‘2006/02’ カテゴリーのアーカイブ

世話が足りぬ?

2006/02/28

2006年 02月 27日

「世話が足りぬ」……となぜ思うのか。


 子供っぽい人、大人になりきれていない人が多いという。マナーは悪い、責任感に乏しく、忍耐に欠ける、ワガママで自己中、熱しやすく冷めやすい、幼稚、知識はあっても深みに欠ける……当サイトを訪れる方は、大人であろうと努力なさっていることであろうし、子供っぽいといわれると不快にも感じられるだろう。だが、なぜ大人であるべきなのか? そもそも大人とは何か、何をどう努力すれば良い大人になれるのであろうか。

 この問題提起の意図することはわかる。社会の構成員の人格・資質の低下を問題にしているのだ。では、どのような社会構成員が現代日本に求められているのだろうか? そして、いかなる時代と比べて現代日本が劣っているというのだろう?

 人的・領土的超大国である中国と、資源・技術超大国である米国の双方を同時に相手をした太平洋戦争当時か、圧倒的国力の差がある日清・日露戦争当時か、はたまた、開国と攘夷で内乱を繰り返した幕末期か、外の国は我関せずを決め込んだ鎖国時代か…… 振り返ってみると一長一短、無謀で、はた迷惑な人を指して、大人というのではあるまい。

 かつてB級SF映画を見ていて気がついたのだが、たとえばアメリカの兵隊なら地球の平和のために銃をとれば英雄になれるが、自衛隊員が地球(日本のためでなく)の平和のために銃をとれば、犯罪者にされてしまうだろう。そういう時代に生きている日本人にとって、「大人」とは何であるのか。

 私にはどうもこの、「子供っぽい人、大人になりきれていない人が多い」という表現には、大人げない意図を感じる。つまり、曖昧な「大人」という概念を持ちだして、自分は悪くない、悪いのは子供っぽい奴らだ……と責任転嫁している様に感じるのだ。

 なにも世論と戦おうというのではない。また、良い大人であろうという努力は大切だと私も思う。ただ、設問がまずければ、良い答は得られないのだ。……大人という第一目標はあまり適切とは思えないし、それが解答とも思えない。さらにいうなら目指すべきは、大人というより聖人・君子を目指すべきではないのか。人々が皆、聖人・君子を目指してこそ、未来に希望も持てるだろうに、大人の当て馬に、聖人君子を持ち出すならば、あちこちから、それでは窮屈であるとか、面白味に欠けるなどという野次が出るのが情けなくもある。

 大人として、子供っぽい連中を見下すことは良くても、聖人君子等から凡庸と見下されるのは嫌なのだろう。……それと同じ心理が、「子供っぽい」といわれる人々にも働いて、独自の価値観に逃避し、その間に溝が広がっていることを考えもせずに。

・・・・・・・

 人が為すべき事には、もっと端的な目標があると思う。平易な道のりではないし、完璧な手段でもないが、少なくとも分りやすくはある。

現代人に圧倒的に不足しているのは、何かを、また、誰かを世話する経験である。

 世話を受けるばかりだから、根気が育たず、努力に意義も見つけられず、ワガママも通る。人への思慮が足りなくもなるだろう。だが、根気、努力、思いやりや思慮などは、他の世話をすするのに必須の基礎的能力なのである。おそらく、核家族化、少子化の進行で、子供が失ったのは、世話をする体験ではないか。いかに子供を指導するかに腐心する向きもあるが、知識を押しつけるから反発を生むし、口先だけの倫理観では役に立たぬのである。それよりも、責任を与える方がよほど素直に取り組むだろう。

 たしかに、教師や看護師等も犯罪を起す人はあるが、それは、世話をする経験の大切さへの反例とはならないだろう。なにより、子供達に口だけで命の尊さを説明するよりも、「飼育」などを必修科目にする方が、「百聞は一見にしかず」となるだろう。

・・・・・・・

 周囲の人々を理解する努力もせずに、「孤独だ、誰も私を理解してくれない!」などと嘆く者、他を大切にすることもなく、愛されないと嘆く者、稼ぐ努力もせず、浪費ばかりして金がないと嘆く者……自分を幸せにする努力をしない、というより、どう努力すればいいのか分らず、ただ、泣き叫んでいるだけの人は、なるほど乳を欲しがる赤ん坊的ではある。

 当然、自立を求められるだろうし、自立を促す表現として「大人に成れ」といわれるのも当然ではある。だが、何を持って大人というのか? それを適切に説明できる大人が、日本のどこにいるのだろう。聖人君子への道ならば論語などの古典にヒントを見いだせるかも知れない。だが、一般的な大人となると、そのヒントはどこにあるだろう? いや、マニュアルを読んで慣れるようなものだろうか、大人というのは。

 間違いならば直せばいいが、未熟であるのは直すのではなく、学ぶことしか出来ぬだろう。……大人への道は容易ではなさそうだ。だが少なくとも、何かの世話をすることで会得できることはとても多いと思う。 


考えすぎる不幸

2006/02/28

2006年 02月 27日


 転ばぬ先の杖というが、人間、勉強好きが講じて机上の空論に至り、実技・実際を軽んじて、自分を偉いものだと過信する。周囲から「天狗」と呼ばわりされても気がつかないが、黒を白と呼び替えたところで色まで変るわけではない。空論を信じていられるのは実際の役に立てぬ間のことで、ひとたび必要が生じると、何の役にも立たない自分に気がつく。

転ぶなら、そのまま転べばよいものを、

わざわざ梯子に登って転ぶ愚かさ。

 もっとも、低い梯子の方が頭を打ちやすく、死亡率が高いそうである。


嘘はまことに扱いにくい

2006/02/26

2006年 02月 25日


  私も人の子、そして浮き世の中で暮らしていれば、言い訳や取り繕い的な嘘もつく。たとえば仕事に遅れた理由をグダグダというのはみっともないが、送別会を忘れていて欠席したなどというのは真実を言えばかえって相手に失礼になるだろう。ましてや、内心では「ザマー見ろ」と思っていてもお悔やみを言ったり、「コンチクショー!」と思っていてもお祝いを言わねばならぬのが人間社会の常識である。いかに神様が正直者を愛するとはいえ、無闇に人を傷つけぬ工夫は、たとえ猿知恵であろうとも片目をつぶって見逃していただけるのではないかと思う。

 ところで、霊媒などをしていると、嘘に対する姿勢は浮き世のように柔軟には行かないことを痛感する。それはなにも感情論ではなく、実際的な必要性から生じる結論であるから、いかに寛大な神様、仏様であろうとも同じ感想を抱くのではと愚考する。

 たとえば……

 これは心霊知識と云うよりも心理的な知識だろうが、捜し物がどうしても見つからない時には、あって欲しくないところにあるものだ…… つまり、そこにあるはずがない、とすでに決めてかかっているところに落ちていたりするのである。

 もっと具体的に云えば、間違いがあってはならないところに間違いが残りやすいのは、そこにあって欲しくないという気持ちが邪魔をして間違いを見つけられないのである。

 そして失せもの探しを依頼された霊媒が、それを指摘すると……探す前から、「いえ、そこにはありません。何度も見ました。」などと返事をしてしまう。するともう霊媒に打つ手はない。しつこく云うのも一つの手と思うかも知れないが、探す前から返事をする人は、しつこい霊媒の言葉に耳を貸すよりも別の霊媒を捜し始めるものである。

 同様のことには、「あなたの配偶者は浮気をしています」……などという霊査内容にも当て嵌まる。これはもう何度か経験があるが、ものの見事に無視をされるか、とんでもない大騒ぎにしてしまうかの二通りのパターンを何度か私も経験した。恋愛・夫婦関係の相談を断る所以である。

 要するに、相談者は意図はしなくとも、(おそらく無意識に)嘘をつくことで、私のような第三者の協力を、無駄と云うよりむしろ邪魔にしてしまうことが良くあるのだ。これがせめて、嫌なことなら黙っていてくれれば、表現方法を工夫して納得させることも出来るのだろうが、とっさに嘘をつかれてはもう何を言おうとも、その嘘を暴くようで気まずい思いになっていく。……気まずいのはなにも霊媒側だけでなく、相談者においても同様であろう。かくして、助言をして被害を最小限に抑えるよりも、霊媒が生み出す心の傷が大きくなりそうな気配を察して、背後霊等と霊媒とは口を噤んでしまうのだ。

 もっとも、「ごめんなさい、事情は言えないんです」……と、いわれても、霊感で『それは誤解からきた結論である』などと知らされると、当人が事態を取り繕うと腐心していることを覆すのもバツが悪くて、やはり霊媒は板挟みに苦しむ。―― 相談相手から信頼されない霊媒は力の振るいようがないのだ。しかも現代は、自分を騙そうと努力している虚飾・虚構の中に生きる人があまりに多すぎる。

 結局の所、人が悩むのはその器量の内側に問題を抱え込むのに等しいから、いっそすべてを委ねてくれた方が楽だなぁ~。と思うのである。霊媒ですらそう思うのだから、神様はもっと強くそう考えるだろう。人が人に対して嘘をつくのはある意味必要悪ですらある。だが、真理を追究するものにとって嘘は死活問題ですらある。……だって、考えてみて欲しい、心の中に嘘の一つもない人がいようか? 「霊媒なら嘘をあばいて見よ、どうせ見つけられるはずがないさ!」と、思い上がる者は大勢いようが、他人の嘘を暴く者が、第三者からどういう表現をされるかご存じだろうか?……「大人げない」である。つまり、嘘をそのままにすれば騙されるが、嘘を暴けば往々、大人げないと非難されるのである。どっちに転んでも不幸であるなら、人は悩まずに入られまい。

……では、人間は神の操り人形か、自由意志はどう育てればいいのか!……という議論になるだろう。その答はある意味簡単だ。つまり、学ぶというのは、真似ることから始まるのである。我流は基礎が出来てから行えばいいのだ

 だが、ある意味、こんな難しい答もない。では誰の真似をすればいいのか、そしていつまで真似を続ければいいのか、なにより、誰がその正否を判定できるのか。……実はその答は案外簡単なところにあるのだけれど、困ったことに、真実というのは一番あって欲しくないところにあって、人は懸命に、その場所以外を探すものなのである。

 素直に生きることが大切であると云われる所以である。

 嘘や取り繕いがもたらす利益は実に消極的なものであるが、素直に生きることで得る利益は実に膨大なものなのだ。……ただ、素直に生きることの利益は誰にでも見えるものではないのだ。それが難しい点である。

――折角なので、大雑把にまとめてみるが――自分よりも器量の小さな人を相手にするなら、多少の嘘はやむを得ない。だが、出来るだけ、嘘を言うよりも無言を貫くことを優先すべきだ。そして、自分よりも器量が上の相手には、すべてを任せ、委ねた方が無駄な努力が減るだろう。ただし、本質的には、無意識に取り繕いの言葉が出て、それが自分をまずい立場に追い込むのが、一般人が抱えている業《カルマ》なのである。


日の当るところだけで善事をする

2006/02/25

2006年 02月 24日


 霊媒の中で、私は理論派かもしれませんが、私のやり方が有益であるかどうかはいささか疑問です。言葉は容易に変えられますが、人の生き方は容易には変りません。ならば人に変れと言葉を尽すよりも、ただ背中を見せて一心に祈祷することが、往々、相手の心にものすごく大きな影響を与えることを私は知っているからです。

 大抵の人々にとって、背中を見せて一心に祈祷されることなど、退屈なことに思えるかも知れません。ですが、主観性が高く、抽象的な心霊の話などを懇々と聞かされることは理解を深めるよりも、誤解を増やすだけかも知れません。ならば、いっそ、背中を見せて、一心に祈祷してくれる人の、その背中に向かって、深く御礼が出来るようになれば、人はもっと健康で幸せになれることと思います。

 感謝はしている――なるほどそうかも知れません。でもその感謝なる気持ちも又、言葉で考えてはいませんか? 言葉で理解し、納得し、それで満足している。でも、果たしてそれで身に付くのでしょうか?

 背中は多くを物語ります。それを読み取ることも人として大切なことだと思います。

 背中は多くを語ります。と同時に、背中は良く人を見ます――時として、相手の前で頭を下げるよりも、相手の背中に頭を下げる方が、誠意が伝わるものなのです。なんとなれば、目の前で頭を下げるのは、感謝する人ばかりとは限りません。偽善者もいれば、おべっか使いもいます。でも、背中に向って頭を下げ続けることの出来る人は、本当に感謝する人ばかりです。なにより、日の当るところでだけ善事をするのは、「神の道」のなんたるかが判っていない人のやることです。

 一度や二度は、浅知恵で振りをすることも出来ます。ですが真似事はなかなか背中を通じて相手に伝わりません。


体調不良につけ込む霊

2006/02/23

体調が悪いと気が滅入り、気が滅入ると感応する霊まで低くなる。といって、無理をすればかえってつけ込む隙を作る。疲れやねじれが取れるまでは大人しくしているに限る。とはいえ、体調が悪いと時間の流れまで遅く感じる。というより自分が鈍いだけだが。

・・・・・・

 私は、仕事が煮詰ると、目をつぶり、心を落着け、高山の山頂で深呼吸する所を望画する……すると今日に限って、品悪く、薄気味悪い笑みを浮べた男が側に立ってこういう。

『(憑依して)おまえの欲を糧にして、私は地上の欲をほしいままにする……』と、相手が言い終らぬうちに私はそいつを突き飛し、こう叫んだ。

「注意しろよ!!」

 延々と山の斜面を転がりながら男が叫び返す、

『突き飛しておいて、何だ!!』

私が二の語を継ぐ

「勝手ばかりをしていると、誰も引留めてくれないぞ!!」

 なおも転がる男が憂いを籠めた声で改めて叫んだ。

『嗚呼!!』

 肩がちょっと軽くなり、改めて高山の山頂で深呼吸する自分を望画する。……さて、仕事に戻ろうか。

 あ、その前に、折角だから足下の石を蹴り落しておこう。いやはや、体調の悪いときには大人しくしているに限る。

体調不良につけ込む霊

2006/02/23

体調が悪いと気が滅入り、気が滅入ると感応する霊まで低くなる。といって、無理をすればかえってつけ込む隙を作る。疲れやねじれが取れるまでは大人しくしているに限る。とはいえ、体調が悪いと時間の流れまで遅く感じる。というより自分が鈍いだけだが。

・・・・・・

 私は、仕事が煮詰ると、目をつぶり、心を落着け、高山の山頂で深呼吸する所を望画する……すると今日に限って、品悪く、薄気味悪い笑みを浮べた男が側に立ってこういう。

『(憑依して)おまえの欲を糧にして、私は地上の欲をほしいままにする……』と、相手が言い終らぬうちに私はそいつを突き飛し、こう叫んだ。

「注意しろよ!!」

 延々と山の斜面を転がりながら男が叫び返す、

『突き飛しておいて、何だ!!』

私が二の語を継ぐ

「勝手ばかりをしていると、誰も引留めてくれないぞ!!」

 なおも転がる男が憂いを籠めた声で改めて叫んだ。

『嗚呼!!』

 肩がちょっと軽くなり、改めて高山の山頂で深呼吸する自分を望画する。……さて、仕事に戻ろうか。

 あ、その前に、折角だから足下の石を蹴り落しておこう。いやはや、体調の悪いときには大人しくしているに限る。

人生に悩む。

2006/02/23

2006年 02月 23日


 意地悪なようですが、青年期に人生の意義を考える人には基本的な欲求不満が動機となっていることが多いようです。つまり、駄々や屁理屈を捏ねて願望成就に圧力をかけている(時々は無自覚に)場合があります。

 ですがこれはかなり不毛な混迷です。一個人の努力ではどうにもならぬものを運命と呼ぶのに、その運命に相対するのに捨て鉢な行動をとるのは自殺行為に等しいでしょう。過った努力では好転は望むべくはなく、いい加減に自信を喪失して間違った努力を止めるまで問題を拗らせ、行き着く先は大抵、鬱《うつ》……でもそれは結果が現われただけであって、過去を振り返ってみれば、鬱になるための努力を重ねてきたようなものです。

正に、過去が今・現在を造り、現在の努力が未来を作るのです。

 この行き詰まりを解消しようと、心霊思想に出会えば、真理に目覚めて感動を覚えるとしても、摂理に向き合って暗澹たる気分にも浸れます。なんとなれば、自分の行為は自分自身で責任をとらねばならぬのだから…… 過去の自分の不毛な努力、いや、周囲に当たり散らしていた恥ずかしい過去。真理がもたらす希望と不安。そのあほらしさ。……失礼。

・・・・・・

 そもそもなぜ行き詰まったのかに思いを巡らせてください。最初から他者に悪意を持って生きている人など滅多に見出すことは出来ませんし、そこまで悪党であれば、反省することなど期待する方が変でありましょう。なんのことはない、うまく行かないから焦れ、焦れに焦れて理性を失っただけのこと。それも充分に悪いといえば悪いが、何が悪いといって性根が悪いというより、先ずなによりも頭が悪い。何しろ、自分の困難を解決する道筋を見出せないほど頭が悪く、道が見えぬのに無理に進もうとするその無謀さが悪いのです。その挙げ句に悪い結果が出たとして、それは果たして悪意の結果と見なすべきでしょうか?

 いえいえ、それは単に分相応の結果を得たに過ぎないのです。分相応の結果であるなら、その報いは多くも少なくもありません。むろん、当初期待するよりは圧倒的に少ないかも知れませんが、真実を学んだ結果として、当初得られるはずだったものよりは多くなっているいるのです。さらに将来はより多くを得られる希望もあります。そこに不服を抱く理由がありましょうか?

 そう、真理を学んで、己の過去を恐れるのはナンセンスです。良い方向に向かっているのだから。その恐れは知恵の実を食べたアダムとイブの羞恥に似ています。あなたは善悪を又一つ知ったのです。

 あなたがもしも山道を登って、ふと、後ろを振り返る。なんとも高みにきたものだ、転んだらゴロゴロとどこまで落ちていくのだろうと恐れてこそ、山頂に近づいている証です。…… たとえわずかであろうとも着実に山頂に近づいているのです。しかし、振り返って恐れを抱かぬとしたら、あなたは安易な道を選んだことを反省しなければなりますまい。

 生理的に不安を抱くのはやむを得ません。しかし、その不安は、人と獣とを分かつ断絶なのです。人は不安に打ち勝って火を使い、文明を育て、発展してきたのですから。その不安こそが人を人たらしめている、いわば誇るべき不安。人生への不安と混同すべきではありません。

 獣性から霊性へ――過程を踏むことの意義がそこにあります。そして、過ちの結果に不安を抱くのではなく、未熟さを克服した自分を祝福せねばなりません。

 過去の過ちを償わねばならぬ……だからなんだというのです? 小学生の時に解けなかった問題に、中学になってから再び直面したからといって、どうしてそれを恐れるのです。あなたが正しく成長しているなら、恐れる必要はないし、あなたが成長していないなら、過去の過ちを恐れるよりも、今の未熟さを恐れるべきです。


親子の確執

2006/02/23

2006年 02月 22日


 この問題に目を奪われると、大局を見失います。悩んで、悩んで、それでも答が得られないのは、その問いが難しいためであるのか、問題の本質を捕らえ違えているのか……

親子の確執

 他人に言われて気にならぬ事でも、親に言われるととても傷つく言葉は多々あります。しかし、親が親をやっているのではなく、人が親をやっているのです。そこに至らぬ点が無いはずもありません。親の勤めを忘れて失言することもあるでしょう。……だがそれを云うなら、あなたは子としての本分を常に尽くしているのでしょうか?

 互いに事情を持ち、互いに言い分もあります。……細々としたことを突きつけあっても問題は拗れるばかり、拗れるような事ならば考え、悩み、そして論じる価値がありません。互いに人として、未熟な親、未熟な子として努めるなら、互いの至らなさは果たして責めるべき事なのか、いたわり合うべき所なのか、どちらでしょう?

 大地の周囲を太陽が回るのか……太陽の周囲をを地球が回るのか、それとも太陽と地球が互いに巡りあっているのか、その運動の見かけは似ていてもよく見れば違うのです。

 立場は違えど、互いに人生を磨きあう仲なのです。罵倒で魂を磨くのか、それとも……


特別なのは死ではなく生

2006/02/23

2006年 02月 22日

感官の牢獄……特別なのは死ではなく生


 それまでは霊を恐ろしいものと感じていたご婦人が、ご主人の死後、死後の個性存続を信じるようになり、霊への恐怖が無くなった、という。

 ご主人がお亡くなりになったことについて、お悔やみを申し上げるなら、床に溢れるほど涙がこぼれるのではないか、と思えるほど、受取ったメールは水色に感じられた。

 悲痛、というのではない。ただ、悲しみを感じるのだ。今後の生活について不安もあろうが、ただ、私の感じたままを言うなら、光明は差している。慎ましい方のようだから、さほどの不自由はなさそうというのが一つの慰めであろうか。もっとも、当人の気休めになるかどうかは分らない。

 ただ、床に入る前に書き残しておきたいことがある。

感官の牢獄

 マイヤースの霊界通信「永遠の大道」中に「感官の牢獄」なる言葉がある。

 つまり人は、牢獄に閉じこめられ、五感というわずかな隙間から世界を眺めている様なものだというのだ。……この言葉は非常に滑稽である。なぜなら、大抵の人々は、五感に感じられるもののみを真実と信じて、それ以外を妄想と信じようとしているのだから。つまり、己が牢獄に閉じこめられていることを大抵の人々は信じようとしないのである。

 だが、ある日突然、大切な人、失いたくない人が居なくなってしまった。果たしてそれは、外に連れ出されてしまったのか、それとも単に消え去ってしまったのか……強く愛するものを失った人ほど、外の存在、つまり「死後の世界」の存在を強く信じようとする。そう信じる人を慰める人は、たとえ自分が信じていなくても、強いて否定しようとはしないだろう。その優しい嘘の中で人は往々迷信に陥る。死後の世界にいる人をいかに助ければよいのだろうか、と。

・・・・・

 人の五感が感じられるだけが世界のすべてであるなら、私たちはその範囲内で自由であろう。だが、もしも「外」、つまり地上の生の他にも生活があるなら、私たちが自由と信じるそれは、一体どれだけ自由であるのだろうか? いや、露骨に云うなら、私たちは本当に自由であるのだろうか?

 もしも死後の個性存続が事実であるなら、霊魂成るものは死して突然生じるはずもない。つまり人は永遠に霊魂であり、時たま、肉体を持つに過ぎない。ならば霊魂の本質とは、死後であって、肉体を持っている時ではない。

 すると、死は特別なことではない。特別なのは生きることだ。生きることが特別であるから、共に生きられない死別が、悲しいのは避けがたい事実であるし、同情に値する現実でもある。

 だが、死者を心配するよりも、先ず、生の本質、生の持つ重大さ、生の孕む沢山の危険性を知らぬまま、生きている自分を心配することが必要では無かろうか。

・・・・・

 整理する――死を明らかにしなくとも、又何ら準備しなくとも人はいずれ死に至る。だが、生は様々な手間暇を掛けなければ容易に失われるのである。死を研究することは、つまり生の意義を明らかにするのでなければ意味がないと思う。少なくとも生きている間は。

 繰り返すが、特別なのは死ではなく、生である。同情すべきは死者ではなく生者なのである。だが、退廃的な人というのは確かに存在する。つまり、大変なのは生きることであるのに、それでもなお、死者が生者に助けを求める事もあるだろう。だが、それは往々、道理に合わぬのだ。少なくとも公平ではないし、公平でないことを強いる者に正義はないのである。

 生死を超えた協力関係までも否定するものではないが、己の責務を知らずに放棄して、他者に尽すのもナンセンスである。まあ、そんなことは本来どうでも良い。

 私が大切に思うのは、人は死して突然に霊魂になるのではなく、生きている今も霊魂のままであるということだ。―― 愛する人をどれほど大切に思ってみても、それはしょせん、五感というわずかな隙間から得た価値観に過ぎない(のかも)知れないのだ。自分を閉じこめたままにしてはいけない。少なくとも、霊魂の存在を信じる人は。更にいえば、大切な人を持っている人は、なおのこと、五感を超えた絆を育てるべきである。


心を育ててください

2006/02/22

言葉は心の成長を表す。

 赤ちゃんは特別教えられる事無く、言葉を話し始めます。最初は単純な単語だけ、そしてだんだんに複雑な言葉を話すようになります。それは知性の発達と共に、と表現されますが、もっと大切な事があると思います。

 大人でも、心が荒むと言葉も荒れます。幸せの中にあると言葉つきが優しくなります。気持ちが沈めば口数が減り、陽気になると口数が増えます。この違いは知性ではありません。もちろん知性と言葉の多様性には関係がある事でしょうが、言葉を発するのは心なのです。

 気持ちが澄んでいれば、言葉はさわやかでわかりやすく、自分の不明を誤魔化そうとする人の言葉は意味が把握しにくいものです。言葉とは心を伝達する手段なのです。

他人の話に耳を貸せる人、貸せない人。

 この違いはそのまま、相手に対する尊敬の念、いたわりの念、優しさや包容力、すなわち心の大きさを表します。つまり、知性の発達と共に言葉を話し出すのではなく……

赤ちゃんは、心の発達と共に言葉を話し出すのです。

愛情の与え方


 さて、赤ちゃんの肉体の発達には、栄養を取る事が大切です。

では心の発達に必要な栄養とは何でしょう?   そして知性の発達に必要なのは何なのでしょうか? 愛情?

 ええ、とても大切です。では愛情はどうやって与えるのでしょう?


 例えば赤ちゃんにミルクを与えるときに、どう与えるでしょうか?

 ミルクをバケツで無理やり口に注ぎ込むような事はしませんよね。哺乳ビンで与え、赤ちゃんの好きなだけ吸うに任せるものです。無理やり与えても気管に入るなどして赤ちゃんを苦しめるだけ、まして、まる一日何も与えず、翌日二日分まとめて与えるなどという乱暴な事が出来る筈もありませんよね。

 愛情も同様です。赤ちゃんが必要とするとき、赤ちゃんの必要なだけ与える事が大切なのです。親の都合で与えたり、与えなかったりすれば子供の心が歪《いびつ》に発育することは栄養失調の子供を見るかのようです。……ですから、決して、愛情の与え方を間違えてはいけません。

 

叱り方にも気をつけよう

 買い物している最中に、商品にいたずらしている小さな子供に対して、「お店の人に怒られるからそんな事をしてはいけません!」と親が叱る姿を見た事はありませんか。

 これは他人に怒られない様に子供をかばっているのでしょうか。それともいたずらしている子供を叱っているのでしょうか。あなたにはその判断がつきますか?

では小さな子供が、その判断をつけられると思いますか?

 お店の人に怒られるから止めなければならないのなら、お店の人に見つからなければ良いのだ……「つかまらなければ良い」、「見つからなければ良い」という誤った言い訳が良く聞かれます。しかし、考えてみてください。見つからなければ善いと、教え、しつけたのは誰でしょう?

 見つからなければ良い。……こういう発想は、まさにコロンブスの卵ですよね。こういう発想は子供が柔軟で高い知性を持っていることの現われです。ところが問題は、その親には、子供ほどの柔軟な知性が無い点です。これでは親は、下手をすると死ぬまで善悪について思慮に欠けた子供の行いに苦しめ続けられる事でしょう。


2006-02-22

 

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