幻の住人であることの苦しみを、一度でも地上で味わえば、死後においても夢が崩れる恐怖に戦く。

『なんのことはない、基礎や柱をケチって、バカにして、それが夢が理想に転じていかぬ原因であることに気がつかぬ結果なのだ。本来ならば努力など必要としないのに(楽しめばよいのだから)、努力を必要とする生き方をして、努力が嫌だと泣き喚くのである。

『楽しめばよいのである。基礎も柱も、夢の実現の一部として楽しみながら創造すればよいのに、それが出来ぬ。夢を実現する者と、夢の間まで終わらせるものとの間に、境涯があるという所以である。』

 成るほど彼奴には骨(柱)がない。あげく、家族(基礎)にも不平不満ばかりだ……まあ、他人の夢の実現よりも、今は自分が湯冷めをしないようにしなければ。


一言でいえば「関わるな!」

2006/02/16

2006年 02月 16日


 人間には相性もある……などという建前はなしとしても、やはり「人間としてどうかな?」と疑問を感じるような人と、敢えて友好を結びたいとは思わない。というのはまだ上品すぎるかも知れない。我が霊媒としての師は、ずばりと言い切った。

「そんなのと関わるな!」

 処世術的に表現するなら、霊格、すくなくとも人格というものを一つの目安にしない人とは関わるべきでないというのだ。目指すものが違う人と関わるのは時間の無駄なのである。

・・・・・・・

 私も人の子、嫌な相手は多々ある。それを恥じる以前にまず、「関わりたくないな」と思う。だが、他人のあり方に踏み入る事はしない。

 霊界通信では地上のことを良く学校になぞらえるが、むしろ、市民向けのプールにたとえるほうが想像しやすいかもしれない。真剣に水泳の練習をする人にしてみれば、ビーチボールや浮き輪で遊ぶ人たちが邪魔にも感じられるだろう。だが、その辟易とする気分は、競技用プールに出入りできるようになったとき、立場が逆転する。上級選手から邪魔者視されるのである。―― 突っ張りつづけるのもひとつの生き方かもしれない。だが、自分が進むべき一連の道筋が見えれば、無駄に突っ張って、無用の敵を作ることもナンセンスに思える。少なくとも私は、この短い地上生活において、悪縁は少しでも減らし、良縁は少しでも育んでいきたい。

・・・・・・・

 霊的にいうなら、魂に曇りが生じるような付き合いは、守護霊や高級祖霊との絆を阻害し、悪霊や低級霊につけいる隙を与えることになる。

 言い争ってイライラしたり、批判が昂じて誹謗中傷に走ったり、せっかくの「神霊」談話がいつしか駄弁に陥ったり……

 木の種類を見るのに、その実を見よ、とは聖書の言葉らしいが、同じ心霊的趣味であっても、議論の行き着く先を見れば、それはそのまま死後の行く末なのである。

・・・・・・・

 きれい事を言えばいいというのではない。良知こそが大切なのだ。他人を批判・非難するための知恵ではなく、自分をより良く生かすための知恵が必要なのだ。

……そういう会話が世に貧しいことが、私の心を飢えさせる。


2006年2月15日(ML)

2006/02/15

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


 事例1

 あなたは人生が思うままにならぬ事をよくわきまえていらっしゃいます。わきまえた上で、無理をせず、諦めもせずに善く生きようとなさっている。それは人として大切なことです。
 ただ、もう一歩前に出て考えてみることです。
 多くの人にとって、ままならない人生とは、つまり自分のことです。自分を押さえることが出来ず、自分を励ますことが出来ず、右に向くべき時に脇を見、左を向くべき時に下を見ている。そして上を見るべき時には涎を垂らして昼寝をしている。
 そういう人々を相手に生きるのですから、人生儘ならぬのが当たり前、儘ならぬというのはあなたの人生ではなく、あなたと同じ時間を接している人々の人生なのです。
 一人一人を良く見、良く把握し、それを踏まえた上で仕事を設定なさることです。品質管理はなにも製品にだけ当て嵌まるわけではありません。

 

☆今後の注意点

 自分の限界を自分で定めぬ事です。あなたの敵は周囲の無理解ですが、あなたの一番の足手まといは、実にあなた自身の諦観なのです。諦めるのは限界の先であって、限界の手前で諦めてはいけません。

 

事例2

 なんとまあ、あなたは大きく夢を拡げているのでしょう。「良知」とは、自分の知っていることを顕らかに知ることであるのに、知らぬ事を学ぼうとするから、身に付かず、応用できず、人にも言えずにいるのです。
 自分が愚かであると思うのは止めなさい。自分が知っているものを世に出すことが大切なのです。……たとえばあなたは、人に優しくあろうとしています。では優しさとは何かを説明できますか? そして優しさを言葉で表せると信じられますか? それが出来ないとしたら、あなたは本から何を学ぼうというのでしょう!? その本は、あなたを愚者・不明にいたします。
 それよりも多くの人に優しくし、どのような優しさがより人々に有益なものであるかを知る方が、どれほどあなたに偉大な叡智、死後にも土産に出来る智慧を与えることでしょうか、想像をなさってください。

 

☆今後の注意点

 とはいえ、本をお読みになるのは良いことです。問題は読み方にある。字では表せないものはどう読み、どう伝えるのかを考えなければ意味を失うのです。

 

事例3

 理想的な一方で、妙に現実的な部分を持っているあなたは、自分自身がそのギャップに足を取られていることに気がついていません。現実的な話をするときにはどこまでも現実的で悲観的になり、夢を抱いているときのあなたはどこまでも楽観的で、地に足がつきません。そんなあなたに多くの人がつかみ所無いものを感じて、騙されたと感じ、自分自身で自分を掴めずに、そのたよりの無さを不安と感じ、不幸と思い込みます。

 あなたはまず健康です。どんな仕事をするのにも充分に器用です。大抵の人とは上手に合わせられる社交性も持っています。好き嫌いはなるほど激しいが、実は社交性の副作用であることに気がつくべきでしょう。つまり上役から、「あの人ならどんな人とも付き合えるから、この難しい人を任せましょう」と。やられているのです。……そして又、家族には充分に恵まれていて、少なくとも足を引くものはいません。
 これらは充分な財産なのです。問題はそれらを生かせないこと。生かすどころか副作用で苦しんでいるのですから、なんとももったいないことです。

 

☆今後の注意点

 バカにしないで、処世術の本を一冊ゆっくり研究なさってみてください。何度も読む、読む度に発見があるはずです。あなたは小器用で、頭の回転が速いから、早呑み込みして大切なことを理解しないところが多々あるのです。
 研究心を育てることが必ずあなたの長所を花開かせてくれます。

 

事例4

 あなたは「良い子」ですね。良い子……つまり、善い子というより、親たちから見た、都合の良い子、という属性が、あなたの一番目立つ部分でありましょう。むろん、本当のあなたは相応に悪い子……といって「悪の子」ではなく、親に従っても内心では舌を出しているような反抗心も充分に持ち合わせているわけです。問題はここにあります。―― 何をするのにも葛藤が生じるのです。
 嫌なことをするのに張り切ってくたびれ、好きなことをするのに後ろめたくて疲れる。さらに困るのは、好きなことをしていると、後ろめたさから注意が散漫になって、災難に遭いやすく、後ろ暗いから災難が心に焼き付きやすく、災難の記憶が多いからますます好きなことから気持ちが遠ざかってしまうのです。
 何かが祟っているのではなく、あなたが遠慮しているだけなのです。
 それはある意味、(観念的)疫病神に取憑かれているようなものです。そして観念的な存在であれば、当然、除霊の手段はありません。ただ、対抗処置はあるでしょう。

☆今後の注意点

 笑う門には福来たる――事故や失敗は笑い飛ばしましょう。自分の失敗は出来るだけ大声で笑い、人の失敗は、にっこりと微笑んで、「don’t mind!」と肩を叩けばいいのです。
 すべては気持ちの問題だからと、自分に言い聞かせようとしても無意識の犯行で気持ちはかえって揺らぐもの。いっそ気持ちを別な方向に向け、つねに心を明るく持てば、守護霊の加護もより身近に感じられるようになって人生は好転していきます。

 

事例5

 とても小心なあなたが見えます。どうもいくつかの大きな失敗が、あなたを臆病に、というより、自分の運命への不信を抱かせてしまったのでしょう。
 それはいくつもの不都合が重なったため。それらのすべては事故というよりも分りやすい必然の結果であります。しかも…… これが一番残念なことかも知れません。
 あなたはやはり男の子なんです。無理かも……と内心感じたときこそ敢て発憤してしまう。それは男気として同性から見ても格好の良いものの筈なのですが、あなたにとって大きな誤算は、もともとあなたが霊的素質に十分に恵まれている点にあります。
 多くの人が内心感じる不安は、大抵の場合、尻込みなのです。でも、あなたが感じる不安は、失敗の予感なのです。失敗を霊的予言を受けている事ほどあなたが張り切ってしまうなら、傷も深くなろうというものです。
 そのくせ、成功の予感に関しては、照れて、遠慮してしまうのでは、不幸になるために生きているようなものです。
 むろん、今さら慌てて不安を避け、自信に乗じて、うまく行くというものではありません。なんとなれば、あなたも又、一人の人間として、尻込みもするし、夢も見るからです。

 

☆今後の注意点

 不安も、その原因を良く分析なさることです。また、チャンスもしっかりと見分けて、確実にものにしていくこと。それでなくてもあなたは周囲の人々から積極的な人間と思われています。にも関わらず、あなたが内心の不安に素直に従って躊躇するだけで、ガッカリとする人は大勢いるのですよ。

 

事例6

 出来ることから片付けていく……それも一つの手です。ですが、時間が残り短くなれば、もっと計画的に事を行う必要があります。
 人の世話は、限りもなく、いくらしても満足というものがありません。世話の良し悪しで、自分の努力を計らぬ事です。
 もしもあなたが、世界の広さを知らんとするなら、あなたがすべきはまず、それに見合った測定手段の確保です。自分の行い、人々の善意、そして歩むべき未来。それを測る手段も持たず、果てない努力の中で自分の至らなさを反省し、足りぬ、足りぬ、努力が足りぬ、自分の努力がまるで足りぬ……などと焦っていればそれだけで人生は充分に不幸です。忙しさの中で充足した不幸を味わうなんて、ナンセンス極まりありません。
 部下に仕事を割り振るように、自分にも、「まずここまで出来たら、自分にご褒美」と、区切りをつけるようにいたしましょう。

 ええ、あなたは充分に区切り付けをいたします。でも、それは相手の都合に合わせてのものばかりで、口さがない人から見れば、押しつけがましいご親切と受け止められるものなのです。……損しているのですよ。あなたの優しさは往々、他人の生き甲斐を奪う物なのです。
 人の都合だけでなく、ご自分の都合も大切になさることです。そうしてこそ、本当の意味で人の都合の大切さが良く理解でき、人から嫌われない親切が出来るようになります。

 

☆今後の注意点

 今さらこう言うのは我ながら酷くも感じますが……あなたの精神統一方法はきちんとした指導を受けた正当なものではありますが、あなたの体質・気質を考えてみると、為すべき事はその正反対です。
 あなたは本来頭でっかちのタイプ……身体を静めれば、気力がかえって頭に集まり、思考が忙しくなる人なのです。
 ジョギングや競歩中に心を静めるのが一番あなたに効果的なのです。


自己陶酔が生み出す「たわごと」

2006/02/15

2006年 02月 15日


 半可知なる言葉をしみじみと感じている。私の周囲にも、とかく自慢話が好きな人が数人いるが、彼らの話は聞くに堪えない。数年前、その中の一人がいう事を、思わず吹き出してしまい、それをいまだに根にもたれて意地悪される始末だ。彼は職場の責任者に不仲の理由を問われて、「絶対にいわない」と断言したため、責任者もそれとなく理由を察したということだった。…… まともな理由なら堂々とそれを指摘できるはずである。

 自慢が好きな人は、勉強家の一面も持っている。自慢話のネタを収集するのに余念がないのだが、目的がそもそも「他人に自慢すること」に合って、「理解」にないから、自身が適切に理解しないまま他人に話す。そこに多量の間違いが含まれるのである。

 さらにいえば、他者に話すことに自己陶酔して、だんだんと、知らないことも話すし、憶測も話しだす……普段ならば他人に「知らない」と言い、また、自分の知らざる事をいろいろと質問できても、自分が何かをとくとくと語りだすと、知らないことがまるでなくなってしまうのである。

 彼は決してうそつきではない。普段の彼は正直なのだと私は知ってはいる。だが、彼の舌が回りだすと、真実以外のものも大量に排出されるのが現実なのである。それは決して故意や悪意から来るものではない、単なる自己陶酔が生み出した出任せ……つまり、たわごとに過ぎないのだ。

 酔った上でのたわごとも聞くに値しないが、しらふがたわごとを言わぬわけではない。人を酔わすのは必ずしも酒や数種の薬物だけでなく、自分に陶酔する人の言動も相当に怪しいものである。…… このことは自称霊媒にも当てはまることはよくよくあることだし、私自身も非常に注意深く自己観察する点でもある。

 と同時に私の恐れることは、地上でこのような悪縁を結んでしまう自分のめぐり合わせだ。要するに、これが地上の問題だけならば、あとはせいぜい50年ほどの辛抱ですむ、だが、私の霊格なりの問題であるなら、死後もこういうでたらめに付き合わされるのかも知れないのだからうんざりする。さらには、私の霊感に、こういうでたらめな霊が憑かるとしたら、自分だけでなく相談者にまで迷惑を及ぼしかねない。私はそれを恐れるのだ。

 そう、自慢話が好きな人は、死後も自慢話をしようとするだろう。だが、この世でも好きで自慢話に付き合う人はそうはいないし、有り難がる人も、ただ、その空虚さやでたらめさに気が付くまでの話に過ぎないのである。ましてや、実力以上に知者に見せようとする人のオーラは鈍く、醜い。地上の人の目はごまかせても、死者たちから見れば醜い姿をさらすことになるのである。それでは死後は孤独に陥るのは火を見るよりも明らかだ。…… しゃべりたがり屋が話し相手を失ったらどうなるか? こういう自業自得的孤独霊が、霊媒初心者に執着する様は復讐の念に駆られる怨霊と大差が無い。怨霊であれば謝罪で解決するかもしれないが、己の欲望を充足しようとする霊が相手だと穏便な解決方法が無い。

 だからある意味、地上の自慢したがり屋から嫌われることは有益かもしれない。死後にわざわざたずねてくる心配もないだろうし、相手が自慢に現を抜かしている間に、自分の霊格をあげておけば、神仏の助けでもない限り訪ねてもこれぬだろう…… こういううんざりとする気分は、この世に捨てていかねば心霊家として恥ずかしいことにもなる。


必然的な失敗

2006/02/14

2006年 02月 14日


 霊媒が謝礼を取ることの是非を論じる向きがあるが、私は過去数年間の無料心霊相談を通じてしみじみ思う。

 善く生きている人が、より善く生きようとする手伝いであるなら無料で実施しても必ず報われるものだが、今まで悪事をして行き詰まり、悔いて善く生きようとする人の手伝いは、無料で行えば必ず痛い目にあう。――自分だけ楽に幸せになろうとするのは許されぬ事だと思う。

 償いが必要なのだ……が、そういうと大抵は、「そんなことをしてまで……」と、始まってしまう。これではまるで、悔い改めるのを私が邪魔をしているようである。中には「私には非がない」というものもあるし、さらには、「彼奴だって悪いじゃないか」と始める人もある。

 他人がどれほど悪かろうが、だからといって自分の苦しみが楽になるわけでもないし、自分に同情が集まるわけでもない。善良に生きている人がもっとも嫌に思うことは、他人の悪事を手助けすることだ……他人の非をあげつらうことが、正に真実を明らかにすることであったとしても、同情に値するのは善く生きようとする努力である。

・・・・・・・

 そもそも、助けを必要とするのは、自分の実力を超えたことに手を出した結果だ。それを自覚してこそ解決への道も出来る。つまり、自分で責任の取れる規模に手を縮めることが先決なのだ。それをせずに、助けを得ても、次はその助けがあっても足りぬ事に手を出すだろう。

 なにせ、自分の実力を超えたことに手を出したがる人なのである。ならばどこまでもその手を広げるだろう……挫折しない限り。

 ならばここで考えて見よう。どうせ挫折するなら、いつが良いだろう? 当事者にして見ればなるべく遅い方がよいというだろうが、助ける側からしてみれば、わざわざ一緒に挫折するのはなによりも避けたいことの筈だ。少なくとも私ならそう思う。

 助けを求めるのは人として当たり前の情である、だが、その手段を間違えたなら、かえって自分の苦しみを増すことになる。……「なにも自ら進んで、敵を作ることもないだろうに」と私が思う所以である。

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「失敗しても良いよね、私はまだ若いんだからいくらでもやり直しがきくし」……というセリフを、数人の若い女性から聞いたことがあり、とても滑稽に思ったものだ。誰かを慰めるために言うなら分かるが、自分に向けていっているのである。だが、進んで失敗する者が何をどういうふうにやり直すというのだろう?

……などという話を今さらながら思い出したのは、本日久しぶりに、たわごとに付合わされたからだ。

・・・・・・・

 何やらイライラしている知人に声を掛けたが、その言い分は支離滅裂だった。私なりに色々と思考を整理する方法を知っているわけで、気抜けたまま、それなりの助言を試みた。気が抜けているのはいかんともしがたい、つまり、無駄だと気がついているのである。無駄だと気がついているが、ガス抜きをしなければ爆発の危険があると感じたのである。まったく厄介である。

 なぜイライラしているのかを訊ねるが、はっきりと答えられない。「イライラするぐらいなら手を引けば」というと、「あいつだって!!」と怒り出し、「そんな簡単なものじゃない!!」と腹を立て、挙げ句の果てに「嫌だから手を引くなんて、人としてどうかと思う」ときた。挙げ句の果て、「割り切れないもの、棄てられないものがあるから悩むのであって、それが人生というものじゃないのか」 と、いう。

 まあ、そういう人生もあるだろうが、その悩みに解決の時は来るのだろうか?…… 問題解決に一歩でも近づく努力なくして、ただ悩むだけなら、その人生とはつまり敗北者の人生ではないのか。

 気が抜けるのを通り越して私は憮然とせざるを得なかった。

なんで自ら進んで、成功への道を棄て、ただイライラするのだろう?

……いや、当人以外にはいたって明白な答が存在するわけだが、当人は決してそれを認めないだろう。だからこそ悩むのである。真実から目を背け、さらに背けようとするからこそ答が出ずに、人は悩み続けるのである。


「転ばぬ先の杖」

2006/02/13

2006年 02月 13日


 話が拗れてから霊媒に相談を持込んでも、往々、どうにもならない。

「転ばぬ先の杖」を持ち、拗れる前に相談することが大切な訳だが、人のありようとは己の過信にあるのか、何度も失敗しないと、災難の解決よりも、災いを引き起さぬ事が本当に大切なのだと、なかなか理解……というより、腑に落ちぬのが人間らしい。

 もっとも、世に親切な人は数有れど、それらの意見に一々耳を傾けると、「転ばぬ先の杖」、どころか、「根っこの生えた杖」を持たされて、進むに進めなくなるから困る。自分の知恵を鼻にかけて「机上の空論」と現実に即した知識との区別もない人に限って、言うとおりにしないと腹を立てるものだ。こういうのは実にめんどくさい。悪縁断ちがたしとはこういうことをいう。

 まあ、悪縁の持主であろうとも、悪縁からも見向きもされぬよりは余程良い。構うだけの価値があると言うことなのだから。その価値もないとすれば、私が何を言う余地があるだろう? 拗れきった生き方をしている人が霊媒に相談を持込んでも、往々、どうにもならないのだから。

・・・・・・・・

 善良に生きる、心に神仏を描いて、それに恥じぬように生きる、というのも一つの杖であろう、ところで、どんなに善良な人であろうと、また、どんなに信心深い人であろうと、つまづきもすれば、転びもする。問題は、つまづき、転ぶ、その主たる原因が、自分にあるのか、頼みとした杖にあるのかである。

 歩くのに邪魔になるようなつまらぬ杖もあるだろう。そのような杖を持つのも自分の不明を意味するが、杖をついても転ぶような状況ならば、なおのこと杖は大切と考えるべきなのに、自分の不注意を棚に上げて杖を棄て、又は取替えようとするのはなんたることであろうか?

 善く生きようとしてもひどい目に遭う、それならいっそ悪く生きよう、とか、神仏なんて祈っても無駄だ、どうせなら悪魔信仰の方が利口と考えるべきだ……などと考える人が本当にいるから呆れてしまう。

 一度や二度の失敗で揺らぐような浅い、善良さや信仰心であるなら、何を信じようとさして役に立ちそうにないし、さしたる価値もありそうにない。

 飾りであるなら気分で取替えるのも良いが、頼みとするものであるなら使い慣れたものが一番良いことに気がつかぬ事もまた自分の不明とすべきである。……つまり、真に大切なものを知っているのだろうか、ということだ。


悩み癖は体質

2006/02/11

2006年 02月 10日


「悩み癖は体質」――と、私は考える。

 悩む癖のある人は、得てして行動しないために悩んでいるかのようだ。

 無論それは霊視による見解ではなく、客観的な観察により、他の誰かにその事を指摘すると、概ねの同意を得られるものだ。しかし、当人にはその自覚が見られない。――だからこそ、重大な問題と考えるべきだ。

 周囲と当人の見解が異なるということは、周囲の助言が往々、当事者の反発を受けるだけで終わるということなのだから。

 ましてや、その悩みの隠れた動機が、「行動しないため(の言い訳)」にあり、周囲の助言が「行動せよ」であるなら、当事者の反発的な言動のすべてが、「行動しないため」という動機を補強してしまうのである。

……つまり、救いがたいということだ。

 救いがたいという言葉には、「見放す」とか、「愚か者」、といった意味合いが含まれているが、ここで扱っている「救いがたい」という表現にも無論そういう意味が含まれていなくもない。が、端的にいって、論理的に援助が困難、援助がますます混乱をもたらす、という状況を示しているのである。それを、悩み癖のある人は「『救いがたい』なんて、なんて情のないことをいう」……などと思うであろうから本当に困る。悩む人が答を得られないのは、堂々巡りに陥っているからである。

 堂々巡りに陥っているなら、考えることを一時止めることが大切なのだが、悩み癖のある人はそれを止めない。論理的に悩むことに意味がないのにも関わらず……当事者以外の目には、行動しないために悩んで見せていると思われるのである。…… ところが実際は、悩むこと以外のすべてが「行動しない」という動機に従っているのだ。

 いや、その事実を知って、当人は、釈然としないものを感じるかも知れない。「私は充分に行動力がある。ただこの問題については……」

 どこに向かうというのだろう? 急な坂道は頂上への近道、だが、坂道を下れば頂上から遠ざかるばかりだ。安逸な選択は試練を増すばかり、行動とは必要に応じて起すべきであって、意義も必要性もない行動は、楽しくはあっても役に立たぬ事が多いものだ。

 つまり、本質的な行動をしないために、安易な行動をする……すべての言動が、「行動しない」ために、あるのだ。

 どうしてそんなに腰が重い(行動力が無い)のだろう? 車の調子が悪ければ遠出は控える……そんな雰囲気が、悩める人の言動に見て取れるのである。


結界を張る?

2006/02/10

2006年 03月 08日


 他でも時々聴くが、知人が出会ったあるヒーラーは、治療に取りかかる前に結界を張るのだという。ヒーラーといってもその目指すところ、行う手法はそれぞれに異なるだろうから、私の知っているやり方と比べて正しいとか、間違っているとかの判断を下すのはナンセンスと思う。 ただ、私が自然で、無理がないと思えることを整理してみたい。

 霊的療法には二通り考えられるだろう。一つは施術者の霊的能力・霊的才能を用いて治療するものである。もう一つは、施術者が高級神霊の助けを得て治療を施すというものである。この場合、大抵、祈りから始まり、祈りに終わる。または、患者の持っている自己治癒能力を引き出すだけ、というヒーラーもいるが、この場合は霊的療法を併用しているとしても、霊的療法とは別けて考えるべきだろう。

 つまり、自力型、他力型の二種類のヒーラーがいると考えられるが、霊媒の目を通してみた、自力型のヒーラーとは、高級神霊の援助を自覚していない霊媒に過ぎない。すると自力型、他力型とは要するに、その施術者(ヒーラー)が、自己の支配霊(高級神霊の援助)の存在に無自覚か、自覚しているかの違いということになる。

 むろん、その真偽を証明するのは難しいが、強力なヒーラーの存在は信じられて、高級神霊の霊的援助を信じられないというのも不自然であろうし、高級神霊の霊的援助が得られるものであれば、それを欲しいと想うのも自然であろう。

 ここで、他力型の霊媒が自然な選択であると考えると、結界を張ることの意義が不自然となってくる。 高級霊を招けるのであれば結界などを張る必要はないのだ。まして低級霊に邪魔されて近寄ってこれないような高級霊など頼るにも値しない。

 同時に私は、「結界」という言葉を使う人の裏面に心が動いてしまう。……霊感発現直後の私は、面白がりすぎて身に低級霊を集めすぎてしまった。その後は必死に我流で除霊法を磨いたものだが、一向に減ることがない。ただ耳元の声と、霊眼に映る顔ぶれが変るだけなのだ。疲れ果てた私は一つのビジョンに至った。風呂の水に穴を開ける光景だった。つまり、水を汲んでも水面に穴は開かない。直ちに水が流れ込むからだ。……そう、低級霊を完全に取り除くというのは水面に穴を開けるに等しい努力だったのである。ならばいっそ、そこに何かを充填すればよいだろうと私は考えた。

 低級霊を身の回りから取り除くのではなく、高級霊が身の回りにいてくれるようになれば、自ずと低級霊の害は消えて無くなるはずだ。この結論に至ったとき、締め切って明かりもつけずにいた部屋の真ん中に光のスジが立った……だから私には結界を張るという発想がない。それはちょうど泥棒が入ってから戸に鍵をするようなことに思えるからだ。鍵を掛けたら、泥棒を家の外に追い出せず、助けが来ても家には入れず、なんのメリットがあるのか分らぬからだ。鍵を閉めるのであれば、泥棒が入る前でなければならない。すると、本当に結界が張れるのであれば、常に張り続けていなければならない。

 まして、古来より籠城というのは援軍が来るまでの時間稼ぎとして行うものだ。最初から籠城しては、敵に城下を蹂躙されてしまう。または動物園の檻を想像してみて欲しい。一体、動物を閉じこめているのか、人間の手出しを封じているのかどちらだろう? 考えるまでもない。檻は人と動物の双方を隔てているのである。

 他力型のヒーラー、つまり、高級神霊の援助の元に治療を行う者は、大抵、祈りから始まり、祈りに終わる。救いを求める者は、先ず戸を開かなければ援助が届かないのである。

密教では……

 もっとも、密教僧などは祈祷の前に結界を張るという。ここでいう結界とは、その言葉がオカルト主義者に与える印象とは事なり、低級霊を遮る障壁ではなく、世俗の自分と、仏に仕える自分とを分ける、いわば公私の区別の事である。

 だからなおさら変に思えるのだ。いけないとはいわないが……その別が必要なのは他人ではなく自分だ。また、祈りから始めるならそこで公私の区別はつくはず。ようするに仰々しい用語を用いるヒーラー、又は霊媒もそうだが、その動機のどこにあるかを、裏読みをしたくなって仕方がなくなる。


つまり、霊媒やらヒーラーやらが、何かを始める前に「結界を張る」としたら、私は、

1,ただの物まね、

2,こけおどし

3,高級霊と縁がない

 と、いずれにしてもその能力、才能に対して否定的な印象を抱いてしまう。

 たとえその人に、低級霊の干渉を完全にシャットアウトする能力があるとしても……だ。籠城とは時間稼ぎの手でしかないのだから。そんな手段を真剣に選ぶ人には、こういう言い回しもある。「頭隠して尻隠さず」……安全確保よりも安心感の確保を優先するのは、安全対策としてはむしろ否定的な努力である。


霊感の強い子を持つ親へ

2006/02/10

2006年 02月 09日


霊感の強い子を持つ親に一言いいたいという霊が来た。

『兎に角、霊感の強い子供を授った親は、子供に「霊査」を要求するな。言ってはならぬ事まで強いられれば、困る者が出るし、板挟みとなれば嘘も往々現れる。嘘が当り前に出るようになればそれも大変に困ったことだし、口が軽すぎるのも信用に傷が付く。

 出るものを使うのはよいが、出さぬものを強いては大変な罪となり、悪影響が出るのである。それもすぐに影響が出るなら反省もしようが、長ければ数十年もの歳月を経なければ表面に出ぬ悪影響を、舐めてかかって我子に害を残すのは親として許されることではない。

 往々、人は味を占めると要求がエスカレートしていくものだ。それを称して頭に乗る、増長する、というわけだが、親が子に増長するのは子に対する最大の暴虐である。

 そういう想いをさせたくないから、背後の霊達はインスピレーションを出し渋り、出し渋るから自ずと練習の機会も減り、せっかくの才能も練習させぬから萎れていくのだ。

 親が焦って、子の可能性を損っていくのは世間では良く目にすることではあるが、霊的才能を損わせるのは、この世だけの損ではなく、あの世にも引きずる大きな損失である。』


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