‘2006/01’ カテゴリーのアーカイブ

心霊相談について

2006/01/31

06年 01月 31日


 どうも、いわんとすることのよく分らない相談メールが増え、とうとう、相談メールの大多数を占めるようになりました。悩み多いことはよく分りますし、大抵の場合は、霊感がなくても原因が特定可能と思われる相談もありますが、いかんせん、当事者とのコミュニケーションに障害があるなら、返事を出しても誤解と面倒が増えるばかりとなるでしょう。

 私も敢て悪因縁を増やしたくはありませんので、原則として、新規の心霊相談をお断りしています。

……ここで留意していただきたい。仮に私が本当に親切であったとしても、受手の感性や、事情によっては誤解の種、苦しみの種、憎しみの種に変りかねないという当たり前の事実です。

 窮鳥懐に入らば猟師もこれ撃たずとか――仇であってもかばい立てすることもあるというのです。悪霊だからといって苦しめるとは限りませんし、親切だからと行って下心がないとは限りません。

 受け止め方一つで、善悪への印象がどれほど変るか……今、世の中が乱れているのは、悪人が増えたのか、それとも、悪霊の仕業であるのだろうか……私は、善悪を受け止める人々の心が落ち着きがないからだと思います。

 (魂が永遠の存在であるなら、どうして急に悪霊だけが増えることがあるのか。時代によって悪霊の影響が増えることなどナンセンスだ。問題は受け手の気持ちである。現代は、悪霊に迎合しやすい雰囲気に包まれていて、それこそが問題なのだ)

 それが心霊相談は中断しても、精神統一の指導は続ける所以です。


何を通信するかが大切なのだ。

2006/01/31

2006年 01月 30日


 良い電話機を持っている人が、友人に恵まれているとは限らない。……するとせっかくのその電話機は、あまり意義のある会話には用いられぬことだろう。だが良い友人に恵まれた人の電話なら、たとえボロくて雑音だらけで聞き取りにくくても有意義な会話に用いられるに違いない。

 大切なのは手段ではなく、目的だ。つまり、霊感が大切なのではなく、何を通信するかが大切なのだ。

 時折、他者の霊媒能力に批判的な意見を目にする。批判するその人の霊媒能力は果たしていかほどのものだろうか? 心霊知識の持ち主は、大多数がいう「誰もが霊媒能力を持っているが、ただ、生かせていないのだ」……と。無論、心霊詐欺師までこの弁法で庇おうとは思わない。だが、詐欺師というのはエセ霊媒のみがするものなのか? いや、エセ霊媒以外の詐欺師もいるのである。つまりは人の問題なのだ。それゆえ「霊媒だから○○だ」と決めつけるのは、その論者の心底に妬みがある等とほじくり返すまでもない。表面明らかに差別的であり、才能ハラスメントでしかない。

 宗教や心霊に関心を持つ人ほど、どうも人権について無思慮な人が多く見られると思うのは私だけであろうか? だがそういう人権に無思慮な……つまり独り善がりな意見に流されることなく、霊的才能を自覚なさった方は、どうか着実に、そして静かに霊的才能を錬磨なさっていただきたく思う。くれぐれも身勝手な意見に心乱されることなく、同時に、闘争心に負けることなく修行を収めていただきたい。

 だいたい、他人の足を引こうとするのは、生きている人も死者の魂も、皆コンプレックスの塊、ヒガミ根性の結晶だ。そういう波動に身を晒しては心身の健康を損なうし、進んで守護霊からはぐれて、わざわざ迷子になるようなものだ。

 無論、慎重さは大切だが、魂の進むべき道は、永遠修行の大道なのだから、いうまでもなく、あれもダメ、これもダメ、あんなのダメ、それもダメ、と批判的意見が多い境涯などに真実・光の道などあるはずもない。

崖を飛べという人を信じろとはいわない。だが、道を下れという人も信じるべきではない。

 急な坂道は頂上への近道……だが、楽だからといって立ち止まり、または、下り道ばかりを選べば、どうあっても山を登るはずもない。

 ・・・

 私よりも霊感が強いのに、それを生かすチャンスに恵まれていない友人が、今頑張っているらしい。近況を知らせるメールを受け取った日はとても嬉しかった。その後、文献データの整理をしていたら、ふっと、ある資料のところで手が止り、懐かしい声で私にこう語りかけた。「あの子に送ってあげなさい」……可能な限りすみやかにそれに従った。おまけにたまたま受けていた相談先にも送ってしまった。

 資料の内容を大雑把にいえば、「人に接するには、機・度・間がある」ということだ。機とはチャンス、度とは回数、間とは……説明が難しいが、これがない人を間抜けという……そして、機・度・間を生かせるのは、呼吸の静かな人だという。すっかり忘れていた話だ。だが読み返してみて、

嗚呼!! と思う。

 同じことを言うにも愚かな私なら、心の静かな人というだろう。だが誰が好きこのんで心を乱すものか。――心の乱れに、心を乱せば救いようもないが、息を整えることで心の乱れも最小に出来るのである。こういう生きた知恵こそ語り継ぐだけの価値がある。

 ・・・

 私も屁理屈屋であるからこそ、屁理屈を止めぬ愚者を嫌うし、屁理屈を超越した人を心底敬愛する。そして、故人であるところの我が心の師(霊媒の師はまだ生きております)の言葉を素直に喜び聞いてくれたこの友人を私は祝福せずにはいられない。

がんばろうな!!


病心――熟年離婚

2006/01/29

2006年 01月 28日


 実家を訪ねた際、母の友人の愚痴に付合わされてしまった。

 夫の意地悪が酷いという。

 テレビを見ていると、うるさいと怒鳴る。音を止めると光のちらつきが目障りだという。ならば居間にいないで寝ていれば良さそうなものだ。あまり腹が立つので、着替えを鞄に詰め込んで、今すぐにでも家を出て行ける容易をしているという。

・・・・・・

「そりゃだめだ!」……思わず口を滑らし、仕方がないので開き直る。ちなみに、愚痴に付合わされた時、合間に口を挟むのには注意が必要だ。まず、十二分に愚痴に迎合し、相手の悪口をいってシンパシー(共感)を高めておく必要がある。そしてここぞとばかりにならず者親爺を凹ます様々なアイデアを私は開陳した。こういう時の私の話題の豊富さはとても一般に公開は出来ない。

 さて、ひとしきり悪巧み話に花を咲かせた後、私の心中でタイマーが働き、突然我に返って本題に入る。

「ただね、昔、整体の先生に聞かされた話だけど……そういう意地悪な行動って、多くは病心、つまり、身体を病んでいる人の心なんだそうです。つまり、健全な人なら、大らかな態度を取るけれど、具合が悪いとせっかちで意地が悪い態度になるものですよね? この場合も、お医者さんが相手にする程の病気にはなっていないかも知れないけれど、大らかな気持ちでいられるほどには健康じゃないんですよ。

 身体が悪いから、目の前にあるものさえも人に取らそうとするでしょう? (そうだとのこと)、身体が思うように動かせないから人を使うんです。でも、使われた方にしてみれば自分だって楽じゃないのに迷惑で腹立たしいですよね。だから整体に掛かると、腰が軽く(行動力がます)なって、夫婦げんかが減るというのです。

 でも、この状態の悪いところは、当人に不健康の自覚がないことです。当人には、治そうという気持ちはないだろうし、「整体に行け」「病院に行け」といっても面倒がるし、それどころか病気扱いすれば怒り出すのがオチでしょう。つまり、治せない、どころか、治そうとすればかえって悪くなるんです。

 せめて、治せるなら愚痴をこぼしながらも生活できるだろうけれど、治せないなら離婚した方が良いかも。だって、病気は治っても、老化は止められないし、老いればますます腰が重くなっていくだろうから、これから先、性格が良くなる見込みはとても薄いですよ。」

・・・・・・

 いや、熟年離婚って、経済力がなければ出来ないだろうけれど――私の周辺では、まとまる話と壊れる話が同数であるような……


なれの果て(親)を見て、イタズラっ子の将来を思う

2006/01/28

なれの果て(親)を見て、イタズラっ子の将来を思う

2006年 01月 27日

 ご飯の代りに、パンや麺類を食べることは誰でもするだろうが、野菜を切らしているからといってサラダの代りに焼き肉を食べる人は居ないだろう。むろん、野菜嫌いが野菜を食べずに肉ばかり食べるという話ではない。

・・・・・・・・・・

 以前のことである。知人の子を見ていて、その将来に危惧を抱いた。イタズラっ子で落ち着きがなく、しかも親や周囲の大人達の言いつけを守らない。そのくせ、大人にベタベタとまつわりつきたがる。

 そのコミュニケーションを見ていても酷いと感じる。親子間の会話にはイエス・ノー、つまり「服従」か「拒絶」しかなく、交渉がない。それでどうして子供のコミュニケーションの技能が発達するというのだろう?

 だから子供も、自分の言い分が通るまで騒ぎ続ける。レストランで走り回られ、大声で騒がれたときにはさすがにその親やその又親も顔色が変っていた。……私は親をさておき交渉で子供を静めた。お土産に買って置いた花火をエサに「食事が終わるまで静かにしていたら、帰り道の公園で花火をしてあげる」といったのだ。…… その子は了解した。まあ、食事中に盛んに「楽しみ、楽しみ」と言い続けていたが、大声というわけでもない。

 私は打算的な子供にしろと言うつもりはない。ただ、一得一失を理解すること、物事には代償が必要であることを教えるべきだと思うのだ。泣き喚けば欲しい者が手にはいるような子供は、大人になっても泣き喚くことしかできない。その実例をいくつも見てきているからだ。

 周囲の大人達は、甘やかすくせに(?)、スキンシップが足りていないのだろう。つまり、親たちは物質的な豊かさを与えるだけで、精神的な豊かさを与えていないのである。まるで、野菜の代りに肉をあてがうように、食事の代りにおもちゃを買え与えるように。

 ……で、花火をして別れた。その後のことは知ったことではない。密かに、成長に必要なものを子供に与えないのは、一種の虐待ではないか、と私は思う。だが、必要なものを充分に得ている子供がどれだけいるのか私は知らないし、誰もが助けを必要としていて、私だって不足を感じているものがある。更にいえば、親の問題だけでなく、その又親、つまり祖父母の欠点でもあるのだ。それを正すことにどれだけの労力が必要か。子供に必要なのは理屈よりも実践・実施・行為なのだから。

 身代わりになる力がないのだから、人を責めることをしない。ただ、改められる人に、このいささか迷惑な詮索が役に立つかもと思って書き記すに留まる。

・・・・・・・・・・

 というか、この子供のなれの果てのような二十代の男女を何人も知っている。服従か、反逆の二者択一の態度しか出来ぬ者だ。はっきり言って私の手に余る。そういう青年らを恕《ゆる》さないというのではなく、相い応ずべき接点がないので、関わることに意義が生じないのだ。つまり相手にするだけ時間の無駄となるだろう。相手はそれで良くても私が迷惑に感じる。

  真の道は中道にある。……極端には私の歩むべき道がない。突き当たれば戻るだけである。

・・・・・・・・・・

 ところで、いわゆる「イタズラっ子」には、2種類あるのではないか。好奇心からイタズラする子と、周囲の気を惹きたくてイタズラする子だ。

 好奇心からイタズラする子なら、無邪気なもので叱れば止めるし、叱らなくても同じイタズラを繰り返す事はまず無い。ところが、気を惹きたくてイタズラする子は、何度も同じイタズラを繰り返すし、叱ればエスカレートしたり、手段が卑怯に変わりもする。

 一言に括れば、ただのイタズラっ子でも、その動機が異なるなら異なる対処が必要となる。


持って生まれた勤め

2006/01/27

2006年 01月 26日


 人には持って生まれた勤めがある。

……というと、反発する人もいる。

「一体誰が決めたんだ、俺はそんなことを認めた覚えはない!!」

 しかし、適切な問題提起がなければ、真の答にたどり着くことはない。そして、自分を縛り上げる様々な問題点を解いてこそ、人は真に主体を獲得し、幸せになることが出来る。そして、多くの人の過ちは、背負った勤めを、何物かの意志の結果と考えることだ。

自分の重荷を、誰かの意志と見なして、抗議し、懇願し、解決する代りに何とか逃れようとする。

 だがその重荷はあなたの行為の結果なのである。

だから、「逃げれば追い掛けてくる」とも表現されるのだ。

 どう生きるべきか。何が最善であるのか。そして、何が出来るのか。それさえも理解せず、途方に暮れるだけの人に、試練を明白にしてくれる人が現れるとしたら、何とありがたいことか。つまり、問題提起が適切であればこそ、真の解答と向かい合えるのである。……多くの人は悩んでなお、真の問題を理解せずにいるというのに、それでどうして真の答を得られるのか。

 問題提起を手伝ってくれる存在には、自由意志があり、同情心も富んでいることだろう。……だから、つい甘えてしまうのだろが……それでは、せっかくの味方から見放されてしまう。

 苦しみの最中にある人は、苦痛に疲れ果てて、洞察力と忍耐に欠け、往々、すべてを憎み、当たり散らしたりもする。だが、相手を間違って苦しむのは己自身なのである。

 自分の問題にしっかり取り組めばこそ解決に向かうが、第三者を巻き込めば困難を増やすばかり…… さらには、問題解決に何ら繋がらない責任回避の努力など、時間の無駄だ。

 永遠に時間があるならいざ知らず、人は老いるのだ。今に困難があるように、明日には明日の試練がある。それを、今日の困難を明日に回せば、明日の困難はいつ取り組むのか? いや、今日解決できない困難が、明日なら解決できるのか?

 たとえ人に救いがあっても、時間だけは巻き戻せない。失われた若さは取り戻せないのだ。


虐めから生じた霊障

2006/01/23

06年 01月 22日


「職場で虐めに遭い、精神的に追いつめられた頃に霊を感じるようになって苦しんでいる」…… という相談を受けた。何とも同情に堪えない。私の霊感発現の切っ掛けも似たようなものだから、その苦悩はよく分る。

 ところでこの方の悩みは、職場の虐めなのか、霊障なのか、どちらであろう。「二兎を追う者は一兎をも得ず」というが、二つを別な問題と捕えればその解決はとても難しい。――その事はメールを読んでいて痛感した。相談内容が絞り込まれていないのである。

 テレビや映画のチャンバラ劇なら、周囲に群がる敵をばったばったと切り倒していくだろうが、現実にはそう簡単な筈がない。達人は上手に立ち回って、常に敵が自分の前に重なるようにして一人一人倒していったのだという。いわゆる「各個撃破」という手法である。たとえ敵が10人いても、一度に一人ずつなら、一対一の斬り合いを十回するなら勝機は見えるわけだ。

 であるから私は指摘した。職場の虐め、霊障の双方に共通項がある。それは「自分である」と。まあ、自分が強くならねばならぬのは間違いない。しかもそれは、将来受けるであろう障害にまで役に立つのである。ぜひ強くなるべきだ(もっとも私の感じるところ、天然記念物級の親自慢の良い子と見える。これからすれっからしに育てるのは心がとても痛む)。

 そして、その為の助言でメールを埋め尽くした。……結構長文で疲れたが、長文メールというのは要点を見失いがちだ。何のことはない、質問が練れていないから解答も練れないのである。ずいぶん悩んだようであるが、その悩み方が堂々巡りであったのだろう。それもまた苦悩の日々を物語るが、悩むことが解決に結びついていない。

 が、それはともかく、私の同情の結果は、いずれにしても当座の役には立たぬだろう。だが人は今日を生きなければならない。希望も大切だが、希望だけでは人は生きられない。

・・・・・・・

 ところで、私は同じ状況を、発想の転換で乗り切った。これはサイトのどこかに異なる表現方法で何度か書き記していることだが、「自分に複数の敵がいる」……という発想を止め、「自分には味方が少なすぎる」と考えたのだ。

 心素直に神霊に接し、親切・愛他的に人に接す。……それを心がければ、どんな霊障・悪因縁に苦しもうともそれ以上の助けを得られることであろう。それを実践した。いや、今でもそれを続けている。

 むろん、人の世には……そしてあの世にも、大切にすればつけあがる人が大勢いる。与えるものは喜んで受け入れ、与えなければ泥棒に入る輩だ。まあ、賢くならなければならないのである。善良なだけで生きられるほど世の中は単純ではないのだから。

******** 追記 ********

 ところで、職場の虐めと、霊障との共通項は、ただ自分だけであるのか? 色々と空想をたくましくされる方もいるだろうし、私もそう思わなくはない。だが、私の背後は…… 特に守護霊がそれを絶対に明言しないだろう。理由は実に明白だ。

 他に共通項があるにせよ、悩める当事者にどうこうする実力がないのである。ならば今出来ることに全力を挙げるべきだ。それ以外のことはかえって迷いの元、妄想のネタにしかならないのだから。


素直に生きる

2006/01/23

2006年 01月 22日


  ギリギリの状態で生きているようでいて、人にはまだまだ大きなワガママが残っている。

死んでも嫌だ! 絶対嫌だ!

 ワガママを守りつつも、誰かが助けてくれることを期待している。

 自分は出し惜しみをして、気前よく誰かが助けるなんて……

 ましてや、自分が嫌なことを、誰かが代りにひっかぶってくれるなんて……

 そういう考えが、自分をいつまでも苦しみの中に閉じこめていることになかなか気がつこうとしない。

・・・・・・・

 人は課題を背負って産れてくる。克服すべき弱点を一体どうやって解消していくのか。

・・・・・・・

 隠しておきたいことを指摘されると、負い目を抱く人はヒステリックな行動を取る。黙っていれば悟られないのに、隠そうとして負い目が顕わになる。……隠そうとすればするほど、顕わになって、最後は周囲が呆れ、気恥ずかしくなって、気がつかない振りをしてくれるまで騒ぎ立てる。

皆が気づかぬ振りをすれば、恥は消えて無くなるのか?

隠しても、忘れても……克服できなければ、また苦しむことになる。何度も、何度も。

そんな時、誰が真剣に助けてくれるのだろう? 見なかったことにしてしまう友人、隣人らばかりで?

・・・・・・・

一時しのぎ…… そんな選択肢を選べる人は、なんとまあ、恵まれているのか。だが、過った選択はいずれ行き詰まる。そして時間は巻き戻せない。どんなに恵まれていても、物質世界に使い果たせぬ豊かさはあり得ない。

・・・・・・・

 強がり、言い訳、虚飾、偽善――それらが、自己防衛の為の手段だとしても、孤独な手段であることを知るべきだ。不自然な選択は、他の援助を阻害する。一人で解決できなければ、助けを求めねばならないのに、敢て、行き詰まり、敢て、助けを得られぬ努力をするのはなぜか?

 「業が深い」というのは容易い。だが本当の問題は、自己中心的で幼稚な論理で解決策を図ることにある。

 人は、自分の人生ですら思うままにできない。だからこそ助けが必要であり、助けられるためには人を助けることも大切なのだ。……利他的な行為が大切で、ワガママ、独善がいけないと言われる所以である。

 また、助けを求めるなら、分りやすい自己表現が必要になる。……強がり、言い訳、虚飾や偽善、何より嘘をつくことがどれほど我が身を危うくするか。

  それを一言に言うなら、「素直に生きるべきだ!」  となる。

・・・・・・・

 ところが、人世で子供を躾けるのに、過程をおざなりにして「素直に生きろ」と教える。だが素直とは何であるのか? 素直の意味も、素直の価値も教えず……まして大人は子供を都合良く動かす口実に「素直にしなさい」という。これでは子供にとって、素直とは自滅的な教えとなるだろう。

 デタラメな親元で育てられて、「素直」という言葉に秘められた嘘が見抜ける子供ならばまだ良い。無論、素直の意味と価値を正しく学べた者なら、何とも幸せと言うべきだ。だが、なまじ出来た親に「素直さ」を躾けられたらとても不幸だ。

 何しろ世の中には、素直の意味も価値も知らず、ただ、その言葉を利用しようとするものばかりが多いのだから。

 古来より、真理・摂理・叡智として扱われてきたものの大多数は正しい。ただ、過程を知らずに結果だけを吸収しようとするから人は学び違えるのだ。……これは、好奇心から学ぼうとする者の限界である。

 真理を学んで苦悩する者こそ、真理の真の意義、意味を知る機会を得ているのである。


腕が振るえぬ

2006/01/22

 眠いが、まだ寝ていない。……そろそろPCの電源を落として眠ろうかと思うときに、ぬっ、と、言葉が飛び込んできた。

 『「世に神があるものか!」 と嘆く声は良く聞くが、果たして、世に善人がいるものか?

 助ければ増長しそうな者ばかり。ほっとけば腐る人ばかりでは腕の振るいようもない。

 命は何よりも大切、悪いのは彼奴、何の罪があってこんな目に……などと嘆く者ばかりが多いが、自分の手間は惜しみ、すぐに腰が砕け、ものは大切にせず、でも払う金は惜しむ。

 いざという時、自分が求める助けのその半分も、人に与えようとするものがどれだけいるか?

 もしも真の善人の「不平等だ!」という叫びをすべて聞き入れたなら、この世に裁かれぬ人などどれだけ残るというのだろう? それを思えば、愚痴は慎まなければならぬものを。

 救いの手は余っているが、救える者の何と少ないことか!?

 屁理屈で善良ぶっても罪が増えるだけだと気がつきもしない。

 もちっと、自分の価値を正しく認めて欲しいものだ。』

……でも、この言葉を真実と認めさせるためには、私がもっと善良に生きなければいけないと言うことでは

 あぁ。どうやら、私はPCの前で寝ていたらしい。

Q 「某宗教団体への入信について」

2006/01/20

06年 01月 19日


Q「某宗教団体への入信について」

 理解力が乏しければ、正しい教えも誤解して誤るかも知れません。また、過ちを教えられても気がつかぬかも知れません。…… もしもその教えの良さを、人に尋ねずにして理解できないなら、学んでその良さを理解できるでしょうか?

 まして、人を選んで教えぬ……あなたを迷うままに置く「教師」が、人をどこへ導くのでしょうか? 相手を見て教えを説く…… そういう教師からでなければ、正しい教えを会得することは難しく、過ちを覚えることが多いものです。

 一般的に宗教団体は、信じることから始めて、人格の陶冶を目指します。私は人格の陶冶から始めて、信じることを薦めます。―― 信じる力は、その人の人格なりのものでしかないのです。


2006年01月19日(ML)

2006/01/19

1月19日(ML)


事例1

 お父様が大変心配なさっていらっしゃいます。

『こんなに負担を掛けているとは思わなかった』

……千里の道も一歩から。正月から千里の道を旅しようとするのではなく、まず一歩、出来たらもう一歩前に進みましょう。

 歯車の食い違い……一般的には、理想と現実の差、と呼びます。慌てないことです――いや、誰があなたを慌てさせる、急かしているのでしょうか? あなた自身が急かしているのです。

事例2

 あなたはなかなか、人に本音を漏らせません。よくいえば責任感が強い、悪くいえばお高くとまっている。……でも霊視すると、頭を働かせすぎているだけです。

 私は先生に、「腹で考えよ」といわれて気がつきました。おそらくあなたにはこう言う方が良いでしょう。……『不言実行せよ』

 あなたも、お嬢さんも、行為と比べて自己表現がうますぎて、有らぬ誤解を受けるのです。

事例3

『大切にされても気がつかない』……と聞こえます。もっとも、『気がついていることに気がついていない』という声も聞こえます。これは反論ではありません。あなたに対して、もっと自己表現に気を配れの意味です。

 また、心霊に関して、新しい研究対象を見出したと感じますが、ものには道理があります。無情(自我のない)相手の研究ならばライバルのいない方面にチャンスが多いものですが、有情(自我の有る)相手の研究の場合、大切なのは誠意です。やたら方針を変えるのは相手に誠意が伝わりません。

事例4

 諦観……あきらめを感じます。なるほどあなたが取り組んでいる問題は難しいのは確かです。ですが、あなたが考えるべきは、現状の可否であって、絶望ではありません。

 絶望さえしなければ、いつか役に立つことも有るでしょう。出も、あなたが絶望し、忘却してしまえば、今までの努力さえも時間の無駄と言うことになります。

 無駄になるかも……その不安は、あなたがひとりぼっちで生きている、という意味です。神も仏も、それを感じれば悲しみます。

事例5

 晴れたら晴れたなりに、降ったら降ったなりに……自分の心情をコントロールするのではなく、それをもっと楽しむべきです。

 音楽や、詩などを好む人は、そうして生きてきました。

 もしもあなたが、どっしりと安定した心を好むのであれば、音楽などは学ばぬ方がよいのです。

 流されて、でも、自分をしっかり持っている。だからこそ、流されることにも気がつくし、流れていない自分…… つまりは無意味な自分にも気がつくのです。

 あなたは、自分の欠点を多く認識しすぎます。でも欠点と思う部分の大多数は、ただいまだ生かしていない特徴なのです。

事例6

 あなたが自覚するよりも遙かに多くのチャンスを得ながら……何が不服なのでしょうか? おそらく、確信の持てないことが一番の不服なのでしょう。

 それはつまり、自らを信じる力……自信がないのです。(一言に言ってしまえば)ですが、自信がないのにも理由があります。

 あなたは、自分の能力・才能を信じていないのではなく、その能力・才能をどう用いるか、という「未来のビジョン」つまり望画《ぼうかく》の力に不足を感じているのです。

『俺は、○○のために生きる!』というものさえ見つかれば、後のあなたは順風満帆……いえ、そう簡単ではないかも知れませんが、その道筋だけは出来るでしょう。

 そもそも、譬えは悪いのですが、バカとハサミは使いよう……道具の良し悪しよりも、その道具の生かし方こそが人間にとって重要なのです。これは、あなたにだけ当て嵌まることではなく、人間全体に当て嵌まる摂理の一部です。


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