2005年 07月 10日
特定の宗教・宗派に拘って生きる。それもまた生き方だと思う。心霊思想を受け入れた眼から見れば……少なくとも私の眼から見れば、僅か百年程度の枠内に閉じこもって、その中で完璧を求めることは果たして利口な生き方であるのか否か。僅か百年程度の時間内にあれこれ詰め込んで中途半端で浮気性な生き方をするよりも、一時には一途に一つに拘って生きるというのも在りだろう。
だがそれは人間、特に自我の殻に閉じこめられている人間が陥りやすい過ちをわきまえ、難に陥らぬ努力があってのことだと思う。
向上心故に、人はより多くを学ぼうとする。
道義心があるから、過ちを憎み、正しいことだけを知ろうとする。
だが多くの人は、気がつかぬか――気がつこうともしない。学ぶよりも、正すよりも、難しくそして大切な課題があることを。…… 自分に不足しているものを認め、それを補う努力である。
人は学んで語る。……往々に知った事以上を語ろうとする。それこそが、不足を知らずに、余るものを持てあましている人のやることだ。
己の余るものを誇ることは容易い。多くの人は誇ることこそを生き甲斐とも感じる。だが本当の修行とは足りぬ物を無くしてこそ成就する。
修行は「一世」にならず……心霊思想では、人生を霊性向上の修行の場と見なす。それは、僅か百年程度の時間中に初めと終わりを含められる物ではない。つまり、人は前世の続きを学んでいるのである。
心霊を学ぶ多くの人々は、己に足りぬ物の多さを嘆き、己が愚かさを恥じながら生きている。……前世では、足りぬ物をなくす修行を続けてきた人々だ。彼・彼女等は、正しい修行の道を歩んできたのに、生まれ変わりの過程で己の正しさを忘れているだけのこと。
嗚呼! 自分が正しき道を歩んでいることさえも忘れて、何が正しきことであるのかを探し求めて自身で葛藤・苦悩するのである。…… その悩みに守護霊断ちすら助けの手を差し伸べようとしない。なぜなら、正しく生きようとすることは人の最低限の義務だからだ。
そして、世の多くの人々は、己の余ることを周囲が認めないと嘆く……しかし、己の向上から受益し、真に喜べるのは一体誰だというのだろう? 周囲か、それとも己自身なのか。――真の問題に気がつかずに、どうして真の答に気がつくのだろう?
古来、聖人君子と呼ばれる人々は、同時に求道者でもあった。――つまり、世界の賞賛を得てもなお、己が進む道を探し続ける人々なのである。
しかるに、世の中の大多数は、求道するどころか、正しき道を知っていると称している! 世はかくも聖人君子を超越した人々で満ちているのだろうか?――その割にこの世は住み辛い。