‘2005/12’ カテゴリーのアーカイブ

居候を頼る (追加編輯予定)

2005/12/30

2005年 12月 29日


己の力が足りぬ時、他を頼る。……人の世に当たり前に見る光景ではあります。ただ、これを霊的に見るなら、人は誰もが、守護霊の庇護下にある居候のようなものです。つまり、居候が喰いあぐねて、他の居候の部屋に転げ込むようなものです。はたして、かの居候宅の主達はどのような気持ちでいるのやら……

よい修行と思って状況を利用する守護霊有り、迷惑と感じて追い出そうとする守護霊有り。

物事の結果は、己が望むか、望まぬかだけでは決まりません。相手が望むか、望まぬかも大切なことなのです。―― なかなかそこまで見通すことは出来ませんが。


不足に苦しむ

2005/12/23

不足を憂えず……

2005年 12月 23日

 嫌なことを、「嫌だ」と意志を示さなければ変化は起こらない。

 イヤイヤこらえた忍耐は、功徳へと繋がることもない。

 たとえばコップが空になれば、水を汲みに行けばよい。不足は問題にならず、不足を補わぬ努力が問題となる。……そう。自ら水を汲める人なら、水がなくなることなど問題には思わない。むしろ、コップが空にならなければ、新鮮な水を満たすことが出来ない。

(だから私は、与えるよりも引き出すことを大切にする)

 今現在の問題こそが、耐え難く、乗り越えがたく思えても、また、過去の問題すら断ちがたくとも、人間にとって本当に重要なのは未来をいかに作るかだ。

 良き未来を得られぬ努力にいかなる価値があるのだろう? 目指すべきものは明白で、ただ、そこに至る道筋が解らないのが人間の悩めることなのだ。

 今の不足ばかりを口にする……それがつまるところ「希望がない」というのだ。


執着心

2006年04月16日

 欲心に囚われるというのは、必ずしも欲心の支配下に有ることを指すのではありません。欲心の否定や抑圧に囚われて、何ら建設的なことを考えられないのも、欲心に囚われているのです。

 天変地異や、予言の成就で滅びることを案じている人
……「不安に囚われている」

 病気を恐れて、健康食品や健康法に凝る人。
……「病気に囚われている」

 霊感がないと、真理が分らないと思う人
……「霊に囚われている」

 もちろん備えは大切ですが、備えに圧迫されて今、成すべきことが出来なくなっては主客転倒です。つまりの主体性を失って、いまだ起こらざる災難に苦しんでいるのです。欲や感情に振り回されて、自分が本来すべきことを見失っていては、人生が全う出来ようはずがありません。つまり、欲心の否定は、欲心の奴隷になっている人に与えられた助言であって、欲心の否定がすべての人に当てはまる人生の目的ではないのです。


船頭多くして、船、山を上る

2005/12/23

2005年 12月 22日


 霊媒は、いわば霊界の受付け。受付係はにこやかに応対するが……そのにこやかさは霊界の意を表わすとは限らない。むろん、私も商売人ではないので誠意を尽す努力をしているし、何よりも顔に出やすいので困る。つまり少なくとも、皆の応対をしているときの私は、希望を抱いて相談に応じている。

 ところが家に帰ると……または時期が来て……背後の霊達から打ち明け話を聞かされて呆然とすることがある。

『自業自得なんだよ!!』…… (おい、おい……)

・・・・・・

 以前、霊査で『背後の掃除が進んできました』……と、伝えたところ、「えぇ~未だに!」と絶句されたことがある。私は別にこれを恨んでいるわけではないが、今月のオフ会で一つ明らかになったことがある。

かの実家は、人並み外れてお祀りしている対象が多いのだ。

 招かれざる客は、追い出すのに道理がある。だが、招かれた客は気に入らなくとも第三者(霊媒)には追い出す道理がない。…… 無理に追い出す道理がなければ、整理するのにも時間がかかる。

 悪縁は断ちがたく、良縁は結び難い――僅かな失礼で大切な人との繋がりは容易に失われ、努力をしても迷惑な人との繋がりは断ちがたいのが現実なのである。だから、良縁を結ぶのに時機を失してはいけないし、悪縁を絶ちきるのにも時機を失してはいけない。

・・・・・・

 以後は、二つの視点に沿って話を進めたい。

 まず第一はこの問題の表面的側面だ。

 船頭多くして船山に上る 

 以前、みだりに神仏に祈る人と話したことがある。私は「船頭多くして船山を上る」という言葉を用いて、その害を説いたが、「神仏といわれるような高い人格をもった人なら、上で調整して良く計らってくれるはずだ」……たしかに。あなたにその価値があるなら。等と言えるはずもなく、私は絶句した。

 すべての問題はそこに行き着く。もしも人徳の備わった人であるなら、救いを求める必要もないのである。あちこちに救いを求めなければならぬ人は、つまり、その程度の人徳の持ち主なのだ。それを自覚し、人徳を磨いてこそ救いがあるのに、足りなければますます多くの神仏を拝むという悪循環を選ぶ人が多い。

 だが冷静に考えれば解るはずだ。……世間の組織では、多数の部門があろうとも受付は一つに絞るのである。仮に各部門毎に受付を持てば、悩める人々はたらい回しにされてしまう。まして、部門一つに複数の受付があれば、一つの相談を複数の相談と誤解して無駄な動きが多くなるだろう。

 相談者はなぜあちこちに相談を持ちかけるのか? 自分の問題を解決して貰うのに、なぜにわざわざ、助けようとする人((高級霊)の面倒を増やそうとするのか? それを称して「業が深い」という。業は自ら解決すべきが宿命なのだ。つまり、自ら拗らせることで、他者が助けようとすることを拒んでいるのである。

 神かまうな、仏ほっとけ

 霊感が強く、なおかつ、先達の指導を受けたことのない人が往々陥る誤りに、神社仏閣、それどころか、あちこちの小さな祠を拝んで回るというものがある。なるほどそれら霊域は高級霊と繋がりやすい。だが、地上に降りてくる高級霊の廻りには、低級霊が群がり集まる。

 たとえ霊域を訪ねたところで、自分の霊格が、高級霊よりもむしろ低級霊に結びつきやすいのであれば、益よりも害が大きいのである。

 さてそこで、もう一つ考えて貰いたい。誰かに心酔すれば……その人のことで心が一杯になるだろう。ではあれこれと好みが分散するのは何を意味するのか。……心酔する相手がいないということだ。つまり、ただ一人の師とも仰ぐべき高級霊を見出した人なら、他を探す必要もなく、見出せない人はあれこれと手を出すのである。

 つまり霊域を訪ねて、高級霊と感応せず、信頼すべき霊と結びつかぬからあちこちの霊域を訪ねるのだ。…… これは悪循環である。

 昔から、霊感の強い人々は、「神かまうな、仏ほっとけ」と、みだりに神仏を拝むことを戒めてきた。…… むろん、霊感が強いということは一般人よりも霊的な影響を受けやすいということである。であるから、一般の人よりも遙かに激しく結果が表われやすいが、所詮は大なり小なりだ。つまり、みだりに拝むことは害が多いのである。

 ここでさらに突き詰めると、もっと現実的な問題に突き当たる。

自らが救われることを信じていないのである。

 見下した態度

 人の数だけ、表現の方法には違いがあるだろうが、「見下した」と思われる態度の中に、「十分な説明がない」つまり、「説明の手抜き」を上げることが出来るだろう。とりあえず説明をするが、だが、解決を期待していないから、説明を端折ってしまうのだろう。

 だが、端折られた説明で何が出来るのか? そもそも、端折った説明から推測するのに、相談者は、己の悩みを正しく把握していると考えるのだろうか?

……人が神仏を選ぶとは、神仏を見下してはいないか。自分の迷いを整理することなく、ただ、信仰対象を選ぶことで責任を転嫁していないか。

 私は感じる。正しく尊崇に値するものを見出せば、人は迷うことがない。と。


だからうまくいかない。 (功徳論)

2005/12/22

循環の一端、不満と向合う


因縁果

2005年 12月 11日

 金持ちと貧乏人の違いを、資産の有無と捕らえるのは表面的すぎるでしょう。私が注目する相違は、「使う以上に稼げるのが金持ち、稼ぐ以上に使うのが貧乏人」というものです。

 人を見るとき、その一瞬の状態のみで判断するのではなく、過去と現在とを比べ、現在からいかなる未来へと繋がるかを望画《ぼうかく》する――誰にでも未来を見る力が備わっているのに、欲で眼が眩んで明日が見えなくなっているのです。

 どんなに金持ちでも、稼ぐ以上に使えばいずれは財を失います。今は貧乏でも使う以上に稼げば、いずれは財を成します。…… 今はかりそめの姿(当たり前すぎますね)、大切なのはその人の本質であり、その本質は将来にわたる姿なのです。

・・・

 今ここに、悩み、苦しみ、葛藤し、模索し、七転八倒している人がいるとします。……その人に救いの手を差し伸べるべきかどうか? 私はその人の過去を見、今を見、そしていかなる未来へと繋がるかを望画《ぼうかく》いたします。

 つまり、その人が良い未来を生み出す力を持っているのか……いないのか。
 自ら良い未来を生み出す力が無いなら……誰が助けようと、いずれは破滅することでしょう。


裏口が開いている 

2005年 12月 22日

無い袖は振れぬ――コップの水が半分になった。それを、「半分も残っている」と見るか、「あと半分しかない」と見るかは見る人の視点によって異なる。では、コップの水がなくなったらどうか? 絶望すべきか、新しい水が汲めると思うべきか。

 たとえ楽観的であろうと、悲観的であろうと、今そこに水がないことは変えようのない事実だ。話はそこから始まる。

・・・・・

 無料で相談を受ける、まあ、私の生活を脅かさぬ限り、労賃を取ろうとは思わない。だが、霊媒はしょせん受付けに過ぎない。多少のコネはあるが、背後の霊達が、「こんな頼み事は知らん!」といえば、それで終わりだ。あとはどう相談を断るかが私にとっての重大事になる。または、どういう話に持っていけば顕幽双方の納得が得られるかだ。むろん後者がより重要ではあるが程度ものである。

 せめてコップに水が半分残っていれば手もある。だが、コップに水が残っていなければ、諦めるか、汲みに行く他ない。それを、自分は動かずに他に水を汲みに行かそうという人の何と多いことか。

 これは比喩である。そしてこの比喩は難しい。……だれもが横着なわけではない。だが、努力の方法が解らずに呆然と動けぬものもいる。または焦って慌てているだけで、結局は何も得られぬ者も傍目にはただの横着だ。さらには、努力家にも行動の限界があり、叡智の限界もある。つまりは誰もが横着になるときがあるということだ。

 かいつまんでいうと、「人には助けようのない時もある。そんな時、明日のために努力できる人と、出来ぬ人がいる」ということだ。

・・・・・

 今年を振り返って、私に頭痛をもたらす問題がある。当然のことではあるが、私もまた修行中の身で、困苦は私を避けては行かない。と同時に、私も得た知識を生かして、難を逃れる努力をしている。……つまり、

 今年一年を振り返って、私にとって辛かった、その出来事の切っ掛けの大部分は、我が母の「安請け合い」であった。居候の追出し、 IP電話の解約、迷惑駐車の問題……「ちょっと車を止めさせてください」という申し出を了承したら、毎晩駐めている…… 縁起の玄関にしっかり鍵を掛けているのに、勝手口にはどうしても鍵が掛けられないのである。

 これは辛い。何が辛いといって、危機を予測(予知ならばまだあきらめもつく)しつつ、避けられないのは、ゴムひも無しのバンジージャンプだ。かくいう訳で、我が母は、私のことを誇りに思っているらしいが、私の心は絶叫に占められている。

 現時点ではどうにもならない。コップが空っぽなのである。少なくとも母のコップは……焦って注ごうとすればこぼれてしまう。

 あなたがもしも次のステップに進む機会があるなら、ぜひ興味を傾けて欲しい。試練は知識では避けられない。むしろ知識が試練をより苦しいものとすることを。

・・・・・

 横浜での、アフターオフ会(精神統一後の打ち上げ)で、「老義母が火事を起さないか心配です」と、相談を受けた。この時は色々話はしたが……それは別の話題だ。

 帰宅後、背後……まあ、敢ていうと、あまり高いレベルの霊ではない……から、こういわれた。

『統一参加者の健全なる人生ですら難しいのに、参加者の家族の健全なる人生など、どう守れというのだ!』

 そうなのである。私自身、いわれて改めて気がついたことだが、一部の参加者には喜んで貰ってはいるが、実際問題、ギリギリの状態なのである。……私のコップも必ずしも一杯ではない。半分……いや、四分の一ですらないかも知れない。


業《カルマ》

2005年 12月 27日

 静かに暮らしていても、人から恨まれることもある。だがそうして恨まれるのと、乱暴に暮らして人に恨まれるのとは意味が違う。後者は自らの行いが招いた結果であり、禍を招くような行(=業)いを業《カルマ》と呼ぶ。

 報復の悪連鎖――なじるからなじられ、殴るなら殴られ、やられたらやり返し、感情は拗れ、もつれ、怒りはますますかき立てられる。拗れれば拗れるほど、後には引けず、行き着く先は不毛な勝利か、恥辱の敗北か…… 多くの犠牲を払って何を得るというのだろう?

 怒るのは容易い――肉体に備わった生理的反応は、僅かな昂奮ですみやかに働き出す。そして働きだした生理的反応を収めることには努力が必要なことは、誰もが体験していることの筈。ならばこそ、「怒り」よりも「許す」ことのほうが高度な精神性を必要とすることも理解できるはず。

 むしろ、努力が必要であるからこそ、世界には、許しが足りず、怒りばかりが氾濫する……それは必然というより人類が未だに、野生の時代、野蛮な時代にあることの傍証であろう。

 このような状態からの脱却こそが、まず第一に人々が目指すべきことだろうと思う。ここで敢て、二千五百年程前の言葉を借りて考えてみよう。

 恕

「恕」という字は、現代では日常あまり使わない字であろう。字形だけ見ると「怒」に似ていて、何やら恐ろしげにも思えるが、反対に「思いやり」を意味する字だ。
 弟子(子貢)から、「生涯守るべきことを一言に表わしてください」と問われた孔子は、「恕」という字を表わしたという。

(学研漢和大辞典から引用)

『其れ恕か、己の欲せざる所は人に施すこと勿かれ』…… つまり「思いやりを大切にせよ」というのだ。

 二千五百年は夢幻か?

 約二千五百年前の孔子の言葉は現代にも通用する。それは何と皮肉なことであろうか。かくも孔子は偉大であるのか、かくも人類が愚かであるのか。良し悪しは相対的なものだが、この問いは、業《カルマ》と絡めて考えると絶対的な指針が見えてくる。

「恕」を忘れるから無駄な憎しみを受けるのである。二千五百年も無駄を抱えて人々が生き、その在り方を愚かと見ずにただ孔子を祭り上げるならば、人々は何と無駄な存在となろうか。

 真理とは普遍であり、あまねく存在するものである。当たり前にあるものを見ないのが我ら一般の為すことであり、聖人と呼ばれる人々は当たり前にあるものをただ当たり前に見ているだけなのであろう。

 無理し、歪めて、その挙げ句に苦しんでいる。……ただ「恕」・思いやる心だけでどれほど多くの苦しみが除かれるのか。それを試す人すらごく僅かだ。思いやりの大切さを説くのは、孔子ばかりでなく、釈迦も、イエスも、マホメットも教えていることなのに。

 聖人に教えられて、二千年以上の時があってもなお、人は己の愚かさに苦しむのである。あなたはこの「恕」の一字をどう思うだろうか? どんなに短い旅でも、足を一歩前に出さなければ、終えることは出来ない。そして今、これを疎かにして、一体いつ身に備わるというのだろう? 二千五百年かかって前に進まぬなら、さらに二千五百年先か、それとも五千年先か。

 人類の業はなかなか根深い。


とばっちり

2005年 12月 28日

「上司(事実、はもっと噴飯ものだが)が執拗に叱ることに我慢がなりません!」 ……というメールを受け取り、とりあえず相談者の性格を踏まえて、返答をした。その後、就寝直前に「孟子」を読んでいて、ふと目にとまった一節がある。

「君の臣を視ること手足の如きなら臣の君を視ること腹心の如し」

 手足のように部下を扱うなら、部下は腹・心の様に上司を見る――だがおそらく、この上司は部下を「手足の如く」扱っているつもりなのだろうと私は信じる。ただ、「自分の手足」は労を惜しみ、疲れたら休ませ、ヒマならば遊ばせておくのに、「部下の手足」は労を軽んじ、疲れてもお構いなく、ヒマならばわざわざ仕事を探してくるのだろうことも信じる。

孟子はさらに……現代風に言い換えれば……「部下を犬馬の様に見れば、他人の様に見られ、部下をゴミの様に見れば、仇敵の様に見られる」と表わす。封建主義的には過激と受け止められたようだが、人情に沿い、また、民主主義的だ。…… という批評はさておき、また、「我が身の行意を他人に当てると、跳ね返って我が身に戻って来る(因果応報)」…… という説教臭いことも棚上げしよう。相談者の問いすらも棚上げして抜本的な問題と思えるのは、「自分の行為のその意義を、人は理解しているのだろうか?……結果を理解して手段を選んでいるのだろうか?」ということだ。

 部下を叱っているのか、侮蔑されたくているのか、それとも仇を育てようとしているのだろうか?……為したく思うことと、行いとがちぐはぐであれば、向かうべき未来はどこに行くのか? いや、行き着く先にたどり着く前に、努力が報われぬことに人は思い悩むであろう。……いや、そう思い悩む人の何とも多いことだ。だがこの悩みの原因を作っているの誰なのか? そこに、この問題への助言の難しさがある。が、この場合の相談者は、手段と目的との食い違いを悩んでいるのではない。

 自分の過ちでうまく行かぬと知るなら、自らの行いを正せばよい。だが、人の過ちでうまく行かぬと信じていたら、どう修正できるのだろうか?……つまり、叱る? 叱ってダメならもっと叱る? それでもダメなら……クビにして別な人を雇う? だが雇い人を変えればうまく行くのか?

 この一件に限らず、悩める人々を見て、しみじみと思うことが、求めるものと行いとのちぐはぐさ加減だ。……努力してうまく行かず、人を頼ってうまく行かず、思いが叶わぬ苦しみを人を憎んで癒している

 他を恕ゆるしたくとも、自分自身が責めさいなまれているのである…… 自分自身に。しかし自分を許ゆるせぬものが、他を恕ゆるせるものだろうか?

 他を責める心には、自らを責める心とそこから逃れようとする心との葛藤が潜んでいる。……では、その表面上の問題を片付けたらどうなるか?……さらにその先(両親・祖先の因縁)は?……また、さらにその先(前世因縁)は?―― それらは私の手に余る問題だ。

 本題に戻る。相談者の悩めるところは、私の手に余る問題を抱えた人からのとばっちりだ。私には逃げろとしか言えない。その逃げ方にも色々あるだろうし、解決の方法を様々に考えてみることもとても良いことだと思う。ただ、中途半端な取り組みがかえって災難を招くことを良く踏まえて、手を出すからには相応の覚悟を抱くべきだ。また、逃げるにしても、慌てて自分の足を踏みつけぬように。なにより、同じ災難に遭わぬようになさってください。


三歩あるけば恩を忘れる

2006年 01月 08日

「まったく彼奴は恩知らずだ!」……という話題に付合わされて辟易とした。

 困ったときにはお互い様、と思って骨を折ってみても、助けられる時には泣いて喜んだ人が、いざ助けを求めた時に冷淡な様を見て、裏切られた気持ちになるのは避けがたい。まして、困っているが故に助けを求めているのだ。それを拒絶された時の無念さは容易に忘れがたい。

 説教臭いことを言うのであれば、恩返しを求めての善行はしょせんは打算。打算が裏切られるのはある意味、自業自得ではある。まして人間の記憶は忘れやすく出来ている。更にいえば、多くの人はギリギリで生きていて、恩を返したくても返せないことが多い。

 心情的にいえば、何とか恩を返せといいたいだろうが、摂理として考えるなら、期待する方に無理がある。

 ……等という話をしようものなら、愚痴が矛先を変えて私への非難になるだろうから黙って聞いていた―― その忍耐の中でおぼろげに一つの問題点が見えてきた。

「恩知らず」という表現は、いかなる人を指す言葉か?

 たとえば、金持ちに事業資金を貸したとする。事情により返金を求めたなら、やりくりつけて返すことも出来るだろう。だが、貧しい人に生活資金を貸したとする。期日以前に返せといって、返金させることが出来るだろうか?……つまり、恩を返せる相手に恩を貸しているのか。この問題は、焦げ付くような金の貸し方をした銀行が、大量の不良債権を抱えて倒産に至るのと同様である。

 まして、返却能力のない相手に恩を貸さざるを得ず、また、助けを求めた時に助けを得がたい環境にあるなら、その人は何と貧しい人間関係の持ち主であるのか。そこまで考えると、困るのは自業自得に思える。困った人を助けるよりもむしろ、良い人間関係を築くための一種の「投資」こそが必要ではなかったか。

 何も人助けをするなというのではない。分相応を守れということだ。

・・・・・・

 さらに考えてみる。
 孔子の言葉に、「君子は義に喩り、小人は利に悟る喩る」とあるが、なるほどと思う。つまり、人には「損得抜きで為すべき事(義)」を考える人もあり、また、「損得で為すべき事(利)」を考える人もいるのだ。……義の人ならば、不足はあっても恩知らずと呼ばれることはなかろうし、それ以前に助けを求めることをむしろ恥じて恩を施す機会も少なく、反対に、利の人ならば恩を受けてことさらに歓び、また、お返しを惜しんで恩知らずと罵られるのではないか。

「恩知らず」を罵る人は、恩を施されて喜ぶ様を見て、調子に乗っていたのではないか。それは、恩を売ったのではなく、恩を支払って歓待を受けたのである。それはつまり、ホステス・ホストに入れあげ、貢ぐのと違うのだろうか?

 そこで現実にかえる。……酔客の愚痴を聞くのは場末の飲み屋と相場が決まっている。ホステス・ホスト達は不景気な客を相手にしているヒマはないのだから。……なんだ。よそに貢いで、私はただ働きか。何とこの人も恩知らずな人だ。


非常識の溝

2006年 07月 07日

 失敗しても、反省し、是正すれば、その体験が次の危機に生きる。だが、失敗を相手の所為にして、自分はただ詰るだけなら、その体験を生かせるのは相手だけではないか?

 心の成長速度は人それぞれであるが、世の中には、自分をちゃんと育てている人と、自分を育てずに他人を育てている人がいるようだ。

・・・・・・・

 さて、「あなたは非常識ですね」といわれたら、あなたは何と返事をするだろう?

  • 「あなただって非常識じゃない」……と、対等に接する?
  • 「あなたの方がよほど非常識だ!」……と、見下して接する?
  •  論じるに値せず……と、遙か高みから無視を決め込む?

 なるほど、人々が「常識」と思うことには幅がある。それなのに、一方的に非常識呼ばわりされたら、腹が立つのが人情だろう。……ナンセンスであるが。

 相手が自分を非常識と見なしたとすれば、それはお互いが当たり前と思うことの間に溝があるということだ。……ということは、共通の話をしているつもりでいても、互いの理解に食い違いがあるということなのである。

 端的にいえば、会話になっていないのだ。……会話の様でいて、会話になっていないことが問題なのである。これでは時間の無駄どころか、誤解が誤解を招いてさらに面倒なことになりかねない。

 それに対して打開策が考えられるか……建設的な方法としては、互いに常識を一時忘れて、面倒でも、使っている用語の一つ一つの意味を確認しながら、共通認識を高めていくことである。ようするに、基礎に立ち返ることだ。

 なにしろ、人が常識と思うことには差があるのだから、理解の溝に気がついたら、互いに歩み寄らねばなるまい。そうしてこそ、常識が成立していくのだ。だが、あなたは溝に気がついたとき、相手に歩み寄ることが出来るだろうか?……歩み寄るどころか、相手が溝に気がつき、かみ砕くように説明しだす事に対して、非難してはいないか?

「人を見下したような態度ね!!」と。

・・・・・・・

 さて、大切な議論の途中で「あなたは非常識ですね」といわれたら、あなたは何と返事をするだろう?……むろん、ここでいう「非常識」という直接的な表現は比喩であるが、用語を選び、やんわりと言ったところで、非常識は非常識だ。

  • 「あなただって非常識じゃない」……と、対等に接する?
  • 「あなたの方がよほど非常識だ!」……と、見下して接する?
  •  論じるに値せず……と、遙か高みから無視を決め込む?

……互いの認識のズレを喧嘩にすり替えてしまったなら、それこそ本当の非常識だ。

 それとも、もっともっと基本的(幼稚な)レベルから議論を再開するだろうか? ……いや、それが出来る人であるなら最初から非常識扱いされないかも知れない。


素直……

2006年 01月 15日

 これは強がりではなく、独り言のつもりだ。

 霊界が何を重視しているのかを、浅野氏の著書・訳書の中から読み解こうとすると、どうやら、それは孔子と同じく「恕」の一字に表せるようだ。

 だが私は、(誤解の種かも知れないが)、むしろ老子の「天然自然の道」のほうが正しく思える。……いや、そちらに多くの意義を感じると言うべきか。

・・・・・・・

 自己弁護をかねて背景を説明したい。

 心霊家の多くは、先祖供養を重視する。私の師も、そのまた師も同様だ。その流れの中で、私は敢て一つの疑問を呈し、師や姉弟子らのヒンシュクを買った。

 私は何も供養に反対なわけではない。「やりたければぜひどうぞ!、お手伝いできることが有れば手伝いましょう!!」……という位だ。私が疑問を提示したのは、「何を持って供養というか?」……なのである。

 供養の仕方を知らぬ訳ではない。――私なりに理解するものはある。ただ、供養する心、つまりは尊敬する心というのは、その人なりのものでしかないと思うのだ。つまり、身勝手な人の尊敬と、愛他的な人の尊敬とは、同じ尊敬という表現を使うにせよ、内容は必ずしも同じではない。

 ならば、私にとって供養とは、単に供養することではなく、より良い供養の追求である。矛盾するようではあるが、今日と同じ心で、明日も又供養するのでれば、それは私にとっての供養ではない。ただの現実逃避だ。

 これは他にも当て嵌まると私は信じる。人を想う、人を信ずる、人を愛する。……供養も、愛他的行為も、それをすれば善いというのだろうか? 今日よりも明日、より強く、より深く、それが出来てこそ、地上は魂の修行の場と呼ばれるのではないか。

 強いられてやるのが修行なのか……自ら進んで行ってこそ修行ではないのか?

 人を恕《ゆる》せ、という。……なるほど、世の中には怨みが溢れて、もつれ合った感情が物事の流れを歪めて仕方がない。したがって、許すことの大切さを私も思わなくはない。一方では、許されることを当て込んでワガママ放題の人々も多いので、おいそれと許すわけには行かないとも感じる。

 許すべきか、許さざるべきか……当事者は悩まざるを得ないだろうが、第三者として冷静に考えるなら、別な原因に思い至る。

 なぜ、人に迷惑を掛け、また、人に迷惑を掛けられるのか……だ。つまりなぜ、人を許さなければならぬのだろう? または、人に許しを請わねばならぬのか? 私はそこに不自然なものを感じて仕方がない。

 なぜ、「恕」する事を強いられるのか?――人があまりに迷惑を掛け合うからではないか。……では、なぜ人が周囲に迷惑を掛けるのだろうか?

 天然自然は、あるがままに――ある。抛っておけば、そのままにあるものを、作為の元にわざわざ動かすから崩れやすくもなる。…… ではなぜ動かすのか。……そう、まるで自分の存在を誇示するためのように、わざわざ動かすから崩れやすくなるのではないか。

つまり、作為するから、不安定になるのでは無かろうか。

 そう思えばこそ、「恕」という言葉の不自然さに思い至る。許さねばならないのは、作為を許さざるを得ないからだ。ならば、自然に生きるならば、わざわざ許す必要もないのではないか!?


精神統一会への参加

2005/12/20

05年 12月 19日


Q 「東京・横浜オフ会参加が難しいのだが、修行の方法はないか?」

ここ数ヶ月、同様の相談を何件かいただいております。その打開の一環として大阪でのオフ会開催となったのですが、外国在住者相手では私が出向いてのオフ会開催には難があります。

●たとえば通信霊査(オンライン・精神統一)

当サイト開催当初から、「オンライン・精神統一会」と称して、オフ会に参加できない人宛に霊査を取り、メーリングリストで配信するということをやっております。……が、現在募集はしておりませんし、来年2月中(2006年2月・既に休業)に無期休業の予定でおります。

霊査を取ること自体は、面接せずとも大丈夫なのですが、いかんせん、人間は感情の動物で、発信と受信との間にタイムラグが存在するメールでの交流は、まるで針を箸でつまんで縫い物をするのに似た気遣いを要求されるので、非常にやりにくい部分があります。……むろん、私はこのオンライン精神統一会で様々なノウハウを得たわけで、いずれは整理の上、別な形で活用したいとは思いますが、今すぐ何かを始める予定はありません。

さらに根本問題として、霊査を得ても活用できなければ意味がないわけで、ここに一番の問題があります。いわば、目の付け所が大切なわけですが、そういう指導は、同じものを見ているときにこそ大きなチャンスがあるわけで、同じ時間、同じ環境にない人と視点についての話題を論じることには困難があります。

●道は複数あるが

頂上へと続く山道が一つに限らぬように、修行の道にも複数あることに疑問の余地はありません。しかし、オフ会の意義は指導役がいることです。

山道に例えるなら、案内役が必要な道は、すなわち困難な道であり、敢て困難な道を選ぶことは、つまりそれだけの価値があるということです。

霊的にいうなら、前世に持ち、今生では忘れているものを、取り戻す為には僅かな切っ掛けだけで済みます。…… ですからメールでヒントを差し上げるだけでも意義があるでしょう。でも前世で持たなかったものを、今生で得るには相応の努力が必要で、ここにも収支のバランスが厳然としてあります。……つまり、結果を得るには相応の代償が必要だということです。

●根本的な問題

具体的な質問に答えることはメールでも容易です。しかし全般的な指導となると話は別です。

霊感で千里・万里を超えて指導せよ……というのは、何とも良いアイデアに思えましょうが、人は往々、眼前の者の注意にすら無視し、反発し、素直に受けようとしないものなのです。すなわち、正しく聞き耳を持っている人でなければ、通信指導は意味がなく、正しく聞く耳を持つ人なら、霊媒に頼らなくても、自身の霊覚だけで、相応に向上が出来るはずだからです。


霊査事例: 2005年12月18日(横浜)

2005/12/18

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


事例1

  •  頭に血が上っているのを感じます。つまり、頭を働かせすぎているようです。また、鎌を持ったいわゆる死に神の姿が見えて、『剣難のおそれ』と聞こえました。その上で、『避けようとすると負け(後ろから切られる)。(正面から見据えて)見切れ!』
  • 『動かざること山の如し』……心を揺すらぬことです。『茶碗はひとりでには片付きませんが、人は勝手に片付きます。』…… 自分が為すべき事に心を配り、成さなくとも良いことは任せて、余計な気を揉まぬことです。
  • 『友人の中に、急所と長所を探しなさい。』……友人を題材に、人の長所と急所とを見抜く練習をなさってください。きっと役に立ちます。

事例2

  • 『先走る』つまり結果を心配しすぎて、今現在に対する注意が疎かになっています。足元をよく見ましょう。
  • 『太陽の方向を常に注意しておくこと。』
  • 『舌を慎み、頭を下げる』……苦難を努力で乗り切ってきた人は、その自信から頭の下げ方が足りなくなります。また、舌とは、つまり言葉を慎めということですが、「口を慎め」といわなかったのはやはり挨拶はきちんとなさるべきですから。
  • 内臓の働きが悪くなっているようです。良く身体を揺すること。

事例3

  • 『よく我慢している』……愚痴をこぼしているように見えて、実は、しっかりと忍耐していることを報告しているのですね。よく頑張っていらっしゃいます。

事例4

  •  右肩が非常に凝っていますね。……『「責任を持つ」というのは、「重荷を背負う(比喩ではなく)」ことではなく、深く、広く物事を考えるということです。』……あなたの荷物がすぐに重くなる(余計なものを持ち込みすぎるのは)、責任感の表われ、その代償行動なのです。
  • 『自ら出来ることは思い(考え)、出来ぬ事には手を合わせる(祈る)』……己の問題を神仏に委ねる、というのは、まず最初に甘えからはいるわけですが、だんだんに調和、協力、合一に至るのです。
  • 『大事なこと程、頭より腹で考えるべきです。頭(知識に当て嵌め)で考えることは、直覚する代りの代償行動というべきでしょう。
  • 『役に立たぬ仕事なら、修行の時間を作るがよい』……今まであなたは、社会奉仕に繋がる仕事を心がけていらっしゃいました。しかし、時には喰うために、社会の役に立たぬ仕事もすべき時があります。その時は割り切って、仕事の他に修行を行うようにいたしましょう。

事例5

  • 『あなたはとても気配りの出来る人ですが、その事を面倒にも感じていらっしゃいます。それはあなたの美徳につけ込む人がいるというだけで、あなたの人生が間違っているわけではありません。』
  •  あなたが元気に歩いている姿が見えます。そして改段を駆け上っていきます。……その意味が最初分らなかったのですが、『人として正しい道を真っ直ぐに歩いています』と聞こえました。
  • 『自分らしく』……人と争う時でなく、一人で居るときの自分が大切です。(自分の本来ある姿です。それを堅持して)……後は、風が吹けば吹くなりになびき、なびいても流されず、根をしっかり張ることです。
  •  あなたと子供達が遊ぶ姿が見えます。あなたは子供好きのようですが、素直であることはなぜ難しいのでしょう? (そこにあなたが学ぶべきものがあります)

事例6

  •  イライラを感じます。障害を感じるのは、あなたがよい仕事をしようと思い立ったからで、周囲が悪いわけではありません。(あなたに周囲がついてこないだけです)……無理をすると先輩から嫌われます。『人も自分と同じように考える(価値観が同じとは思わぬことです)とは思わぬことです。』
  • 『不景気ですね』……出口が見えないときはどうしたらいいか? あなたは知っていらっしゃるはずです。
  • 『良書に親しめ』……余暇の使い方のことです。

事例7

  • 『原因は別にあります。』
  • 『人は「独り」と教えられて育ちます。でも、本当でしょうか?』
  • 『人を見守ることは、大人だけが出来ることです。』
  • 『(子供の)泣声だけで、欲するものを理解できてこそ真の母親です。』……人の心への深い洞察を育ててください。
  • 『事業に転機をもたらす中心人物が未だ現れていません』
  • 補足: あなたは自分への霊査を大切にいたします。でも、人は一人で生きているわけではありません。家族が幸せで会ってこそ、あなたの幸せがあります。ならば、本当に必要な霊査は、一体誰に対するものでありましょうか?

事例8

  • 『思うほど答が遠のく。道を見失えば足で探すより他無い。』……知識だけでんかんが得すぎて、事態の変化を感じ取ることが疎かです。
  • 『口うるさいから、頼られぬ。……頼られているように思えても、それはただ、やっかい事を押しつけられているだけだ。』
  • 『転機』……自分で走るから躓きもします。でも電車の中では躓かぬでしょう。転機とはつまり、乗った列車が走り出したようなものです。乗り物に乗ったら危ないから手足を外に出さぬことです。

(旧作)守護霊との絆

2005/12/18

05年 12月 17日


「守護霊との絆を深める方法」について、質問が相次いだ。その方法は人の数だけ、そして、人と人との組み合わせの数だけあると考えるべきだ。それ故に、個人宛の霊査が大切である。とはいえ、そんな精緻な助言以前に、均しておくべき人としての基礎がある。

 さらに応用にも想いが至るなら、守護霊との絆の深め方とは、結局、対人関係の絆の深め方と置換えることが出来る。更にいえば、そもそも守護霊との間には充分深い絆があり、ただ、互いのコミュニケーションに難があるだけのことだ。これまた、対人関係一般の問題にも当て嵌まる。世界には60億もの人がいるのである。その中であなたと関わりを持つのは一体どれだけの人々であろうか? 出会い、交わり、それらを縁と呼ぶ。ただ、私たち人間が認識できるのは、人と人と、いや、魂と魂を結びつける絆のごく表面的な部分でしかない。

 だからこそ本当に嫌であれば互いに離れればよいだろうに、相憎み、相争い、わざわざ苦しめあう関係も生じる。これらは、互いを結びつけている縁を正しく認識しないことから生じる誤解なのである。

 一言に絆を深めるという。……日本語的には間違いではなかろうが、それは、「日はまた昇る」という表現と同等の誤解の種が潜んでいる。そもそも太陽も地球も互いに運動しているのである。対人関係も一方の気持ちだけでは定まらない。それどころか、双方が一致しなければ互いに苦痛を与えるのである。では、どう表現するのが一番妥当かというと、端的な表現でないのが残念だが、「協調ある進歩(共栄)」となるだろう。―― 互いに助け合うことで互いの進歩を促進することが大切なのである。守護霊との関係に於いても、また、人間同士の関係に於いても。

……すると、私がいうべき事も見えてくる。

・・・・・・

 まず、何が大切かといって、聞かされるなら当たり前すぎて大半の人は吹き出してしまうだろうことだが、何よりも大切なのは「聞く耳」だ。

 協調の為には互いの意見を尊重することがとても大切だが、相手の意見を聞かずにどうして尊重することが出来るのだろう? 人は、相手の意見を尊重しているつもりで、多くの場合、自分に都合の良い意見ばかりをえり好みしている。それが過ぎると、自分に都合の悪い言葉は聞き漏らし、さらには憎むようにさえなる。

守護霊との絆……協調ある進歩……何よりも共に歩む意志。

それを阻害するのは他ならぬ、自我……独善的な自我である。

「私は人の意見にちゃんと耳を傾ける!」……結果が伴わぬ努力にはどこかが間違っている。結果から間違いを見いだせぬなら、何を持って行いを正せばよいのだろう?

・・・・・・

次いで大切なのは……後の機会に。


オフ会に参加できない、遠隔地の方へ

2005/12/14

2005年 12月 14日


オフ会に参加できない、遠隔地の方へ

 あなたが変るのに必要なのは、霊媒からの助言ではなく、人生を見つめる別な視点なのです。

霊査を求める方へ

 霊査を喜んでいるつもりで、実は、気に掛けて貰うことを喜んでいる人があります。その差は、ごく僅かに思えるかも知れません。事実、現時点に限ってみるなら本当に僅かな差でしかありません。

 しかし、過去が現在を産み、現在が未来を作るのです。現時点での差が僅かであっても、異なる未来に繋がる今は、最後には大きな違いを生みます。……おそらくはやり直せないほどにも。

不安なき危うさ

 現在を生み出したのは過去、そして現在が未来を生み出します。今、あなたが正しい未来を選ぶ力がないなら、あなたは未来に何の不安も持たなくともあなたの未来は危ういといえます。


不明……見えないということ

2005/12/13

2005年 12月 13日


 解らぬ人には千語を費やしても解らない。千語でも分らぬことを万語も費やせば疲れてますます理解できない。…… ただ努力を重ねることで知ったかぶることだけは上手になる。そう、実力がなければ、小手先のワザに頼るしかない。

 声を大にして! 筆舌を尽して! 図解で! グラフで! プレゼンソフトで!……

 その一方で、解る人には一言、二言でも伝わる。この差は一体どこから来るのだろう?

・・・・・・・

力ずくで問題を解決しようとして……出来ない。

己の力不足に気がついて助けを求め……断られる。

さあどうする? 懇願する? 脅しつける?

助けよと脅しつけて、敵を増やす……ナンセンスな話だ。

でも、懇願しても……めんどくさがられる。

何が足りないのだろう?

でも、何が足りないのかさえも見いだせない。

・・・・・・・

 霊能者ですら、自分の得たインスピレーションの意味を理解しがたいこともある。

・・・・・・・

 頭のいい人は大勢いるだろうに、世のなかなか良くならない……何が足りないのだろう?


 うまく行かない世の中で、自分は一体何が出来るだろう?


恨まれて知る真実

2005/12/13

2005年 12月 12日


 迷って日々を過ごすよりも、僅かでも良いからひらめきを得、覚悟と信念でひらめきを支えて生きていきたい。…… それが私の心霊学徒としての信念。

・・・・・・・

ある人に「人から恨まれています」と霊査を伝えた。……補足も無しに。案の上誤解が生じたようだ。

「人から恨まれている」……私は反省を強いているわけではない。ただ感じるままを伝えただけだ。……というより、何も言わないに等しい。果たして恨まれる側が悪いのか、それとも恨む側が悪いのか。 それが見抜けなければ、「人から恨まれている」という霊査は生かしようがない。

 恨まれる側が悪いのであれば、ちょっとやそっと反省したところで直りはしない。恨む側が悪いなら、反省したところでつけあがるだけだ。……善悪が分らなければ判断できることなど僅かなことだ。そう、善悪が分らなければ後は精進潔斎を進めるしかない。つまり、利己を戒め、努力を重ねることだけである。そしてそれは、心の大切さに気がついたものが当たり前に勉めるべきことである。……まったくいわれるまでもない、いわれて直すようではすでに手遅れだ。

 ……すでに間違いは明らかだが、人は迷うと好悪が露骨になることに今さらながら気がついた。

 分らぬままに心を働かせて、結局、恨まれているというキーワードから余計な方向に心を働かせてしまったのである。さすがにその余計な方向の成果は伏せる。念のためにいえばその結果は、不要なことではないが、建設的なことではない。 また、事実かも知れないが、過去・現在・未来へと繋がる道とも思えない。そして行き詰まりは正しい道ではない。……つまり、私が日常使っている物差しには当て嵌まらぬことではある。

 私は知り合うすべての人にこの物差しを与えたいと思うが、なかなか実現しない。

・・・・・・

 人はそれぞれに意見を持つ。その意見は主に自分の利益に重点が置かれる。――つまり、「人の意見を聞く」ということは「相手の利益を受け入れる努力をする」ということだ。ここがくせ者である。

  無私の人の意見には進んで耳を傾けるべきだ。―― それはきっとあなたのためになる意見だから。

  公平な人の意見にも耳を傾けるべきだ。―― きっとお互いのためになる意見だから。

  だが、利己的な人の意見は聞くだけ無駄だ。―― まるであなたの利益にならぬだろうから。

  そして、意見をいわぬ人には注意すべきだ。――従順に見えて、きっとあなたへの怒りを潜めているから。

 意見の価値はかくも異なる。その重大さに気がついた人なら偽物を見破って、本物を見出すことが出来るはずだ。

・・・・・・

 見た目の親切な人ほど、実は利己的だ。それを称して偽善という。……くだらない、くだらない。真に価値があるものを見出さなければ、この世は虚ろといわざるを得ない。……色即是空。眼に見えるものが「カラ」である生き方はあまりに寂しい。


 追記予定: 無私と公平の違いは?

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