執着心
2005/08/06Q 「執着心には百害あって一利なし、という言葉をよく聞きます。これは真理でしょうか。私には、造物主が無用な物、害ある物を何一つ人に与えなかったと信じられます。ですから百害あって一利なしという意見には賛同できません。」
一つの存在は様々な意義・理由があって存在する。一面が不都合だからといって、存在の総てを否定しようとすることは間違った捉え方である。だがその過ちはどこから来るのか? 人は己の生き方を肯定することに執着する。… … 一本の道をたゆまずに歩む。そのためにも執着心は働くが、間違った道を改めさせない働きも、執着心にはある。
たしかに、失った物は諦めるより無い――諦めるべきを諦めずに、執着することは明らかに間違っている。しかし、物を大切にする心や、家族をいとおしむ気持も執着心が補完する。…… 確かに執着心の総てが悪いわけではないし、無益なわけでもない。問題は他にあるのである。
他の働きが無いことが問題――執着心が問題なのではなく、執着心だけが働くことが真の問題である。理性や良識が働くなら、誰も執着心に執着しない。だが、理性や良識を抑えるために執着心を用いるから、悲劇をより大きく、苦難をより拗らせ、問題解決の道をふさぐのである。つまり、 執着心が主人公となり、執着心のみが一人歩きすることが問題なのである。
執着心は他を阻害する――世俗的な生活上に於いて、適度な執着心は有益であるが、何かに拘る心は、逆に無限の可能性を否定する。失えばこそ得るものもあるのに、持っているから得ることが出来ない。それこそが、仏教徒のいう執着心の害である。何も持たぬからこそ総てを持つのだ。その心境を修めることも大切である。
Q 「何も持たぬから総てを持つ、という概念は理解しますが、それで社会が成立つでしょうか」
それは、あなたの心の問題であるのか? あなたが心身共の豊かさと幸福を追求したいのであれば、社会の必然をいいわけに持出さず、あなたが出来ることを為すべきである。
あなたが執着から自由であるなら社会の正しき要求を満たすことが出来るだろうが、己の執着に支配されているなら、どうして社会の必然を満たせようか? 執着を棄てて社会が成り立たぬというのは不毛な理屈である。そもそも個々人の執着が常に社会を脅かしているのが現実ではないか。
Q 「この議論に於いて、執着、又は執着心という言葉の概念に誤解があるのかも知れませんね」
醜さが判断基準――思念が目で見えるのであるから、霊的にいうなら問題は端的である。そしておそらく、相手の表情からもこれを窺えるであろう。「浅ましい有様で執着している」事を指して、「百害あって一利なし」と表現するのだ。……これは間違いではない。明らかに諦めるべき事に執着しているのである。
だが、書物などで言葉だけを見て、執着心を否定するのは間違いである。たとえば、失われんとする命を助けようとするのも執着心の現れであるが、そういう愛他的な行動は、霊的に見てあまりに醜くはない。これは相手の表情からも窺えるであろう。むしろ慈愛が溢れるその表情は美しくもある。
だから、私には想える。執着や我利、我欲を否定するよりも、醜くなるな、美しくあれ、という方がより適切であると。霊的に美しくあることは、心霊家にとって当然のあるべき姿なのだから。無論この表現にも問題はある。人は己の都合の良いものを勝手に美化してしまうのだ。所詮、正しく物を見る力を得なければ、いかなる助言も決して役には立たぬのである。
それこそ、執着や嫉妬、我利・我欲の奴隷になっている人は、それを恥じるよりもむしろ誇りに思うのだろう。なにしろ中途半端な悪想念の持主だけが必要以上に己を恥じるのである。
Q 「霊的なメッセージは与える人を選ぶということですね」
相手を見て語る――言葉は不完全であるが故に、相手を見て語らねばならない。不特定多数に語ることは、それが多くの智慧を表すようでいて、実は何も語らぬに均しい。何も語らぬならば言葉に意味を求めるのも不毛ではあるが、だからといって無用とは言えない。
心の実体は図示も出来ず、言葉でも言い表せぬが、言葉で注意を喚起することは出来るのだ。言葉を読んで知識を増やしたつもりになるのは不毛ではあるが、果たすべき事柄に関心を抱いたとしたら、それはそれで意義があるのだ。
従って、「執着心には一利無し」という表現にも問題はあろうが、それが結果として多くの人々に執着心の持つ問題点に関心を持ったのだとしたら、その仕事は称えるべきである。
2005/08/06