ナンセンス
2005/12/022005年 12月 02日
言葉で、心や感覚を表現するには無理がある。聴き手にセンスが無ければ理解することは難しい…… 仏教では理解でなく悟りを要求するのはそういうことだ。
私は往々、質問に対してナンセンスという返事を返す。無論失礼な返事ではあるだろうが、礼に拘っては混乱がますます広がるだろう。
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- ポジティブシンキングで生きたい。
- 大宇宙に沿った生き方をしたい。
- 不惑にでありたい。
一見よさげな言葉がなぜか実践できず、理想が人生の足手まといとなる。一見簡単そうな理想なのに実現できぬ自分を、卑下してコンプレックスさえも懐く。それもまじめで善良であるが故に。
……どうしたら実現できるのか?
私はこの手の質問・相談に、相談者の努力や資質の不足を感じたことがない。ただ、これだけは確かだ。設問が間違っていたら正しい答が得られるはずもない。……実現出来ぬ理由を捜すのに、どうして自分の設問に疑問を抱かないのだろうか?
誰かが長い思索の末に得た答だけを取出して、それを実現しようとするから陥る過ちだ。
たとえば、明日私は大阪に出かけるが、大阪の地図だけ用意して、途中の乗換えに関する情報を用意しないとしたら、せっかくの大阪地図も役立たぬだろう。それに似ている。
思うように生きられぬ人が、苦しんだあげくに、どうしたら前向きに生きられるだろうかと質問を寄せることがある。だが、ポジティブもネガティブも手段であり、手段は目的に応じて選ばなければならない。
たとえば車の運転をするのに、「交差点では飛出す車や歩行者はいない」、「カーブの向うに対向車や駐車車両はいない」と決めつけて良いものだろうか?……注意すべき時には、可能な限り備えた方がよいのだ。
どうも私の見る限り、ポジティブシンキングにあこがれる人は、注意すべき時に楽天的で、失敗したときに悲観的になる人ばかりだ。これは逆である。単に取組みが間違っているだけでなく、事故を起してしらばっくれようとするようなふてぶてしさが見て取れる。まして考えもなく行動してもうまくいくのがポジティブシンキングであるというなら、それを求めるのは何とも罰当りだ。
この問題は更に根が深い。設問が悪くて答を得られない人なら抱えている問題が一つだけのはずがない。たくさんの問題を抱えて疲れ果て、一縷の希望にしがみついていることが多いのだ。だから、ポジティブシンキングや、その他の理想の実現方法を求める事の過ちを指摘されても、それでも答を求めようとする。間違った電車に乗っているのに気がついても、疲れていて席を立てないのだ。
結局、答を求めているのではなく、重荷を預けられる相手を捜している……だからこそ答が得られない。当事者・責任者である自分ですら嫌な苦労を、誰が好んで引受けるというのか? 他人を利用して楽をしようとするのは泥棒と同じ発想ではないか。だから神・仏からも救われない。
設問が悪いから答が得られず、頼りかたが悪いから助けも得られない。……だから私は、「ナンセンスだ」という。
必要なのは答ではなく、センスを磨くことだ。