循環の一端、不満と向合う
因縁果
2005年 12月 11日
金持ちと貧乏人の違いを、資産の有無と捕らえるのは表面的すぎるでしょう。私が注目する相違は、「使う以上に稼げるのが金持ち、稼ぐ以上に使うのが貧乏人」というものです。
人を見るとき、その一瞬の状態のみで判断するのではなく、過去と現在とを比べ、現在からいかなる未来へと繋がるかを望画《ぼうかく》する――誰にでも未来を見る力が備わっているのに、欲で眼が眩んで明日が見えなくなっているのです。
どんなに金持ちでも、稼ぐ以上に使えばいずれは財を失います。今は貧乏でも使う以上に稼げば、いずれは財を成します。…… 今はかりそめの姿(当たり前すぎますね)、大切なのはその人の本質であり、その本質は将来にわたる姿なのです。
・・・
今ここに、悩み、苦しみ、葛藤し、模索し、七転八倒している人がいるとします。……その人に救いの手を差し伸べるべきかどうか? 私はその人の過去を見、今を見、そしていかなる未来へと繋がるかを望画《ぼうかく》いたします。
つまり、その人が良い未来を生み出す力を持っているのか……いないのか。
自ら良い未来を生み出す力が無いなら……誰が助けようと、いずれは破滅することでしょう。
裏口が開いている
2005年 12月 22日
無い袖は振れぬ――コップの水が半分になった。それを、「半分も残っている」と見るか、「あと半分しかない」と見るかは見る人の視点によって異なる。では、コップの水がなくなったらどうか? 絶望すべきか、新しい水が汲めると思うべきか。
たとえ楽観的であろうと、悲観的であろうと、今そこに水がないことは変えようのない事実だ。話はそこから始まる。
・・・・・
無料で相談を受ける、まあ、私の生活を脅かさぬ限り、労賃を取ろうとは思わない。だが、霊媒はしょせん受付けに過ぎない。多少のコネはあるが、背後の霊達が、「こんな頼み事は知らん!」といえば、それで終わりだ。あとはどう相談を断るかが私にとっての重大事になる。または、どういう話に持っていけば顕幽双方の納得が得られるかだ。むろん後者がより重要ではあるが程度ものである。
せめてコップに水が半分残っていれば手もある。だが、コップに水が残っていなければ、諦めるか、汲みに行く他ない。それを、自分は動かずに他に水を汲みに行かそうという人の何と多いことか。
これは比喩である。そしてこの比喩は難しい。……だれもが横着なわけではない。だが、努力の方法が解らずに呆然と動けぬものもいる。または焦って慌てているだけで、結局は何も得られぬ者も傍目にはただの横着だ。さらには、努力家にも行動の限界があり、叡智の限界もある。つまりは誰もが横着になるときがあるということだ。
かいつまんでいうと、「人には助けようのない時もある。そんな時、明日のために努力できる人と、出来ぬ人がいる」ということだ。
・・・・・
今年を振り返って、私に頭痛をもたらす問題がある。当然のことではあるが、私もまた修行中の身で、困苦は私を避けては行かない。と同時に、私も得た知識を生かして、難を逃れる努力をしている。……つまり、
今年一年を振り返って、私にとって辛かった、その出来事の切っ掛けの大部分は、我が母の「安請け合い」であった。居候の追出し、 IP電話の解約、迷惑駐車の問題……「ちょっと車を止めさせてください」という申し出を了承したら、毎晩駐めている…… 縁起の玄関にしっかり鍵を掛けているのに、勝手口にはどうしても鍵が掛けられないのである。
これは辛い。何が辛いといって、危機を予測(予知ならばまだあきらめもつく)しつつ、避けられないのは、ゴムひも無しのバンジージャンプだ。かくいう訳で、我が母は、私のことを誇りに思っているらしいが、私の心は絶叫に占められている。
現時点ではどうにもならない。コップが空っぽなのである。少なくとも母のコップは……焦って注ごうとすればこぼれてしまう。
あなたがもしも次のステップに進む機会があるなら、ぜひ興味を傾けて欲しい。試練は知識では避けられない。むしろ知識が試練をより苦しいものとすることを。
・・・・・
横浜での、アフターオフ会(精神統一後の打ち上げ)で、「老義母が火事を起さないか心配です」と、相談を受けた。この時は色々話はしたが……それは別の話題だ。
帰宅後、背後……まあ、敢ていうと、あまり高いレベルの霊ではない……から、こういわれた。
『統一参加者の健全なる人生ですら難しいのに、参加者の家族の健全なる人生など、どう守れというのだ!』
そうなのである。私自身、いわれて改めて気がついたことだが、一部の参加者には喜んで貰ってはいるが、実際問題、ギリギリの状態なのである。……私のコップも必ずしも一杯ではない。半分……いや、四分の一ですらないかも知れない。
業《カルマ》
2005年 12月 27日
静かに暮らしていても、人から恨まれることもある。だがそうして恨まれるのと、乱暴に暮らして人に恨まれるのとは意味が違う。後者は自らの行いが招いた結果であり、禍を招くような行(=業)いを業《カルマ》と呼ぶ。
報復の悪連鎖――なじるからなじられ、殴るなら殴られ、やられたらやり返し、感情は拗れ、もつれ、怒りはますますかき立てられる。拗れれば拗れるほど、後には引けず、行き着く先は不毛な勝利か、恥辱の敗北か…… 多くの犠牲を払って何を得るというのだろう?
怒るのは容易い――肉体に備わった生理的反応は、僅かな昂奮ですみやかに働き出す。そして働きだした生理的反応を収めることには努力が必要なことは、誰もが体験していることの筈。ならばこそ、「怒り」よりも「許す」ことのほうが高度な精神性を必要とすることも理解できるはず。
むしろ、努力が必要であるからこそ、世界には、許しが足りず、怒りばかりが氾濫する……それは必然というより人類が未だに、野生の時代、野蛮な時代にあることの傍証であろう。
このような状態からの脱却こそが、まず第一に人々が目指すべきことだろうと思う。ここで敢て、二千五百年程前の言葉を借りて考えてみよう。
恕
「恕」という字は、現代では日常あまり使わない字であろう。字形だけ見ると「怒」に似ていて、何やら恐ろしげにも思えるが、反対に「思いやり」を意味する字だ。
弟子(子貢)から、「生涯守るべきことを一言に表わしてください」と問われた孔子は、「恕」という字を表わしたという。
(学研漢和大辞典から引用)
『其れ恕か、己の欲せざる所は人に施すこと勿かれ』…… つまり「思いやりを大切にせよ」というのだ。
二千五百年は夢幻か?
約二千五百年前の孔子の言葉は現代にも通用する。それは何と皮肉なことであろうか。かくも孔子は偉大であるのか、かくも人類が愚かであるのか。良し悪しは相対的なものだが、この問いは、業《カルマ》と絡めて考えると絶対的な指針が見えてくる。
「恕」を忘れるから無駄な憎しみを受けるのである。二千五百年も無駄を抱えて人々が生き、その在り方を愚かと見ずにただ孔子を祭り上げるならば、人々は何と無駄な存在となろうか。
真理とは普遍であり、あまねく存在するものである。当たり前にあるものを見ないのが我ら一般の為すことであり、聖人と呼ばれる人々は当たり前にあるものをただ当たり前に見ているだけなのであろう。
無理し、歪めて、その挙げ句に苦しんでいる。……ただ「恕」・思いやる心だけでどれほど多くの苦しみが除かれるのか。それを試す人すらごく僅かだ。思いやりの大切さを説くのは、孔子ばかりでなく、釈迦も、イエスも、マホメットも教えていることなのに。
聖人に教えられて、二千年以上の時があってもなお、人は己の愚かさに苦しむのである。あなたはこの「恕」の一字をどう思うだろうか? どんなに短い旅でも、足を一歩前に出さなければ、終えることは出来ない。そして今、これを疎かにして、一体いつ身に備わるというのだろう? 二千五百年かかって前に進まぬなら、さらに二千五百年先か、それとも五千年先か。
人類の業はなかなか根深い。
とばっちり
2005年 12月 28日
「上司(事実、はもっと噴飯ものだが)が執拗に叱ることに我慢がなりません!」 ……というメールを受け取り、とりあえず相談者の性格を踏まえて、返答をした。その後、就寝直前に「孟子」を読んでいて、ふと目にとまった一節がある。
「君の臣を視ること手足の如きなら臣の君を視ること腹心の如し」
手足のように部下を扱うなら、部下は腹・心の様に上司を見る――だがおそらく、この上司は部下を「手足の如く」扱っているつもりなのだろうと私は信じる。ただ、「自分の手足」は労を惜しみ、疲れたら休ませ、ヒマならば遊ばせておくのに、「部下の手足」は労を軽んじ、疲れてもお構いなく、ヒマならばわざわざ仕事を探してくるのだろうことも信じる。
孟子はさらに……現代風に言い換えれば……「部下を犬馬の様に見れば、他人の様に見られ、部下をゴミの様に見れば、仇敵の様に見られる」と表わす。封建主義的には過激と受け止められたようだが、人情に沿い、また、民主主義的だ。…… という批評はさておき、また、「我が身の行意を他人に当てると、跳ね返って我が身に戻って来る(因果応報)」…… という説教臭いことも棚上げしよう。相談者の問いすらも棚上げして抜本的な問題と思えるのは、「自分の行為のその意義を、人は理解しているのだろうか?……結果を理解して手段を選んでいるのだろうか?」ということだ。
部下を叱っているのか、侮蔑されたくているのか、それとも仇を育てようとしているのだろうか?……為したく思うことと、行いとがちぐはぐであれば、向かうべき未来はどこに行くのか? いや、行き着く先にたどり着く前に、努力が報われぬことに人は思い悩むであろう。……いや、そう思い悩む人の何とも多いことだ。だがこの悩みの原因を作っているの誰なのか? そこに、この問題への助言の難しさがある。が、この場合の相談者は、手段と目的との食い違いを悩んでいるのではない。
自分の過ちでうまく行かぬと知るなら、自らの行いを正せばよい。だが、人の過ちでうまく行かぬと信じていたら、どう修正できるのだろうか?……つまり、叱る? 叱ってダメならもっと叱る? それでもダメなら……クビにして別な人を雇う? だが雇い人を変えればうまく行くのか?
この一件に限らず、悩める人々を見て、しみじみと思うことが、求めるものと行いとのちぐはぐさ加減だ。……努力してうまく行かず、人を頼ってうまく行かず、思いが叶わぬ苦しみを人を憎んで癒している。
他を恕《ゆる》したくとも、自分自身が責めさいなまれているのである…… 自分自身に。しかし自分を許《ゆる》せぬものが、他を恕《ゆる》 せるものだろうか?
他を責める心には、自らを責める心とそこから逃れようとする心との葛藤が潜んでいる。……では、その表面上の問題を片付けたらどうなるか?……さらにその先(両親・祖先の因縁)は?……また、さらにその先(前世因縁)は?―― それらは私の手に余る問題だ。
本題に戻る。相談者の悩めるところは、私の手に余る問題を抱えた人からのとばっちりだ。私には逃げろとしか言えない。その逃げ方にも色々あるだろうし、解決の方法を様々に考えてみることもとても良いことだと思う。ただ、中途半端な取り組みがかえって災難を招くことを良く踏まえて、手を出すからには相応の覚悟を抱くべきだ。また、逃げるにしても、慌てて自分の足を踏みつけぬように。なにより、同じ災難に遭わぬようになさってください。
三歩あるけば恩を忘れる
2006年 01月 08日
「まったく彼奴は恩知らずだ!」……という話題に付合わされて辟易とした。
困ったときにはお互い様、と思って骨を折ってみても、助けられる時には泣いて喜んだ人が、いざ助けを求めた時に冷淡な様を見て、裏切られた気持ちになるのは避けがたい。まして、困っているが故に助けを求めているのだ。それを拒絶された時の無念さは容易に忘れがたい。
説教臭いことを言うのであれば、恩返しを求めての善行はしょせんは打算。打算が裏切られるのはある意味、自業自得ではある。まして人間の記憶は忘れやすく出来ている。更にいえば、多くの人はギリギリで生きていて、恩を返したくても返せないことが多い。
心情的にいえば、何とか恩を返せといいたいだろうが、摂理として考えるなら、期待する方に無理がある。
……等という話をしようものなら、愚痴が矛先を変えて私への非難になるだろうから黙って聞いていた―― その忍耐の中でおぼろげに一つの問題点が見えてきた。
「恩知らず」という表現は、いかなる人を指す言葉か?
たとえば、金持ちに事業資金を貸したとする。事情により返金を求めたなら、やりくりつけて返すことも出来るだろう。だが、貧しい人に生活資金を貸したとする。期日以前に返せといって、返金させることが出来るだろうか?……つまり、恩を返せる相手に恩を貸しているのか。この問題は、焦げ付くような金の貸し方をした銀行が、大量の不良債権を抱えて倒産に至るのと同様である。
まして、返却能力のない相手に恩を貸さざるを得ず、また、助けを求めた時に助けを得がたい環境にあるなら、その人は何と貧しい人間関係の持ち主であるのか。そこまで考えると、困るのは自業自得に思える。困った人を助けるよりもむしろ、良い人間関係を築くための一種の「投資」こそが必要ではなかったか。
何も人助けをするなというのではない。分相応を守れということだ。
・・・・・・
さらに考えてみる。
孔子の言葉に、「君子は義に喩り、小人は利に悟る喩る」とあるが、なるほどと思う。つまり、人には「損得抜きで為すべき事(義)」を考える人もあり、また、「損得で為すべき事(利)」を考える人もいるのだ。……義の人ならば、不足はあっても恩知らずと呼ばれることはなかろうし、それ以前に助けを求めることをむしろ恥じて恩を施す機会も少なく、反対に、利の人ならば恩を受けてことさらに歓び、また、お返しを惜しんで恩知らずと罵られるのではないか。
「恩知らず」を罵る人は、恩を施されて喜ぶ様を見て、調子に乗っていたのではないか。それは、恩を売ったのではなく、恩を支払って歓待を受けたのである。それはつまり、ホステス・ホストに入れあげ、貢ぐのと違うのだろうか?
そこで現実にかえる。……酔客の愚痴を聞くのは場末の飲み屋と相場が決まっている。ホステス・ホスト達は不景気な客を相手にしているヒマはないのだから。……なんだ。よそに貢いで、私はただ働きか。何とこの人も恩知らずな人だ。
非常識の溝
2006年 07月 07日
失敗しても、反省し、是正すれば、その体験が次の危機に生きる。だが、失敗を相手の所為にして、自分はただ詰るだけなら、その体験を生かせるのは相手だけではないか?
心の成長速度は人それぞれであるが、世の中には、自分をちゃんと育てている人と、自分を育てずに他人を育てている人がいるようだ。
・・・・・・・
さて、「あなたは非常識ですね」といわれたら、あなたは何と返事をするだろう?
- 「あなただって非常識じゃない」……と、対等に接する?
- 「あなたの方がよほど非常識だ!」……と、見下して接する?
- 論じるに値せず……と、遙か高みから無視を決め込む?
なるほど、人々が「常識」と思うことには幅がある。それなのに、一方的に非常識呼ばわりされたら、腹が立つのが人情だろう。……ナンセンスであるが。
相手が自分を非常識と見なしたとすれば、それはお互いが当たり前と思うことの間に溝があるということだ。……ということは、共通の話をしているつもりでいても、互いの理解に食い違いがあるということなのである。
端的にいえば、会話になっていないのだ。……会話の様でいて、会話になっていないことが問題なのである。これでは時間の無駄どころか、誤解が誤解を招いてさらに面倒なことになりかねない。
それに対して打開策が考えられるか……建設的な方法としては、互いに常識を一時忘れて、面倒でも、使っている用語の一つ一つの意味を確認しながら、共通認識を高めていくことである。ようするに、基礎に立ち返ることだ。
なにしろ、人が常識と思うことには差があるのだから、理解の溝に気がついたら、互いに歩み寄らねばなるまい。そうしてこそ、常識が成立していくのだ。だが、あなたは溝に気がついたとき、相手に歩み寄ることが出来るだろうか?……歩み寄るどころか、相手が溝に気がつき、かみ砕くように説明しだす事に対して、非難してはいないか?
「人を見下したような態度ね!!」と。
・・・・・・・
さて、大切な議論の途中で「あなたは非常識ですね」といわれたら、あなたは何と返事をするだろう?……むろん、ここでいう「非常識」という直接的な表現は比喩であるが、用語を選び、やんわりと言ったところで、非常識は非常識だ。
- 「あなただって非常識じゃない」……と、対等に接する?
- 「あなたの方がよほど非常識だ!」……と、見下して接する?
- 論じるに値せず……と、遙か高みから無視を決め込む?
……互いの認識のズレを喧嘩にすり替えてしまったなら、それこそ本当の非常識だ。
それとも、もっともっと基本的(幼稚な)レベルから議論を再開するだろうか? ……いや、それが出来る人であるなら最初から非常識扱いされないかも知れない。
素直……
2006年 01月 15日
これは強がりではなく、独り言のつもりだ。
霊界が何を重視しているのかを、浅野氏の著書・訳書の中から読み解こうとすると、どうやら、それは孔子と同じく「恕」の一字に表せるようだ。
だが私は、(誤解の種かも知れないが)、むしろ老子の「天然自然の道」のほうが正しく思える。……いや、そちらに多くの意義を感じると言うべきか。
・・・・・・・
自己弁護をかねて背景を説明したい。
心霊家の多くは、先祖供養を重視する。私の師も、そのまた師も同様だ。その流れの中で、私は敢て一つの疑問を呈し、師や姉弟子らのヒンシュクを買った。
私は何も供養に反対なわけではない。「やりたければぜひどうぞ!、お手伝いできることが有れば手伝いましょう!!」……という位だ。私が疑問を提示したのは、「何を持って供養というか?」……なのである。
供養の仕方を知らぬ訳ではない。――私なりに理解するものはある。ただ、供養する心、つまりは尊敬する心というのは、その人なりのものでしかないと思うのだ。つまり、身勝手な人の尊敬と、愛他的な人の尊敬とは、同じ尊敬という表現を使うにせよ、内容は必ずしも同じではない。
ならば、私にとって供養とは、単に供養することではなく、より良い供養の追求である。矛盾するようではあるが、今日と同じ心で、明日も又供養するのでれば、それは私にとっての供養ではない。ただの現実逃避だ。
これは他にも当て嵌まると私は信じる。人を想う、人を信ずる、人を愛する。……供養も、愛他的行為も、それをすれば善いというのだろうか? 今日よりも明日、より強く、より深く、それが出来てこそ、地上は魂の修行の場と呼ばれるのではないか。
強いられてやるのが修行なのか……自ら進んで行ってこそ修行ではないのか?
人を恕《ゆる》せ、という。……なるほど、世の中には怨みが溢れて、もつれ合った感情が物事の流れを歪めて仕方がない。したがって、許すことの大切さを私も思わなくはない。一方では、許されることを当て込んでワガママ放題の人々も多いので、おいそれと許すわけには行かないとも感じる。
許すべきか、許さざるべきか……当事者は悩まざるを得ないだろうが、第三者として冷静に考えるなら、別な原因に思い至る。
なぜ、人に迷惑を掛け、また、人に迷惑を掛けられるのか……だ。つまりなぜ、人を許さなければならぬのだろう? または、人に許しを請わねばならぬのか? 私はそこに不自然なものを感じて仕方がない。
なぜ、「恕」する事を強いられるのか?――人があまりに迷惑を掛け合うからではないか。……では、なぜ人が周囲に迷惑を掛けるのだろうか?
天然自然は、あるがままに――ある。抛っておけば、そのままにあるものを、作為の元にわざわざ動かすから崩れやすくもなる。…… ではなぜ動かすのか。……そう、まるで自分の存在を誇示するためのように、わざわざ動かすから崩れやすくなるのではないか。
つまり、作為するから、不安定になるのでは無かろうか。
そう思えばこそ、「恕」という言葉の不自然さに思い至る。許さねばならないのは、作為を許さざるを得ないからだ。ならば、自然に生きるならば、わざわざ許す必要もないのではないか!?