‘2005/07’ カテゴリーのアーカイブ

知るべき事、余計なこと。

2005/07/16

2005年 07月 16日


運命……無風の怖さ。

 未だ、MS-DOSが主流だった時代。道楽でノートパソコンにしこたまフリーの占いソフトをインストールしていた私は、悲観的な某友人に散々運命鑑定に付合わせられて辟易とした。

 ちょっと脱線するが、この某友人は、友人の友人という位置づけにある。仕事上の付き合いから仲良くなった友人のその友人であった関係から一時つるんでいたのだが、この二人、なぜ楽観的な友人が、悲観的な友人を持つのか、がしばらくの間、大きな疑問であった。後日、気づいたてみればなんのことはない、一方の運気が上昇中で調子に乗っているのを楽観的人物と誤解し、もう一方の友人は運気が下降中で意気消沈しているのを悲観的人物と見ていたのだ。

 私は彼らの「運命の働き」をその人間性と見ていたわけだが、運気の変化と共に彼らの人間性(と私が感じていたもの)もまた変化し、彼らの転職を機に疎遠になり、私はその状況を積極的に利用した。……彼らの転職(独立)には付合わなかった。

なぜ彼は運命鑑定にしがみつくのか……彼は無風状態にあったからだ。

 帆船時代、船乗りたちは逆風さえも前進力に換えた。彼らが恐れるのは逆風ではなく無風だった。それと同様である。希望を失った人間も非難されれば対抗心や復讐心を杖に人生を生きる。人が真に不幸なのは、希望を失うことではなく、為すべき事を失った時だ。

 が……いくら占いなんてしても状況は変わらない。なんとまあ不毛なことだ、と思いつつ、この時を耐えた…… 希望に変わる憎しみの対象にわざわざ立候補するのもバカバカしく思えたからだ。この時はうまく逃れることが出来たが、憎しみの対象に捕まったことは三度ならずある。我ながらナンセンスな話だ。

 話は変わる……おそらくは。

守護霊の鑑定……その裏話。

 人間に守護霊があるか、否か……真の問題は有無ではなく、その強弱・性質であろう。その守護霊をどう鑑定するのか。多くの人は霊媒にその鑑定を求める。特に人生が無風状態の霊魂肯定論者ほど守護霊に関心を持つ。

 これがもし不幸な最中にいる霊魂肯定論者であれば、霊障を先に心配するだろうし、うまくいっている人ならば、自分の才能を過信しがちで、往々加護に感謝することを忘れる。

 まあ、それはともかくとして、霊感に乏しい人であっても、憑依霊や守護霊を感じ、そして、信じられる時がある。いうまでもなく、運気がどんどん低下している最中であれば、憑依霊の存在は信じやすいし、運気がどんどん上昇していれば守護霊の存在は信じやすいものだ。

 ここまでが基礎・前提の話である。

 いわゆる、世間で成功者と見なされる人は、その守護霊・祖霊……いわゆる背後霊の働きが活溌であり、それら背後霊を見極め、そして、信じさせる事は容易だ。むろん、障害・不幸のどん底にいる人の因縁霊を見抜くのも容易だ。

 難しいのは、平々凡々に生き、努力せずに結果だけを欲しがる人の、守護霊・憑依霊の鑑定である。ビック・ネームが出ても嘘くさく、歴史的に無名であればつまらない。あげくに料金を請求されたらさらに不満を募らせる。

 なんのことはない。不平不満の輩を満足させるのは難しい……。 真に問うべきは守護霊と力を合わせて幸せを得る方法であるだろうに、正しい問いを見いだせないから、有益な答が見つからず、答が見つからぬから、あたら時間を無為に過ごして、不平不満が募るのだ。……全くの悪循環である。

 目の付け所が悪い人は、無為を追い掛けて時間を無為にするのである。

 

無風時の過ごし方

 人生の無風時……にっちもさっちも動かず、ただ憔悴している時機に、霊媒を頼るという話も多い。そもそも自分の力ではどうにもならぬ時機なら、他に頼るしか手が無いというのは自然な発想だ。だが、人生の無風時とは、守護霊・祖霊の働きすら鈍っているのである。

 無理な努力を重ねて、どうにもならぬと不平不満をいう……効果的な行動をとらずして、何が出来るというのだろう? 正しく問題を把握しないから、有益な解決策が見いだせず、解決策もなく努力するから、あたら労力を無駄にし、無駄な労力を使うから疲れてくだらぬ事を考える。何よりも、いざ運気が巡ったときに何も出来なくなっているのでは、愚かさもここに尽きるというべきだ。

  人生は、無理せず、怠けず、嫌がらずに、着々と前に進むべきなのである。時期が来れば波に乗って大きく進み、風向きが悪ければ、危うい方向に流されぬ程度に努力する。…… うまく行かないからと努力を諦めてしまう者が、開運産業の餌食に会う。

 

 待てといわれて待てない人々。待つべき時というのは動くと危険な時なのに。

 

余計なこと

 知るべき事を知らぬ害はとても大きい。……特に、余計なことに関心を持つ人ほど、知るべき事を知ることなくして害を受けるものだ。それはつまり、知ることが悪いのではない。先にすべきこと、後に回すべき事の区別をしない人が陥る誤りなのである。

 手っ取り早く、「余計なこと」と表現するが、その実体は、「大切なことを知らぬ」という意味である。これはとても重い智慧である。……不幸とは、大切なことを疎かにした結果なのである。


オフ会運営への反省

2005/07/15

2005年 07月 15日


明後日の横浜オフ会を前に、過去の反省を検討してみた。

1,霊査内容の質・量は、参加者事に差異がある。

 参加時に、力む人、または、遠慮が多い人は、その意志が扱いにくく、霊査がとても取りにくい。…… オフ会後に一緒に食事(往々アルコール付)をすることで他のメンバーと打ち解けた関係を築こうと努力してはいるが、逆効果(狎れてしまう)場合もある。

 祖先の霊の向上具合によって、受け取れるメッセージの質・量はどうしても左右される。水源が小さければ得られる水は僅かなものだ。

 当人は全くその自覚がないとは思うが……おもねる人(当人の前では褒め、当人が居ないと貶す参加者)は全く霊界から相手にされず(低級霊は飽きるほどよってくるが)、間に入る霊媒にとってこれほど難儀なことはない。まあ、この人はもう参加することはないだろう。

 参加者を平等に扱おうとして……人間、不平等はいやですよね……境遇が違うのに平等に扱おうとするところに無理が生じて、一部の参加者には、「文字数多くて意義は無し」的な霊査が出ている気がする。

 背後霊からとても嫌われている参加者がいるが、その原因究明と関係修復の努力がおざなりだ。

 当人は無益ではないと思ってくれているが、霊媒が無益だと感じている参加者が居る……(そこは喜ぶ処じゃないだろう的な評価)

 オフ会運営上の疑問点はあるが、「この者は参加させるな」というメッセージはここ最近は受けていない。

2,各自の目的・目標

 良い助言(霊査)を貰えた……と喜んで貰えるのは霊媒冥利に尽きるが、心霊主義者としてはどうか? 本来は、当人が受けたインスピレーションの良否を判定するのが心霊主義的霊媒の職務ではないか?
 考え方が上手になるのではなく、腹の据わった人物になって貰わなければ、私の立場がないぞ。
 個別指導のチャンスを作らなければダメだ。

3,背後霊団

 致命的なのは、価値観の共有がうまくいっていないこと。……霊界側の、「先祖供養万能」主義は克服したが、「……であるぞよ」主義はそのままだ。一方の参加者も、「ただで貰えばめっけもん」主義が横行している。

4,霊媒

 対応可能な参加者の間口が狭すぎるのだろうな。


語り合うなら「夢」を……

2005/07/14

2005年 07月 14日


遠大で実現の可能性に乏しい希望も……あなたが実現のために努力するなら「夢」 と呼ばれましょう。

矮小で簡単に実現しそうな希望も……実現のための努力を惜しみ、行動を起こさぬなら「妄想」と呼ばれます。

「死後の個性存続」「妄想の産物」という意見があります。… …真偽を議論する前に、考えていただきたいことがあります。

死んだ後に迷惑を残して平気な人、それどころか、死後に借財を残すことが上手な生き方だと思っている人にとって、確かに死後の個性存続は、妄想と呼びたい……死後に地獄があったり、来世で莫大な利子付で借金を返さなければならなくなるなど、悪夢そのものでしょう。

しかし、自分の死後に、良い物を残していきたいと考えている人もいるのです。そういう人々にとって、死後の個性存続は夢であり、理想であり、希望であります。

「死後の個性存続は夢や希望の産物ではないか?」という意見の持ち主と議論をするのは、私にとってキットの好ましいことでしょう。しかし、「死後の個性存続は悪夢や妄想の産物ではないか?」という意見の持ち主とは、その意見の違い以外に、人生に対する姿勢そのものが、私にとって好ましい物ではありません。正直言って、関わり合いたくないと思えます。

 語り合うなら「夢」を……そして「妄想」は遠ざけて生きたい。


愛を強いるのか?

2005/07/13

2005年 07月 13日


代価を払わずに品物を持っていけば泥棒。

預けたのものを勝手に持っていっても泥棒。

人の犯す罪にはそれぞれの事情が絡んで容易に裁くことは出来ない。たとえ奪われても寛容に接しなければならぬ事も多い。…… 被害者が寛容に成ることを強いられる現実がこの世の中には存在する。

だが明白な事もある。個人の罪を助長するのは大きな悪だ。

・・・・・・・

 人はそれぞれ己を弁護する。――正義とは所詮は利の公平な分配に過ぎない。だが、弱者に与えずしてこの世に善は成り立たない。…… 屁理屈をいえば「正義」と「善」とは必ずしも両立しない。それを両立させるのが「愛」である。

……では、愛を忘れた間に何が残るだろう? 正義か、善か……悪しき風習か。

 社会は悪に優しく、善に厳しい。

 理を持って正義を主張しても……

「あなたは(精神的・霊的に)年上なんだから、我慢しなさい!!」

……と、情で押し切られてしまうこの世界。

「他を愛せよ」……そりゃ素晴らしい理想ですな。

・・・・・・・

神仏の崇拝、祖先の供養、父母を敬い、弟妹を慈しめ……

どんな飲ンベだって、息も継がせず酒を流し込まれたら喜ぶよりも苦しむだろうに、愛することを強いられる心霊学徒ども。

無理しなければ生きられないのが人生なのか? 本当に? 本当に? 本当に?

もしも、もしも間違いがあるなら、一体どこの誰が間違っているのだろう?


成るように成る……成らぬようには成らぬ

2005/07/12

2005年 07月 12日


 人に出来ること、人が期待できることは、己一人の努力だけだ。どんなに親しい間柄であっても、その人にはその人の価値観があり、人生があって、まるで自分一人に尽してくれているような人でも、最後に目指すものが違って当たり前だ。

 念ずるものが必ず実現するとしても……状況は都合良く動いてはくれない。チャンスを譲り合い……往々に奪い合って、勝って、負けて、一進一退……世界は自分の為にあるわけではないと、日々思い知らされつつ生きるのが人間だ。

・・・・・・・

 物事は成るべくように成り、成らぬようには成らない。――当たり前に思えて、人々はその仕組みを理解しようとしない。

 時とすれば、座して待つだけで幸運が手中に落ちてくるときもあるのに、どんなに必要、どんなに重要と思えていても、どれほどの手間暇を掛けてもどうにもならないこともある。

 人は一人に思え、一人に見えたとしても、一人で生きているのではない。多くのものと繋がり、多くのものに活かされて生きているのだ。

 為したいと思えるものが成るのではなく、為させたいと思えるものが成るのである。

・・・・・・・

 自分のものとは思えぬものも、自分のものであるなら自ずと手中に転がり込み、

 自分のものと信じるものも、自分のものでなければ、自ずと手中から転がりだしてしまう。

 すべては自然の流れの中で、摂理に従って変化していき、そして、成るべく様に成っていくのだ。

・・・・・・・

 欲しいものがある……

 為したいことがある……

 何とかしたくて無理を重ね、無理をするから周囲に迷惑を掛け、無理をするから己の心身を害する。

 ……それでは一体、夢に向かって進んでいるのか、夢から遠ざかっているのか、どちらだろうか?

見る人が見れば明白であるが、自分が見えない人は、近づこうとするあまりに遠ざかる愚かさを重ねる。

 夢を……願望を実現したいなら、傷つき、傷つけ合うほど努力するのではなく、自然にそうなるようにし向けるべきなのだ。

 遠い思いを身近に引き寄せるのに大切なのは、無理を重ねることではなく、自然の働きを活かすことが大切なのである。

・・・・・・・

 無理して手に入れても、自然の働きに従って手中から逃れていってしまうのであれば、それはなんとも切ないことだ。そして人は、切なさを知るために、狂おしい努力を続けるというのだろうか?

……正しい努力こそが人を幸せにするのである。


動く

2005/07/11

2005年 07月 11日


 事実は日々刻々と移り変わる。

 過去の出来事は変わらなくとも、その評価や意義はやはり日々刻々と移り変わる。

 変化・変転が事実を越えた現実であるなら、人々が真に頼り得る道しるべとはいかなる物だろう? 

 普遍不滅の正しき道しるべ……それは一体どこに見いだせるのか?

 事実が変化の中にあるなら、道しるべもまた変化の中にあるはず……事実が変化の中にあるのに、普遍不滅の中にある道しるべを一体どうやって見いだせるというのだろう? 空想・妄想以外のどこに普遍不滅が存在するのか?

観念や理想と現実を混同する――間違った場所を探して、どうして見つけることが出来るのだろう? そして間違った場所を探していながら、なぜ、かくも個々に答があるという人が多いのだろう?


「永遠不滅」と「永遠不変」とは意味が違う。成長の無い境涯を尊ぶのは、歪んだ向上心の現われである。


因を探る。

2005/07/10

2005年 07月 10日


 人のアラを探すばかりでは、あまりに下品だ。だからといって、人の善良な部分ばかりを見るのが上品というわけでもない。長所ばかりを見るのは、往々人として危うい生き方をする。なんとなれば、他人に短所を見いだせぬ人が、果たして自分の短所を見いだせるのだろうか?

人の長所だけを見る――それは、未熟者のなれ合い、偽善者のなれ合いには成らぬか?

 世界中の良い言葉だけを集め、学ぶ。――それで悩める人を励ますことは出来るだろう。だが、苦境から抜け出す叡智が生み出せるのか?

 批判に流れれば下品ではある。だが、褒めるばかりが上品というわけでもない。なんとなれば、褒めるばかりの人が、不足や欠陥に気がつくことが出来るのだろうか?

 実を見て木の種類を見てみよ。……世の中はかくも不足が絶えず、闘争がかくも余っているのは、一体、何がどう正しいというのだろうか?


言い出せなかったこと。

2005/07/10

2005年 07月 10日


 特定の宗教・宗派に拘って生きる。それもまた生き方だと思う。心霊思想を受け入れた眼から見れば……少なくとも私の眼から見れば、僅か百年程度の枠内に閉じこもって、その中で完璧を求めることは果たして利口な生き方であるのか否か。僅か百年程度の時間内にあれこれ詰め込んで中途半端で浮気性な生き方をするよりも、一時には一途に一つに拘って生きるというのも在りだろう。

 だがそれは人間、特に自我の殻に閉じこめられている人間が陥りやすい過ちをわきまえ、難に陥らぬ努力があってのことだと思う。

向上心故に、人はより多くを学ぼうとする。

道義心があるから、過ちを憎み、正しいことだけを知ろうとする。

 だが多くの人は、気がつかぬか――気がつこうともしない。学ぶよりも、正すよりも、難しくそして大切な課題があることを。…… 自分に不足しているものを認め、それを補う努力である。

 人は学んで語る。……往々に知った事以上を語ろうとする。それこそが、不足を知らずに、余るものを持てあましている人のやることだ。

 己の余るものを誇ることは容易い。多くの人は誇ることこそを生き甲斐とも感じる。だが本当の修行とは足りぬ物を無くしてこそ成就する。

 修行は「一世」にならず……心霊思想では、人生を霊性向上の修行の場と見なす。それは、僅か百年程度の時間中に初めと終わりを含められる物ではない。つまり、人は前世の続きを学んでいるのである。

 心霊を学ぶ多くの人々は、己に足りぬ物の多さを嘆き、己が愚かさを恥じながら生きている。……前世では、足りぬ物をなくす修行を続けてきた人々だ。彼・彼女等は、正しい修行の道を歩んできたのに、生まれ変わりの過程で己の正しさを忘れているだけのこと。

 嗚呼! 自分が正しき道を歩んでいることさえも忘れて、何が正しきことであるのかを探し求めて自身で葛藤・苦悩するのである。…… その悩みに守護霊断ちすら助けの手を差し伸べようとしない。なぜなら、正しく生きようとすることは人の最低限の義務だからだ。

 そして、世の多くの人々は、己の余ることを周囲が認めないと嘆く……しかし、己の向上から受益し、真に喜べるのは一体誰だというのだろう? 周囲か、それとも己自身なのか。――真の問題に気がつかずに、どうして真の答に気がつくのだろう?

 古来、聖人君子と呼ばれる人々は、同時に求道者でもあった。――つまり、世界の賞賛を得てもなお、己が進む道を探し続ける人々なのである。

 しかるに、世の中の大多数は、求道するどころか、正しき道を知っていると称している! 世はかくも聖人君子を超越した人々で満ちているのだろうか?――その割にこの世は住み辛い。


沈黙という美徳

2005/07/09

 霊媒というのは、顕幽両界を繋ぐ通訳だ。そして、通訳というのは目立ってはいけない。

 顕幽両界のそれぞれの代表者の間に立ち、それぞれ異なる環境・立場の間に立って、その交流をスムーズにならしめることこそが大切だ。

 通訳することを忘れて、ついつい自分の意見をいってしまう……多くの霊媒が陥る過ちだ。……と同時に、無闇に自説を言いたがる者が霊媒に選ばれぬ理由でもある。

 沈黙……霊界が好む美徳である。


霊査事例: 2005年7月6日(ML)

2005/07/06

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


事例1

もっと自信を持ちなさい……というのは簡単だけど、周囲のそういう助言は当人にとって重荷になることもあります。

――とにかく、上手であるよりも自分らしくあることです。

――技巧や努力よりも、まず自分が楽しむことです。

 懸命に努力している人の失敗は痛々しい物ですが、楽しんでいる人の失敗は、それさえも楽しい…… 楽しんでいくうちに上手になっていくものです。

事例2

 何やら、難しい思念がビンビンと伝わってきます。あなたはがんばっていらっしゃるのでしょうが、物事というのは、川の流れの如くすみやかであるべきです。つまり、あなたが難しいことをくどくどと考えるのは、うまく流れていないからだと私には見えます。

 考えるのを止めて、その原因を追及していませんか。私にはどうも、あなたのアイデアが幼稚だから拒絶されたのではなく、なにか事情のいくつかを見落としているから拒絶されたように感じます。

 静岡オフ会の霊査にも出たのですが、「物事がうまく行かないときには、さらに難しく考えるのではなく、よりシンプルに考えていくべきです」

事例3

 あなたには事例2とは正反対の霊査が見えます。

『物事がうまく行かないときには、考えるのを止めて努力すべきです。困難な時ほど、自分をアピールする良いチャンス、つまり、困難とは自分を活かすチャンスなのです』

事例4

 職業選択上の失敗が続いたからといって、就職に億劫な気持ちは善く解ります。あなたもまた日本人の常として失敗を恐れる癖があるのですから、それが普通の反応なのです。

 でも、自信と能力とを混同すべきではありません。あなたの能力が劣っているから仕事がうまく行かないのではなく、この不景気な時に社員から見放されるような職場だから、あなたの努力がうまく行かないのです。

 それでなくても再就職の難しいこの時代。本当に良い職場なら、社員はしがみついて絶対に離れませんよ。

事例5

 修行・修行と心に言い聞かせるのは、自分に無理を掛けている状況の現われです。もっと楽しむことです。ただ楽しみの中にも、反省を忘れぬこと。

 いえ、表現が難しいので誤解をされては困るのですが、ここでいう反省というのは自分虐めと混同してはいけません。ただ、事が終わった後に、「楽しかった」という感想しか残らなければ、それは辛さからの現実逃避的な時間の過ごし方といえましょう。

「今日はこういう事を学べて楽しかった」……そういう感想が出てこそ適切な修行なのです。「勉めを強いる」等という方法は、今時犬の調教にさえつかわれはしません。

事例6

「話せば解る」というのは決して過ちではありませんが、相手に自分を理解させようと努力している人(や猫、それどころか車やPCにも)に対して、自分の都合への理解を求めてもダメです。

 相互理解のためには、まず相手の言い分、または主張を良く汲み、その上で自分の意志を相手に伝えるようにしなければいけません。

 あなたは個々の事情よりも、社会通念上の道徳に、自分も自分の周囲のすべても従うように強いすぎます。


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