‘2005/11’ カテゴリーのアーカイブ

理想と現実

2005/11/30

2005年 11月 29日


 人間の能力・才能は使えば伸び、使わねば退化する。霊感も同様である。ただし、我流は往々独り善がりに流れる。……つまり、自分は素晴らしいと思っても一般的な価値に乏しいのであれば、その努力の意義は薄いということである。

 だから霊的な才能の持ち主は、大いに試し、使い、折角の才能を伸ばすべきだ。ただし、我流に流れぬ事である。

 一方で気をつけなければならないのが、世の中には我流の心霊評論家があまりに多いことだ。独り善がりな机上の空論に価値はない。詰らぬ空論に付合う意義はといえば、建設的な意見の持ち主を見出す練習台でしかあるまい。

 そう、慎み深い賢者を捜すには、騒がしい愚者のいない場所を探せばよいのである。

 もっとも、知識も霊覚も、その良し悪しは概ね相対的なものだ。概ねというのはつまり、愚にもつかぬ物は相対的に優れていてもやはり愚であるということである。

 たとえば嫉妬深く、顕示欲が強い者は、いくら博識であろうとも真実を曲げ、知ったかぶるので教えを乞うに値しない。どこにデタラメが潜んでいるか分らぬからだ。

 結局、真実・真理に対して誠実な者だけが師と呼ぶに相応しい。確かに誠実な者でも過ちや錯覚もあるだろう。だが、誰が過ちや錯覚から逃れられるというのだろうか? 絶対の真実を求めるよりも、真実に誠実であることのほうがよほど有意義なのである。前者は不可能であるが故に。


たとえ話

幼稚園で男が叫んだ!

「どいつもこいつも皆幼稚で、ここはまるで幼稚園だ!」


 問題はこの男の年齢だ。もしも幼稚園児ならば遊びの中で学べばいいし、真の大人であれば幼児達の世話をすべきである。では、ただ文句をいうのはいかなる年代のいかなる人か。

 幼稚園を指して、「幼稚園だ!」という。それはきっと、真実に対してとても素直で、正直なのであろう。それだけでも充分に賞賛に値する。だが、幼稚園が必要とするのは、世話係か、園児であって、批評家ではない。そして実際……どうも世間には、園児や世話係は少なくて、ただの批評家ばかりが目立つようだ。……社会に対する責任を担える大人は少なく、といって、無邪気な未熟者も決して多くはなく、ただ「神々への反抗期」 とも呼ぶべき中途半端な精神年齢の者があまりに多いということだ。

 その中の一体どれだけの者が、社会を見守る大人へと成長していくのだろうか?

・・・・・・・

 心霊主義の理想の高さに騙されてはいけない。まさに天を掴む勢いのその理想の裏にある現実は、各自、各家、各家系の人々が連綿と生み出してきた大海のごときカルマの中で人々が溺れている姿なのである。

 理想が、そして信仰が大切なのは事実だが、その現実はといえば、人々が生み出したカルマの解消こそが待ったなしの…… ほとんど待ったなしの現実の責務なのである。この現実の前に於いて理想というのはまやかしと呼ぶのが妥当であろうと思えるのが、私の主観的な評価である。


争いは収め難い

2005/11/26

2005年 11月 25日


 片付けをしていたら、突然フツフツと最近目にした対人トラブルの記憶がこみ上げてきた。同時に一瞬、腹立たしさも感じたが、直ちに気がついた。……これは問題提起だ。気づくと同時に聞こえだした。

『争い事は、始めるは易く、収めるは難い……収める力がないのに争いを始めるものが多いから、みっともない争いばかりが世に目立つのだ。』

 そうなんだろうけど……

『願いがあっても頼めず、無理強いしようと怒ってみる。怒ってみてもどうにもならず、引っ込みがつかなくなって、パニックまで起してしまう。そのパニックの結果は誰が拭うのか?

 人に頼り、頼れなければ騒ぎ、騒いだ後始末も人頼り。……人に頼らなければ何も出来ない自分に気がつかなければまだ(愚かにも)幸せだ。周囲には迷惑を掛けるかも知れぬが……頼らなければ何も出来ない自分に気がついたとき、一体何が出来るのだろう?

 一方的な依存を前提にした人間関係は必ず行き詰まる。何しろ、自分には選択権がないのだ。

 安楽な道を望む者よ。己の才ではなく、境遇の変化が必要と認めることは、つまり敗北を認めることである。安楽な境遇でなければ生きられぬのであれば、つまりあなたには運命の選択権がないということだ。

自分の分を越えたことを求め、求めて得る方法を知らず、無理をした後を収めることも出来ない。一体、どれほど背伸びをするのか? 背伸びをすれば危うい……背を伸ばせば伸ばすほど倒れやすいのだ。』


望画力

2005/11/23

2005年 11月 27日


どうしたいのか?――望ましい結果を思い描くことなく、闇雲に努力を始める。大抵は、無思慮な「怒り」という形で。それでは良い結果を得るどころか、思わぬ被害が出るだろう。


壊れた縁起物の扱い

2005/11/22

2005-11-27


Q 「神棚を掃除中に、飾ってあった白蛇の置物をうっかり壊してしまいました。祖父母の代から神棚にお祭りしていた古い置物で、何度も割れたりヒビが入ったのをボンドでくっつけていたので少しの衝撃でも割れてしまったらしいのです。ただの置物とはいえ長年ご神体として拝んできたものを壊してしまって、少しビビっていたとこへもってきて、昨日転んで頭に怪我をしてしまい不安になりました。壊れたモノをどうしたらいいでしょう?」

 置物をただの置物として扱うなら、やはりただの置物に過ぎません。しかし、ご神体として扱うと、その置物は「通信の中継点」となり、価値が変ってきます。これがいわゆる「神・仏が宿る」という状態です。

 ここで注意すべきは、勝手に神仏が宿るのではなく、わざわざ招き寄せているということです。招き、呼びながら疎かに扱うことは、非常な無礼な行為です。その無礼によって神仏が祟る……などとは考えないことです。神仏にすら無礼を行う人が、いかなる態度を自分の人生にとるのか、それこそが重要です。

 神仏とは、強力な神霊と見なすよりも、自分の心を写す鏡と見る方が実体に沿うのです。

・・・・・

 さて縁起物には「有効期限」があり、ヒビが入るのは有効期限切れの合図です。期限が切れた縁起物はすみやかに新しいものと交換しなくてはいけません。先祖伝来の物で棄てがたければ、神職・僧侶・行者に頼んでリフレッシュする必要があります。そういった事柄を欠いて無思慮に祀っていると運が去ります。または疫病神が住み着くといいます。

……神仏は不浄を嫌いますが、人間の祈りには、生活の必要性から生じた様々な欲望が含まれています。祈祷の対象、いわゆるご神体も、人の祈りを向けられていれば霊的に汚れますので、どうしても定期的に清めなければ神仏が懸ることが出来ません。ご神体を不浄にしておけば、神仏が去って疫病神が住み着くというわけです。

 さて、転んで頭を打ったとのことですが、つまり、「早くお返ししろ」とのご先祖からの合図です。いつまでも放置しておくとさすがのご先祖も庇いきれなくなります。労を惜しめば得るよりも失うものが多くなります。 年に一度は交換するか、ちゃんとお祀りしないと、縁起物は悪霊の住処に変ります。

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補足: 古いお札などはどこの神社仏閣でも引き取ってくれますが、環境問題の影響で縁起物を引き取ってくれる先を見出すのは難しいですね。最悪の場合、御魂抜きをして不燃ゴミに出すことも出来ますが、その場合は別途ご相談下さい。


補足:「縁起物の返納について」

 縁起物(含むお守り・お札など)を得ることは、いわゆる「御利益信仰」とはちょっと違う意味づけがありますが、いずれにせよ、数多く持ったり、貰うばかりで放置したりするのは低級霊を集めやすい隙を暗示しますのでご注意を。

 破損した縁起物は(故意にでなければ)、御魂が去ったと考えて差し支えありません。ですから「今までありがとうございました」の念を込めた上でお返ししましょう。

 お祀りしきれなくなった縁起物の返納は注意が必要です。その時点ですでに無礼があるのですから、よくよく謝罪した上で返納すべきです。こういう礼節への気遣いのない人は、守護霊などが助けがたく、悪霊から狙われやすいと考えて差し支えがありません。……いずれにせよ、『こいつは躾が必要だな』と思われたら、心霊知識の薄い人なら祟りと勘違いするほど酷い目に遭いかねません。まあ、相手にされないかも知れませんが。

・・・・・・

 縁起物(含むお守り・お札など)については、原則、いただいた神社仏閣への返納が良いでしょう。お返しに行けぬ場所で頂くのは極力避けましょう。

 お土産として貰った縁起物などはあまり気にする必要はありませんが、神霊を学んだ者は、滅多なことでお土産に縁起もを買い求めるのは止めましょう。神霊に対して失礼が生じますし、みだりに頼るよりも、敢て無礼を行う方がつまらぬ事になるからです。

 下手な鉄砲も数打ちゃ当たる的に、縁起物を集めるのは、むしろ「船頭多くして船山に上る」に成ると考えるべきです。一つ以上の神社仏閣から縁起物を頂くのは全部が無駄になると考えるべきです。

 特に霊感の強い人がやたらと縁起物を欲しがるのは、低級霊のおもちゃになっている事を疑うべきです。神は外でなく、内にいる…… 実際の位置関係ではありません。心の持ち方の問題なのです。


 

Q 「もらいっぱなしのお守りや御札の処分も必要ですね?」

 一般に、御札、お守は毎年交換しなさいと神職に言われます。実際、私も新車購入時にお祓いを受けたのですが、なるほど購入から一年間は良く守っていただきましたが、その後には小庇がいくつか付いてしまいました。特にタイヤのパンクなどは、お祓い代金と遠い氏神詣での経費を差引いてもおつりが来るぐらいで、己に降りかかった災難ではありますが、思わず吹出してしまいました。

 ですが、すべての御札、お守を毎年処分すべきかというとそうとは限りません。

 遠隔の地の神社を訪ねて、折角だからとお祓いを受けた時に頂いた御札の大部分は、なかなかその神社にお返しにも行けずにいたのですが、次善の策として、近くの神社にお返しに行こうと思い立ったとき、ふっと聞えたのが、「そなたの祈り、未だ成就せず、今しばらく留めおけ」との言葉でした。――というわけで、古いお札のいくつかが未だに我家にあります。

 ちなみに神社での願文は「神恩感謝」としてありますが、神前で私が祈願したのは、「心霊の仕事に一意専念できる環境を得られますように」でありました。別に専業霊媒になりたいというのではなく、心霊のことをやっているときにじゃまをされたくないという程度の話です。


白蛇の御利益

2005年 11月 28日

心霊相談「壊れた縁起物の扱い」について、夢の中で補足的なレクチャーを受けた。

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白蛇は金運・金儲けのご神体として扱わるるが、本来、蛇は執着・嫉妬の象徴である。それを綺麗に保て、という意味でただの蛇ではなく、白蛇を用いるのである。

白蛇に祈って御霊が宿れば、そのご神体が何より嫌うのは、執着・嫉妬であり、執着がらみ、嫉妬がらみの祈り事をして、相手にされなければ幸運、相手にされたら、他人に仇を為すなとばかり、バチが当てられるものと思わなければならない。

ゆめゆめ安易に縁起物に念を込めるなかれ。仕組に沿って生きるものが易く生けらるるのがこの世の中で、無理を通そうとすると、自分の無理に苦しむのが世の仕組なのだから。

そもそも個人のお奉りに応じる霊はさほど霊覚は高くない。そのような霊に、個人の分を超えた祈願、矛盾した祈願、悪しき祈願などしては、堪忍袋の緒がすぐに切れてしまう。きちんとしたお奉りが出来ぬ家では、神棚もお返しした方がよい。


妄想するなかれ

2005/11/22

 莫妄想(妄想するなかれ)!!

05年 11月 21日

 解けない疑問を延々と抱き、悩むことに疲れ、苦しむ。……心霊肯定論者にはこういう人が多い。――実はこれ、気質というよりは体質なのだ。だから答を聞いてもまた悩む。

 それはつまり、悩みを解くよりも(大抵は矛盾していて解けない)、悩むことを止めることが重要であるということだ。

 なにせ、矛盾……どんな盾でも破れると、どんな矛でも防げるが争えばどうなるか?……を解く以前に、そんな矛があるのか、そんな盾があるのかを確認すべきだ。そんな盾と矛がなければ、設問は崩れるし、そんな盾と矛が実在するなら、実験すれば答は明らかになるだろう。悩むだけ損だ。

 ……なぜ、答えにいたる人と、いたらぬ人がいるのか? 

 そもそも行き詰まったら手段を変えるべきである。それをしないからあたら人生を無駄にする。

 人生とは、限られた時間である。その限られた時間を失うのは、寿命を縮めるのとどう違うのだろう? 末尾を切るか、間を抜くかの違いではないか! 無駄な時間を過ごすのは自殺をするのと大差ない。どちらも人生の損失なのだ。


 莫妄想(妄想するなかれ)!!


夢想家が多いから現実が空しくなる

2005年 10月 10日

 世の中は全くままならない。――まったく、まったく、私も同感だ。だが、同時に思う。

 動き出したものの行く先を変えるのは大変だ。だが、動き出す前なら要望を受け入れて貰えるものだ。……案外に。

 自分の運命に不平不満をいうものは多い。だがその多くは、ちょうど大勢でレストランに入って、いつまでもメニューを決められない人だ。そして、誰かが決めたメニューに文句をつけている。

 動き出したものは容易に変えられない……動いてから文句をつけても遅いのである。――にも関わらず、人生の方針を立てることなく、夢の実現に努力することもなく、ただ、流されて生きて、文句を言っている。

 ……それではいけないと気がつけば今度は、木に竹を接ぐような無理な論理で妄想に浸っている。

 現実に気がつけば打つ手はあるものだ、だが夢の中で打つ手が現実に役立つとは限らない。そういうことだ。つまり、夢想家が多いから現実が空しくなるのである。


夢を棄てられるか?

2006年 7月 26日

 不可能に見えて可能なことと、可能に見えて不可能なことでは、実現性が100パーセントも違う。

「たとえ不可能だと判っていても、私は夢を棄てられない」という人がいる。だが夢を棄てる惨めさと、夢から棄てられる惨めさとどちらがより受入れがたいのか……言換えるなら、片思いで終ることと、恋愛が成就しないことは、いったいどう違うのだろう?

 ならばおまえは、簡単に夢を諦められるのか、という。……さあ? ただ私は、遠くを目指して足踏するよりも、今できることから片付けていく。果せぬ欲望に身もだえるよりも、人の眼を気にすることなく泣叫び、ころげ廻るよりも歯を食いしばってコツコツと努力する。たとえ意中のものが手に入らなくても、その忍耐は無駄にならぬからだ。


理想と現実

2006年 10月 17日

妄想を恐れるのは気持ちが焦るから。

現実という大地に、しっかと足をつけたなら妄想を恐れる必要はない。

理想と現実は不可離。現実と乖離するのは理想でなく妄想。

いくら実現の可能性があるかのように見えても、

いずれ地から足が離れるなら、その道に正しさはない。

・・・・・・・

 いささか、譬えが悪いですが……詐欺師は最初から騙しはしません。最初は真実を示して信用させ、だんだんと、真実の中に嘘を織り交ぜるのです。

……たとえ、他に迷惑を掛けなくても、詐欺師と同じ手法をしている。そうさせているのは何でしょう?  

 焦り――焦りとは何か、乗り越えられない壁に突き当たっているのか、実力以上のものを欲しているのか、努力を嫌っているのか。少なくとも順風満帆を生きているわけではなさそうです。

 そう、妄想というのは、行き詰まりを感じている人のものなのです。人生が理想に向かって滞りなく進んでいる時は妄想を感じるヒマもありません。

「なぜ頑張らなければならないのですか?」

2005/11/22

05年 11月 21日


 答を耳にしたとしても、答を理解できるとは限らない。……特に自分の能力、才能、将来に関する事は理解が難しい。

・・・・・・・

「なぜ頑張らなければならないのですか?」

……との質問を受けたが返答に困る。私は「頑張らなければいけない」等と考えてはいないからだ。そもそも頑張るというのは手段であって、手段は目的があってはじめて意義が生じる。

 たとえば200万円出せ、といわれたら、普通は、「なぜ200万円も払わなければいけないのか?」と疑問を抱くだろう。でもこれが、欲しい物、たとえば車の購入資金であれば払うか、購入を諦めるかの二者択一だ。まして、普通は200万円で買えないものなら喜んで払うだろう……払える物なら。むろん、よそではもっと安いのならば、払わずによそで買う。

 つまり頑張る意義があるのか、無いのか……その目的・意義こそが重要であって、見合うものならば頑張ることを悩む必要はないだろうし、見合うものがないなら頑張るのは愚かだ。

……と答えると、次の質問は「どうすれば価値ある目標が見つかるか?」となるかも知れない。質問のメールもそう読み取れなくもなかったし、こういう質問とそのやりとりの流れはこれが最初ではない。ところがこれまた答えにくい。

 たとえば株式投資をはじめるとする。……どうすれば値上がりする株を知ることが出来るだろう? また、誰かに教わって値上がりする株を買ったとして、その株はいつまで値上がりを続けるのか? 自ら価値が見抜けぬものを扱うリスクがそこにある。


 価値や意義を見出す力は、自身の理解力と比例する。そして、他者に訊かねば見つからぬものなら、とうてい扱いきれるものではない。

 見つからず、扱いきれず……焦るから陥る失敗だ。


悩みに捕まる

2005/11/21

05年 11月 20日


元来日本語は主語が曖昧な言語だ。だが、主語を言わないのと、主語を知らないのとは違う。いや大きく違う。……そして、深い悩みの持ち主は、大抵の場合、主語の無いまま疑問を抱く。

主語を言わないなら問えばいい。では、主語を知らずにいるならどうすればいいのだろう?

疑問が不完全であるなら回答のしようもないが、不完全な疑問を思い悩んでどうなるというのだろう?……解けないと悩むその前に、適切な設問をしなければなるまい。

と、いうより真に自分が抱いた疑問であるなら、その主語を知らぬはずがない。つまり不完全な疑問とは一体誰の疑問なのであろう?

主語無き疑問を抱くのは主体性が欠けているからだ。これを一般論として扱うなら、他(主に親)から矛盾を強いられて人生を歩み、他の矛盾が自分の人生の矛盾になり、結局、表面的な問題だけを延々と悩んでいるのだろう。

……疑問が不完全であろうと、それを察して答えることを霊媒は期待されているかも知れない。だが、他者からの受売りの悩みとは、一体誰の悩みなのだろう? 親か? 祖父母か? 教師か? 友人か?……いや、果たして一人に絞り込めるのか? 「疑問」はあるが誰の疑問であるか分らない……そんな疑問を霊視するのは幽霊を捕まえるよりも矛盾した話だ。

・・・

 道に迷うとは、道を見失うというより、自分の居場所が分らなくなるということだ。……同様に、主体性を失っているから主語のない疑問、解けるはずのない疑問に囚われるのだ。


つまり・・・問題の組み立て方が下手だから、答えが得られない。

地上人生の目的とは?

2005/11/20

Q「地上人生の目的とは?」

感化――漏れなく感化を受取る場である。

 親が我が子を学校に送るのはなぜか? 教育というのでは大雑把に過ぎる。家に籠り切りを避けるため、身体を動かす機会を与えるため、食事の偏りを正すため、生活習慣を正すため、同年代の子供達と触れ合わせることで協調性を育てるため…… 親が育児以外のことに専念するためというのも理由の一つかも知れない。
 これらすべては答たり得る一方で、どれか一つだけを目的と見なすのは間違え……少なくともその視野の狭さを恥とすべきであろう。
 地上の生には様々なチャンスがあり得る。それをどう受け止めるかは一人一人の感性に依る。ただ、普遍的であるのは、他から多くの感化を受けるべき魂が地上に送り出されることである。
 人生が、霊性向上の修行の場であるというのも答の一部である。だが、この表現はいくつかの誤謬を含む。「では霊性とは何か?」…… その解釈に勝手が持ち込まれると真理が意義を失ってしまう。一部の指導者がそれぞれの思うことで人々を導こうとするが、真理を超えた教師はいない。正しい教師に優れる書物もない。書籍は読み手を選べず、教師には指導技能の限界があり、真に頼るべきものはただ真理だけであるが、ありのままの真理は人々にとって迂遠で掴みがたい。すると人は修行をするというよりも、修行を受けるための修行中なのだと思うべきだ。……真に師とすべきは、真理であって人でなく、そして書物ですらない。人が書に学び、人に学ぶのは、ただ、真理を掴むための手段を磨いているに過ぎない。人は多くの感化を必要としているのだ。
 魂は永遠の向上の目指すのである。修行にあの世もこの世もなく、ただ、修行の種類に相応しい場があるというだけのこと。そして地上は修行の初歩に用いられる場である。死は決して偉大なる終わりではなく、初心者の踏み越えるべき一過程に過ぎない。それ故に人々は死に対して、迷い、目を逸らし、そして騒ぐのである。その哀れなる逡巡の様を見れば、地上の生が魂の歩むべき階梯のごく下段でしかないことが分るだろう。背を押されなければ前に進めぬ者、そして、段を上がれずにくぐり抜けようとする者ばかりが地上にいる。

Q「なぜ邪魔をする者が多いのか?」

 一方で、人生を修行の場と見なすことには、大きな誤謬がつきまとう。……多くの人が疑問を抱く。「地上が学校のようなものであるなら、どうして多くの悪人がいるのだ、修行の邪魔をし、修行を壊そうとする者が、なぜこんなにも多いのだ」

魂が歩むべき階梯の底辺であるから――その疑問は、地上にいる魂が、霊魂の辿るべき階梯のごく底辺にいることの傍証でしかない。つまり登り始めた者と、未だ登ることを知らぬ者とがいるのである。―― これが階梯を一段歩めば、後は登るか、降りるかの選択しかなく、階梯を上がることの歓びを知った後は、早く登るか、遅く登るかの違いしかなくなる。

 ぐずぐずしているのは、登ることの意義を知らず、登ることの歓びを知らぬ者である。ぐずぐず言うのは登ることの意義は知っても登り方を知らず、登ることの歓びだけを知っている者である。階梯の底辺だけにある混濁にすぎない。

 澄んだ水を湛える美しい湖も、その底には泥土が堆積している。その泥土が地上に比せられるのだ。

 死後個性の存続を信じぬ者の存在も又、地上がごく底辺であることの傍証の一つである。わずか百年前後で無に帰すような霊性で満足する者もいれば、永遠の霊性であろうとする者も地上にいる。……永遠の成長を信じつつも、未だ登ることも知らぬ者もいれば、死後個性の存続を信じぬまま、辿るべき階梯を登り始める者もいる。それらの者達は互いに感化し合い、また、天の摂理からも感化を受け、その在り方が変化していくのである。

Q「人生を無駄にせぬ為には」

感化の機会を大切にする――厭わず、焦らず、多くを見聞きし、出来ることは体験することである。善き行いは、自らを守るために行い、悪しき行いは、自らを守るために慎む。人は過ちからも学ぶことが出来るが、改めること、正すことを知らぬままでは、人は必ず行き詰まる。いずれは行き詰まるが故に、過ちを押し通すのはワガママであって自由とは異なる。真の自由とは、己に過ちがあるとき、それを正せる行動力のことである。その自由を得てこそ、人生を我が物にしたといえる。自由なき人生は他の奴隷に過ぎない。……奴隷として生きるのは人生の無駄である。


2006年 02月 18日

矛盾した悩み

2005/11/20

心を鏡のように静めなければ、ただしく見、ただしく聞くことは出来ない。


Q 「なぜ、現代日本には矛盾した悩みを持つ人が多いのか」

親不孝ゆえに――人が己の体験だけで、悩み、苦しむのならば、そこに矛盾が入ることはない。出来るものは出来、出来ないものは出来ないのだから。為すか、為さぬか、答はそれだけだ。

 だが人に強いられた生き方の中で、人は往々に矛盾に直面する。なんのことはない、ただ『指示が悪いのだ』と思えればよい。だが、様々なしがらみがそれを拒絶する。

 特に己に自信のないときは『指示が悪い』とはなかなか言出せぬ。……「では思うとおりにやって見よ」、と言換えされることを恐れるようでは矛盾の中で苦しみ、もだえて、よりよい指示が必要と気づいてくれるのを待つよりない。

 さもなくば、泣きわめき、暴れて見せて、その矛盾を知らしめるか……自ら進んで、己の人生を歩む。それなくしては人生の矛盾から逃れることは出来ない。

Q 「それが親不孝とどう関係があるのか?」

無抵抗という批判――そもそも人生の全責任は、己自身が負うものだ。だが、人は正しく己の責任と向合っているのか? 自ら進んで生きず、人の指示に嫌々従い生きる。それで失敗すれば誰が悪いのだろう? 実施者である己自身か、それとも指示者か? ……多くの人はこんな責任逃れの小細工をしては居ないか。

 無抵抗という批判、従順という親いじめ……親に従うのは親孝行のようだが、指示に従い苦しむことで親を悩ませているのである。これを親不孝と言わずになんと言おう。

心底の卑劣――人々は、上辺の素直さだけで満足しがちだ、だが、霊達にまず最初に見えるのは心底なのである。そして、無理に素直に生きようと努める人々は、矛盾の中で捻れを起し、心底に意地の悪さを育てている。

 周囲に素直に、親に従順に生きようとして、でも巡(運)りの悪さに苦しむ人々が「なぜ霊達の助けが得られぬのか!」と悲嘆に暮れる。だが、霊達にまず最初に見えるのは「心底」なのである。それ故に無抵抗という批判、従順という責任逃れをしているものは、おぞましいバケモノのように感じるのである。

自縛――なによりも困るのは、責任逃れの従順者は、あまりに多くの意見を聞いて、どれ一つとして全うしないことだ。指導されればされるほど、混乱し、矛盾を深め、あらぬ事をするのである。

 また、見落されがちのことであるが、目的への道は一つとは限らず、意見の多くが正しいとしても、選択肢が有るが故に、混乱し、矛盾を深め、わざわざ誤った道を選ぶのである。

 心底に捻れがある者は、正しい意見を聞いても、理解することは出来ない。理解できずに行えば過ちを犯す。そして、責任をとりたくないから従順に生きる者が過ちを犯せば「指導の間違い」をなじるという卑怯をする。

 それがどれほど危ういことか……直接憑ろうにも捻れがあるし、霊媒を通じて助けようとすれば霊媒を傷つけてしまうだろう。…… 救いがたいのである。その心の捻れ故に。

Q 「指示が悪いと思えれば、なぜ良いのか?」

代償――何事にも代償が伴う。親が子に注ぐ愛情を「無償の愛」と呼ぶのは構わぬが、「無償の愛」とは与えて見返りを求めぬ事であって、無償で受取れる愛と思うのは、盗人根性というべきだ。無償に甘えるから価値を知らず、生かし方に気がつかないのである。……親子間の甘えとは、親が子に教える一番大きな間違いであろう。

 子育てとは、未熟な親が更に未熟な子供を育てるということである。育てる課程で親は多くを学ぶわけだが、幼少の子供が学ぶことは、未熟な教えであることに留意せねばならない。親から自立せぬ子は役に立たぬのである

 失敗を恐れ、批判をかわそうと汲々としている者が、自分が生れてこの方、未熟で役に立たぬ事ばかりを教わってきたと認めるのは難しかろう。……それこそが、青年を悩ます矛盾の根源である。

 初期の間違いを正すことがなければ、その上にいかなる論理が組み上がるのか? 歪んだ基礎の上に家を建てるようなもので、家が歪まぬ方がおかしい。

 成長し、社会に出ることで、親の教えや子供時代の生き方に過ちを見いだしたとする。それは、育てて貰った代償と割切り、以後は大人としての生き方、自己責任を自覚する生き方、ひいては親に負担をかけぬ生き方を心がけるのが自然の流れなのだ。

成人す――人に成るということ……親の責任を軽減する。それをせずにどうして成人したといえるのか? 親の未熟さを何時までも体現して見せて、それが親いじめでないといえようか? 親も過ちを犯すものだ。親をかばうには、過ちを隠すのではなく、過ちを繕わねばならぬ。……不満を抱くのではなく、欠点を繕うことが必要なのだ。

Q 「親の問題点も見えてきますね」

 親にも無理があり、不自然を行うから子供を迷わす。

 功労経た親が己の矛盾に気がつかぬのであるから、年若い子供が親の矛盾に気がつくのはなお難しいと知るべきだ。

 親不孝な子供を持つのは、親の自業自得でもある。――だが、業とは未熟や過ちから生じるよりも、認めぬ事、改めぬ事から生じるものが根深く、災いが大きなものだ。災難の種を播きながら、それを刈取ることをせず、ただ、天を恨み、人を嘆く。…… 悲痛な祈りであるがあまりに醜い祈りでもある。

 過ちを認めず、過ちを改めず、ただ結果だけを変えようとする。そんな無理や不自然を誰が正せようか?

 すでに妄想に浸るものが、神示・霊覚を得ても生かすことが出来ないのは自明のことである。自然をないがしろに、不自然を求めているのだから。

 霊を求める者は救われがたい……心霊家が心得るべき矛盾である。

 不自然・超常が霊ではなく、自然こそが霊なのだ。それを素直に受止めたとき、人は霊覚に目覚める。

・・・・・・・

……なぜかくも現代日本人は無責任になったのか?

 己は無責任なままで、他に救いを求める大無責任さよ。……嗚呼!!


2005年 11月 22日

「お前を呪ってやる!!」

2005/11/19

2005年 11月 19日


……たまたま、ケンカを目撃した。

女性が叫ぶ、「お前を呪ってやる!!」

……おお、恐い、怖い、当事者でなくて良かった、等と半分冗談で怖がっていたら耳元で聞こえた。

『あの娘、低級霊(悪霊)にそそのかされているぞ。』

……おやおや。

『低級霊にそそのかされて、やること、為すことうまく行かず、とうとう他まで恨んでいるが、他を恨むその前に、己の祟りを取り除かねばなるまいて。所詮取憑きやすいから、取憑かれたあの娘が、思うように人に祟りなど与えられるものか。出来るのはせいぜい、呪う必要もない弱い者虐めだけだ。悪霊なんぞ、どれだけたくさん憑依しようが、己の苦しみは増しても人を恨む助けになどならぬ。己が悪霊の主ではなく、己が悪霊の標的なのだ。人を恨む者は誠に救いがたい。

『ましてや、己の親まで恨み、憎み、親が我が子のことだからと我慢すれば増長する。かように恩知らず、また、か弱い良心しか持ち合わせなければ、地獄に堕ちても浮かび上がるのは容易ではあるまい。世間では、「人を呪わば穴二つ」というが、他人の穴を掘るヒマもなく、自分の墓穴を掘って終わるだろう。

『そもそも、親に庇われ、周囲が遠慮して、ワガママが通っているうちは善良そうにしていても、いざ自分の力だけで社会と接せねばならなくなって地金が出てどうにもならぬ者は多い。「悪霊も微笑むときはある。他が不幸な時には……」というわけだ。周囲の我慢がなければ微笑むことも出来ぬ者が、死して悪霊と呼ばれるのだ。

『あ奴の祟りなど恐ろしくはないが、あ奴の行く末を思うと、やはり恐いな。』

・・・・・・・

 うまく行かないからと、天を恨み、親を恨み、周囲の人々を恨む。恨む前に自分が祟られていないかを確認しなければなるまい…… 等とつまらない結論で結びたくない。

要するに、他人に責任転嫁するような俗悪・恩知らずな霊格の持ち主だから、人を苦しめて喜ぶような悪霊に標的にされるのだ。…… ただ、霊界では霊的境涯が異なれば接点の無い相手でも、地上では様々なしがらみに結ばれて、ろくでもない霊格の持ち主に絡まれることもある。注意しなくては。


お知らせBy老神いさお。

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