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失せ物探し……焦るな!

2005/11/17

2011年1月23日

ここひと月の間に、失せ物探しの問い合わせを何件か頂いた。どうやら、検索して、このページにたどり着いた結果らしい。

連絡フォームに記載してあるとおり、私は現在、新規の心霊相談を受けていない。

最近は、当サイトのページ更新もままならない状況なので、お問い合わせをいただいてもお返事できるかどうか分からないので、ご理解いただきたい。

・・・というか。

もともと当ページは、「失せ物を探すなら焦るなかれ」という趣旨で書き上げたものである。にも関わらず、連絡フォームに書いてある「注意書き」に気付かないなら・・・なるほど、失せ物を見つけるのは難しかろう。

注意書きを無視しての結果のメールであるなら・・・まあ、もう済んだ話である。

困った結果、相手のことが気づかえない、というならあえて、ここに記載したい。

無くした「物」だけ、見つかれば良いの?

・・・むろん、何が大切かは人それぞれで、私が決め付けることではないが。



05年 11月 16日

失せもの探しの相談を受けた。……困っているだろうからと、急いで統一してみたが、何やらあわてふためいている光景が見えるだけで、その先が見えない。それでも先に進もうと気合いを入れた瞬間にストップがかかった。

『手伝ってはダメ!』

『心を落ち着ける事もしないで、人に尋ねるのはいけません。自分が慌てていれば、手伝う人に迷惑がかかります。いくら相手が真心を籠めてくだすっても、自らが慌てていればそれを落としもするでしょう。

本当に助けが必要であるなら、せめて深呼吸一つ、仏前・神棚に頭を下げるか、東(朝日の登る方角)に向かって礼拝し、単に心を落ち着けるだけでなく、心に禊をしてから人に打明をすべきです。……つまり、邪な心で、怠惰な心で、不都合な心で、相手を煩わせるのではないと、神・仏にも自分にも誓ってみせるべきです。

それもしないで、霊に助けを求めたら、助けてくれるのは礼儀正しい霊ではなく、下心ある邪な霊か、礼儀知らずの愚かな霊でしかありません。

救いを求めている人は、兎角、「救いが遅い」、「救い方が下手」などと小言ばかりが多すぎます。でも、なぜ苦境に陥ったのでしょう? そこに自分の判断力の拙さがあることに気がつかなければ、それこそ救いようがありません。むざむざ苦境に陥った人の都合・不都合で、慌てるばかりで急いで飛び込めばたちまち二重遭難に陥るばかりです。

なぜ救われないのか?……ではなく、なぜ苦境に陥るのか、を考えるべきなのです。その原因の一端に、「慌てること」も含まれております。だからこそ、まず、落ち着くことから始めなければいけません。さもなければ、助けようとした人まで、慌てて事をし損じるでしょう。』

・・・・・・・・

まあ、慌てることだけが原因ではあるまい。なぜ慌てなければいけないのか……遅れているからだ。または、煽られているからだ。慌てるというのは原因のようで、実は縁。失せ物はその結果に過ぎない。すると原因を放置したまま、結果だけを弄ろうとして対応を間違うと、無事が小難、小難が大難に転じてしまう。

・・・・・・・・

入浴後、改めて精神統一してみたら、『見つかるが、無理に探すな』と聞こえたので、そのままを伝えた。……だが、真に探すべきは、失せ物よりも、自分の心のありかかも知れない。


補足

05年 11月 18日

ネットで相談に乗っていて空しく感じるのは、そのレスポンスの悪さだ。当たりはずれが返ってこなければ霊感を磨くのに不自由する。

さて、失せ物探しの件だが、メールでの返答の翌日、拾得物として連絡があったとのこと。つまり、見つかったわけだ。

ところで、この相談の本質は、カードが悪用されないように停止の連絡をすべきか……というニュアンスが含まれていた。まあ、クレジットカードならば保険があるし、キャッシュカードならば暗証に守られているはずだ。と同時に、慌てている友人に対して、その旨を連絡もした。「慌てないで!」と。まあ、ここまではよい。

探す際にあまりあちこちをかき回すと、見つかる代りに別なものがどこかに紛れ込むかも知れない。実はその注意もしていたが、それについては、まだ結果が出るには至らぬであろう。

ただ、ちょっと残念なのは、私は「無くしたと思い込んでいるだけで、実は手元にある」と感じていたのだが、実際には落としていたことだ。

はぁ。……思想の受信には相当自信があり、関連の霊視も充分なのだが、どうも透視は苦手だ。で、言い訳がましいが、ある先達からは、「透視に走ると寿命が縮む」と教えられていたのだが……むろん、焦って探している友人に対して、落としているよというのは危険ではあろう。

私と背後霊との信頼関係も、この程度のものなのだろう。


捜し物

2006年06月15日

『捜し物が見つからない時は、自分が一番あって欲しくないところに置いてある。』

……悩み事の解決策も、思い人(恋人)に惚れた理由にも、この定理は当て嵌まる。

たとえば、悩み事の解決策がどうあっても見いだせないという人……単に頭が悪くて分らない場合もなきにしもあらずだ。素直すぎて裏読みできずに答が分らない者もいる。だが、高学歴であったり、才能に恵まれていても答が分らないというのは、ほぼこの定理に支配されていると見て間違いない。

分らないのではなく、分りたくないのだ。……つまり、欲しいのは自分も改めて夢を見られるような言い訳であって、覚醒するような真実ではないのだ。

思い人に惚れた理由が分らないという人……類魂・ソウルメイトであるとかという理由も考えられなくはない(理論的には。だがそういう事例を私は見たことがない)。「前世の因縁」も有り得なくはない。……だが、やはり、分らないのではなく、分りたくないのだと感じる。

自分の欠点がうまく隠れる相手であったり、相互補完的であったり、劣等感を隠せる相手であったり……配偶者とは補い合うべき相手であるから、以上の事情は決して否定的な要件ではないが、行過ぎればそれこそ、因縁は因縁でも、個人の因縁解消の機会としての配偶者に見える。

毒を薄めれば薬になり、薬も飲み過ぎれば毒となるの類である。

……などといえば、無粋な! と反感を持たれる方もいるだろう。いや、私ほどのロマンチストはそうそういないと思うのだが……夜には夜に相応しいロマンスが、昼には昼に相応しいロマンスがあるのだ。私が論じているのは……

眼をつぶって歩けば穴に落ちる。眼をつぶった人に手を引かれたら一緒に穴に落ちる。……本当に理由が分らないのか? もしそうなら、それが原因で躓くことを恐れるべきだ。

どう修行するか?

2005/11/15

どう修行するか?

2005年 11月 15日

Q「最近、統一会がマンネリ化しつつある気がします。良き道をお示し下さい」

意図的な物――修行に形式を取入れると、進み具合の如何に関わらず、形式を守ることに満足しがちだ。特に、理解していない者ほど形式に従うことに満足してしまう。現状は自覚を促している時期である。

Q「オフ会参加が困難な遠隔地の方から、個人的な修行の方法について質問を受けました」

某女の守護霊より……「それについては、私がお話しいたします。」

・・・

 まず、池に指輪を落としたものと想像してみてください。ある人はがむしゃらに手探りで探すでしょう。またある人は息を凝らして水面をのぞき込み、さざ波が収まった水面からおよその指輪の位置を捕らえて、それから手を差し伸べて指輪を拾うでしょう。

 むろん水は光の屈折が異なりますから、思う位置へと指を運ぶのは容易ではありません。ですが、この比喩のいわんとすることはもっと精神的な答です。

 迷った時、困った時、自らの能力を超えた出来事と出会った時にあなたはどうするのか? この時の態度こそが、心霊主義者とそうでない者との差なのです。

 地上世界は助け合いで成り立っています。いえ、争いで成り立っているという見方もありますが、ならばなおのこと助け合うことが大切であるといえるのです。さらに心霊主義者の理念を再認識するなら、死者と生者とが助け合わずして、どうして地上の生が魂の向上に繋がるというのでしょうか?

 むろん、努力は大切です。でも、ただ努力するだけならば真の心霊主義者とは申せません。最初に心を静め、己が為すべき事をしっかりと見据えた上で努力する。努力の合間、合間にも一時は手を休め、目指すことと努力の方法が違ってはいないかを確認し、限界のある物質的肉体に無理がかかっていないかと点検する。…… そういう生き方が出来てこそ真の心霊主義者なのです。

 ただ信じるだけ、頼るだけで、何ら生かす努力がないなら、それは心霊主義者ではなく、心霊信者、心霊教徒に過ぎません。つまりそれは偉大な理念の協力者ではなく、他者の進歩向上に寄生する扶養家族に過ぎないのです。

・・・

 ここで、一つ大切なことがあります。心霊を学んだ人は自らも霊感を磨こうといたします。そしてしばし……しばし精神を統一し、心を澄まして異界からのメッセージを得ようと努力し、そしてたちまち諦めます。しかし、答のない物は答えようがないのです。…… 上述の例で行くと池の水面を覗いても指輪が見つからなければどうすべきでしょう? 泥に埋まったと疑うべきか、思わぬ所までとんでいったと思うべきか? はたまた自分には見つからぬと諦めるのか?

 心霊主義者が霊媒に指導を仰ぐのは、共同でカンニングをするためではありません。そこに無いことを確認するためなのです。そして在りかの探し方の指導を得る為なのです。

 無い答えを諦めることは利口なことです。ですが、自分の霊的才能を諦めることは、顕幽両界にわたる修行の旅の否定となるのです。もしもあなたが何ら霊的センスを発揮できないというのであれば、それはつまりあなたはごく初歩的なトレーニングの最中、つまり、修行の旅の代りに、旅に必要な基礎的知識の習得中であるということなのですから。

 忘れてはいけません。あなたが霊的センスを発揮できないのは見捨てられたからではなく、あなたが諦めているからです。あなたがヒントを得られないのは、あなたが見捨てられたからではなく、他者が答えられない質問をするからです。

 人生に責任を持つべきはまさに当事者、当事者なのです。他の誰でもありません。するとどうしても、他者には決して答えられない質問に心囚われることもあるでしょう。問うても答が得られぬ事に心を悩まさぬ事です。それはつまり現実からの逃避でしかありません。だから、答が得られなければ質問を変えてみることです。すると糸口が掴めるかも知れません。… …いつかは。

 多くの人は歪んだ問いを延々と続けて、答が得られぬと天を恨み、恨みの念がさらに必要なる答を隠すことに気がつきもいたしません。心を清らかに保つことの大切なのはそういうわけです。

「やはりダメだ」……という言葉は、つまり努力を放棄する者の言い訳です。世の人に霊感の無い人はいません。霊感という言葉に語弊があるなら、地上に直覚のない人はいないのです。……ただ、真実からあえて目を背ける人と、下らぬ事にばかり目を向けて、大切な物を見落とす人がいるだけのこと。

 心霊主義者とは、大切なことから目を背けぬ人をいいます。何よりも魂のあるべき姿から目を背けぬ人をいうのです。

 最後に……世の中に霊感の無い人はいません。それゆえに「自信とはつねに守護霊と結びついている事」という見方をお伝えしておきます。大切なのはコミュニケーションの手段・手法ではありません。それは努力で補えることなのですから。でも、あなたが守護霊を信じないのなら、守護霊も力を発揮出来ぬ物なのです。それもまた、答えられぬ事の一部なのです。


どう修行するか 2

2005年 11月 15日

某女の守護霊より……

Q 「心霊主義者であることは重要であるのか?」

 人生において心霊主義は必須の答ではありません。私の庇護者にも心霊主義者であることを強いはしません。ただ、地上に死者と手を携えて修行・向上の道を歩もうとするの人がいるのと同様、死者の中にも修行・向上の手段として、地上の人々を助けることを選ぶ者達がいるのです。

 つまり、心霊主義者であるかどうかを重視するのは、霊界にある「霊心主義者」なのです。むろん、この重視とは単なる主義思想の異同ではありません。互いにどれだけ共鳴・協調するかというものなのです。

 一人でコツコツと学ぶのも良いでしょう。でも、助け合うことで人はより広く、より客観的に学ぶことが出来ます。これはとても魅力的な選択肢です。


Q 「人と共に学んで、他者の間違いを鵜呑みにしたらどうなるでしょう?」

 間違うことも学びです。間違いを正すことはもっと大きな学びです。何よりも悪いことは無関心であること……違いますか? 心霊主義に限らず当たり前のことかと思います。


Q 「それぞれの求めることと、行うことの違いが対人関係の重荷です」

 違いに気づこうともせず、違いを思い知った時に「裏切られた!」と大騒ぎする。……確かに重荷でしょうね。素直に与えられた物だけで満足し、足りないものは自らの努力で得るようにすれば、きっと無様なことをせずに済み、無様なことを恥じることもなく生きることが出来るのに。

 でも私の庇護者はそういうことはしません。


Q 「かつての私は急ぎすぎたのでしょうか?」

 あなたに限らず、皆、あまりに不足を来していたのです。飢えているのに急に食べるから腹痛を起してしまう…… 足りないぐらいがちょうど良いのです。

 広い世の中、足りなければ大騒ぎする人があまりに多すぎます。でも、自らの努力もなく足りぬと騒ぐ者に真剣に応対することも愚かといえます。


Q 「次のステップへのヒントをいただけますか?」

 これは私の庇護者一人に宛てるものではなく、あなたのオフ会参加者一般にあてはまることです。

 まだまだ不平不満を吐き出さねばなりません。確かに足りぬものはあるでしょう。ですが、充足すれば人は往々安穏としてしまいます。適度に足りず、でも、充足する希望がある状況こそが在家の修行者にとって満足する環境なのです。

 それこそ、廬氏ではありませんが、足りぬ事が問題ではなく、充足する希望のないことこそが問題、いえ大問題なのです。それを、少々の不足で不平不満をいうなら、充足の希望が遠のいてしまいます。


守護霊のこと

2005年 11月 18日

上記「どう修行するか 2」において、通信をくれた某女の守護霊についての問い合わせを受けました。

参考: 「失せ物探し……焦るな

・・・

「溺れる者は藁をもつかむ」と申しますが、溺れている人に不用意に泳ぎ近づくと、必死にしがみつかれて、水泳のベテランでも共に溺死することがあります。

 同様に、悩める人に安易に守護霊からの通信を与えたりすると、しがみついて大変なことになり兼ねません。自分の気に入るメッセージを得るまでは延々と愚にもつかないことを質問攻めに質問攻めし、その返事が小言ばかりだと、心の空虚感を感じた相談者は、それこそ、明日の天気から、時事問題の細々としたことまで質問攻めにし、質問のくだらなさに辟易とすると、ますます質問がエスカレートするという悪循環に陥ります。

 水泳中にしがみつかれたら、わざと水に潜るとしがみついた人が手を離すそうですが、質問者が緊張しているときには、わざと回答をずらすのも霊媒が共倒れしないためのテクニックの一つです。

・・・

 さて、霊感の仕組みを知らぬ人は、必死な問いかけには相応の回答がもたらされると誤解しがちですが、その必死さは想念(誤った希望=妄想)の壁を作ってむしろ交霊の邪魔になります。ですから、必死な人が回答を得るのは疲れ果てた末のことです。疲れて想念の壁を維持できなくなって始めてインスピレーションが得られるわけです。……これでは非常に疲れます。

 世の中には、「私がこんなに必死に祈っているのに守護霊は応えてくれない!」という方もいらっしゃいますが、その心情は同情に値するとしても、仕組みから見れば無理難題に等しいのです。もっとも、一種ヒステリー体質的な人ならば、トランス状態にはいることでより高次なインスピレーションに浸れるかも知れませんが、よほど前世の因縁などに恵まれない限りは難しいでしょう。

 これに対して霊媒は、たった一度祈って、あとは待つものです。たとえ悩める人に同情してしつこく祈ったところで出来ないものは出来ません。かえって自らを想念の壁に押し込めて一時霊感が失われるのがオチです。……この、待つことが出来ない人が、インスピレーションから遠い生き方をしているわけです。

 とにかく、守護霊の返答を受けるのに重要なのは、動機よりもむしろ手段なのです。だから、悩める人が霊媒に相談するなら、どんなに焦っていても(どうせ相談中には何も出来ないのだから)五分でも、十分でも、落着き、精神統一する必要があります。

 困っているから助言が得られるのではなく、心を落着け、静かに祈れば、いつでも可能な限り手助けを与えてくれるのが守護霊です。しかし、心が乱れ、大騒ぎをしているなら、たとえ問題解決に可能な手段がたくさんあっても、それを伝達する手段を失ってしまうのが守護霊なのです。


霊査事例: 2005年11月13日(横浜)

2005/11/13

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


事例1

  • 『心霊家にあるまじく……(日常生活中に)意識が強すぎます』……もっと直覚を生かす生き方が望ましいのです。ですが、意識が強くなりすぎるのは体質(体癖)的な問題もあります。
  • 『会社を信じていないから、(むだな気配りが必要となり)疲れるのです。』……警戒心が先走っているから、己の直覚を信じる以前に意識が活性化してしまうのです。
  • 『物事には表裏があって骨(芯)まである。表・裏……それだけに気配りすれば良いというわけではない。』……問題、特に人間が主体の問題には、その人の裏面も問題になりますが、もう一つ忘れていけないのは、その人間の裏表が生じる原因、その人を導く働きなのです。まあ、端的にいえば、裏表のある人間を理解するのは難しいようでいて、裏表がある原因まで詮索すると扱いやすいということです。

事例2

  • 『物の見方を広く持つことです。』
  • 『寒さで仕事をしくじらぬように(いつまでも若くないのですから)』
  • 『商売とはつまり人生の一手段、手段には最善はあっても唯一はありません。』…… 目的は唯一でもそこに至る手段は無数の選択肢があります。選択肢がある場合に、答を求めるのはかえって目を塞ぐことに繋がります。
  • 『妻を愛し、仕事に尽し、友には誠意を、親には慈しみを』……当たり前すぎますので、この霊査への解釈は保留します。
  • 『今日、微笑んでいるからといって、明日もご機嫌だとは限らない。今、目にする現象には、過去があり、未来へのヒントがあり、そして裏があって、骨(芯)がある。』……今現在は、過去と未来とに繋がっています。が、それだけでなく、感覚で把握できる表面と、推理で感じ取るべき裏面とがあります。感じるべきものはとても多いのですが、過去と未来と、裏と表とは一つに繋がっている――芯(骨)があるのです。

事例3

  • 『重心がおかしいと身体を動かすときにぶれるのです。(ぶれる……思うとおりに結果が出なければ)据わりの良い場所を見出すことです。』… …私には合気道の比喩で聞こえましたが、あなた向けにはゴルフの比喩が適切なのでしょう。つまり良いスイングをするには適切な重心管理が大切、ということです。物事がうまく行かないとき、必要なのは努力を重ねることよりも、方法を改めることです。もう一つ注意すべきは、目的に見合った努力です。つまり、行動・動機の重点が適切でなければ良い行動が出来ないのです。
  • 『準備が出来ればパタパタと片付きます』……物事が動かないのはまだ準備が出来ていないからです。
  • 『水商売』……謎かけです。
  • 『為すべき事には、表があり、裏があり、骨がある。表は上手に、裏はしっかり、そして覚悟を持ってやり抜く。自分がしっかりしなければ手綱は引けぬ。馬に負ければ騎手にはなれぬ。』……人間の裏表など重要ではありません。大多数の人々は考えて生きるのではなく、突き動かされて生きているのですから。つまり、人の芯を見抜き、芯を扱うことが大切なのです。

事例4

  • 『人間関係――小さく思っても案外根深い物です。』……一人の中年男性が見えたのですが、どうも生きている人にも死者にも見えます。これはつまり、死者がそそのかしているのでしょう。またどうもあなたは鷹揚で人が強く恨むことを信じられない傾向があります。人の恨みを過小評価しないことです。
  • 『誰もがあなたのように鷹揚ならば良いけれど。でも、鷹揚にばかりはいられません。』…… 苦労が過ぎれば応用にばかりかまけていられません。あなたは鷹揚な人ですが、鷹揚でいられるのは幸せだったからです。神経質なのは必ずしも相手の霊格の低さを意味しません。
  • 『可もなく不可もなく。ただ、平穏さにモチベーションを下げないようにご注意を』……今のところ大きな生活上の障害は見えません。
  • 『(君の仕事は)骨(ソフトウエア)を作る仕事だが、骨には身が付き、皮がつくものだ。身と皮とを知ってこそ骨(芯)が作れるのに、身と皮とに無関心ではおれぬ。なお、骨が太い(余裕がある)というのは、大きくなれる余地があるという美点だ。』…… 仕事にばかり関心を持ってその使い方に関心を向けないと、役に立たぬ仕事をすることになります。

ひねくれる

2005/11/12

「ひねくれる」というのは誰に対する裏切りか――ひねくれてみても現実には逆らえぬ。ひねくれてみても現実は変らぬ。ひねくれてみても同情は受けぬ。ひねくれてみても事態は悪くなるばかりだ。

 ひねくれ者は、強がりばかりを重ねて、事態の悪さを放置する。時機を失した物事は覆すことが難しい。

「ひねくれる」というのは、自分を裏切る行為である。自分を味方にできぬなら、どんな簡単なことすら実現は叶わぬ。……そして、より身近な者の裏切りほどその害は多いものなのだ。すなわち自分自身の裏切りよりもひどい裏切りはないのである。

Q 「でも、素直に生きるのは難しい」

 水が高きから、低きへ流れるように、自然の摂理に沿って生きるなら難しいことは何もない。だが、不自然は、容易に行えぬし、力を抜けばたちどころに元に戻るものである。

 素直に生きるとは、いったい何に対して素直になるというのか? 摂理か、己の慾か? 真理か、己の愚かさか?


2005年 11月 12日

憎まれて幸福を得る

2005/11/11

2005年 11月 11日


 人を憎み、そして憎み続けるというのは、その根底にねじれた心理が働いているだろう。つまらぬ相手なら心にとめる必要もなく、わざわざ恨み、憎む必要もないのだ。すると憎しみは、相手を必要としているからこそ忘れ難いと見なせる。

 恨みだって同様だ。いかな扱を受けたにせよ、恨み続けて己の心を荒廃させるよりも、心を切替えて己を幸福にする方がよい。

 たしかに、正義をおろそかにすれば、侮られて何度も悪事の対象になるやもしれないが、正義と自己の幸福とのバランスを失うのはナンセンスだ。

 いずれにせよ、無理をすれば転びやすいのは、わざわざ老子様に言われるまでもない。


 ところが、今年に入ってから、私を憎む相手が私を助けるという、いささか皮肉な事件がいくつか起っている。…… 私が憎んでいる相手から助けられたのではなく、私を憎む相手が、意地悪をするつもりで結果として私を助けるのである。

 憎む相手から助けられて葛藤するという話は多々見聞するが、意地悪をした結果として相手が喜ぶというのは何という皮肉だろう? …… これを私の強運とおごる気はない。私も決して楽な人生を歩けたわけではなく、自分の幸運を過信するほど神仏を信じているわけでもない。ようするに思慮浅い行動が墓穴を掘ると言うことだ。そして、ささやかな自負心の満足も得る。――思慮浅い行動しか出来ぬ人が思う、善悪の基準など、結果から見て明らかだと。

 道理に沿った考えが出来るなら、自分に不都合が生じる努力をするはずもない。つまり、逆恨みであるから、相手を利して自分は損をするのだ。

 ……さらにいえば、問題は損得ではない。憎む相手に仕返しをしようとして自滅したのならば、その感情の始末はどうつければよいのだろう? すると結局降出しに戻る。憎むよりも愛す方が、恨むよりも許す方が、結局、自分のためになるのではないか。

……と、言いつつ、私は思う、憎むのも恨むのも面倒だ。と。

 他にやるべき事がないのか? ヒマならば創造的な事を考えればよいものを……創造的な事に頭を使えないから人を恨むのか。つまりは業《カルマ》が深いわけだ。


人はどこから来て、どこへ行くのか?

2005/11/09

2005年 11月 09日


 おもしろい話を聞いた。

『人はどこから来て、どこへ行くのか?』……というものだ。同様の言葉は、たとえば良寛さんの詩にもある。私はこの言葉を活字で読んだときは、心霊主義者としての思いこみのせいか、産前・死後の、「いわゆる人生の外」への疑問であると感じた。

 ところが今回、霊感として言葉を受けたときには、そのニュアンスまでが伝わってくる。そして感じたのは、生れてから死ぬ間の「いわゆる人生の中」に関する話題ということだ。……これはおもしろいと感じた。

・・・・・・・

 つまり『自分はどう生きたいのか(どこへ行くのか)、その為に今まで何をしてきたのか(どこから来たのか)。』という自問自答として読取れたのである。

 どこへ行くのか、という命題の重要性は解説の必要もないだろう。目的を持たずに何がなせるというのだろう?

 だが、「どこから来たのか」という命題はなかなか思いつかない。しかし、良い経歴を歩んだにせよ、後悔ばかりであるとせよ、また、良い境遇に生れてきたにせよ、境遇が悪いにせよ……人には過去があって今がある。

 嫌な思い出、恥ずかしい過去の記憶を、仮に都合良く消せたとしても、過ちを犯す精神性は修正可能なものだろうか? しくじる事には知恵も努力も不要ではあるが、上手に成し遂げるのには相応の知恵も努力も要求されるのである。それをただ、「嫌だから」という理由だけで、直ちに上手に生きられるほど、人間は便利に出来てはいまい。

・・・・・・・

 『今の努力こそが一番大事』……というのは、努力を成功につなげた人の言葉としてよく聴かれることだ。だが、その言葉に惑わされるべきではあるまい。たとえ意識しなくとも「どこへ行くのか(目標)」を常に念頭に置けるからこそ「努力」が継続し、そして「どこから来て(経歴)」を無駄にしないからこそ、大いなる実りが得られるのだ。つまり、目標を持ち、良い経歴を持っている人だからこそ「今の努力」だけに集中できるのだ。

 逆にいえば、目標も持たず、経歴を無駄にする人が今の努力にだけ集中して何が得られるというのだろう?

 自己の経歴を無駄にし、安易に目標も変えるなら――種を播いてから収穫するまでには相応の月日を要するものだが、種を播いては実る前にあきらめて、また別の種を播くということを繰返すなら、たとえ一生の間にどれほど多くの努力を傾けようとも、その効率の悪さから結果はあまり期待できまい。

 つまるところ、成功者と失敗者との間に差は少ないようでいて、その精神性の基礎の高さがまるで違うのである。うまくいかない人が、うまい人の言葉を受けても基礎が足りなくて生かし切れないのだ。

 その基礎の不足もまた、「人はどこから来て」という疑問の範疇だろう。……過去の失敗からも逃げずに、それを未来の成功につなげていきたい。情けなくも辛く苦しい選択かもしれない。だが、過去をおろそかに出来るほど人生は十分に長いものだろうか?

・・・・・・・

『人はどこから来て、どこへ行くのか?』……その解釈の違いを自分自身で省みて思うに、当時の自分はしっかりしているつもりでいながら、今と比べれば地に足がついていなかったのだと思う。


霊査事例: 2005年11月6日(静岡2)

2005/11/06

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


事例1

 「気配りが足りぬ」 というのは、他人に対してだけではありません。……自分にも気配りが足りないのです。

事例2

 人を喜ばすことや善し、人を幸せにすることやもっと善し。……では人を幸せにするにはどうするか? それを捜しなさい。

 従業員にも愛情を注ぎなさい。それに応じない人は「従業員」として(割切って)扱いなさい。愛の通じぬ人は裏切るし、愛をむさぼる人も裏切ります。天地相応……天と地は大きく違うようでいながら、お互いに応え合うのです。愛されたければ愛す。でも、相応《ふさわ》しくない相応に多くを求めるのはナンセンスです。

……ナンセンス=くだらない、と日本語だけで解釈せず、”nonsense”= センスがない という解釈を試みてください。この場合のセンスには直覚や、判断力などが含まれます。心霊を学びながら、センスが曇ったままでは、その修行はナンセンスですよ。

事例3

 頭を使う者は往々、身体に気が回らぬ。身体のそれぞれに(マッサージの要領で)気を配るようにしなさい。

 身魂の親と争っているから、意地悪が身に付く。……うまくいかないことがあるとすぐに腹を立てる。自分はさして腹を立てているつもりもないようだが、行き詰った時に全く智慧が浮ばないのは、智慧が出ぬほど腹を立てているからです。

 他人の為すことに、意地の悪さを感じているのは、あなたも他人へのいたわりが足りないからです。


事例4

『人のいざこざに仏の顔ばかりも出来ぬが、鬼のふりしているつもりが本当に鬼と化し、いざこざを大きくしては元も子もない。  仏だけが鬼のふりをすることができる。人はすぐに鬼に化すぞ。』


怒り

2005/11/06

怒るな! といって怒られる矛盾。

2005年 11月 06日

 たとえばPCやデジカメを買ったら、まず最初にマニュアルを隅から隅まで読むという人もいるだろうが、上達の早い人はマニュアルは要所に目を通すだけにして、色々といじり、試行錯誤して操作方法を覚える物のようだ。

 当サイトのオフ会でもそういう姿勢で臨んでいる。安全管理の知識については文献を調査したりもするが、原則、やってみようという姿勢を大切にしている。

・・・・・・・

 静岡オフ会で、「怒り」について質問を受けた。

Q 「どうしたら怒らなくなりますか?」

……どうして怒ることが悪いことと思うの?

Q 「だって、ねぇ。世間一般、皆怒ることを悪いことだといいますよね?」

……怒りは生理的な反応でもあるのですよ。それこそ病気にでもなれば怒る事も出来なくなるでしょう。

Q 「でも……」

 この問題、実は設問の視点がずれているのだと感じますが、とりあえず一つずつ解決していきましょう。

・・・・・・・

 たとえば誰かが盗みをはたらいていたら? または、暴力を振るっているのを目撃したら? …… それでも怒ることはいけないことでしょうか?

「怒ることと、叱ることは違う……必要なのは叱ることだ」

 でも、泥棒などという無法な行為をする人を咎めることに恐怖を感じませんか?

 または暴力を振るっている人に対して恐れを抱きはしませんか?

 怖いですよ。私だって怖い。……でも怖くても人には為すべき事があります。そして、時として怒りは、恐怖にすくんでいる人に為すべき事を為すための行動力を生み出しもします。……他の手段があるとしても、一つの手段であるには違いがありません。

 そう、怒りというのは手段でしかありません。確かに手段は選ぶべきですが、もっと重大な問題があるはずです。大切なのは目的、正しい目的を見出さずに、正しい手段を選ぶことなど出来るはずもないのです。そして、怒るのは、怒るより他に解決策が見出せないから怒るのだ、と考えるなら、怒りを抑えることは単に目的を放棄するだけのことではありませんか。

 常に冷静でいる……というのは理想にも思えます。ですが、冷静でいられる人は、つまり、感情的になる前に物事を治める力のある人のことです。どんな事件が起ころうとも冷静でいるのはむしろ愚鈍の範疇でしょう。まして、怒りに我を忘れるというのは、論理的な問題というよりも生理的な問題です。身体の防衛機能の一つなのですから、それを抑えるというのは自殺を志すのとさして変りがありません。

 生理的な問題だから、怒った後の納め方にも生理的な思慮が必要です。怒りを感じるというのは、つまり心身が非常時に備えて緊張している状態なのに、精神力だけでその状態を納めようとするからストレスが溜まっていくのです。

そして、「世間一般が怒ることを否定する」だから……世間一般はストレスを持てあまして病み、苦しんでいるのです。悪いのは怒ることではなく、怒ることなく物事を納められない思慮の不足、ひいては、怒ることで物事を拗らせる愚かさなのです。

 怒るなら、自分も相手も幸せになるような怒りかたを選ぶべきだし、出来ることなら怒らずに済むような生き方を選ぶべきです。怒らざるを得ないような生き方をしながら、怒らずに生きようとしたら、人としての義務を果たせず、ストレスで寿命を縮めて、ろくな結果が出ないでしょう。

 怒るからストレスが溜まり、寿命を縮めるのではなく、怒り方が下手だからまずいのです。そして、まずい結果が出たからやらないというのは答のようでとんだ勘違いです。

・・・・・・・

 ところがこの問題は、とんだ矛盾を含んでおります。

 「怒ることは必ずしも悪くはありません」……といった私が怒られたのですから……その後精神統一の霊査として、「腹を立てないことです」……と伝えたところ、「では私が悪いのですか!」と開き直られてしまったのです。これで問題が明らかになりました。つまり、この質問者の本音、真の問いとは、念頭にある対人関係の解決だったのです。

 言葉で表わされた質問は、怒りの抑え方でしたが、実は私の提起したとおり、怒らずに済む問題の納め方こそが真の質問だったのですね。その特殊事情への回答は別途に公開しますが、ここで提起しておきたいのは、一般常識であるだろう「怒りの否定」が、実は解決の裏付けある常識ではなく、失敗から導かれた経験則であるということです。

 つまり、怒って失敗したから、怒らない方が良い……というだけのことで、怒らなければ問題が解決するという裏付けは何らないのです。たしかに、怒らなければ問題も起こらないでしょうが、それはつまり「事故に遭わないためには事故を起さないことだ」というのと同じではありませんか。ナンセンスです。

・・・・・・・

 本当に必要なのは、怒りさえも、自分と相手を幸せにする為の智慧なのです。


腹の立つ(?)話題

2005年 11月 07日

 弟が背中が痛いとこぼしている。

弟「揉んで貰うとしばらくは良いけれど、すぐまた痛くなってさぁ~~」

私「冷えだろ?……それとも祟りかぁな。お前もあちこちに恨みを買っているだろ?」

 祟りの件も本気だが、弟の服装を見るとかなり薄着だ。

私「そんな薄着で。」

弟「厚着すると動きにくいし、暑くなるとかえって具合が悪くなるし……」

 こういう屁理屈が出るときは赤信号だ。つまり、身体が悪くなるように心が働いているのである。

 様子を見ろというので背中に触れてみた……やはり背中が冷えている。

 さらに霊査を取ると……

・・・・・・・

 のぼせている……頭に血が上って熱くなっているから、身体が冷えていることに気がつかない。というより、身体を冷やそうと努力してしまう。……その原因は、というとプライベートな話題になるので一部伏せるが、要するに腹を立てているのである。当人はだいぶ冷静に戻っているつもりでいても。

・・・・・・・

「腹を立てるな」「冷静になりなさい」……と助言しても、相手は「冷静なつもりだけれど……」と答える。

だが、人は己の心で他の物を推し量る。では、人は何を基準にして自分の心を推し量るのだろう?

ここではそこまで話を踏み込まない。何せ、人は騙される。他人に騙される位なら、自分にはもっと容易に騙されるだろう。…… 自分の心を推し量る方法を、会得したつもりが増長して破滅する人の何と多いことだろう。むろん私だってその枠外にいるとは限らないのだ。だからもっと野蛮で単純な手段を活用する。

不都合が表われたなら……目標と現実とが食い違っているのである。


腹を立てるべきは

2005年 12月 10日

 人の為すことに、一々腹を立てるな!

 問題の根源は一つ、それを現象の一つ一つに腹を立てるから、「木を見て森を見ず」……問題の根源が見えてこない。根源をそのままにするから、次々と現象が起こり、その現象にまた一々腹を立てる。

 腹を立てるべきは一つでよい。問題の根源を見つめ、目を逸らすな。小さな事に腹を立てるから人が小さくなるのである。腹を立てるなら大きなものに腹を立てよ。

 それでもやはり一々腹が立つというなら、そのいらだちを真に向けるべきは他の誰でもない。問題の根源、物事の本質を見抜けぬ、愚かな自分自身である。


腹が立つと口を閉じる

2006年 05月 02日

 悲しい思いをする度に、
  こんな事はもう沢山だと思う。

 思うのに何度も
  繰り返してしまう。同じ過ちを。

 不運を嘆くのに
  不運を断ち切れない。

 どんなに痛くても
  我が身を裂けぬように。

 不運が辛くても
  不運を断ち切れない。


「危ない!」と、大声を掛けられたとき、手をぱっと放す人(うっ散型)と、ぐっと手を握りしめてしまう人(集中型)とがあります。うっ散型の人は、衝動的な行動を取りやすく、ストレスは溜りにくいのですが、集中型の人は衝動的になりにくく、ストレスの発散がとても苦手です。

 また、うっ散型の人は腹が立つと余計に喋りますが、集中型の人は腹が立つと無口になります。

 人間関係が拗れた時こそ、なおさらコミュニケーションが必要となるのに、無口になればますます拗れ、関係修復が困難になります。しかし、集中型の人は腹が立つと、無口になってしまいます。といって意識的に会話をしようにも、そもそも緊張から口が動かなくなるのですから、克服が困難です。動かなくなるのは口だけではありません。身体も硬直してしまうので喧嘩がとても苦手です。

 その苦手意識が、対人姿勢にねじれを生じさせることがあります。争い事に身構え、自分の身体が凍り付く前に相手を徹底的に打ちのめそうとする人もあります。こういう大袈裟な対応をするのは苦手意識があればこそのことです。しかし、己を知れば対策があります。まずは自分の身体の癖をよく理解する、と同時に自分の素質を素直に受け止める事です。


霊査事例: 2005年11月5日(静岡)

2005/11/05

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


事例1

  • 頭を休ませよ。答えを握るな。変化するものを握れば変化を妨げる。
  • 水に親しんでも水の中に居場所を見つけていません。流すためにだけ水があるのではなく、浮かすためにも水は必要なのです。
  • あなたは業《カルマ》と喧嘩し、中の妹はあきらめ、末の妹はひねくれます。どちらのやり方も間違いです。


事例2

  • 腹を休ませよ(怒るな)。 褒められないから腹が立つ……という欠点が見えます。
  • 無理に自分の居場所を作るから疲れる、あなたにはあなたの居場所があって、そこにすっぽりと収まれば自然と居場所が定まります。
  • あなたは本来、行動でストレスを発散する体質であるけれど、運命(親?)から、「女の子だから」と押さえられて育ちました。だからあなたは、病人はいたわるけれど、ストレスをためた人を無意識にいじめる癖があります。


事例3

  • 意義を問い、無情をあきらめない。……当たり前を当たり前に為すと修行にならない。どこに感動があるのかを見つけることです。
  • 地に足、天に頭、だから足下が見えず、理想に届かず。

避けがたき苦労

2005/11/05

2005年 11月 24日


 人は往々、苦労しなければ真実に目覚めない。

 安易な道を選ぶ甘い心が、安楽を求める霊達の格好の餌食となるからだ。

 思い通りに成らず、葛藤し、苦悩し、泣き喚き、絶望して……その心痛でようやく低級霊を追い出して、始めて真実を直視できるようになる。

 ……それで終わるのではなく、そこから始まるのだ。


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