霊媒が嫌う質問
2005/06/082005年 06月 08日
霊媒が嫌う質問とは、すなわち、相談者が他の意見を聞く耳を持たぬ相談である。答は大別すれば、イエスもノーもあり得るのに、イエスだけ、ノーだけしか聴きたくないことを他に尋ねる。しかし、霊媒にせよ、その他の専門家にせよ、己の発言には相応の責任を保って任じる者に対し、このような質問の仕方は礼を失している。
それがいかなる心境の発露であれ、己はただ感情の赴くままに尋ねるが、相談を受けた側は、其の後のことまで心配せねばならぬのでは礼を失するどころか、信を失いかねない。
そもそも、イエスか、ノーかで迷っているから次のステップが見えないのだ。人生は連綿と続く。一時の結果は総ての終りではなく、次の判断の始りに過ぎない。しかも往々、現時点の選択がいずれにせよ将来で繋がっているのであれば……選択することに大きな意味はない。
現時点での判断が、さしたる意味もないのにあえてそれを聞きたがる、己の心情の中に、既に「都合の悪いことを聴きたくない」という心が現れているのである。そういう障害物を心に幾つも抱えているから、当り前に持っているはずのインスピレーションが働かない。
現実は、己にとっての不利益を含んでいるものだが、インスピレーションや未来の予想の中にも、多少の不利益が含まれないはずがない。障害をしっかりと見張るなら被害は最小に防げるものを、現実の不利益から目をそらし、警告のインスピレーションから耳を遠ざけ、あげく、他人に意見を求めてどうして難を逃れることが出来ようか。……まして、事が至ってから。
そこに存在しては困る障害物と、ぶつかって事故を起す例は、枚挙のいとまもない。
人々が求めるべきは、「あなたは不幸ではない」という託宣なのか?
それとも、いかなる不幸をも乗り越えるための智慧なのか?
覚悟を決めるべきだ。
迷うことに異議があるのか?
迷わねばならぬ程度の答えに価値があるのか?