‘2005/09/20’ カテゴリーのアーカイブ

天使の取り分

2005/09/20

2005年 09月 26日


誰もが豊かになりたいし、誰もが自分の主張を押し通したい……でも、世界は全人類の(いや全生命の)……共有物なのです。あなたが何かを得れば、大抵の場合、誰かがそれを失っているのです。

「宿命によって、または、神仏や守護霊によって人生が決められているなんて、そんな不自由な生き方は嫌だ!、私は自分で決めた道を歩みたい。」

 確かに、確かに。霊媒である私もそう思います。――大抵の場合。

 でも、一つを得るということは、誰かが一つを失っているのです。

「それがどうした、努力の結果得たものを、どうして他人に気兼ねしなければならないのだ!! 世の中には自分一人が溜め込んで、他に不自由を掛けている人なんていくらでもいるじゃないか。」

だからこそ……身勝手な人が多いからこそ、世の中には不足ばかりで、窮屈で、肝腎なところがうまく動いていないのです。

宿命にただ従うことが善であるというのではありません。努力で結果を得ようとするのが悪だというのではありません。……ただ、自分の取り分を「天」に預けた人がいて、その預けた分が回りまわって、それを必要とする人を救う資本となっているのです。でも、自分の権利を主張する人ばかりが多いから、困っていても助けを得られない人が出てくる。それも数多く。数多く、数多く。

 世の中は譲歩の絶対量が足りなくて、窮屈になっているのです。

 寄付やボランティアは、人の知恵の範囲でしか他者を幸せにしません。あなたの謙虚さや必要以上に貪らない気持ちは、それが「天使の取り分(霊達が自由に出来る過剰分)」を生み出して、思いも掛けない幸せを人々にもたらすことが出来るのです。

・・・・・・・

 他が決めた人生なんて嫌だ!!――確かに人間の智慧に従わされて生きるのは窮屈で詰りませんが、運命が紡ぎ出す「妙」というのは世界観を多きく変えるものです。

たとえば、肉体の死が、精神の死とは別物であるという実感や、五感で感じられる以上の現実があるという実感など……

自分自身の試行錯誤がもたらす驚きと、良き指導者が与えてくれる驚きとは、格が違うのです。それはつまり、知らぬ者と知る者との違いなのですから。良き指導者は、私たちが当たり前に通り過ぎている現実の中にさえも、驚きの種が潜んでいることを教えてくれます。

知らぬ者とはつまり、無駄な人生の歩み方をするものなのです。――日々の中で、驚きが、そして感動が無いと嘆き、学ぶべきものを探す人がいるとすれば、その人にとって本当の損失は、感動の不足ではなく、適切な師を持たぬことの無駄なのです。


不平等への不満

2005/09/20

くやしい!!

2005年 09月 18日


 「正義は一体どこにあるのか!」…… という嘆きを良く聞く。いや、油断すれば私もそうこぼしかねない。

 だが、その叫びには大きな勘違いがある。――正義が人を守るべき、ではなく、人は正義を守るべき、なのである。

 人のために懸命に働く人だって、裏切られて悲嘆に暮れる世の中である。人の不幸を嘲笑うような人々が、自分の不幸を嘆いたからといって、助けを得られるとは限らない。

「なんて不公平な世の中だ! 悪人がのさばり、善人が苦しむ。全く神はいるのだろうか?」

 私が思うに神はいる。だが、神が救うべき人はどこにいるのだろう? 皆、ワガママに自分の利益を善と呼び、自分の不利益を悪と罵るこの世の中で? 人の世は、我が身を大切にしたものが生き残り、我が身を疎かにしたものが苦しむようになっている。たとえ、他人のために身を粉にする人であろうとも。

 すると無言の反論が霊耳を打つ。……己を滅して人のために尽した人が必ずしも不幸になるとは限らない。……ナンセンスな話である。大切なのは、誰が不幸になり、誰が不幸にならぬのか、その違いだ。同じ滅私でも、身を委ねるべきインスピレーションの次元が異なるのである。つまり、霊性の差が、成功と失敗を分けるのだ。

・・・・・・・

あ! 念のため。別に私が復讐心に悶えているわけではありません。

いえ、話を聞いて私も腹立たしく思うのですが、どうせ三年を待たずに結果が出るから……(なんの?) 

・・・・・・・

 すると当然、成功すべき霊性の獲得法が問題となるが、努力無くして霊性は上がらず、言葉だけで霊性を上げる手段など有りはしない。ただ、失敗のおそれが心の中に僅かでもあれば、そのおそれこそ、あなたの良心と思うべきだろう。少なくとも、あなたの心の表裏は、互いに協力する姿勢を見せていないのだ。


不平等への不満

2005年 09月 20日

 私は度々日本の神霊……日本の精神風土について嫌悪を表わしている。まあ何もすべての日本的なものを否定したいわけではない。ただどうも、いわゆる「事なかれ主義」が肌に合わない。

 すべてと無関係でいられる時はまだ我慢できる。だが、被害者の立場に身を置く時、加害者よりも、加害者の肩を持つかのようは言動をする、「事なかれ主義者」に不快の念が燃え上がる。

 人生は、一個人の能力や才能を超えた荒波の上に浮かぶ小舟だ。たとえ正義を主張しても、いわゆる運命には逆らいようがない。また、一個人の利害よりも全体の利害を優先せざるを得ない時もあるだろう。日本は比較的に平等が守られている国ではあるが、細かなことに目を向ければ不公平に関する話題は尽きない。……しかたがない……たしかに、確かに仕方がない場面があまりに多い。

 人の個性が死後も存続し、魂は永遠の生を生き続けているのであれば、悪人を裁くことにいかなる意味があるだろう? 死者は再び生を受けるのだ、悪人もまた生まれ変わるだろう。……殺しても、殺しても悪人の総数は減らぬだろう。だが、世の不公平を嘆いた人は、いつまで善良に生きようと努力できるのだろう?

 幼い頃、兄弟げんかをした時、その理由は考慮されないまま、「あなたが年上なのだから」と叱られたことはないか? 我慢出来る者はいつまでも我慢をさせられる……そういう不公平がこの世にはないか? つまり、うるさく騒ぐ者が優遇される心理的な仕組みが?

……世の中は、平等なのだそうだ。多分……きっと、永遠の生の最後には。

 誰もが、世の不平等に不満を抱いているだろう。だが、あなたは安易に、ずるい生き方を選べるだろうか?……なぜ選べないのか?

 一体誰があなたに善く生きよとささやきかけ、なぜあなたはそのささやきに従うのか?

 都合の良い選択は、何ら不思議ではない。だが、不平等に不平を抱きながらも、それでもなお、善良に生きようとする……そういう、 (少なくとも短期的には)不都合な選択を、なぜあなたは出来るのか?

・・・・・・・

 不公平に思えても、不平を抱いても、でも善良に生きようとする……

 つまり、それが霊性の働きだ。……あなたは自分の霊性を自覚できただろうか? それを神様は見ておられる。


友人の相談にどう応じるか

2005/09/20

2005年 09月 19日


Q 「友人が悩んでいます。親戚の保証人だった父親が、多額の借金を肩代わりさせられ、友人の勤め先まで取り立てが来るようになりました。私も色々アドバイスをしたのですが、もう疲れたから話しかけないで、といわれてしまいました。」

 答や助言が欲しかったのではなく、同情が欲しかったのでしょう。

 そもそも、餅は餅屋。あなたが借金問題のプロフェッショナルならばいざ知らず、会社を辞めさせられそうなほどの取り立てであれば、警察などに相談するのが筋です。それを敢て友人に相談する……欲しいのは同情なのでしょう。

 あなたも心霊主義から色々学んで、自分が成長することの大切さや、人生で出会う困苦の意義を良くご理解なさって、その上で、自分が学んだことを人に伝えようとするのでしょうが……

 そもそも、危機に出会った人の反応は、まず二大別できます。動けなくなる人と、とっさに身体の動く人です。…… あなたはとっさに身体が動き、この友人は動けなくなる人ですから、あなたの経験と理論は、その友人に全く役に立ちません。

 強いて出来ることがあるとすれば、一緒に警察の相談窓口についていくことぐらいでしょう。


蛇足

「人事を尽くして天命を待つ」……私は自分の人生において、努力と信念が困苦を切り開いていくことを体験してきた。むろん、信仰に無限の可能性を信じていたりはしない。だが、一歩一歩前に進む気であれば、さして落胆はしないし、絶望も今のところ免れている。…… であるから、人に相談を求められれば真剣に応えようと努力するのは、上述の質問者のスタンスと同じだ。……だが、誰もが答を求めているわけではない。答よりも同情を求める人は何とも多い。

 それこそ、同情をひくためには……当人の表面意識が認識しているかどうかは別として……自殺まがいのことをしたり、過度の飲酒や薬物やらに手を出し、暴れ、泣き、荒淫に耽る人もいる。

 (境遇的に)困っている人の中には、本当に「(人格的に)困った人」が隠れているのだ。

 でも、無料心霊相談の霊媒にまで、答よりも同情を求めるのはどうか思う。


生・死は表裏一体

2005/09/20

2005年 09月 19日


 某学校教育をテーマにしたドラマが、一昨日最終回を迎えた。どうも痛々しくて三分と見ていられなかったし、あえてみようとも思わなかったが、背後の勧めもあって、最終回だけは、ほぼちゃんと見た。

 テーマはスパルタ教育といえようが、かなり無理がある展開だとは思う。物理的な存在には、必然的に限界がつきまとう。どれほど厳しく叱られても限界を打ち破るのは難しい。限界を超えて努力を要求されたら錯乱してしまうが普通だ。……まあ、ドラマのような展開を期待してスパルタ教育を実践するような軽薄な教師もいまいが……所詮はドラマ。教育には厳しさも必要だ、という主張があるとしたら一理ある。現実には、人格障害でもない限り、親も教師もそこまで真剣に子供とせする事が出来ないのではないか。この場合の真剣とはむろん病的で危険な、という意味である。

 まあ、ドラマ自体にはあまり関心もない。最終回らしく感動的なシーンもあったが、人生に役立つシーンがあるとも感じ取れなかった。が、劇中、教師が、「死後の問題」に触れるシーンに、感じるものがあった。

 一言一句覚えているわけではないが、

「宗教に従えば天国、逆らえば地獄に堕ちるなどということに惑わされるな、だれも行ったことがないのに分るはずがない」 ……という話だ。

 天国・地獄への行き先を宗教家が決めるというのは確かにナンセンスだ。ここで話を止めるならば、私も取り上げるべき題材がない。

 だが、行ったことがなければ本当に分らないのか?……ここに私は、霊界通信や霊媒による調査などを持ち出す気はない。それはそれで充分に興味深いが、多くの読者にとって心霊サイトの目指すべきテーマであると思われてもいよう。しかし、私は推論や思索なく「死後の個性存続」を信じているわけではない。……つまり、手順を踏んで考えることを大切にしたいのだ。

 そもそも、人が死後に様々な想像(主に妄想)を働かすのはなぜか、そこに思いを至らせるべきだ。端的にいえば、人は生きているから死を想像するのである。そして、死を免れることが出来ないから、なお強く想像するのである。

「生きるべき時は生き、死ぬべき時は死ぬがよい」などと達観した人も世の中にはいるが、それは死後の世界が分らないから達観したのではなく、生きることの意味を知っているから達観したのであろう。つまり……

 善く生きられぬものが、どうして善く死ねるというのか……ということだ。何事も道に至った人は、他の道にも深い洞察を見せるものだが、中途半端な人は何をしても中途半端なのである。

 これは「死後の世界観」にも当て嵌まる。そもそも自分の善性を信じることもなくどうして人は自分の人生を真っ直ぐに歩めるというのだろう? しっかり生きている人なら、地獄などおそれはしない。世間が罵るような悪党だって、「地獄に堕ちる」といわれてもせせら笑うではないか。

「あの世のことは死んでみなければ分らない」という……その言葉には何ら矛盾はない。だが、生・死が表裏一体で、別けて考えられぬことに気がつけば、これは幼稚なセリフになってしまうのだ。しっかり生きられなければ、ろくな死に方をしないし、しっかりと生きられない人は、存在するかも知れない(?)あの世でだって、ろくでもない生活を送ることだろう。


 生きながら死を恐れる(妄想)人がいる一方で、生きながら生きること(妄想)を想像する人もいる。…… 自分の人生を歩んでいない人である。

 夢を抱いても、その実現方法を知らずにいるから、ただ実現不可能な夢を見続けることしかできない…… 社会は確かに信念のある教育者を必要としている。だが、無茶な戦争のあと、怠惰な平和が続いたこの日本で、生・死が表裏一体であることを知るのは一体どの大人だろう? 案外、家庭内暴力に晒されている子供かも知れない。

 スパルタ教育に一理はあっても、現代日本を救えるのか?

……というより、作者は救われているのか? まあ、儲かってはいるかも知れないが。


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