ナンセンスですが……なにか?
2005年 06月 04日
私は「ナンセンス」という表現を多用する。受け取る人によってはかなり強引な否定的表現にも受け取られるだろうが、私にとってこの言葉は、語義通りの、「センスがない」……「認識」の甘さを指摘する言葉だ。まあ、ここまでいえばかなり差別的だが、「もっと霊感(SIX SENSE)を働かせろ」的な意味合いもある。
私は無駄を否定しない。回り道や、右往左往……普段とは違う道を行けばこそ、新たな発見とも出会えるだろう。「急がば回れ」、という格言もある。従って、ナンセンスをユーモアと受け止めることも大切だと思う。
ただ、急いでいる時には、ナンセンスを慎むべきだ。
更にいえば、センスを働かせるべき時は、センスを働かせるべきだ。……当たり前のことを当たり前と言うのは容易い。だが、世間では当たり前に思えることが不足して苦しむ人はとても多い。
ナンセンス
2005年 12月 02日
言葉で、心や感覚を表現するには無理がある。聴き手にセンスが無ければ理解することは難しい…… 仏教では理解でなく悟りを要求するのはそういうことだ。
私は往々、質問に対してナンセンスという返事を返す。無論失礼な返事ではあるだろうが、礼に拘っては混乱がますます広がるだろう。
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- ポジティブシンキングで生きたい。
- 大宇宙に沿った生き方をしたい。
- 不惑でありたい。
一見よさげな言葉がなぜか実践できず、理想が人生の足手まといとなる。一見簡単そうな理想なのに実現できぬ自分を、卑下してコンプレックスさえも懐く。それもまじめで善良であるが故に。
……どうしたら実現できるのか?
私はこの手の質問・相談に、相談者の努力や資質の不足を感じたことがない。ただ、これだけは確かだ。設問が間違っていたら正しい答が得られるはずもない。……実現出来ぬ理由を捜すのに、どうして自分の設問に疑問を抱かないのだろうか?
誰かが長い思索の末に得た答だけを取出して、それを実現しようとするから陥る過ちだ。
たとえば、明日私は大阪に出かけるが、大阪の地図だけ用意して、途中の乗換えに関する情報を用意しないとしたら、せっかくの大阪地図も役立たぬだろう。それに似ている。
思うように生きられぬ人が、苦しんだあげくに、どうしたら前向きに生きられるだろうかと質問を寄せることがある。だが、ポジティブもネガティブも手段であり、手段は目的に応じて選ばなければならない。
たとえば車の運転をするのに、「交差点では飛出す車や歩行者はいない」、「カーブの向うに対向車や駐車車両はいない」と決めつけて良いものだろうか?……注意すべき時には、可能な限り備えた方がよいのだ。
どうも私の見る限り、ポジティブシンキングにあこがれる人は、注意すべき時に楽天的で、失敗したときに悲観的になる人ばかりだ。これは逆である。単に取組みが間違っているだけでなく、事故を起してしらばっくれようとするようなふてぶてしさが見て取れる。まして考えもなく行動してもうまくいくのがポジティブシンキングであるというなら、それを求めるのは何とも罰当りだ。
この問題は更に根が深い。設問が悪くて答を得られない人なら抱えている問題が一つだけのはずがない。たくさんの問題を抱えて疲れ果て、一縷の希望にしがみついていることが多いのだ。だから、ポジティブシンキングや、その他の理想の実現方法を求める事の過ちを指摘されても、それでも答を求めようとする。間違った電車に乗っているのに気がついても、疲れていて席を立てないのだ。
結局、答を求めているのではなく、重荷を預けられる相手を捜している……だからこそ答が得られない。当事者・責任者である自分ですら嫌な苦労を、誰が好んで引受けるというのか? 他人を利用して楽をしようとするのは泥棒と同じ発想ではないか。だから神・仏からも救われない。
設問が悪いから答が得られず、頼りかたが悪いから助けも得られない。……だから私は、「ナンセンスだ」という。
必要なのは答ではなく、センスを磨くことだ。
不明……見えないということ
2005年 12月 13日
解らぬ人には千語を費やしても解らない。千語でも分らぬことを万語も費やせば疲れてますます理解できない。…… ただ努力を重ねることで知ったかぶることだけは上手になる。そう、実力がなければ、小手先のワザに頼るしかない。
声を大にして! 筆舌を尽して! 図解で! グラフで! プレゼンソフトで!……
その一方で、解る人には一言、二言でも伝わる。この差は一体どこから来るのだろう?
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力ずくで問題を解決しようとして……出来ない。
己の力不足に気がついて助けを求め……断られる。
さあどうする? 懇願する? 脅しつける?
助けよと脅しつけて、敵を増やす……ナンセンスな話だ。
でも、懇願しても……めんどくさがられる。
何が足りないのだろう?
でも、何が足りないのかさえも見いだせない。
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霊能者ですら、自分の得たインスピレーションの意味を理解しがたいこともある。
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頭のいい人は大勢いるだろうに、世のなかなか良くならない……何が足りないのだろう?
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うまく行かない世の中で、自分は一体何が出来るだろう?
非常識の溝
2006年 07月 07日
失敗しても、反省し、是正すれば、その体験が次の危機に生きる。だが、失敗を相手の所為にして、自分はただ詰るだけなら、その体験を生かせるのは相手だけではないか?
心の成長速度は人それぞれであるが、世の中には、自分をちゃんと育てている人と、自分を育てずに他人を育てている人がいるようだ。
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さて、「あなたは非常識ですね」といわれたら、あなたは何と返事をするだろう?
- 「あなただって非常識じゃない」……と、対等に接する?
- 「あなたの方がよほど非常識だ!」……と、見下して接する?
- 論じるに値せず……と、遙か高みから無視を決め込む?
なるほど、人々が「常識」と思うことには幅がある。それなのに、一方的に非常識呼ばわりされたら、腹が立つのが人情だろう。……ナンセンスであるが。
相手が自分を非常識と見なしたとすれば、それはお互いが当たり前と思うことの間に溝があるということだ。……ということは、共通の話をしているつもりでいても、互いの理解に食い違いがあるということなのである。
端的にいえば、会話になっていないのだ。……会話の様でいて、会話になっていないことが問題なのである。これでは時間の無駄どころか、誤解が誤解を招いてさらに面倒なことになりかねない。
それに対して打開策が考えられるか……建設的な方法としては、互いに常識を一時忘れて、面倒でも、使っている用語の一つ一つの意味を確認しながら、共通認識を高めていくことである。ようするに、基礎に立ち返ることだ。
なにしろ、人が常識と思うことには差があるのだから、理解の溝に気がついたら、互いに歩み寄らねばなるまい。そうしてこそ、常識が成立していくのだ。だが、あなたは溝に気がついたとき、相手に歩み寄ることが出来るだろうか?……歩み寄るどころか、相手が溝に気がつき、かみ砕くように説明しだす事に対して、非難してはいないか?
「人を見下したような態度ね!!」と。
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さて、大切な議論の途中で「あなたは非常識ですね」といわれたら、あなたは何と返事をするだろう?……むろん、ここでいう「非常識」という直接的な表現は比喩であるが、用語を選び、やんわりと言ったところで、非常識は非常識だ。
- 「あなただって非常識じゃない」……と、対等に接する?
- 「あなたの方がよほど非常識だ!」……と、見下して接する?
- 論じるに値せず……と、遙か高みから無視を決め込む?
……互いの認識のズレを喧嘩にすり替えてしまったなら、それこそ本当の非常識だ。
それとも、もっともっと基本的(幼稚な)レベルから議論を再開するだろうか? ……いや、それが出来る人であるなら最初から非常識扱いされないかも知れない。