なれの果て(親)を見て、イタズラっ子の将来を思う
2006/01/28
なれの果て(親)を見て、イタズラっ子の将来を思う
2006年 01月 27日
ご飯の代りに、パンや麺類を食べることは誰でもするだろうが、野菜を切らしているからといってサラダの代りに焼き肉を食べる人は居ないだろう。むろん、野菜嫌いが野菜を食べずに肉ばかり食べるという話ではない。
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以前のことである。知人の子を見ていて、その将来に危惧を抱いた。イタズラっ子で落ち着きがなく、しかも親や周囲の大人達の言いつけを守らない。そのくせ、大人にベタベタとまつわりつきたがる。
そのコミュニケーションを見ていても酷いと感じる。親子間の会話にはイエス・ノー、つまり「服従」か「拒絶」しかなく、交渉がない。それでどうして子供のコミュニケーションの技能が発達するというのだろう?
だから子供も、自分の言い分が通るまで騒ぎ続ける。レストランで走り回られ、大声で騒がれたときにはさすがにその親やその又親も顔色が変っていた。……私は親をさておき交渉で子供を静めた。お土産に買って置いた花火をエサに「食事が終わるまで静かにしていたら、帰り道の公園で花火をしてあげる」といったのだ。…… その子は了解した。まあ、食事中に盛んに「楽しみ、楽しみ」と言い続けていたが、大声というわけでもない。
私は打算的な子供にしろと言うつもりはない。ただ、一得一失を理解すること、物事には代償が必要であることを教えるべきだと思うのだ。泣き喚けば欲しい者が手にはいるような子供は、大人になっても泣き喚くことしかできない。その実例をいくつも見てきているからだ。
周囲の大人達は、甘やかすくせに(?)、スキンシップが足りていないのだろう。つまり、親たちは物質的な豊かさを与えるだけで、精神的な豊かさを与えていないのである。まるで、野菜の代りに肉をあてがうように、食事の代りにおもちゃを買え与えるように。
……で、花火をして別れた。その後のことは知ったことではない。密かに、成長に必要なものを子供に与えないのは、一種の虐待ではないか、と私は思う。だが、必要なものを充分に得ている子供がどれだけいるのか私は知らないし、誰もが助けを必要としていて、私だって不足を感じているものがある。更にいえば、親の問題だけでなく、その又親、つまり祖父母の欠点でもあるのだ。それを正すことにどれだけの労力が必要か。子供に必要なのは理屈よりも実践・実施・行為なのだから。
身代わりになる力がないのだから、人を責めることをしない。ただ、改められる人に、このいささか迷惑な詮索が役に立つかもと思って書き記すに留まる。
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というか、この子供のなれの果てのような二十代の男女を何人も知っている。服従か、反逆の二者択一の態度しか出来ぬ者だ。はっきり言って私の手に余る。そういう青年らを恕《ゆる》さないというのではなく、相い応ずべき接点がないので、関わることに意義が生じないのだ。つまり相手にするだけ時間の無駄となるだろう。相手はそれで良くても私が迷惑に感じる。
真の道は中道にある。……極端には私の歩むべき道がない。突き当たれば戻るだけである。
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ところで、いわゆる「イタズラっ子」には、2種類あるのではないか。好奇心からイタズラする子と、周囲の気を惹きたくてイタズラする子だ。
好奇心からイタズラする子なら、無邪気なもので叱れば止めるし、叱らなくても同じイタズラを繰り返す事はまず無い。ところが、気を惹きたくてイタズラする子は、何度も同じイタズラを繰り返すし、叱ればエスカレートしたり、手段が卑怯に変わりもする。
一言に括れば、ただのイタズラっ子でも、その動機が異なるなら異なる対処が必要となる。