自分を見下す
2005/10/23
自分を見下す
2005年 10月 23日
Q 『自分を見下している自分と葛藤しています。それをどう受け止めたらよいでしょうか』
心を止めよ――葛藤とは自らと争うことである。努力すれば努力するほど葛藤は高まる。解決の努力を休むことなく解決策は見えず、心を静め、休めぬ限り解決はない。
自らと争う事ほど無駄なことがあろうか。そして自らを信じぬ事も何たる無駄であろうか。己自身がこんな無駄をしていながら人に助けを求める。……智慧ある人ならそれが実に不毛なことに気がつくはず。
相談者は、精神修養の大切さに気がつきながら、かたちばかり正しくあろうとして、心を静め、とどめる努力をなおざりにしている。姿形ではなく、かたちの見えぬ心の修行こそが大切なのに、人に教えを請う限り、姿形を整えることに夢中になって、遙かに修行から遠ざかってしまう。
真の道から外れた努力であるから、努力しても筋肉の力、脳力の力しか出てこない。内心から湧き上がる友愛の念と縁がない。だから、皮肉で、冷酷で、下品なインスピレーションばかりが耳に残る。
他の誰が認めようとも、自分自身が己を認めていない生き方。それを続けることの何たる孤独なことか。心を止めよ、誘惑があろうとも、また、自責の念、羞恥の念に焙られようとも、心を止めよ。最後に残るのはかけがえのない自分の心であり、自分が進むべき道だ。
たった一つが残るまで心を止めよ。迷えるままに動き続ければますます深い迷いに捕まるだろう。
・・・・・・・
Q 「だいぶ間隔は長くなりましたが、この方からは何度も同じような質問が来ます」
つまり、自分を信じていない。悲観を信じて、希望を信じず、希望を信じさせようと自分を騙し続けている。騙すのに疲れれば身体を動かし本当の問題から逃げ続けている。また、依存心と信仰心を混同しているので、なかなか自らを救うチャンスに出会えない。
正しく自分を信じなければ、正しい人を信じることも出来ない。正しい人を信じてみても、理解を誤って自らを騙す。同じような回答を出し続けても、同じような質問を繰り返すのは、つまりそういうことだ。
見よ、仏教は正しき教えであるが、いかに多くの者等がそれを誤って用いたことか。それは世界のいかなる宗教にも当て嵌まることだ。
いくら人に学ぶ姿勢があろうとも、正しく理解できなければ人は迷い続ける。
Q 「浮き世暮らしと修行との両立はやはり難しいのでしょうか。」
こうもいえるだろう。正規品よりも、代用品に手を出す人があまりに多いと。正規の品は得難く見えても本物であるが、代用品は代表品でしかない。
自分の可能性を広げるための努力は良し。だが、芯がなければならぬ。――それを「筋が通らぬ」という。筋の通らぬ事を延々と続けて、実りの無さに嘆息しても誰も救うことは出来ぬ。
「忙しいから」を言い訳にして手を抜き、手を抜くから無駄仕事となるのだ。これは、在家・出家に関わらぬ、本人の資質の問題だ。 …… 同じ質問を繰り返す者達は、つまり筋が通っておらぬ。筋を通さずに結果だけ求める姿勢はあまり美しくもない。
だが、人生の何がそんなに忙しいのか? 好むものにはいくらでも熱中できるのに。そう、熱心な努力家ほど、自らを救えずに苦悩する図がそこにある。
……間違った人生観が棄てられぬから本道に徹することが出来ない。間違った人生観に照らし合わせるから、真理の筋が飲み込めない。今の苦から逃れる努力ばかりで、苦の源泉を断たぬからいつまでもジクジクと苦しみ続けるのだ。
つまり、過去の自分を救わずにいるから、未来の自分も救えぬのだ。……今だけを見ているものが陥る苦境である。