結界を張る?
2006/02/102006年 03月 08日
他でも時々聴くが、知人が出会ったあるヒーラーは、治療に取りかかる前に結界を張るのだという。ヒーラーといってもその目指すところ、行う手法はそれぞれに異なるだろうから、私の知っているやり方と比べて正しいとか、間違っているとかの判断を下すのはナンセンスと思う。 ただ、私が自然で、無理がないと思えることを整理してみたい。
霊的療法には二通り考えられるだろう。一つは施術者の霊的能力・霊的才能を用いて治療するものである。もう一つは、施術者が高級神霊の助けを得て治療を施すというものである。この場合、大抵、祈りから始まり、祈りに終わる。または、患者の持っている自己治癒能力を引き出すだけ、というヒーラーもいるが、この場合は霊的療法を併用しているとしても、霊的療法とは別けて考えるべきだろう。
つまり、自力型、他力型の二種類のヒーラーがいると考えられるが、霊媒の目を通してみた、自力型のヒーラーとは、高級神霊の援助を自覚していない霊媒に過ぎない。すると自力型、他力型とは要するに、その施術者(ヒーラー)が、自己の支配霊(高級神霊の援助)の存在に無自覚か、自覚しているかの違いということになる。
むろん、その真偽を証明するのは難しいが、強力なヒーラーの存在は信じられて、高級神霊の霊的援助を信じられないというのも不自然であろうし、高級神霊の霊的援助が得られるものであれば、それを欲しいと想うのも自然であろう。
ここで、他力型の霊媒が自然な選択であると考えると、結界を張ることの意義が不自然となってくる。 高級霊を招けるのであれば結界などを張る必要はないのだ。まして低級霊に邪魔されて近寄ってこれないような高級霊など頼るにも値しない。
同時に私は、「結界」という言葉を使う人の裏面に心が動いてしまう。……霊感発現直後の私は、面白がりすぎて身に低級霊を集めすぎてしまった。その後は必死に我流で除霊法を磨いたものだが、一向に減ることがない。ただ耳元の声と、霊眼に映る顔ぶれが変るだけなのだ。疲れ果てた私は一つのビジョンに至った。風呂の水に穴を開ける光景だった。つまり、水を汲んでも水面に穴は開かない。直ちに水が流れ込むからだ。……そう、低級霊を完全に取り除くというのは水面に穴を開けるに等しい努力だったのである。ならばいっそ、そこに何かを充填すればよいだろうと私は考えた。
低級霊を身の回りから取り除くのではなく、高級霊が身の回りにいてくれるようになれば、自ずと低級霊の害は消えて無くなるはずだ。この結論に至ったとき、締め切って明かりもつけずにいた部屋の真ん中に光のスジが立った……だから私には結界を張るという発想がない。それはちょうど泥棒が入ってから戸に鍵をするようなことに思えるからだ。鍵を掛けたら、泥棒を家の外に追い出せず、助けが来ても家には入れず、なんのメリットがあるのか分らぬからだ。鍵を閉めるのであれば、泥棒が入る前でなければならない。すると、本当に結界が張れるのであれば、常に張り続けていなければならない。
まして、古来より籠城というのは援軍が来るまでの時間稼ぎとして行うものだ。最初から籠城しては、敵に城下を蹂躙されてしまう。または動物園の檻を想像してみて欲しい。一体、動物を閉じこめているのか、人間の手出しを封じているのかどちらだろう? 考えるまでもない。檻は人と動物の双方を隔てているのである。
他力型のヒーラー、つまり、高級神霊の援助の元に治療を行う者は、大抵、祈りから始まり、祈りに終わる。救いを求める者は、先ず戸を開かなければ援助が届かないのである。
密教では……
もっとも、密教僧などは祈祷の前に結界を張るという。ここでいう結界とは、その言葉がオカルト主義者に与える印象とは事なり、低級霊を遮る障壁ではなく、世俗の自分と、仏に仕える自分とを分ける、いわば公私の区別の事である。
だからなおさら変に思えるのだ。いけないとはいわないが……その別が必要なのは他人ではなく自分だ。また、祈りから始めるならそこで公私の区別はつくはず。ようするに仰々しい用語を用いるヒーラー、又は霊媒もそうだが、その動機のどこにあるかを、裏読みをしたくなって仕方がなくなる。
つまり、霊媒やらヒーラーやらが、何かを始める前に「結界を張る」としたら、私は、
1,ただの物まね、
2,こけおどし
3,高級霊と縁がない
と、いずれにしてもその能力、才能に対して否定的な印象を抱いてしまう。
たとえその人に、低級霊の干渉を完全にシャットアウトする能力があるとしても……だ。籠城とは時間稼ぎの手でしかないのだから。そんな手段を真剣に選ぶ人には、こういう言い回しもある。「頭隠して尻隠さず」……安全確保よりも安心感の確保を優先するのは、安全対策としてはむしろ否定的な努力である。