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強欲について

2005/08/13

Q 自身が強欲であることに気が付いていない人が多い。

A 必要だから求める――人は必要だから求めるのである。必要なものを手に入れるのに、強欲であるとか、薄欲であるなどと自覚はしない。ただ、その必要性を感じるのみである。

 必要なものを求めて何が悪い……誰もがそう思い、他者の意見に耳を傾けぬ。なぜなら、己が必要とするものを得るのに邪魔をするのはなんと呼ぶべきか? 敵である。そして、敵のいうことに誰が耳を傾けるというのか? それは戦い方を知る者である。つまり敵を滅ぼす手段として聴くのだろう。

 中には、己の強欲を恥じる者もいるだろう。だが、そのような者を強欲と責めてはならぬ。必要なものが得られず、求めてもいけないのだとしたら、その者は一体どうすればよいのか? 葛藤を与えれば人は苦しむ。その苦しみは皆を不幸にしても、誰も救わぬ。

 何が必要なのか、なぜ必要なのか――人が指して「強欲」と呼ぶ者は、欲が強いのではなく、何が必要であるのか、なぜ必要なのかを知らぬ者だ。知らぬが故に多くを求める、焦って求める。 求めるものが分らぬ故に何を得ても満たされず、いくら得ても満たされない。満たされぬままに為すべき事を見失いもする。

 必要なのは、求める前に、何が必要なのか、なぜ必要なのかを知ることである。…… 一人旅は往々、目的を見失いがちだ、「何が必要なのか、なぜ必要なのか」、常に我身に問いかけ、時として、道連れと共に問い掛合うことが大切である。

Q 霊媒の適性に、「欲が少ないこと」とありますが……

A (その条件は)霊媒に限らぬ―― 人は己の求めるものを知り、正しく努力しなければ善く生きられぬ。人々が何を求め、なぜ求めるのかに疑問を持たぬ限り、霊媒の働きどころもない。強欲の満たし方などに答えはなく、答のないものを求めたところでその需要を満たすために働く者もない。ましてそのような状況でも働こうとするのは愚者である。愚者が悩むのは当然の摂理だ。

Q 霊媒に需要がないから、霊媒が生れないと?

A 人々が心の癒しを求めるだけなら、霊媒の必然性もあろう。だが現・日本で求められる霊媒とは、強欲の満たし方を教ゆる霊媒である。その証として、霊媒が詐欺師の代名詞の様にいわれるではないか。それはつまり、強欲を逆手にとられて騙される被害者が大勢いるということだ。

 真に癒しを求めるもの、欲を控えて努力する者には相応の救いが与えられていて、強く霊媒を求めたりはしない。

 確かに、確かに……心正しくとも、無知故に道を間違え、苦労する者もいる。だが、幸運を得る権利など誰にもないし、幸運を与える義務など誰にもない。今、不幸だからといって、宿命を恨んでいたらいつまでも不幸なままであろう。努めて幸せを得られぬほど、この世は乱れてはいない。

Q 世に間違った情報が多いから人が迷うのでは?

A 真実を知る力のない者は、正しい知識を与えられてもなお、迷い、誤る。真実を知る権利など誰にもないし、真実を与える義務など誰も持たぬ。ただ、真実にこそ正しい価値があり、嘘を言って得られるものより、嘘を言って失いものが遙かに多いだけである。そはつまり、真実のみで生きようとすることが摂理に適い、嘘を利用しようとするものには摂理に反して無理が生じるのだ。

真実とは即ち、努めて求めるべきものであり、努めて与えるべきものである。

 座して与えられるを待つ者は、知恵も機会も財産も使いこなすことがない。悪銭身に付かずというのは、かくもあてはまる。


 学ぶことに欲があろうとも、それが正しき動機によるものでなければ意味をなさぬ。この意味とは、教える側にとっての意味である。我儘に学び、知識に埃を得たとせよ、そこに良縁が生じることはない。

 真理は、次の真理へと繋がる。――正しき理解力を持つものは、一を聞いて、十を知り、百を知る。だが、間違った教えは、一を聞いても二へと続くものでなく、よって発展性の無い知識は、適切でないことを知ることが出来る。しかるに人は、不適切な知恵にこだわり続けて、真の叡智を求めることを忘れる。誤った努力は良き結果をもたらさぬのに、誤った努力、行き詰った知恵、行き詰まる行為をあてどなく繰返す。……芽の出ぬ努力を繰返す様は、さながら古来より伝えられる地獄の責苦に似る。

 努力せよ……報われる努力を。最初から彼方に手を伸すのでなく、まず我身を支えられる真実に手を伸し、一歩づつ前進せよ。目標が同じであろうとも、一歩づつ進む者は強欲と呼ばれず、一足飛びに生こうとする者が、何も得られず、なお強欲と呼ばれて(人々から)見下される。

 大切なのは、自分と結果、自分と未来を繋げる「縁」である。縁の繋がらぬ結果は得られず、縁の繋がらぬ未来には至れぬ。結果に、未来に己を結びつける縁とは、知恵であり、努力であり、慈悲や友愛である。……決して欲ではない。

(であるのに、人は欲を主《あるじ》として生きる。欲は無慈悲であるにも関わらず)


2005-05-21

 

永遠の生

2005/08/13

Q「当サイトの主眼を整理しようとしたのですがうまく文章がまとまりません。どうかお手伝い下さい。」

 我らは永遠の善を目指す――人は、善をなそうとする。だが、人が死によって無に帰すのであれば、人が行わんとする善は無への奉仕となる。もう少しましな善を行いたければ、私たちはより長く残るものへと奉仕せねばならない。
 死後の個性存続を信じぬ事は容易い。だが、私は問う。彼らはいかなる夢をもち、いかなる行いが出来るというのか? 灰になるまで、無に帰するまでの僅かな時間の中で? その思考の中に希望は見出しがたい。

 人は生かされている。おそらく霊も――死後の世界の居住者は「永遠の生を得た」という。だが、本当に永遠に生きられるのかどうかは、永遠に生きてみなければ分からない。もしも霊が永遠不滅なものであるなら、悪意を手放さぬものも永遠に残るのか?

 君は問う。「死後も個性が残るとして、肉体を持った自分と、肉体を失った自分は果たして同じものだろうか?」 肉体がもたらす性欲や食欲を引きずる霊もいる。また、ある霊達は死によって「自由になった」と答え、また、別な霊達は「あるだけましだ」と答える。この差異は最高の歓びが、その精神に宿るか、肉体に宿るかの観点の相違でもある。

 肉体を持ってのみ快楽が得られると信じる霊は、肉体の中に生きるときは死を恐れ、死後は快楽がないと悩まなければならない。すなわち、天上天下に安住すべき幸せを見いだせない。

 人は生かされている。おそらく霊も――安住できる幸せを持たぬから、己が無になることを望むというのか? それならば、なんと不毛なことだろう。その人にとって人生とは死して無になるまでの苦悩でしかないのか。その答は人生の中で、おそらくは永遠の生の中で苦しみながら模索せねばならぬ。

 現実だけに心を委ねたら、人は苦悩から逃れられない。それ故に人は希望を持ち、未来を信じる。


2005-08-13

 

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