強欲な横着者
2005/09/15
強欲な横着者
2005年 09月 14日
愛知万博エジプト館にあるカフェで、エジプトビールと唐揚げ、コシャリという豆ご飯で晩飯としたのですが、隣に座っていた体格の良い……体脂肪率も良さそうな……熟年男性が、細君らしき人に、「これならば何杯でも食べられる」などといっている。
『同じものを何倍も食べるよりも、いろいろなものを食べる方が楽しいだろうに、まして、食べ物などは腹が満ちるだけで充分だろうに、無理にたくさん食べてどうするのだろう。』……などとよけいなお世話的な感想を抱いた。
さて、私の目の前には美しいエジプト人女性が、食器の下げ口に立っている。これならば食器を下げるのも楽しかろうなどと、詰まらぬ事を考えていた矢先に、くだんの熟年カップルは先に食べ終わり、相談している。
「これセルフサービスかな? いいや、面倒だ!」……そして、立ち上がり、二人は闇に消えていった。私はお節介にもあっけにとられ、エジプト人女性を見ると、やはり驚いた顔をしている。そしておもむろに片付けを始めた。
ここで正義感を振りかざすよりも、黙って片付けをする法がよい。それこそ私なら、喜んでこの美女の元に食器類を片付けただろうにと、くだらぬ事も考える。また、外国人の前で日本の恥を突きつけられたようなバツの悪さもある。……それはそれ。
不思議に思うのは、「何杯でも食べられる」という欲の強さを持ちながら、「片付けが面倒」という横着をするその矛盾である。
欲を満たすのにも努力が必要のはずだ。……にも関わらず、片付けが面倒であるというのは、彼が求めているのは欲の充足か、それとも単なる行き詰まりか、どちらなのだろう。いや、確かに体脂肪は詰まっているようだったが。
強欲な人だからこそ、懸命に働き、人の嫌がることにも努めて社会的成功を収める人がいるが、大多数の強欲者は行き詰まりに苦しんでいる。
横着者が横着者を責める
2005年 09月 15日
楽しんでも後片づけをしない人を、人々は「ワガママ」等と呼ぶのだろう。それをわざわざ「強欲な横着者」と表現することが腑に落ちない人がいるようだ。……心霊家としての私のスタンスは、「後片づけが出来ない」または「後片づけをしない」という原因を、その人の精神性に求めるのではなく、肉体の故障に原因を求めているのである。
いくらでも食べられて、でも片付けが面倒だとしたら……人は食べ過ぎればむしろ腹ごなしなどといって身体を動かしたくなるものだ…… 満腹の感覚が鈍感で、過剰エネルギーを発散させる生理的機能が鈍感で、食べたものをエネルギーに変える機能も鈍感なのだ。肉体的な痛みを感じていなくても充分に病気、少なくとも故障があると見なすべきだろう。
病気の所為にするなんて、言い逃れだ!……と思う人もいるだろう。しかし、怠けることを妬むとしたら、あなたの身体も故障があるのかも知れない。つまり、あなたは躾の影響で面倒だけれど片付けているのだろう?
考えても見て欲しい。片付けることが善だと思うからこそ、片付けをさぼる人を卑怯と感じるのだ。そして内心『誰だって片付けなんて面倒なのに!』と思う……すると、善を行うことが苦痛だと認識していると言うことだ。これはおかしくはあるまいか? 善を行うのが苦痛であるなら、神は存在しないか、きっと無能なのだろう……さもなければ、あなたは神からとても遠い精神的境涯にいるのだろう。
神から遠く隔たり、善を行うことを苦痛に考える人々が、神を信じ、善に従って生きようとしている。……何やら不毛、何やら間違っているの感が拭えない。
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遠く隔たっているが為に、熱烈に神を信じる……という信仰のあり方には無理がある。他人を否定することで自分を肯定したり、苦行や試練を重視したりする。だが、身近に神を感じたなら……どうして信仰に疑問を抱こう? 他人がどう考えようとも神は我と共にあり、苦悩の合間にも平穏を持つことが出来るだろう。
つま先立つことでしか神に近づけないのだとしたら、それは危ういのだ。
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自分の境涯が理解できるなら……正しい道を知る力があるということだ。あとは、自分の進む道が正しいかどうかを判定するだけのことだ。