‘2005/08’ カテゴリーのアーカイブ

強欲について

2005/08/13

Q 自身が強欲であることに気が付いていない人が多い。

A 必要だから求める――人は必要だから求めるのである。必要なものを手に入れるのに、強欲であるとか、薄欲であるなどと自覚はしない。ただ、その必要性を感じるのみである。

 必要なものを求めて何が悪い……誰もがそう思い、他者の意見に耳を傾けぬ。なぜなら、己が必要とするものを得るのに邪魔をするのはなんと呼ぶべきか? 敵である。そして、敵のいうことに誰が耳を傾けるというのか? それは戦い方を知る者である。つまり敵を滅ぼす手段として聴くのだろう。

 中には、己の強欲を恥じる者もいるだろう。だが、そのような者を強欲と責めてはならぬ。必要なものが得られず、求めてもいけないのだとしたら、その者は一体どうすればよいのか? 葛藤を与えれば人は苦しむ。その苦しみは皆を不幸にしても、誰も救わぬ。

 何が必要なのか、なぜ必要なのか――人が指して「強欲」と呼ぶ者は、欲が強いのではなく、何が必要であるのか、なぜ必要なのかを知らぬ者だ。知らぬが故に多くを求める、焦って求める。 求めるものが分らぬ故に何を得ても満たされず、いくら得ても満たされない。満たされぬままに為すべき事を見失いもする。

 必要なのは、求める前に、何が必要なのか、なぜ必要なのかを知ることである。…… 一人旅は往々、目的を見失いがちだ、「何が必要なのか、なぜ必要なのか」、常に我身に問いかけ、時として、道連れと共に問い掛合うことが大切である。

Q 霊媒の適性に、「欲が少ないこと」とありますが……

A (その条件は)霊媒に限らぬ―― 人は己の求めるものを知り、正しく努力しなければ善く生きられぬ。人々が何を求め、なぜ求めるのかに疑問を持たぬ限り、霊媒の働きどころもない。強欲の満たし方などに答えはなく、答のないものを求めたところでその需要を満たすために働く者もない。ましてそのような状況でも働こうとするのは愚者である。愚者が悩むのは当然の摂理だ。

Q 霊媒に需要がないから、霊媒が生れないと?

A 人々が心の癒しを求めるだけなら、霊媒の必然性もあろう。だが現・日本で求められる霊媒とは、強欲の満たし方を教ゆる霊媒である。その証として、霊媒が詐欺師の代名詞の様にいわれるではないか。それはつまり、強欲を逆手にとられて騙される被害者が大勢いるということだ。

 真に癒しを求めるもの、欲を控えて努力する者には相応の救いが与えられていて、強く霊媒を求めたりはしない。

 確かに、確かに……心正しくとも、無知故に道を間違え、苦労する者もいる。だが、幸運を得る権利など誰にもないし、幸運を与える義務など誰にもない。今、不幸だからといって、宿命を恨んでいたらいつまでも不幸なままであろう。努めて幸せを得られぬほど、この世は乱れてはいない。

Q 世に間違った情報が多いから人が迷うのでは?

A 真実を知る力のない者は、正しい知識を与えられてもなお、迷い、誤る。真実を知る権利など誰にもないし、真実を与える義務など誰も持たぬ。ただ、真実にこそ正しい価値があり、嘘を言って得られるものより、嘘を言って失いものが遙かに多いだけである。そはつまり、真実のみで生きようとすることが摂理に適い、嘘を利用しようとするものには摂理に反して無理が生じるのだ。

真実とは即ち、努めて求めるべきものであり、努めて与えるべきものである。

 座して与えられるを待つ者は、知恵も機会も財産も使いこなすことがない。悪銭身に付かずというのは、かくもあてはまる。


 学ぶことに欲があろうとも、それが正しき動機によるものでなければ意味をなさぬ。この意味とは、教える側にとっての意味である。我儘に学び、知識に埃を得たとせよ、そこに良縁が生じることはない。

 真理は、次の真理へと繋がる。――正しき理解力を持つものは、一を聞いて、十を知り、百を知る。だが、間違った教えは、一を聞いても二へと続くものでなく、よって発展性の無い知識は、適切でないことを知ることが出来る。しかるに人は、不適切な知恵にこだわり続けて、真の叡智を求めることを忘れる。誤った努力は良き結果をもたらさぬのに、誤った努力、行き詰った知恵、行き詰まる行為をあてどなく繰返す。……芽の出ぬ努力を繰返す様は、さながら古来より伝えられる地獄の責苦に似る。

 努力せよ……報われる努力を。最初から彼方に手を伸すのでなく、まず我身を支えられる真実に手を伸し、一歩づつ前進せよ。目標が同じであろうとも、一歩づつ進む者は強欲と呼ばれず、一足飛びに生こうとする者が、何も得られず、なお強欲と呼ばれて(人々から)見下される。

 大切なのは、自分と結果、自分と未来を繋げる「縁」である。縁の繋がらぬ結果は得られず、縁の繋がらぬ未来には至れぬ。結果に、未来に己を結びつける縁とは、知恵であり、努力であり、慈悲や友愛である。……決して欲ではない。

(であるのに、人は欲を主《あるじ》として生きる。欲は無慈悲であるにも関わらず)


2005-05-21

 

永遠の生

2005/08/13

Q「当サイトの主眼を整理しようとしたのですがうまく文章がまとまりません。どうかお手伝い下さい。」

 我らは永遠の善を目指す――人は、善をなそうとする。だが、人が死によって無に帰すのであれば、人が行わんとする善は無への奉仕となる。もう少しましな善を行いたければ、私たちはより長く残るものへと奉仕せねばならない。
 死後の個性存続を信じぬ事は容易い。だが、私は問う。彼らはいかなる夢をもち、いかなる行いが出来るというのか? 灰になるまで、無に帰するまでの僅かな時間の中で? その思考の中に希望は見出しがたい。

 人は生かされている。おそらく霊も――死後の世界の居住者は「永遠の生を得た」という。だが、本当に永遠に生きられるのかどうかは、永遠に生きてみなければ分からない。もしも霊が永遠不滅なものであるなら、悪意を手放さぬものも永遠に残るのか?

 君は問う。「死後も個性が残るとして、肉体を持った自分と、肉体を失った自分は果たして同じものだろうか?」 肉体がもたらす性欲や食欲を引きずる霊もいる。また、ある霊達は死によって「自由になった」と答え、また、別な霊達は「あるだけましだ」と答える。この差異は最高の歓びが、その精神に宿るか、肉体に宿るかの観点の相違でもある。

 肉体を持ってのみ快楽が得られると信じる霊は、肉体の中に生きるときは死を恐れ、死後は快楽がないと悩まなければならない。すなわち、天上天下に安住すべき幸せを見いだせない。

 人は生かされている。おそらく霊も――安住できる幸せを持たぬから、己が無になることを望むというのか? それならば、なんと不毛なことだろう。その人にとって人生とは死して無になるまでの苦悩でしかないのか。その答は人生の中で、おそらくは永遠の生の中で苦しみながら模索せねばならぬ。

 現実だけに心を委ねたら、人は苦悩から逃れられない。それ故に人は希望を持ち、未来を信じる。


2005-08-13

 

執着心

2005/08/06

Q 「執着心には百害あって一利なし、という言葉をよく聞きます。これは真理でしょうか。私には、造物主が無用な物、害ある物を何一つ人に与えなかったと信じられます。ですから百害あって一利なしという意見には賛同できません。」

 一つの存在は様々な意義・理由があって存在する。一面が不都合だからといって、存在の総てを否定しようとすることは間違った捉え方である。だがその過ちはどこから来るのか? 人は己の生き方を肯定することに執着する。… … 一本の道をたゆまずに歩む。そのためにも執着心は働くが、間違った道を改めさせない働きも、執着心にはある。

 たしかに、失った物は諦めるより無い――諦めるべきを諦めずに、執着することは明らかに間違っている。しかし、物を大切にする心や、家族をいとおしむ気持も執着心が補完する。…… 確かに執着心の総てが悪いわけではないし、無益なわけでもない。問題は他にあるのである。

 他の働きが無いことが問題――執着心が問題なのではなく、執着心だけが働くことが真の問題である。理性や良識が働くなら、誰も執着心に執着しない。だが、理性や良識を抑えるために執着心を用いるから、悲劇をより大きく、苦難をより拗らせ、問題解決の道をふさぐのである。つまり、 執着心が主人公となり、執着心のみが一人歩きすることが問題なのである。

 執着心は他を阻害する――世俗的な生活上に於いて、適度な執着心は有益であるが、何かに拘る心は、逆に無限の可能性を否定する。失えばこそ得るものもあるのに、持っているから得ることが出来ない。それこそが、仏教徒のいう執着心の害である。何も持たぬからこそ総てを持つのだ。その心境を修めることも大切である。

Q 「何も持たぬから総てを持つ、という概念は理解しますが、それで社会が成立つでしょうか」

 それは、あなたの心の問題であるのか? あなたが心身共の豊かさと幸福を追求したいのであれば、社会の必然をいいわけに持出さず、あなたが出来ることを為すべきである。

 あなたが執着から自由であるなら社会の正しき要求を満たすことが出来るだろうが、己の執着に支配されているなら、どうして社会の必然を満たせようか? 執着を棄てて社会が成り立たぬというのは不毛な理屈である。そもそも個々人の執着が常に社会を脅かしているのが現実ではないか。


Q 「この議論に於いて、執着、又は執着心という言葉の概念に誤解があるのかも知れませんね」

 醜さが判断基準――思念が目で見えるのであるから、霊的にいうなら問題は端的である。そしておそらく、相手の表情からもこれを窺えるであろう。「浅ましい有様で執着している」事を指して、「百害あって一利なし」と表現するのだ。……これは間違いではない。明らかに諦めるべき事に執着しているのである。

 だが、書物などで言葉だけを見て、執着心を否定するのは間違いである。たとえば、失われんとする命を助けようとするのも執着心の現れであるが、そういう愛他的な行動は、霊的に見てあまりに醜くはない。これは相手の表情からも窺えるであろう。むしろ慈愛が溢れるその表情は美しくもある。

 だから、私には想える。執着や我利、我欲を否定するよりも、醜くなるな、美しくあれ、という方がより適切であると。霊的に美しくあることは、心霊家にとって当然のあるべき姿なのだから。無論この表現にも問題はある。人は己の都合の良いものを勝手に美化してしまうのだ。所詮、正しく物を見る力を得なければ、いかなる助言も決して役には立たぬのである。

 それこそ、執着や嫉妬、我利・我欲の奴隷になっている人は、それを恥じるよりもむしろ誇りに思うのだろう。なにしろ中途半端な悪想念の持主だけが必要以上に己を恥じるのである。

Q 「霊的なメッセージは与える人を選ぶということですね」

 相手を見て語る――言葉は不完全であるが故に、相手を見て語らねばならない。不特定多数に語ることは、それが多くの智慧を表すようでいて、実は何も語らぬに均しい。何も語らぬならば言葉に意味を求めるのも不毛ではあるが、だからといって無用とは言えない。

 心の実体は図示も出来ず、言葉でも言い表せぬが、言葉で注意を喚起することは出来るのだ。言葉を読んで知識を増やしたつもりになるのは不毛ではあるが、果たすべき事柄に関心を抱いたとしたら、それはそれで意義があるのだ。

 従って、「執着心には一利無し」という表現にも問題はあろうが、それが結果として多くの人々に執着心の持つ問題点に関心を持ったのだとしたら、その仕事は称えるべきである。


2005/08/06

私にとってのスピリチュア・ライフ

2005/08/06

2005年 08月 05日


 ウェイン・W・ダイアー著「スピリチュア・ライフ」三笠書房刊なるものを読んでいる最中だが、とても苦痛だ。いや、悪い本だという意味ではなく、身に合わないのである。

 振り返ってみれば、スピリチュアリズムの本で本当に真剣に読んだのは、「古代霊は語る」だけだった気がする。

 当時私は、突然に開いた霊感に戸惑い、悩み、苦しんでいた。そんな私に、近所で整体を教えていた老婦人が差し入れてくれた心霊書が、シルバーバーチの霊訓集であった「古代霊は語る」と「霊界通信 小桜姫物語」であった。あれからもう四半世紀を過ぎたが、この二書との出会いは私にとって決定的な意味を持っていた。まあ、当時18才であった私にとって「小桜姫物語」はあまりに敷居が高すぎた。その意味で、今の私があるのは「古代霊は語る」……シルバーバーチとの出会いであったといって間違いない。

 良いものに触れると言うことはとても大切なことだ。本当に良いものを知らなければ、俗悪品で満足してしまう。そして、私は最初にシルバーバーチに触れたおかげで、以後に出会った多くの心霊書に意義を感じなかった。何行か感心する箇所があるとしても多くはつまらぬ書物に思えた。

 謙虚な気持ちでいうが、私がシルバーバーチの霊訓から学んだのは、真理ではなく希望であった。……当時の私の霊感に感じられるのは、醜い霊ばかりであり、それ故に私は死にさえも絶望していたのである。

 そう、私は死にさえも絶望した経験を持っている。……だからこそ自殺を図る人々のなんと幸せな(無知)ことかと思う。死後の世界にかくも多くのろくでもない霊がいて、虐められ、苦しめられるのであれば、本当に楽なのは現世だ。たとえ親から虐待を受けていたとしても。と同時に、この世で慢心して生きる人々のなんと危ういことかとも思う。なにしろ、人の足を引き、揚げ足をとる連中は、この世よりも遙かにあの世に多いのだから。

 だがなんと言うこともない。私が感じていた霊は、会社と家庭の双方に怒りを感じていた父親の想念が引き寄せたものにすぎなかった。そう、雨雲の上には太陽が輝いていたのである。雲を見上げて絶望するのではなく、その雲の上に昇る努力こそが必要だったのだ。

 私はその時希望は得た。だが、希望は往々に苦しみをいや増す。確かに「古代霊は語る」を最初に読んだときの私の感想は、『良いことが書いてある、が、当座の役には立たないな』であった。当時の私は、緊急に除霊法を学ぶ必要を感じていたのだ。…… 今となれば間違った努力のいかに空しいことかと思う。人は無力であることを知ってこそ真の力に目覚める。……除霊など、神仏・守護霊・祖霊に任せておけばよいのだ。が、当時の私はそんなことも知らなかった。そしてどの心霊書籍にもそんなことは書かれていなかった。腕ずくで問題を解決する方法ばかり……だが、未熟者が腕力に訴えれば問題を拗らせるだけである。辛かった。悲しかった。死にさえも絶望した。死ねばこれらの霊と日々顔を合わせていかないと思うことが切なかった。楽になりたかった。死よりももっと安らかな道がないかと思わずにはいられなかった。

 生が辛く、死がより辛いものであるとしたら人はどう救われるのだろう?

 若い私には想像もつかなかった。そんな方法は、いかなる心霊書にも書かれていなかった。「古代霊は語る」の中にさえ。一連のシルバーバーチの霊訓中にさえも。……なんと言うことはない。設問が間違っていたら答が見つかるはずもない。生が辛かったら、そこから逃げるよりも、生を幸福に換えていけば良かったのである。

 それに気がつくのに一年半掛った。長かったのか、短かったのかは知らない。とにかく私は気がつき、その後は、生と死への絶望を棄て、代りに霊能力の持つ可能性に絶望した。

 実は未だに思わざるを得ない。霊感なんてつまらないと。世界には、そして人にはもっと素晴らしいものが備わっていると知っているから。

 私の霊感が一番鋭かったのは開いてから僅か一週間であった。無謀なほど己の霊感を信じていた時期だ。だが、分別とバランスをとらない霊感は諸刃の剣であり、私はそれを惜しいと思わない。

 私はシルバーバーチの霊訓、なかんずく、「古代霊は語る」に救われ、そして、今の霊媒としての私がある。時折、ページをたぐれば自分を励ます言葉に出会い、それ故に家族に接するように……家族以上に親しみを感じてはいる。そう、感じてはいるが…… 今は感動を覚えない。

 それは別に、私が通信霊シルバーバーチと、その未知の支配霊の霊格を超越したからでもなんでもない。かつての私はシルバーバーチを師と思った。だが今は……霊感が開く前から、私は理解できぬまま、論語や老子を読む小僧であった。親子関係にストレスを感じ、自分を救う言葉を懸命に探していた。……いわば、親を恨む自分を弁護する言葉を探していたのだ。「孟子」の中にその手掛かりを得たときの歓びは、なんとも懐かしい。

 ただ、「死後の個性存続」、「永遠の生」という前提条件に立ったとき、論語や老子がより理解しやすくなることに気がついたとき、私にとってのシルバーバーチが、師ではなく兄に変わったのである。つまりこれで終わりではなく、今ようやく本当のスタート地点に立ったことを認識したのだ。

「スピリチュア・ライフ」を読んで苦痛を感じたのも、実をいえば、「何を今さら」という誤った侮蔑の心の働きである。とくに、浅野和三郎氏の著作を指でなぞるようにして読んだ今となっては、なぜ、浅野和三郎氏がスピリチュアリズムの訳語として「神霊主義」と呼んだ理由が確信される。なにしろ「霊学」が教えることと大差はない。

 更に浅野氏は、西洋思想は力で問題解決、東洋思想は気で問題解決するといっているが、それもまたこの本で再認識してしまう。宇宙だ、無限だ……言葉遣いが大袈裟で、静寂の蔭に筋肉が息づいてる。まるで、和定食のご飯の代りにピラフが付いているかのようだ。―― 和食のおかずは白米との相性がよい。

 スピリチュアリズムの七大綱領に対して、浅野和三郎氏が、神霊主義の四要素を整理したが、確かにキリスト教文明圏ではキリスト教会のドグマに遠慮があって思想の整理がしにくいのだろう。それと同様に、「スピリチュア・ライフ」を読むよりも「菜根譚」でも読む方がよほど端的に思えてしまう。そう思えてしまうから、この本を読むことが無駄に感じられて辛くなる。…… これは表現力を養うために読んでいるのだと自分に言い聞かせずにはいられない。

 唯神や、無為自然といった、東洋思想をちょっと囓ったことがある人なら、僅か数語で表現できることにページを割いているのである。むろん、世間には死後となっている言葉を連ねても、多くの人にとって読みにくくもあろうから、この本のあり方が間違っているとは言えない。むしろ、既存の東洋思想解説本が反省すべきなのだと思うが、それはそれである。

 嗚呼、と思う。答がないのではなく、答が多すぎて迷う現代に私は生きている。


霊査事例: 2005年8月4日(ML)

2005/08/04

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


霊査事例1

 身体の故障は、霊障だけとは限りません。時として、張り切りすぎても身体に故障を引き起こします。柔軟運動もせずにいきなりで、夢中になれば具合なども気に止らなくなるものです。
 蛇足ですが、(不平不満から)お菓子や果物は大人食いしないように。
 また、霊査中、「あちゃー失敗しちゃった!」という顔をしたあなたが見えましたが、それを失敗だと思っているのは、どうもあなた一人のようです。

霊査事例2

 不思議です。あなたのお母様の姿が見え、「もう一度、もう一度」と聞こえます。

霊査事例3

 なしのまま、わたれば易き道あるを……うまく行かなければ、細工を弄するのが大人の処世術のように思われていますが、車庫入れがうまく行かないなら、細工を弄するよりもまず、後進スピードを落とすことですよね。
 へたくそだから失敗するのではなく、焦るから失敗するのに、焦ってあの手この手をせっかちに試すから、失敗が重なって自信まで失ってしまう。
 今、あなたがほっこりと穏やかな日々にいられるのならば、それは技能向上の為の期間というより、自然体になるための期間だと思うべきでしょう。
 リラックス、リラックス。

霊査事例4

 出来ないからこそ神仏や守護霊・祖霊の助けを身に受けるべきなのに、そこで(自力で)頑張ってしまう。頑張るというのは我を出すということですよね。我を出して挫《くじ》けるから涙まで出てしまう。…… 実はあなたの友人にもこういうタイプの女性がとても多いですよね。
 無力で良いのです。いや、無力であるべきです。自分は器なのだから。

霊査事例5

 大変やっかいな職責を担っていらしたことを、メールで知りました。が、あなたの座右の銘を覚えています。……「坐忘」
 たとえその結果が自分に不都合をもたらすとしても、その職務に専念すれば、仕事はともかく、あなたの人間性、とくに誠実さが評価されることでしょう。
 世俗的な利益を福徳と呼び、霊的な利益を功徳と呼びますが、人生において福徳も大切、でも人生を終えるためには功徳が大切なのです。
 仕事を忘れるぐらい仕事に打ち込んでください。あなたなら出来ます。いや、あなたしかできません。

霊査事例6

 あなたの弱点として、人の眼を気にし過ぎるということを指摘いたしました。そんなあなたにぴったりの祝詞があります。
「六根清浄の大祓」と呼びますが、内容全文については、ネットで検索してみてください。要約すると、

 目にもろもろの不浄を見て
   心にもろもろの不浄を見ず
 耳にもろもろの不浄を聞きて
   心にもろもろの不浄を聞かず
 鼻にもろもろの不浄を嗅ぎて
   心にもろもろの不浄を嗅がず
 口にもろもろの不浄を言いて
   心にもろもろの不浄を言わず
 身にもろもろの不浄を触れて
   心にもろもろの不浄を触れず
 意《こころ》にもろもろの不浄を思いて
   心にもろもろの不浄を想わず

 眼をつぶり、耳を塞いで生きるのではなく、見、聴き、嗅ぎ、言い、触れ、思うことで自分の心を穢さぬ事です。そして、嫌だなぁーと思うことがあれば、面倒でもこれを三度唱えてみたらいかがでしょうか?
 こんな事が祝詞になるということは、昔、昔から同じ悩みを抱いてきた人が大勢いたということなのです。あなたが悪いんじゃない。あなたはただ、人としての過程を踏んでいるだけなのです。


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霊障解決の問題点

2005/08/03

2005年 08月 03日


 世間に流布する「心霊常識」には、他にも机上の空論的なものが数多くあります。 たとえば「霊障解決の考え方」です。

・・・・・・・

 人は往々、己の利益に反するものを悪と呼びます。そして、利に執着する人を世間では「強欲」と呼びますが、つまり強欲な人ほど、正義を振りかざして己の利益を守ろうとするものです。それが人間の性質であるのに、大騒ぎをする相談者の一方的な都合を聞いて荷担すれば、利の奪い合いの手助けをすることになります。

 利は、理に添って分配するのが公平であるのに、情に流されて荷担すれば、それこそが不公平、不公平を為すことは悪であり、正義に反することになります。

 また、人は往々、己の情念に反するものも悪と呼びますが、理によって裁かなければそこに不公平が生じ、正義に反することになります。

 物事は必ずしも理(道理)で割り切れるとは限りませんから、利や情による判断も不要ではありませんが、理を抜きにして正義はあり得ません。――物事に取り組むスタンス、まず冷静で論理的に、そして公平に判断しなければ善事は成せません。

・・・・・・・

 霊障解決の問題点とは、一般常識でならばケンカ両成敗が原則だろうに、相談者の言い分だけで善悪を判断し、もう一方の当事者である霊魂の言い分を聞かずに、ただ悪と決めつけ、それを追い出そうとすることにあります。また、そうする霊媒もまた、利や情で善悪を考える人であると問題が拗れぬはずがありません。

 私が不幸に思うのは、祖先の霊などが折角苦労して、子孫に危険を知らせに訪れたのに、子孫はただ恐れ、あわててしまい、かえって災難を拗らせたりすることです。……ちょっと話を聞いてあげるだけで、問題が解決することが圧倒的に多いのに、わざわざ除霊をしようとするから、無関係の霊が巻き込まれてトラブルが広がっていくことも良くあります。それをまた、問題解決が出来なかったからと、別な霊媒に相談すると、他とは違うところを見せようとして張り切り、さらに問題を拗らせることもあります。

 霊障とは、人々が正しい心霊知識を持たぬから起こるのだ……という一面があるのです。


善悪は相対的

2005年 08月 08日

 たとえばあなたは、耳が不自由であったとします。すると、隣人が寡黙であろうと、おしゃべりでうるさかろうと、どう違うというのでしょう? 隣人の騒音に神経質になるのは耳の良い人なのです。
 霊障問題にもこれが当て嵌まります。世間には霊障問題をとても重大視して大騒ぎをなさる方もいらっしゃいますが、霊の存在を感じられない人々からみれば、耳が不自由な人に騒音問題の害を説くようなものです。
 人にはそれぞれ立場があり、利害があります。強く主張するのは、果たしてあなたのためを思ってのことか、自分の立場や利害を守るためか…… 。
 むろん、悪意をもってうるさくしている隣人を持っていたら、耳が不自由で知らん顔をしていたらなお危険です。ですが、品が悪くてうるさいだけならば、なまじ聞こえ正義漢ぶって注意でもする方がかえって危険かも知れません。
 いずれにせよ、ただ隣人を憎んでしまえば問題は泥沼化するのは避けようもありません。そして大切なのは理性、つまり、騒音問題を解決するよりもお互いの幸福を追求すべきということです。たとえば特定の時間の騒音に寛容になる代り、特定の時間の静粛を勝ち取るなどの方策もあるはず。
 いわゆる狐狸の霊……本当に狐や狸の霊であるかどうかは別問題……だって、霊的番犬の訳には立ちます。またはそれ以上の役にも。

 どんな家にだって、探せば低級霊がいておかしくない。……それを仇と思うより、付き合いが難しい隣人と思うべきです。…… マンガみたいに、お札や呪文で、ぱっぱと除霊していく、心霊バトルを念頭に置いて、心霊問題を考えるととんでもない間違いを犯します。
 世に中には確かに悪霊がいるとしても……あなたは自分が善霊に分類される自信をお持ちですか? 妬み、僻み、嫉妬、偏見、蔑視、虐め、転嫁……あなたは死後、霊媒に低級霊や悪霊呼ばわりせずにいられましょうか?

 善悪は相対的なものです。人々は往々、自分に都合の悪いものを悪と呼びます。あなたが正論を吐いても、相手からは悪と見なされるかも知れない。……そういう身勝手な価値観を用いていたら、今日の味方は明日の敵となります。というより、そうやって敵を増やして現代の不毛な世相があります。


無駄が悩みを呼ぶ

2005/08/02

2005年 08月 24日


 おそらく、この投稿を嫌味に思う人もいるだろう。……もっとも、私が何を書こうが、それを嫌味に受け取る人がいることも事実だ。

 互いの発言を、互いが嫌味と受け取るのは、何のことはない、人はそれぞれ現実から目を背けながら、自分は誠実であると信じているのだ。自分が誠実であると信じているから、自分の嘘を見たくないのだろう。

 人はこうして地獄に堕ちる。どんな善良な人であろうとも、死の直後には地獄が待っているのだ。ただ、自分の嘘を素直に認められる人は、すみやかに浮き上がれ、認められない人はいつまでも地獄の中にいて、「死後の世界とは素晴らしいものだ」と現実を偽って、あいも変わらず己を嘘の中に置くだけである。

 まあ、そんなことはどうでもいい。地獄には地獄の獄卒がいて、救われるべき人は叩き出される仕組みが出来ている。

・・・・・・・

 悩みを抱える人はとても多いが、悩みの多くは他の誰が原因というのではなく、当人の行いに無駄が多いことが原因と私は見る。というより、無駄、無意味な言葉の多い人ほど、悩みが尽きないことを誰もが受け入れざるを得ないだろう。

 そして、無駄、無意味な努力の多い人ほど、努力に絶望して助けを欲しがる。つまり、絶望すべき人ほど絶望する仕組みがこの世の中にはあるということだ。

 困っている人を助けようとする……その志は尊い。だが、摂理はそれを否定する。


憎悪……やり直す切っ掛けになることを祈って

2005/08/02

2005年 08月 19日


 憎しみに支配されている人は往々気が付かないが、憎しみは相手よりもむしろ自分を苦しめる。その事は、憎む人が相手を傷つけずに入られぬ事を見ればわかるだろう。相手を苦しめるための手段がなければ、人はどれほど焦れ、苦しむか。

 相手を苦しめるのは、自分の苦しみを相手に転嫁する努力だ。――果して効果があるかどうかは別として。

 他を憎むことは自分の心を憎しみに囲い続けることに等しい。人の心は、愛や歓びで満たすことも出来るのに、憎むことで心を満たし、憎む心の醜さが、愛や歓びを遠ざけるのだから。

 憎しみは、一体誰を苦しめるのだろう?

 肉体の死と共に憎悪が消えていくのであれば、人の情念は忍耐だけで浄化できるのであろう。だが、人の個性が永遠に存続するのであれば、努力無くして憎悪は消えていかない。……その憎しみはどう消していくのか?

 憎悪を向けた相手が自分を愛するとでも思うのか? 自分の苦しみを転嫁して、その苦しみが再び舞戻らぬと信じているのか?…… 人はそれぞれに人生の重荷を背負っている。その重荷の上に苦しみを与えたのだ。復讐には利子が付かぬはずがない。

 相手が許しを請えばそれで憎悪が消えていくというのか?……なるほど、それで気は晴れるかも知れない。憎悪という幼稚で野蛮な、対人問題解決法を行使する人が、身の回りから憎悪を消し去ることが出来るだろうか。

 相手が許そうとしても、自分の情念をなだめることが出来ないのであれば、問題はなおのこと深刻だ。宇宙の総ての魂が善良であっても、自分一人は憎むことを止められないということなのだから。

 魂は進歩を続ける。……愛や歓びを遠ざけて、憎む心ばかりを大切にしていて、一体その魂はどのような進歩を成し遂げるのだろう。

 肉体の死と共に憎悪が消えていくのであれば、救いもないが、気が楽だろう。だが、魂が永遠の生を歩むのであれば、憎悪を抱くのは、より多くの苦悩と不安と、不安を消すための闘争が待っていることになる。


精神統一の意義?

2005/08/02

2005年 08月 10日


 8月のオフ会はお盆の最中のためか、思いがけず長時間会場を借りられることとなった。とはいえ、6時間も7時間も精神統一をするのはなかなか辛い。ちょっとは工夫をしようかと思い、テキストの制作を思い立った……が、背後に反対された。

『知識がつけば、人は直覚よりも知識で物事を判断しようとする。霊界の者達からいわせれば、そんなことはわざわざ眼をつぶって、記憶と手探りで前に進むようなものだ。目が見えないのならばともかく、なぜ眼を開く努力をしないのか?』

……なるほど、ではブログもサクッと削除しちゃおうか?

『人は智慧を尊ぶ。悪いのはそれではない。見て行えば簡単であるのに、眼をつぶったまま、言葉で得た知識でことを為そうとすることである。眼を開く訓練が出来るときは、それに専念すべきであろう。』

……なるほど、ではまあ、休憩時間の取り方でメリハリをつけるに止めるか。でも、そこまでいうのだから、何かしら見せてくれるのでしょうね?

『約束はせぬが努力する……』


お盆に祖先は帰るか?

2005/08/02

2005年 08月 02日


 最近では「夏休みの分散化」などという表現もあるが、やはりお盆の頃には高速道路が各地で渋滞を引き起こす。…… お盆は祖先の里帰りだけでなく、生きている子孫等の里帰りシーズンでもある。同時に海外旅行のハイシーズンも兼ねていて空港も混雑するが、「アラ、あの家は海外にお墓があるのかしら?」等といわれることはない。

 かくいう私は、霊媒を自認し、先祖供養の大切さを重々知りながら、「怠け者の節句働き」などといわれながらも、わざわざこの時期ばかりは会社で懸命に働いて、「わざわざ混雑する時季に遠出するなんて……」などと混雑の模様をテレビで鑑賞していたりする。

つまり、お盆は里帰りの時季ではあるが……誰もが里帰りをするわけではない。

 ところで、お盆には祖先の霊が帰宅するという。――お祖父さん、お祖母さんが、孫にそう教えるのであれば微笑ましいが、心霊家がこういうのであれば注意が必要だ。

 霊魂だって、元が人間であれば、それぞれに自我があり、自由意志があるはず。ならば、人々がお盆に里帰りしないのと同様に、里帰りしない霊魂だっていておかしくもない。

 更にいえば、霊感のある人であれば、お盆やお彼岸に限らずに祖先の霊が時折子孫の様子を見に来ることを知っている。

 ついでにいえば、お盆のいわれは、釈迦の弟子、目連尊者が地獄で苦しむ母代りに善行を積むことから来ている。……いわば、地獄の住人を助けるチャンスなのであって、この日しか子孫を訪ねることが出来ない祖先の霊とは、地獄にいる霊魂でしかないはず。

 確かに、帰幽(死の)直後で、未だ死後世界での適応訓練中の未熟で、大部屋住(集団中で指導を受けている)の霊魂であれば、勝手に出歩くことが出来ず、まして一人で出歩くことが出来ないから、お盆やお彼岸といった時季に外出許可と引率を得て出歩くことはあるようだ。また、そういう不自由な境遇の霊魂たちは、もう子孫が先祖供養の準備などを始めたなら……いや始める前からもう、ワクワクして大騒ぎをすることもある。

 お祭り好きが騒ぐ一方で、ニヒルに構える落ち着いた霊もいるし、我が子を棄てた者やこっそりと家族を裏切った者(不倫など)などは、この時季が早く終わらぬものかと小さくなっている。また、前世で悪行を為した者の中には、この時季が謝罪のチャンスであると懸命になる霊もある。

 人の数だけ、お盆の過ごし方がある。霊魂の数だけ、お盆の過ごし方がある。

 お盆にだけ帰宅できる霊もいるかも知れない。でも、大抵の霊魂は自由に里帰りできる。……人に自由意志があるなら、死者にだって自由意志があるのだろう。その死者の霊魂が杓子定規に動くと考えるのは矛盾している。

 修行の初期段階では自由は少ないが、修行の進行状況もまたそれぞれの才覚次第なのだ。死後何日たったから霊界入りするとか、死後何年たったから神様になるとか、そう杓子定規には行かない。むしろ、年期だけで境涯が進むと考えているような霊魂は、いつまでも向上しないだろう。


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