必然的な失敗
2006/02/142006年 02月 14日
霊媒が謝礼を取ることの是非を論じる向きがあるが、私は過去数年間の無料心霊相談を通じてしみじみ思う。
善く生きている人が、より善く生きようとする手伝いであるなら無料で実施しても必ず報われるものだが、今まで悪事をして行き詰まり、悔いて善く生きようとする人の手伝いは、無料で行えば必ず痛い目にあう。――自分だけ楽に幸せになろうとするのは許されぬ事だと思う。
償いが必要なのだ……が、そういうと大抵は、「そんなことをしてまで……」と、始まってしまう。これではまるで、悔い改めるのを私が邪魔をしているようである。中には「私には非がない」というものもあるし、さらには、「彼奴だって悪いじゃないか」と始める人もある。
他人がどれほど悪かろうが、だからといって自分の苦しみが楽になるわけでもないし、自分に同情が集まるわけでもない。善良に生きている人がもっとも嫌に思うことは、他人の悪事を手助けすることだ……他人の非をあげつらうことが、正に真実を明らかにすることであったとしても、同情に値するのは善く生きようとする努力である。
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そもそも、助けを必要とするのは、自分の実力を超えたことに手を出した結果だ。それを自覚してこそ解決への道も出来る。つまり、自分で責任の取れる規模に手を縮めることが先決なのだ。それをせずに、助けを得ても、次はその助けがあっても足りぬ事に手を出すだろう。
なにせ、自分の実力を超えたことに手を出したがる人なのである。ならばどこまでもその手を広げるだろう……挫折しない限り。
ならばここで考えて見よう。どうせ挫折するなら、いつが良いだろう? 当事者にして見ればなるべく遅い方がよいというだろうが、助ける側からしてみれば、わざわざ一緒に挫折するのはなによりも避けたいことの筈だ。少なくとも私ならそう思う。
助けを求めるのは人として当たり前の情である、だが、その手段を間違えたなら、かえって自分の苦しみを増すことになる。……「なにも自ら進んで、敵を作ることもないだろうに」と私が思う所以である。
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「失敗しても良いよね、私はまだ若いんだからいくらでもやり直しがきくし」……というセリフを、数人の若い女性から聞いたことがあり、とても滑稽に思ったものだ。誰かを慰めるために言うなら分かるが、自分に向けていっているのである。だが、進んで失敗する者が何をどういうふうにやり直すというのだろう?
……などという話を今さらながら思い出したのは、本日久しぶりに、たわごとに付合わされたからだ。
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何やらイライラしている知人に声を掛けたが、その言い分は支離滅裂だった。私なりに色々と思考を整理する方法を知っているわけで、気抜けたまま、それなりの助言を試みた。気が抜けているのはいかんともしがたい、つまり、無駄だと気がついているのである。無駄だと気がついているが、ガス抜きをしなければ爆発の危険があると感じたのである。まったく厄介である。
なぜイライラしているのかを訊ねるが、はっきりと答えられない。「イライラするぐらいなら手を引けば」というと、「あいつだって!!」と怒り出し、「そんな簡単なものじゃない!!」と腹を立て、挙げ句の果てに「嫌だから手を引くなんて、人としてどうかと思う」ときた。挙げ句の果て、「割り切れないもの、棄てられないものがあるから悩むのであって、それが人生というものじゃないのか」 と、いう。
まあ、そういう人生もあるだろうが、その悩みに解決の時は来るのだろうか?…… 問題解決に一歩でも近づく努力なくして、ただ悩むだけなら、その人生とはつまり敗北者の人生ではないのか。
気が抜けるのを通り越して私は憮然とせざるを得なかった。
なんで自ら進んで、成功への道を棄て、ただイライラするのだろう?
……いや、当人以外にはいたって明白な答が存在するわけだが、当人は決してそれを認めないだろう。だからこそ悩むのである。真実から目を背け、さらに背けようとするからこそ答が出ずに、人は悩み続けるのである。