自信を持つには
2005-07-06
Q 「自信を持つにはどうしたらいいでしょうか?」
設問に難有り――自分を信じている者が、なおも自分を信じる為の質問ではなく、自分を信じない者に、どう、自分を信じさせようかという質問である。質問にも誤りがあるが、その質問に至る過程にも葛藤があり、この問題には答は出せない。
そもそも、自信に揺らぎをもたらすのは誰あろう?……他人の評価である。その評価は誰でもなく、実は自分自身の評価である。ここに大きな葛藤がある。
人には他者の思念を拒絶する仕組みを持っているが、このような状況下ではその仕組みはとても解りやすい。たとえば人から面と向かって詰られ、非難されれば、『何を言っているのだ!』と、拒絶の心が働く。だが、相手がたとえ微笑み、励ましてくれていても、自身の心中に『……顔では笑っているが、内心ではきっとバカにしているのかも知れない』等と疑心暗鬼が生じてしまえば、人はどうにもそれとは争いがたい。
他人の評価を気にしなければ自信の揺らぎようもない。
他人の批判に反発が生じれば自信の有無を忘れて敵愾心だけが働く。
だが、他人の評価を恐れ、疑うならば、その敵は内の中にいる外の敵ということになる。このようにひねくれた敵が相手では、有効な手段を持ちようがない。そもそも葛藤の多さは弱点の多さである。少々の技巧を用いたところで事が拗れるのが普通である。
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より自分を信じるためであれば、自分の心を鍛えればよい。だが、葛藤と戦うために自分を鍛えれば、葛藤も同時に強くなることを忘れてはいけない。
このようなときに大切なのは、まさに、精神統一の指導法と同じである。信念は強めよ、不信は弱めよ……では葛藤はどう扱うべきか? 相手にせぬ事である。……人から嘲笑される場面など、雑念として抛り出すのだ。
どうせ、どれほどの実力を獲得しようが、意地の悪い者はつまらぬ言い掛かりを見つけては嘲笑うのを止めぬし、共感者は、多少の過ちを見出そうが大筋で評価してくれるだろう。いわば、自信が揺らぐというのは、くだらぬ雑念と遊ぶのに等しいのである。
自信を持つには 2
05年 10月 18日
文体からは廬氏の雰囲気が見えないかもしれませんが、間に中継霊が入っているためです。同時に長い解説が付いておりますが、私の霊眼には、廬氏と中継霊の双方が映じておりました。
今できること。
自分が不幸だと感じる時は、小さくともたくさんの煩い事に悩まされているときです。そういうときは嘆くより先に、出来ることから片付け始めなさい。手を動かせば雑念が消えていくし、片付けば憂いも減っていきます。
煩いがなくなり、心にゆとりが出来たら、過去・現在・未来の(三世)の自分を救います。
今の自分、落着いた自分が、落着き、幸せな未来を生み出すのです。幸せな暮し、豊かな暮しを思い描いてそのために必要な準備をなさい。過去の出来事に不満を抱き、心に愚痴をためるよりも、実現可能な楽しい計画を立てることです。
心に愚痴が溜ると、心の耳目が塞がり、天啓が遠ざかります。すると行為の効率が落ち、為すことが裏目に出、誤解を受け、病がちになり……煩いが煩いを呼ぶのです。そして絶望に至ります。一度、絶望に支配された人が、希望を抱くことはとても難しいことなのです。
希望を育てること
心を絶望に支配されない為にはまず希望を育てることです。
未来に希望が抱けるようになると、過去を悔む気持が減っていきます。
未来に不安があるから、今の暮しが辛くなり、今の暮しが辛いから、過去を悔むようになるのです。……まず暮しに落着きを得て、未来に希望を抱けば、過去に苦しむことが減っていきます。
葛藤に気づく
未来に確信を持てば、次には他に揺らがぬ自分を作らねばなりません。それはちょうど壁の穴を塞ぐようなものです。……そう、まさに雑念の忍び来む隙間を埋める作業なのです。
人は未来に希望を持っても、常に不安が差込み、疑雲が心に影を落して希望を手放そうと致します。……心揺らぐといいますが、そもそも人は誰を信じるというのでしょう? 人はまず誰よりも自分を信じようと致します。その自分自身の未来を信じていないから、不安が差込むのです。
「自分を信じているのに不安がぬぐえない」――と悩む多くの人々。 しかし、人は誰よりも自分を信じるものです。
本当は、「不幸な自分」を信じ、それを「私は幸せなのだ」と自らだまそうと努力しながら「自信がない、不安がぬぐえぬ」と思い患うから、葛藤に気がつかないのです。
不実だから実がない
自分の未来、自分の幸福を信じない……ならば、自分をこの世に生み出した、両親の慈愛、祖先の慈愛、さらには神仏の慈愛を正しく信じることが出来るでしょうか?
根本から誤り、祖先も神仏も信じていないのに、それでも幸せになりたくて、「拝めば幸せになれるのだ、だから拝め、拝め、」と自分をだましている。そもそも不幸な自分が真実、幸せな自分が嘘だと思っている人に、信じていない神仏や加護や幸運を信じろとだまそうとしているのです。……嘘が嘘くさいのは当り前です。まして素人の嘘なのですから。
素人がにわか宗教詐欺師になって自分自身をだまそうとしている。不実な人のやることですから実りなどあろうはずもありません。
嘘を棄てる
あなたはまだまだ自分をだましています。「不幸な自分が当り前」…… それが真実というより葛藤の産物であることに気がつかねばなりません。
過去が現在を生み、現在が未来を育てるのです。不幸な未来を生み出しているのは現在の自分自身であり、過去の自分自身であることに気がつくべきです。
間違ったなら別な方法を試せばいい。不幸にとどまる義務も必要もありません。過去が不幸で今が不幸だから、明日もまた不幸だという考えには、主体性がありません。……なぜ、よい未来を作り出そうという主体性を持たぬのでしょうか?
「努力などしてもダメだよ、無駄だよ、泣いても叫んでもなにも得られないじゃないか。欲しいものがちっとも手に入らない。」このような人生観は、泣き、叫ぶことが努力のすべてであった子供等にとっては普遍的なものですが、どうして泣き、叫ぶことだけが幸福を得るための手段だというのでしょう!? 愚痴をこぼしても幸せにはなれない。それが判っていながら愚痴をこぼし続ける人々。幸せを得るために必要なのは口を動かすことではなく、手を動かすこと……少なくとも、醜いものを生み出すことではなく、美しいものを生み出すことによってその代価を得るのです。
「おとなしくしていればご褒美がもらえる」……いつの時代の話です?
朝は毎日訪れるが、毎日、日も暮れるのです。当り前という考えは、日暮を知らぬからこそ考えることです。
やり方が違えば良い結果は出せません。種をまかずには収穫が期待できないのです。
真の不幸を知らぬ幸福
事情は変った。自分も変った……にもかかわらず、子供の頃の人生観で未だに自分の人生を束縛している。
人から与えられる幸せしか知らぬから、不幸ではない事を幸せと信じ、代償もなく幸福を求め、幸福に代償を惜しむからささやかな努力をも嫌うのです。求め、得ることを忘れて、ただ与えられるのを待ち、待ってもこぬから不満を抱き不平を言う。心を不平不満で満たすのに忙しくて、不平不満が自分の幸福を遠ざけていることに気がつきもしません。
人々が嘆く不幸……戦争から遠く離れ、食うに困らぬ現代日本人が思い煩う不幸などは、この程度のものです。
でも本当の不幸とは、待っても得られぬ事ではありません。求め、努めているのに得られぬ事なのです。…… 真の不幸を知らぬ事はなんと幸福なことでしょう。一方で、その幸福に気がつかないのは、何とも不幸なことでしょう。
まとめ(というより補足抜きの通信)
絶望する自分は希望を棄てた自分であることに気がつくべきだ。
不安が避けられぬ自分は、不幸である自分を信じているのだと気がつくべきだ。
不幸である自分は、不幸であるべき自分ではなく、神仏祖先と遠く離れた自分であるときがつくべきだ。
不平不満があっても、不平不満を言うだけのゆとりがある。そのゆとりのあることが広い世界、この地上の中ではどれほど豊かであるかに、まず気がつくべきだ。
……何より多くに気がつかない自分が、せっかくの幸福を無駄に浪費していることに気がつくべきだ。
そして、不足があっても、自分が幸せであることに気がつけば、その幸せを増すために不足を解消するように努力すべきだ。
・・・
不幸な人は何をしても不幸だ。……子供向けの人生観を信じ、自分の葛藤に気づかず、不満の言える豊かさに気がつかず、信仰心を誤って、幸せになろうと不幸せの種をまいている。
まず幸せな自分を掘り起し、その幸せを種子して増やす努力をしなくては。……その努力をせずに不幸を嘆く人があまりに多い。
廬氏からの通信は原則として、こちらの質問に対して、廬氏が答える形を取る。だが今回のこの通信は廬氏から申し出たものだ。当初は意図が漠然として掴みにくく内容に集中できなかったが、間に中継霊が入ることでようやく形を為した。身内のトラブルに振り回されて、忙しい思いをしている私に、ヒントを与えてくれたのである。
- どんなに難しく思える問題でも、可能なところから片付けていけ。
- 不幸ゆえに悩むのではなく、解決する力量があるからこそ悩むのだ。(同時に具体的・個人的なヒントも得た)
- これらの問題を起こした者達への漠然とした不可解感……どうしてこういう人がいるのだろうか、という疑問への答え。
- 自分の老後もこんなに忙しいのだろうか、と思う私自身の不安の解消。
とりあえず、一歩足を進める。一人ではないと感じるこの心強さがありがたいものです。