理想と現実
2005/11/302005年 11月 29日
人間の能力・才能は使えば伸び、使わねば退化する。霊感も同様である。ただし、我流は往々独り善がりに流れる。……つまり、自分は素晴らしいと思っても一般的な価値に乏しいのであれば、その努力の意義は薄いということである。
だから霊的な才能の持ち主は、大いに試し、使い、折角の才能を伸ばすべきだ。ただし、我流に流れぬ事である。
一方で気をつけなければならないのが、世の中には我流の心霊評論家があまりに多いことだ。独り善がりな机上の空論に価値はない。詰らぬ空論に付合う意義はといえば、建設的な意見の持ち主を見出す練習台でしかあるまい。
そう、慎み深い賢者を捜すには、騒がしい愚者のいない場所を探せばよいのである。
もっとも、知識も霊覚も、その良し悪しは概ね相対的なものだ。概ねというのはつまり、愚にもつかぬ物は相対的に優れていてもやはり愚であるということである。
たとえば嫉妬深く、顕示欲が強い者は、いくら博識であろうとも真実を曲げ、知ったかぶるので教えを乞うに値しない。どこにデタラメが潜んでいるか分らぬからだ。
結局、真実・真理に対して誠実な者だけが師と呼ぶに相応しい。確かに誠実な者でも過ちや錯覚もあるだろう。だが、誰が過ちや錯覚から逃れられるというのだろうか? 絶対の真実を求めるよりも、真実に誠実であることのほうがよほど有意義なのである。前者は不可能であるが故に。
たとえ話
幼稚園で男が叫んだ!
「どいつもこいつも皆幼稚で、ここはまるで幼稚園だ!」
問題はこの男の年齢だ。もしも幼稚園児ならば遊びの中で学べばいいし、真の大人であれば幼児達の世話をすべきである。では、ただ文句をいうのはいかなる年代のいかなる人か。
幼稚園を指して、「幼稚園だ!」という。それはきっと、真実に対してとても素直で、正直なのであろう。それだけでも充分に賞賛に値する。だが、幼稚園が必要とするのは、世話係か、園児であって、批評家ではない。そして実際……どうも世間には、園児や世話係は少なくて、ただの批評家ばかりが目立つようだ。……社会に対する責任を担える大人は少なく、といって、無邪気な未熟者も決して多くはなく、ただ「神々への反抗期」 とも呼ぶべき中途半端な精神年齢の者があまりに多いということだ。
その中の一体どれだけの者が、社会を見守る大人へと成長していくのだろうか?
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心霊主義の理想の高さに騙されてはいけない。まさに天を掴む勢いのその理想の裏にある現実は、各自、各家、各家系の人々が連綿と生み出してきた大海のごときカルマの中で人々が溺れている姿なのである。
理想が、そして信仰が大切なのは事実だが、その現実はといえば、人々が生み出したカルマの解消こそが待ったなしの…… ほとんど待ったなしの現実の責務なのである。この現実の前に於いて理想というのはまやかしと呼ぶのが妥当であろうと思えるのが、私の主観的な評価である。