‘2006/01’ カテゴリーのアーカイブ

勘が働かぬ

2006/01/19

2006年 01月 18日


 なかなか勘の働きが良くならないオフ会参加者を見てもどかしく想っていた。この想い関する助言がないことも、更にもどかしく想えた。 ……応えがないのも答の内。この問題に関しては漠然と触れぬ方がよいとは感じていた。明らかにすることがかえって誤解を招くこともある。

 大人しくしていたのは霊的障害も感じていたからだ。無理に引離そうとすると傷が生じる……

 ようやくこの件について、まとまった助言を得た。なお、これは特定の個人への回答ではなく一般論としてある。

  1. 問いかけ方に問題がある――当人は余り意識していないことらしいが、自身が質問するに当って、回答の方法や時期についての注文があると、返事をするのが難しくなる。
    霊感が充分に敏感であれば、返事を与えるのにそう無理はないが、霊感が鈍く、心のゆとりのない人に、充分な情報を伝えるのはとても難しい、とても難しいのにさらに条件がつくと、それを守るのは無理が生じる。条件を守らなければ誤解が生じることも思われ、結局、直接当人に答えない方が無難ということもある。
    まして、気に入らぬ答を得ると、心中で食って掛かるような人に事前に情報を与えると、あらがって、うまくいくものもうまくいかなくなる恐れがある。
    これは基本的にすべての人間に当てはまる。……せっぱ詰ってから、ようやく祈り始めるからだ。
    答を求めるなら、時期や方法を指定しないことだ。
  2. 1と関連するが、やはりせっぱ詰って質問を挙げると、落着きがなくて質問を伝えにくく、答も得難い。答を待つ時に態度に無理が有れば答えようもない。
  3. 回り道も必要――個人の立場からは足止めや回り道に思えても、足並を揃えなければ前には進めないことがある。
    社会は多数の人間の思惑の元で動いているし、複数の人が共通の利害を支えている場合もある。日本的な表現を使うなら、家の因縁は家族全体が担わなければならない問題で、一人勝手に逃出すことは出来ない。
    突出すれば負担が増えるし、ジタバタすれば全員共倒れの危険もある。辛くても耐えねばならぬ時がある一方で、その忍耐が自分以外の誰かの事情による事を知りたがらぬ人もいるだろう。
  4. 霊視してみせられただけなので、こちらは説明が難しい。幽体の状態が防御的で、他者の念を受けにくくなっている…… これの解消は難とも説明しがたい。もっとリラックスする一方で、受信に意識を集中して……と、まあ、精神統一のコツにも通じることではある。
    と同時に、受信の練習が伴わなければ精神統一はうまくなるぬのではないか、という疑問も生じるが……『物には順序、環境を整えずに霊界通信を受けると、安易に流れて物事が拗れるばかり』といわれた。

 現実問題として、やはり常連は霊的環境が片付いているのを感じていることと思う。


薫陶

2006/01/18

2006年 01月 17日


 薫陶――理屈ではなく、人徳によって感化し、教育することをいう。

 心霊主義を論じるに当たり、私は常に「薫陶」を心がける。理詰めで人を追い込むのではなく、また、利益で人を誘導するのではなく、まして暴力的な言動で人を支配するのではなく、共に考え、そうすることが最善の選択であると納得の出来る答を一緒に探すことが大切と思うし、そう背後の霊達から指示されている。
 無論批判もあるだろう。中には、受売りと自慢話だけの悪臭を放つ魂の持ち主からの批判もある。だが批判に批判で切り返すことに意味があるだろうか?

 薫陶せよといわれて、私も出来る限り努力し、芳《かぐわ》しい香《かおり》を立てたいと考えるが、そもそもすべての人はその守護霊から常に薫陶を受けている。それぞれが、それぞれに相応しい香《かおり》を常にまとっているのだ。…… たとえ当人が気がつかぬにせよ。

 だから、心霊主義を学ぶ人は、周囲の波風……人々の感情的な反応に一々反応するのではなく、自分の内側から湧き上がるものを感じ、信じ、それを大切にして生きるのが良いと思う。

 香《かおり》というのは風次第で強くも感じ、又まったく感じなくも成る。それ故に、その香を生かすためにはゆったりとした心で過ごすことが大切だ。……だからこそ、私は精神統一の大切さを訴える。心をゆったりと出来る人ほど、より良く薫陶を受けるのだろうから。

 しっかりと守護霊と結びついた人から見れば、私のような霊媒の薫陶など、下品な安物の香水と同じに思えるだろう。だがそれを私は恥じない。下品で安物の香水とはつまり、初心者に分りやすい香なのだから。……とはいえ、私はただ一人の時を大切に感じる。私自身がその守護霊から薫陶を受ける時間なのだから。


霊媒の修行に便乗

2006/01/16

 霊感の強い人に、ちょっかいを欠けている霊を一体見つけた。話しかけてみる……

「何でこの人に憑いているの?」

『霊媒の卵に憑依するとな、その霊媒の修行になるからと神様からお目こぼしをいただけるし、霊媒が一人前になる時に、憑依霊を皆、成仏させてくれるから、長いこと成仏できなかった霊は、皆、霊媒の卵を探しているモンなんだ。』

「へー! 霊媒の卵に憑く方が安全なの!?」

『皆、妙な縄張り意識があって、やたらな奴に憑こうとすると、先住者が追い出すんだ。そこに行くと、霊媒の卵は、皆成仏させるから意地の悪い先住者もいないし、気楽なんだよ』

「だけど、成仏した霊たちと再会したことはあるのかい? 『仏に成る』て、いうぐらいだから、それこそ苦しんでいるあなた達を助けに降りてきても良さそうなものだけど。」

『いや、一人も見たことはないなぁ』

「本当は地獄に追い落とされているんじゃないのかな?」

『そういえば、そういう噂もある……』

「他人の修行に便乗するよりも、高級霊についてきちんと指導を受けた方が良いと想うのだけどなぁ。」

『うぅん…………』 煮え切らぬ返事。だが……


 状況的には除霊が成功したというところか。だが私は除霊を意図して上記のような会話を試みたわけではない。一には情報収集、二には霊媒としての義務意識……媒介・仲介者としての努力……人・霊双方の最大利益を目指すことだ。

 その後、上記の霊から通信が来た。指導者を得て修行しているとのことだ。

生前墓の管理

2006/01/16

06年 01月 15日


Q 「生前墓はどのように管理していけば良いのでしょうか?」

 私は墓相等を特に勉強しているわけではありません。一般常識として知っているのは、生前墓は縁起がよいということだけです。…… ので、背後に尋ねてみました。

・・・・・・・

 墓は家族の中心……といえば、今時の人々は呆れる者も多いだろう。だが、歳を重ね、祖父母を亡くし、父母を送り出す歳になれば、我が身が逝く時のことを想い、残された子供達が、仲良くするだろうか、時には父母を思い出してくれるだろうかと、思い煩うようにもなる。

 不安は魔が狙う。特に疑心暗鬼は魔の虜というべきだ。……せめて、我が子と逝く末を話し合えるなら良い。だが、婚期が年々伸びる中、親の不安はなかなか解消出来ずにいる。また、子がないままに生前墓を建てる者もいよう。

 そこで、生前墓のめでたきことは、無駄に子を頼ることを辞め、自らの覚悟で、不安や疑心暗鬼を拭おうとする努力である。―― それは魔を遠ざける。

 そこで、生前墓の管理で大切なことはといえば、裏表の二点がある。

 表の理由はといえば、生前墓といえども、清掃を疎かにしないことだ。……なるほど、その墓には霊はいない。いや、本来墓に霊がいるのが良からぬ事ではあるが、清掃が必要なのは、他家の墓に迷惑を及ぼさぬ為だ。また、墓誌に名が刻まれてはいなくても自家の墓には祖先の霊が様子を見に来る。大切にするが良い。

 裏の理由は、せっかく子供に頼らぬ覚悟で用意した生前墓を、また子供に頼る理由に用いぬ事だ。それをするなら、せっかくのめでたき生前墓が、かえって子に禍となってしまう。

・・・・・

 諸々の理由があって言い難きことではあるが、祖先の霊が、供養を求めて子孫を頼るという話が多いが、その多くは誤解と、また、悪しき心根から発しているものだ。それを踏まえて考えねばならない。

 誤解や悪しき心根を手本とせぬ事だ。……世に流布する心霊談で、当たり前のように供養を求めて祟り為す霊が紹介されるからといって、それを真似てはならぬ。殺されて資産を奪われるのでもない限り、生きた人に供養を強いたりしてはならない。


平常心

2006/01/15

心に無ければ気づきもしない

2006年 01月 14日

 今日、散歩の途中で心中に湧き上がった課題が、「心にあるから思い悩む」ということだ。つまり、人を騙そうと考えている人が騙されることを恐れるのであって、騙すことを考えたことのない人は、同時に騙される可能性に気がつかない、という、まあ、世間では往々に耳にする話であった。――大切な話題だとは思うが、当たり前すぎて面白みもない。

 ところで、本日とある質問を受けて、ふと気がついた。……反対も起こり得る、いや、この反対の事例こそが重要なのだと。つまり、心にあれば思い悩むが、反対に、心に無ければ気がつきもしない。

 妬まず生きていれば妬まれることを恐れないし、憎まず生きていれば憎まれることを恐れない。貧しくなければ貧しさを恐れないし、豊かでなければ豊かさを恐れない。……その経験がないから不用心でなるなら、用心が身に付くまで、その不幸の経験を積ませてやれというのも、下級の神々の役割にあるかもしれない。

 それはともかく、真っ正直に生きようとする人は、なかなか屈折する人情を理解しがたく、屈折する人と触れてその心をさらに圧殺してしまうことがあるものだ。といって、屈折する人を傷つけぬ真実などありはしない。

 スネに傷をもつ人ほど、虚飾を好み、真実を嫌う……真実を嫌うからこそ、詩情を論じて率直を嫌う。かくして素直な人々は社会に居場所を負われていく。嘘つきこそが活躍できるのが地上世界だとしたら、この世界はいかなる境涯へ魂を導くのだろうか?

 霊界通信はいう。「地上は霊性の修行の場である」と。本当だろうか? 真実は、「地上は魂のふるい分けの場である」では無かろうか。


お人好しが悪魔を育てる。

2006年 01月 21日

 人は善良であるべきだ。無論。無論。でもどういう風に? 

 古今東西の聖人達は、中道(中庸)を尊んだ。何事も極端に走ってはいけないのだ。

 究極の善を追求するのはよい。だが、多くの人々は自分に都合の良いことを善と呼ぶ。ならば、すべての人が善と認める行為とは、他人の利己心への奉仕でしかあるまい。

 それはつまり他人の中に巣くう悪魔を扶育する事ではないか。

・・・・・・

 だから人はもっと悪党にならなければいけない。おっと。勘違いしないで欲しい。悪人になれ、というのではない。身を守るために知り、人を傷つけるためには用いない。これが大切だ。

 そもそも、目的のために手段を選ばぬ悪人と、良心に行動を縛られる人間とでは同じ実力でも実行力に格段の差がある。…… 善良であるには、つまり、悪事をせずに済ませたければ、利口にならねばならぬのだ。そう、自分を救えぬ者が悪事を行うのである。

・・・・・・

 いや、書き漏らしてはなるまい。そんな姑息な手を使わなくても、大道を歩くという選択肢もある。だが、人の言うことに一々振り回され、自分の行なえざることに一々くよくよしているようでは、その選択は難しい。

 姑息な生き方が嫌であれば、せめて逆風に向かって前に進むための気力・体力を蓄えるために、今は何もかも忘れてひたすら休むべきだ。


誰が謙虚になる?

2006年 01月 25日

「謙虚におなりなさい」――と、いわれなければならぬ人が、謙虚にこの助言を聞くはずもない。とはいえ、現実に厳しさにとうとう増長の鼻が折れ(立場的に天狗の鼻が……とは書けない)反省する人もある。

 だが、その反省の行着く先が、「神様、霊媒様、親様、先生様、上司様のお話をしっかり伺います。どうぞお助けください。」であるのが、いささか変であることを理解できぬ人が多い。

 それは他にへつらっているのであって、謙虚ではない。……謙虚とはまず現実を受入れること、つまり強がりや、虚飾を棄てることだ。だが、他にへつらってまで現実と折り合おうとしないのはなぜだろう? きっと、他人は自分の妄想を受け入れる可能性があるが、現実に妄想を押しつけることが無理なことを誰もが気がついているからだろう――内心において。

 へつらってまで他人を現実との障壁に利用しようとするなど、まったく卑怯である。…… 多くの人はその卑怯さに気がつかぬまま、増長し、反省し、へつらうという悪循環の中にいる。

 いや、真面目(?)な心霊家であるところの私にとって、私が現実との障壁に利用されるよりも不愉快なことがある。神仏や守護霊を現実との障壁に利用することだ。

・・・・・・

 人が分相応にしていれば、なにもわざわざ、「謙虚になれ」等とは言われない。まして、あまりへりくだりすぎればかえってイヤミにもとられるだろう。

 あるべきものが、あるべきようにあれば、物事は自然に流れて、行着くところに行く。……種が芽吹いて花が咲き、そして実りを迎えるように。そういう生き方こそが、本来、人が生れてくる前に取決められた生き方なのだ。それを違う流れにしようとするから、結局、多くを、場合によってはすべてを失う。

 なんとまあ、ナンセンスな話か。屁理屈をこねて最大の利益を棄ててしまうなんて。……本来は他人のものを欲しがって、結局は自分のものを失うなんて。――これが不自然な行為がもたらす危険である。

・・・・・・

 さて、いささか物質的視点で蛇に足を付け加えたい。

 生前に取決められた「最大の利益」を棄てるのは、一種の功名心からくる。つまり、結果を得るよりも成果を挙げてみたいという衝動なのである。……乱暴にグループ分けすると性衝動の一種であるとされる。適切な時期に恋人を得ている人はあまり無茶をしないのだそうだ。

 そのような仕組に流されている人々を動物的と見なすのは安易に過ぎるだろう。むしろこう考えるべきではないか。

自分が真に欲するものを知らないから、いつまでも人は餓える。

 そう、誰かに認められたいという気持は、一体誰から認められたいのかを突詰めなければならないのである。そして、社会に認められたいという努力が、一人の異性に認められようとする努力とどちらにより無駄が多いかを考えてみるべきだ。

 ……その勘定をしてもなお社会に奉仕しようとするのは良い。だが、その計算も出来ずに無駄な努力をする人なら、一体何がなしえるだろう? 穴の開いた泥船が帆を上げて向う先は、溺れるための航海だ。


平常心

2006年 01月 21日

 事故、病気、猫の迷子から年寄りの愚痴まで……色々な質問、相談が寄せられる。無論すべてに応えていたら私の一日は何時間有っても足りないだろう。

 出世や功名心に焦る天狗の霊でも背後にいれば、ズバズバ霊視できるのだろうが、私の背後はノンビリしたものだ。右に行こうが、左に行こうが、はたまた、自由に生きようが、不自由であろうが行き着く先は同じあの世。ジタバタする奴は手間が掛かる。黙って受け入れろ…… というわけだ。まあ、見せ物的な自慢は出来ぬが、その分妬みも少なかろう。

 皆様からは、過分な期待を寄せられているようではあるが、私事、都合により泰然自若。誰がどうであろうがなるようになる、成らぬようにはならぬ……と決めてかかる。これが案外充分な回答であったりする。

 墓地購入をキャンセルしてすぐ、弟さんが交通事故にあった方が、霊障を心配してメールを寄こしたが、私の…… 背後の回答はバカの一つ覚えのようにただ一つ……「落ち着きなさい」、だ。

 慌てれば、事故に遭いやすいのはいうまでもない。ところが、些細なことを切っ掛けに慌てる人もいる。そういう人はどうしても事故に遭いやすい。だが、それはそれ。それを置いても大切なのは……大切なのは平常心だ。

 私のその返答は、心霊主義を学ぶかの相談者に受け入れられた。だが、多くの人が平常心の大切さを説くが、それを実現するのは難しい。 ……つまり、助言は、真の回答の次が大切なのだ。

・・・・・

 平常心というのは簡単ですが、むしろ恕《ゆるす》ことが大切なのでしょう。人を許すだけでなく、自分も許すようにすれば、動揺することも減ってきます。失敗したらどうしよう……などと自分を虐めてはいけないのです。


本当に本気?

2006年 02月 07日

「死ぬ気になれば何でも出来る!」というセリフがある。が、今の世の中、一体誰が本気で死ぬ気になれるのだろう?

 確かに今の世の中、自殺者は多い。だが、徒党(集団自殺)を組まねば死ねぬ人が多いというのは、果たして死ぬ覚悟があッての事なのだろうか。生きるのが嫌だという消極的動機から、現実から逃げるようにして死んでいく人々に向かって、「死ぬ気になれば何でも出来る!」と、怒鳴りつけても、おそらくそのうつ病的傾向をますます悪化させるだけであろう。

(私が「自殺したい」という、メールや掲示板投稿につれないのは、うつ病対策のサイトこそが、自殺願望者の相談先に相応しいと思うからだ。)

 本気……つまり 「何でも出来るほどの死ぬ気」になる前に、仲間を募って集団自殺していくような人が増えている現代日本において、死ぬ気、本気、やる気……等という言葉はまったくあてにならない物だと思う。

「今度こそ本気で自分を変えていこうと思います」……と、書いたその直後に「そこまで出来るかどうか」等と頼りないことが書いてあったりするのだから、ああ、やっぱり背後の霊達はよく知っているのだ、と思う。

・・・・・・・

 拗れる前なら、「死ぬ気」等という大袈裟な覚悟は必要ない。素直に、そして穏やかに、なしのままに生きればさほどに困難はないし、迷惑に巻き込まれても堂々と構えれば周囲の助けを得て良いように流れていくものだ。だが、さんざん拗れてから周囲に助けを求めても、痛みは自分持ちで、その痛みさえも耐え難いというなら一体誰が何をどうできるというのだろう?

 まして、そこまで拗れた苦労を背負った人が、仮に奇蹟によって救われたとしても、今度は過去の思い出、過去の苦痛…… その時の不甲斐ない自分への怒りに苦しめられることだろう。人は自らの行為から逃れられない、逃れようと努力する人のやることといえば、さらに大きな憎しみで過去を打ち消していくだけのこと……もしも記憶がすべて蘇ったとしたら、何とも耐えがたいに違いない。

 死ぬ気はないが、拗らせるのは仕方がない……そんな矛盾を行って、人生に無理が生じないはずもない。


バカバカしいと思える幸せ

2006年 02月 08日

 修行などというのは永遠に続くものである。……仏教のいわゆる「悟」という、一種の極限を否定するものではないが、心霊思想的には、「物理世界での修行の極限」を超えたということであろう。

 さて、心霊主義者として、何を気をつけるべきか、と、私も質問されれば、色々答もするが、その切れ味の悪い表現に比例して、あくまでも私の修行過程で会得したことを言うだけのことで、それが第三者の役に立つかというと、かなり怪しい気がする。私は私の修行を歩んでいるのであって、それが他の修行に応用できるとは限らない。

 つづら折りの山道……私は右手に山を見て歩くが、折り返しが異なる人なら左手に山があるやも知れない。スロープが緩やかな場所では、真っ直ぐに山頂を目指すこともあるだろう。障害物を避けるために一時山を下りねばならぬ事もあるだろう。……私の今見ている風景は、今の私の見るべき風景でしかない。

 とはいえ、日常の手作業の合間合間にする精神統一中に、ハッタと気がつくこともある。ちょうど、山歩きの最中に見晴らしの良い場所に出たかのように。

『そういえば、バカバカしいと感じるようになったなぁ』

 私も人間、嫌な奴もいれば、嫌なこともある。

 ただ、嫌な奴から不愉快な思いをさせられても……気晴らしにやっつけてやろう等とは考えなくなった。そんな低レベルの気晴らしよりも、人生にはもっと楽しいことがいくらでもあるのだから。

 私もマンガも読めば、ゲームで遊ぶこともある。だが、しばらくは気晴らしになっても長くは続かない。ふっと空虚感に襲われて嫌になるのだ。書籍も同様、論点がずれていると感じれば即ゴミ箱行だ。

 酒も好きだが、長時間飲んでいるとやはり空虚感に襲われて酔いが覚める。……もうこうなると酒宴の席が辛くて仕方がない。これは会社勤めをしているととても不自由に感じるが考えてみるに致し方がない。何せ、消費だけでなにも生んではいないし、いくらストレス発散や、リラックスが大切だといっても、そんなことにいつまで掛かるというのだろうか。

 友人も随分と選ぶようになった。愚痴や悪口ばかりの人にウンザリするのは当然として、受売りや批評だけで話題にオリジナリティーのない人にもウンザリした。実行力に欠けた弁舌だけの人の話を聞くのもウンザリだ。飲食・衣服の話題は人生を彩るのに有益とも思うが、それも程々でないと強欲さに嫌気が生じる。

 あれやこれやと、色々なものをバカバカしいと感じ、そういった物事からどんどん撤退していったが、だからといってすべてに飽きっぽくなったわけではない。心霊文献の整理・入力などは寝る間も忘れるほどに打ち込める。無論内容次第だが……

人生にとって大切なものに集中できるようになってきた、と感じる。……あれ、これが孔子の言う「迷わず」という心境か?

「なしのまま、わたれば易き道あるを、あぜなずろうや魂の曇るに」 ……吉田綾

という道歌を心の杖に生きてきた私の心霊生活は、もうじき四半世紀の折り目を迎えるが、色々なことをバカバカしいと感じるようになって、なによりまず、迷う事がバカバカしくなった。

 いや、無論私だって迷うときは迷う。昼食のメニュー、飲み会の時の酒のお代わり、誰それに苦言を呈すか黙っているか……時として、その迷いは一時の楽しみですらある。だが、迷っている間にも出来ることはあるし、迷っていれば出来なくなることもある。たとえ今、答が見えなくても、出来ることから片付けていけば、手掛かりが見えてくることもある。すると、迷うことよりも先にやるべき事があるということだ。

・・・・・・・

 悩める人を見ると、常に思う。……「悩まなければいいのに」……と。

 事に悩むことが習慣となって、しかもその悪習慣に気がつかぬ人には、何とか私のこの思いを伝えようと努力するが大抵は挫折する。その理由は私にとっては明らかであるが、相手にとっては想像を絶することなのだろう。何のことはない……悩み癖は体質なのだ。

 そして多くは憮然とする。「悩まずに済めば、悩んだりしない!」と… …

 この、「悩まずに済めば」の解釈が、そもそも悩み癖のある人と、悩みたがらぬ私と、大きく見解が異なる。

 悩み癖のある人は答が出なければ動こうとしない。いや、多くの場合、答が出ても動こうとしないだろう。― ―体質と呼ぶ所以である。そして、悩む癖のない人は大抵の場合、答がなくても行動しようとする。

 悩まなければいいのに……それよりもまず、身体を動かせばいいのに。

 辛い思い出、棄てられぬ夢、断ち切れぬ妄想……これらも又、身体を動かすことが一番の薬となる。特に足腰をよく使うのが一番であることを知らず、知っても役に立てられぬのが、現代の日本人だ。

 世情も又、バカバカしさを助長する。


不安でも時は流れる。

2006年 02月 12日

不安に悩める間にも時間は流れます。

そして……不安を感じる時に心は止ります。

・・・・・・・

 ――心は多くの事柄をいくつも同時には扱えません。あなたが心に不安を抱く時、善処の智慧を探すよりもむしろ、起こりえる様々な失敗と悲劇とを、受け入れるための準備に持てる智力を注いでいるのです。

今は、失敗の準備をすべき時なのか、どうか。

 時間の流れの中で心を止める……運命に自分を委ねる事も時には必要なことです。特にあなたに、善処の知恵がないのであれば。しかし、諦めるのが嫌であれば、まず、今、出来ることを探すべきです。そして、不安をバネに行動を始めるべきです。

・・・・・・・

誰かが自分の身代わりになってくれるのを待つのは……

 仮にその幸運に恵まれたとしても、永遠にその幸運が自分に伴うかどうか。

  虎の背に乗る……西洋では「ペガサスの背に乗る」と表現するとか……

一度乗ると、降りるのは至難の業となるのです。


手当

2006/01/14

06年 01月 13日


重さでも、体積でも、長さでも……測定するにはそれに適した場所がある。

傾いた場所では、秤《ハカリ》や、枡は使いがたい。凸凹した場所では物差しも使いがたい。

同様に、自分の気持ちを推し量るのにも、体調を調べるのにも、やはり内外ともに落ち着くことが大切だ。

慌てている人への霊査を取る。――「落ち着きのないことがよく分ります」……というのでは霊査に価値がない。だが、「そんなことはわざわざ霊媒に言われるまでもない!」と腹を立てる前に考えて欲しい。

わずかなミス、ちょっとしたタイミングのズレがどれほど甚大な被害の引き金となるか。往々にして、落ち着きのないことが災難の原因なのである。つまり、わざわざ霊媒に聴くまでもない明白なる原因をぶら下げて、霊媒に頼る滑稽さが落ち着きのなさに存在するのだ。

言われるまでもない、指摘されるまでもない……くだらない、と思う前に、まず自分自身でクリアーして、さらにその次の課題を掘り下げるべきだとは思わぬだろうか?

霊媒の努力に甘えるような心霊相談の在り方は、自助努力の虚ろさを明示し、その災難の原因が自業自得によるものであることを暗示するのだ。

さて、体調が悪い……とする。痛い、痛いと騒ぐのは同情してくれる人の前だけにして、まずは我慢し、心を静める。ゆったりと座り、または、横たわり、痛みの部位に手を当て、自問自答する。「悪いのはここ?」

もしも手のひらに緊張感が得られたなら、そこを中心にらせんを描くように手を動かしては自問自答する。「悪いのはここ?」

一通り回れば、また中心に戻り、自問自答する。「悪いのはここ?」

大切なことは、答を得ることではない。自分の意識の大きな部分が、自分の身体の不都合に関心を向けることだ。端的にいえば、潜在意識が自分の不健康さに気がつくことが大切なのである。身体に注意を向ければ、その部位に血液が集まり、温かくなってくる。それが自己治癒の第一歩だ。

手を当てることを手当というが、治癒力は手にあるのではなく、人の心、ひいては魂であり、手はその働きの象徴に過ぎない。


結果を保証する生き方

2006/01/13

04年 03月 06日


 「仕事に責任を持つ」ということを例として考えてみましょう。

 それはまず第一に、仕事の過程を誠実に、そして大切にするということでありますが、責任とは要するに結果を保証するということです。……それを推し進めて、「人生」、そして、「人間であること」への責任について考えてみましょう。

 生きている今、誠実に、善良に、一瞬一瞬を大切に生きることが大切なのはいうまでもありません。ですがそれだけでは結果を保証することは出来ませんね。

 科学的手段で反復検証が出来ない『霊魂の存在』を信じ、『死後の個性存続』を信じる。そんな心霊主義者の考え方は、論理的には滑稽に思えるかも知れません。しかし、「人は死んだら終わり」という投げやりな考えが、果たして誠実な生き方と申せましょうか?。

 人生(地上の生)の後……『肉体の死後にも個性が残る』という心霊主義思想は、死の恐怖からの現実逃避ではありません。己の人生の結果をいかに保証するかという、一つの取り組みなのです。

 心霊主義者にとって、『霊魂の存在』や『死後の個性存続』は一つの過程、信念の手がかりにすぎません。本当に大切なのは、人生の結果を保証する為の取り組みであります。

 同時にそれは……  私たちは、僅か百年前後の肉体の限界では人生を考えないということでもあります。


病気平癒の加持祈祷

2006/01/12

2006年 01月 11日

参照>「1月7日(横浜)


 時々、精神統一会前に、メモ用紙に個人的な質問事項を箇条書きにする。懸案がある場合には。――10月7日の横浜オフ会にも、「某氏の健康上の問題について」の質問があったが、箇条書き後、それらすべてを忘れて精神統一会の進行に打ち込んだ。

 途中、個人宛でない二点の霊査が降りた。敢て順番を逆にするが、

2, 冷気と換気で皆、呼吸器を傷めております。マスクは病原菌を防ぐだけが目的ではありません。適度に湿気を保つ働きもあります。活用してください。

……これは頷ける。まあ、私を含めて皆、面倒がってマスクなどしないだろう。

 だが、それに先だって降りた霊査はいささか唐突だった。

 敢て表記するが女性の声が、叱りつける勢いで、

1,「病気の平癒を祈願するなら、せめて肉食を断ち、火食断ちをすべきです。それもせずに神仏に祈っても、誰が聞くものですか。」

……一応、オフ会で報告する際には少々、語調を柔らかくした。

 少し説明しておく。火食とは加熱調理した食材を食べることだ。当然、お茶やコーヒーも禁止となる。冷水抽出したお茶やコーヒーもだ。なにせ、お茶ッ葉やコーヒー豆も加熱焙煎されている。これはいわゆる「潔斎」に相当するが、これには相応、実践的な意義がある。

 食材にも意念が籠る。調理は食材に意念を焼き付ける働きがある。さて、肉体=物質を対象とした霊査は、死者たちから見れば顕微鏡を覗く仕事に似て、微細な集中を必要とする。加熱調理の記憶はその集中を乱すのだそうだ。

 むろん、不可能ではないのが、本気で祈願するなら相手に無駄な努力をさせぬようにすべきだというわけだ。……心霊相談者には往々、この配慮が不足している。概ねそれは正しい心霊知識のないためとも言える。いわば無邪気の結果なのであるが、忙しければ無邪気の相手は後回しにされがちなのは避けようもない。

 で……、オフ会レポートには記載しなかったものの、後で改めて掲載しようと考えて……忙しさに放置していたところ、上述、質問者から、「フグを食べ過ぎて……」とのメールが来て気がついた。健康問題に関する回答はこれ一通であることに。

 別に贅沢を妬むわけではない。まあ、話としては贅沢を妬む方が面白くもあるし、それ故に説明が微妙に不足していたのだろう。だがもう一つ無言の示唆がある。

 疑問があるなら、まず自分の心を静めるべきだ。

 身体についての疑問があるなら、まず身体の働きを静めるべきだ。

 霊査を求める人がいても、私が出し惜しみするのは、言葉を得る前にまず、自分の心を静める練習をすべきと思うからだ。それこそが霊界の者達への礼儀なのである。その立場から見れば、なるほど、健康上の問題を相談するに当たり、潔斎を忘れることの非礼さにも関心を向けるべきだろうと思う。

 ――で、回答はしないが、回復祈願はしてある。これが現状では無難なところか。


御札の祭り方

2006/01/11

06年 01月 10日


Q「家に神棚がなく、しかも南側の窓に向かってお札を飾っておけるような頭より高い位置がないようです。どのようにお札を置いていたらよろしいでしょうか?」

A なぜ、「南側の窓に向かって」と限定されるのか、ちょっと不可解に感じます。一般的には南向きが良いとされて、続いては東向きも良いといわれていますが、神社によっては、または御札の種類によっては方角を指定しているものもあります。主に恵方を指すのでしょうが、詳しくは神宮暦で確認する必要があります。

 私はほぼ家の中心に御札を祀っていて、方角的には南南東、これは単に家の長軸が南南東だということです。

 さて、背後の意見に耳を傾けてみると、

『南面に祀る事は出来るはずだが?』とのこと。ご確認下さい。(あまり重要とは思いません)少なくとも家の中心(重心)から、一番大きな窓に向けて祀れば充分と思えます。

 心霊的な解釈、というか、霊媒としての意見としていうと、家にも個性があり、運勢にも個性があるのに、杓子定規に方角を決めるのは果たしていかがなものか、むしろ、御札の祀る位置は御札に決めさせるのがよいのではないかと思います。…… 誰にでも出来ることではありませんが。

 まず両手で御札を持ち、家の壁沿いをなるだけ無心にくまなく歩くのです。そこで立ち止まるところがあれば、御札がそこにいたがっていると解釈して、そこに祀る……一種のコックリさんですね。さらに可能なら、数人でこれを行い、意見をまとめるという手もあります。ただし、この時単純に多数決で決めるのではなく、第一は家主の意見、注いでは霊感の強い人の意見に特に点数を多くするのがよいでしょうが、トイレ、風呂場、台所の入り口付近で立ち止まったのは無視すべきです。

 なお、この質問者に限定していえば、その御札にはあまり意義がありません。御札というのは神様の分身のつもりで頂いてくるものですが、では、神様とは何か、という考え方が曖昧だからです。

 一般的な日本人の概念では、超常的な存在(でも人間の都合を聞いてくれる)……というご都合主義的・御利益主義的存在と見なされているようですが、心霊主義では、「摂理の具現」、「常識を偶像化したもの」を神として扱います。つまり、朝の来ぬ日はなく、日は東から昇って西に没し、雨は天から地に振り、ものは上から下に落ちてその逆はない……という具合です。ただ、心霊主義者が神に祈るのは、その常識を覆すことではなく、自分の非常識な望みをいかに常識的に実現するか、という複雑な設問への答を求めるためなのです。

 たとえば、空気より重い物体は宙に浮きませんが、推進力があれば空力を生かして空を飛ぶことが可能である……という具合に、一見、非常識な要求も、工夫次第で常識に沿った解決策があるものです。それ故に、神、または仏は、智慧の具現にもたとえられます。

 つまり、御札という物質にはまったく厄を避ける力はないのです。ただ、神に祈る(つまり問い、そして答を聞く)という、信仰者の行為が厄を避けさせるということです。ただ、精神統一の未熟な人には、祈る際に標的がある方が楽だ、というだけのことです。するとこうもいえます。どんなに良い場所に御札を祀っても、正しく祈らなければ役に立たない。正しく祈るならば場所など関係ないどころか、御札さえもいらない。


臨時(メール返信)

2006/01/10

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


霊査事例

「力を籠める」というのは言葉の綾です。強くても、弱くても、適切とは言えません。人は「注意(注念)」すると自ずと力みます。ですから、大切なのは力を抜くことなのです。力を抜いた状態を基準になさい。

 硬直的な普段の状態を基準に力を籠めるのではなく、脱力した状態を基準にして、注意したときに生じる緊張だけで押さえるのです。

 力んだ指は不器用で滑りません。しかし、弛んだ指は行き着くべきツボへするりと流れ込みます。器用に急所に流れ込むから、余計に力まずに急所を押さえて無駄がなくなります。

 でも、急所にばかり「注意(注念)」せずに、廻りからほぐすようにすることです。

一般論として

 力を抜くことで人は自由になります。―― いや、力むことで何と人は不自由になるのでしょう!


2006年1月10日

整体関連の勉強中のある人に、当人からの希望もないまま降りた霊査。


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