‘2006/02/23’ カテゴリーのアーカイブ

体調不良につけ込む霊

2006/02/23

体調が悪いと気が滅入り、気が滅入ると感応する霊まで低くなる。といって、無理をすればかえってつけ込む隙を作る。疲れやねじれが取れるまでは大人しくしているに限る。とはいえ、体調が悪いと時間の流れまで遅く感じる。というより自分が鈍いだけだが。

・・・・・・

 私は、仕事が煮詰ると、目をつぶり、心を落着け、高山の山頂で深呼吸する所を望画する……すると今日に限って、品悪く、薄気味悪い笑みを浮べた男が側に立ってこういう。

『(憑依して)おまえの欲を糧にして、私は地上の欲をほしいままにする……』と、相手が言い終らぬうちに私はそいつを突き飛し、こう叫んだ。

「注意しろよ!!」

 延々と山の斜面を転がりながら男が叫び返す、

『突き飛しておいて、何だ!!』

私が二の語を継ぐ

「勝手ばかりをしていると、誰も引留めてくれないぞ!!」

 なおも転がる男が憂いを籠めた声で改めて叫んだ。

『嗚呼!!』

 肩がちょっと軽くなり、改めて高山の山頂で深呼吸する自分を望画する。……さて、仕事に戻ろうか。

 あ、その前に、折角だから足下の石を蹴り落しておこう。いやはや、体調の悪いときには大人しくしているに限る。

体調不良につけ込む霊

2006/02/23

体調が悪いと気が滅入り、気が滅入ると感応する霊まで低くなる。といって、無理をすればかえってつけ込む隙を作る。疲れやねじれが取れるまでは大人しくしているに限る。とはいえ、体調が悪いと時間の流れまで遅く感じる。というより自分が鈍いだけだが。

・・・・・・

 私は、仕事が煮詰ると、目をつぶり、心を落着け、高山の山頂で深呼吸する所を望画する……すると今日に限って、品悪く、薄気味悪い笑みを浮べた男が側に立ってこういう。

『(憑依して)おまえの欲を糧にして、私は地上の欲をほしいままにする……』と、相手が言い終らぬうちに私はそいつを突き飛し、こう叫んだ。

「注意しろよ!!」

 延々と山の斜面を転がりながら男が叫び返す、

『突き飛しておいて、何だ!!』

私が二の語を継ぐ

「勝手ばかりをしていると、誰も引留めてくれないぞ!!」

 なおも転がる男が憂いを籠めた声で改めて叫んだ。

『嗚呼!!』

 肩がちょっと軽くなり、改めて高山の山頂で深呼吸する自分を望画する。……さて、仕事に戻ろうか。

 あ、その前に、折角だから足下の石を蹴り落しておこう。いやはや、体調の悪いときには大人しくしているに限る。

人生に悩む。

2006/02/23

2006年 02月 23日


 意地悪なようですが、青年期に人生の意義を考える人には基本的な欲求不満が動機となっていることが多いようです。つまり、駄々や屁理屈を捏ねて願望成就に圧力をかけている(時々は無自覚に)場合があります。

 ですがこれはかなり不毛な混迷です。一個人の努力ではどうにもならぬものを運命と呼ぶのに、その運命に相対するのに捨て鉢な行動をとるのは自殺行為に等しいでしょう。過った努力では好転は望むべくはなく、いい加減に自信を喪失して間違った努力を止めるまで問題を拗らせ、行き着く先は大抵、鬱《うつ》……でもそれは結果が現われただけであって、過去を振り返ってみれば、鬱になるための努力を重ねてきたようなものです。

正に、過去が今・現在を造り、現在の努力が未来を作るのです。

 この行き詰まりを解消しようと、心霊思想に出会えば、真理に目覚めて感動を覚えるとしても、摂理に向き合って暗澹たる気分にも浸れます。なんとなれば、自分の行為は自分自身で責任をとらねばならぬのだから…… 過去の自分の不毛な努力、いや、周囲に当たり散らしていた恥ずかしい過去。真理がもたらす希望と不安。そのあほらしさ。……失礼。

・・・・・・

 そもそもなぜ行き詰まったのかに思いを巡らせてください。最初から他者に悪意を持って生きている人など滅多に見出すことは出来ませんし、そこまで悪党であれば、反省することなど期待する方が変でありましょう。なんのことはない、うまく行かないから焦れ、焦れに焦れて理性を失っただけのこと。それも充分に悪いといえば悪いが、何が悪いといって性根が悪いというより、先ずなによりも頭が悪い。何しろ、自分の困難を解決する道筋を見出せないほど頭が悪く、道が見えぬのに無理に進もうとするその無謀さが悪いのです。その挙げ句に悪い結果が出たとして、それは果たして悪意の結果と見なすべきでしょうか?

 いえいえ、それは単に分相応の結果を得たに過ぎないのです。分相応の結果であるなら、その報いは多くも少なくもありません。むろん、当初期待するよりは圧倒的に少ないかも知れませんが、真実を学んだ結果として、当初得られるはずだったものよりは多くなっているいるのです。さらに将来はより多くを得られる希望もあります。そこに不服を抱く理由がありましょうか?

 そう、真理を学んで、己の過去を恐れるのはナンセンスです。良い方向に向かっているのだから。その恐れは知恵の実を食べたアダムとイブの羞恥に似ています。あなたは善悪を又一つ知ったのです。

 あなたがもしも山道を登って、ふと、後ろを振り返る。なんとも高みにきたものだ、転んだらゴロゴロとどこまで落ちていくのだろうと恐れてこそ、山頂に近づいている証です。…… たとえわずかであろうとも着実に山頂に近づいているのです。しかし、振り返って恐れを抱かぬとしたら、あなたは安易な道を選んだことを反省しなければなりますまい。

 生理的に不安を抱くのはやむを得ません。しかし、その不安は、人と獣とを分かつ断絶なのです。人は不安に打ち勝って火を使い、文明を育て、発展してきたのですから。その不安こそが人を人たらしめている、いわば誇るべき不安。人生への不安と混同すべきではありません。

 獣性から霊性へ――過程を踏むことの意義がそこにあります。そして、過ちの結果に不安を抱くのではなく、未熟さを克服した自分を祝福せねばなりません。

 過去の過ちを償わねばならぬ……だからなんだというのです? 小学生の時に解けなかった問題に、中学になってから再び直面したからといって、どうしてそれを恐れるのです。あなたが正しく成長しているなら、恐れる必要はないし、あなたが成長していないなら、過去の過ちを恐れるよりも、今の未熟さを恐れるべきです。


親子の確執

2006/02/23

2006年 02月 22日


 この問題に目を奪われると、大局を見失います。悩んで、悩んで、それでも答が得られないのは、その問いが難しいためであるのか、問題の本質を捕らえ違えているのか……

親子の確執

 他人に言われて気にならぬ事でも、親に言われるととても傷つく言葉は多々あります。しかし、親が親をやっているのではなく、人が親をやっているのです。そこに至らぬ点が無いはずもありません。親の勤めを忘れて失言することもあるでしょう。……だがそれを云うなら、あなたは子としての本分を常に尽くしているのでしょうか?

 互いに事情を持ち、互いに言い分もあります。……細々としたことを突きつけあっても問題は拗れるばかり、拗れるような事ならば考え、悩み、そして論じる価値がありません。互いに人として、未熟な親、未熟な子として努めるなら、互いの至らなさは果たして責めるべき事なのか、いたわり合うべき所なのか、どちらでしょう?

 大地の周囲を太陽が回るのか……太陽の周囲をを地球が回るのか、それとも太陽と地球が互いに巡りあっているのか、その運動の見かけは似ていてもよく見れば違うのです。

 立場は違えど、互いに人生を磨きあう仲なのです。罵倒で魂を磨くのか、それとも……


特別なのは死ではなく生

2006/02/23

2006年 02月 22日

感官の牢獄……特別なのは死ではなく生


 それまでは霊を恐ろしいものと感じていたご婦人が、ご主人の死後、死後の個性存続を信じるようになり、霊への恐怖が無くなった、という。

 ご主人がお亡くなりになったことについて、お悔やみを申し上げるなら、床に溢れるほど涙がこぼれるのではないか、と思えるほど、受取ったメールは水色に感じられた。

 悲痛、というのではない。ただ、悲しみを感じるのだ。今後の生活について不安もあろうが、ただ、私の感じたままを言うなら、光明は差している。慎ましい方のようだから、さほどの不自由はなさそうというのが一つの慰めであろうか。もっとも、当人の気休めになるかどうかは分らない。

 ただ、床に入る前に書き残しておきたいことがある。

感官の牢獄

 マイヤースの霊界通信「永遠の大道」中に「感官の牢獄」なる言葉がある。

 つまり人は、牢獄に閉じこめられ、五感というわずかな隙間から世界を眺めている様なものだというのだ。……この言葉は非常に滑稽である。なぜなら、大抵の人々は、五感に感じられるもののみを真実と信じて、それ以外を妄想と信じようとしているのだから。つまり、己が牢獄に閉じこめられていることを大抵の人々は信じようとしないのである。

 だが、ある日突然、大切な人、失いたくない人が居なくなってしまった。果たしてそれは、外に連れ出されてしまったのか、それとも単に消え去ってしまったのか……強く愛するものを失った人ほど、外の存在、つまり「死後の世界」の存在を強く信じようとする。そう信じる人を慰める人は、たとえ自分が信じていなくても、強いて否定しようとはしないだろう。その優しい嘘の中で人は往々迷信に陥る。死後の世界にいる人をいかに助ければよいのだろうか、と。

・・・・・

 人の五感が感じられるだけが世界のすべてであるなら、私たちはその範囲内で自由であろう。だが、もしも「外」、つまり地上の生の他にも生活があるなら、私たちが自由と信じるそれは、一体どれだけ自由であるのだろうか? いや、露骨に云うなら、私たちは本当に自由であるのだろうか?

 もしも死後の個性存続が事実であるなら、霊魂成るものは死して突然生じるはずもない。つまり人は永遠に霊魂であり、時たま、肉体を持つに過ぎない。ならば霊魂の本質とは、死後であって、肉体を持っている時ではない。

 すると、死は特別なことではない。特別なのは生きることだ。生きることが特別であるから、共に生きられない死別が、悲しいのは避けがたい事実であるし、同情に値する現実でもある。

 だが、死者を心配するよりも、先ず、生の本質、生の持つ重大さ、生の孕む沢山の危険性を知らぬまま、生きている自分を心配することが必要では無かろうか。

・・・・・

 整理する――死を明らかにしなくとも、又何ら準備しなくとも人はいずれ死に至る。だが、生は様々な手間暇を掛けなければ容易に失われるのである。死を研究することは、つまり生の意義を明らかにするのでなければ意味がないと思う。少なくとも生きている間は。

 繰り返すが、特別なのは死ではなく、生である。同情すべきは死者ではなく生者なのである。だが、退廃的な人というのは確かに存在する。つまり、大変なのは生きることであるのに、それでもなお、死者が生者に助けを求める事もあるだろう。だが、それは往々、道理に合わぬのだ。少なくとも公平ではないし、公平でないことを強いる者に正義はないのである。

 生死を超えた協力関係までも否定するものではないが、己の責務を知らずに放棄して、他者に尽すのもナンセンスである。まあ、そんなことは本来どうでも良い。

 私が大切に思うのは、人は死して突然に霊魂になるのではなく、生きている今も霊魂のままであるということだ。―― 愛する人をどれほど大切に思ってみても、それはしょせん、五感というわずかな隙間から得た価値観に過ぎない(のかも)知れないのだ。自分を閉じこめたままにしてはいけない。少なくとも、霊魂の存在を信じる人は。更にいえば、大切な人を持っている人は、なおのこと、五感を超えた絆を育てるべきである。


お知らせBy老神いさお。

・スマートホン
iPhone/Androidで閲覧時に、最適化したページが表示出来るようになりました。よろしければ、ご感想をお寄せ下さい。

・サイト再構築中
移行途中のデータが時折、トップページに掲載されますが、編集作業の都合ですので、今しばらくご容赦ください。旧作については、本文右上に日付が記載されます。

・ページ更新
 現在:1021㌻
 復旧予定: 残り480㌻位・・・

老研カレンダー
2月 2006
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728EC
3月 2006
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031EC
老研イベントリスト
サブ・サイト