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心霊主義を見直す

2005/05/23

2005年 05月 23日


相談・質問という切っ掛け

 夜中に突然、ヒマだ! と(心の中で)叫んではみたが、雑用は果てしなくある。ここでいうヒマとは、全身全霊を打込む仕事が無いことであって、雑用とも呼ばれるルーチンワークが尽きたわけではない。その叫びが天に通じたか、まあ、いささか関心を引かれる事態が生じた。

 心霊相談は休眠中だが、霊感が塞がったわけで無し、気が向けば答えることにしている。ただ、ある相談者に対して感じたことを、あえてここで取上げたい。

・・・・・・・・

 電子メールによる無料心霊相談ということで、当然、該相談者とは一面識もない。ただ、一番最初のメールを受取ったとき、当該相談者氏は、仕事も家庭も順調そうで、本来ならば悩みの無いのが悩みではないかと感じ取れた。

 そう、特に今の私にはよく分る。彼はきっと「ヒマ」なのである。むろん、ここでいうヒマとは余暇の事ではない。感動し得る対象を求めているという意味だ。

 むろん、良識人である私は、相談者に向けて、「あんた、ヒマだから幽霊なんて見えるんですよ」等とはいわない。もうちょっと言葉を選んで回答した。……で、その回答で納得されてしまった。

 私は、彼が心底善良な人だと感じる。特に私がそうであるように、「おばあちゃん子」に、不親切な人はいない。まあ、それも一種の偏見かも知れないが……その後も何度か、細かな相談を受けて、まあ私なりに回答を楽しんだりもしたが、正直なところ、「やはり、この人はヒマを持てあましている」と感じる。だが、いかんせん、私は私事で忙しすぎた。しかし最大の問題である理事会の任期ももうじき終る。

 そして何やらまた、新たな相談事があるらしい。むろん、私は誠意と良識を持ってその回答に当るつもりだ。だが私は、そろそろ、最初の相談への真の回答に取組むべきだろう。

・・・・・・・・

 最初の相談を受けたとき、私に回答をもたらしたのは、彼の祖母を名告る霊であった。その暖かな雰囲気はとても忘れ難い。私は彼女のメッセージをたちどころに理解したが、でも、彼にはどう伝えて良いのか判らなかったのだ。

 おそらく、彼は「心霊主義」のなんたるかを知らない。(では、私は理解しているのか?) その事は寄せられる相談内容から確信が持てる。彼は私を一種の拝み屋、または、よろず問題解決屋的に扱っている。私はそれを侮蔑とは感じていない。ただ、そば屋に入ってラーメンを頼み、「こりゃ旨い」と歓んで帰った客のように感じるだけだ。……つまり、自信作は一度も頼んでくれないのである。……もっともうちは、一見《いちげん》さんにはラーメンしか出さないという変な規則がある。

 

心霊主義

 当サイトは、「心霊主義」を骨格にしている。そして心霊主義とは、Spiritualism の数多い日本語訳の一つで、まあ、日本ローカライズ版と捉えて欲しい。似たものには、淺野和三郎氏が提唱した神霊主義があり、また、直輸入版ともいうべき、スピリチュアリズムがある。それぞれを文章で説明すると思想的に差があるようにも見えるが、その差なるものは乱暴に表現すれば神の前の平等に均しいだろう。つまり、「大同小異」……その支持者の理解力相応のものでしかない。だが、世の中には少異に拘る方もいて、おおざっぱな私はそういう方々との付合いが面倒でもあり、あえて、「スピリチュアリズム」という表現を使わないことにしている。

 ただ、霊媒としていうと、思想的には大差が無くとも、スポンサー(支援団体・霊界)が大きく異なる。スピリチュアリズムはキリスト教文化圏の霊団が支援し、神霊主義は主として神道系の霊団が支持する。対して、心霊主義は……神仏混交系(?)の霊団が支持している。といって、私は別に神棚に向って般若心経を唱えたりはしない。

 で、スポンサー(支援団体・霊界)の違いに何か意味があるか、と問われるなら、何の違いもないと答えるだろう。宗教宗派・主義主張の違いなるものは、富士山の頂上を目指すのに登山口がたくさんあるのに均しい。ある程度上にあがれば、道の違いは意味を為さない。

 ただ、地上の精神風土は、いまだ一つになるには至らないから、さまざまな心霊思想があるのだ。いわば、客をもてなすのに、洋風、中華、和風のいずれの料理を出すのか、といった違いでしかない。……因みに、心霊家・霊術家の中には、すべての神は一つだ、なる表現をするものがいるが、私は逆ではないかと思う。神を名告るものは数多いが、どの神々も導く先は一つなのだ。

 では、何をすれば心霊主義者なのか……と問われると実は困る。「死後の個性存続」や、「霊性向上」などという決り文句があって、かつて私は、それらの言葉に心が震える思いもしたが、今に至れば空虚な言葉との思いが深い。

物事は、成るように成り、成らぬようには成らぬのだ。

 人は生れてくる環境を選べず、生き続けることも選べない。……自由意志があったところで環境・境遇の奴隷でしかない。死後の世界を信じても、信じなくても死を避けられるわけではないし、霊性向上を受入れても拒絶しても人生は試練の連続だ。

 人類愛だ、平等だ、永遠の生だ、向上の道だ、などと当り前なことをわざわざ叫ぶのもそれなりの意義はあるだろう。だが、 なぜ当り前なことをわざわざ言わなければならぬのか?

 物事は、成るように成り、成らぬようには成らぬものだが、成らぬ事を為そうとし、成ることを為そうとしないで、不平不満の中に暮す人のなんと多いことだろう?

 人は環境や境遇に隷属している―― 一人でどんなに頑張ったところで周囲の人々が邪魔をしたら決して不幸から抜出せない。自分だけ恵まれた境遇にあっても、遠く離れた家族、子供を心配して涙に暮れる人もいるし、親や子が作った様々な負債の尻ぬぐいに苦労する人もいる。……幸・不幸は個人の努力を越えている。

 そして、人が環境や境遇に隷属しているものなら、人が幸せを掴むのに必要なのは何であろうか? ……努力もむろん大切だ。だが、闇雲に努力すれば良いわけでもない。自らの人生において支配的な要因が外部にあるのだとしたら? 環境や境遇と争うのではなく、それを生かすことが必要になるだろう。

 言葉にすると「己を知れ」だ、だが、心霊主義でいう「己」とは、只今現在の己ではなく、 生れてくる前、そして、死んだ後を含めた己なのだ。

 生れてくる前の自分を知らず、また、死んだ後の自分も知らない。……そういう生き方を否定はしないが、どうせ持っているものは、なるべく活かすべきだ。

 世の多くの方々は、未知のことを教えようとする。だが、人に生れてくる前があり、死んだ後があることを知る、心霊主義者である私は、「知っていること」を思い出させようとする。……その対象に宗教宗派、主義・信条は関係ない。私にとって「心霊主義」とは、真の智慧、真のあり方へ通じる扉の装飾に過ぎない。

 人が幸せになるために生れ、そして人が環境や境遇に隷属しているのであれば、わざわざ知らぬ事を教わらなくとも、本来知っている事を正しく認識するだけで、人は幸せになれるはずだ。――私はそう信じている。

 

向上指針としての霊査

 向上指針としての霊査は、既存のML会員(現在は募集していない)か、オフ会参加者のみとしている。つまり、メールで頼まれても応じないが、今回は特例というより、スポンサーの好意として掲げる。

『生業《なりわい》とは別の事、反対の事をなさい。』……喰うための仕事も大切です。でも、生れてきたのは食べて寝るためだけではありません。善き事をする、また自分の魂を磨き、向上させていく事も大切な事です。

 往々、生業はきれい事ばかりではありません。他人を蹴落すぐらいの気持がなければ商売は成立ちませんし、効率を考えれば往々誠意ばかりは尽せません。その生業の中だけで、自分を向上させていくのではなく、生業では出来ぬ事を、生業から離れた場で行う事も、人生に於いては大切な事でしょう。


退屈だ!!

2005/05/22

Q 「小嬰さん、助けて! とても退屈です!!」

1, まずは礼儀を正しなさい。ここでいう礼儀とは姿勢や儀礼の事ではありません。心のあり方のことです。他を侮蔑せず、他を恐れず、真心で接することです。

 人は恐れるから他を攻撃し、他を無視し、他を憎みます。……あなたが真の勇気を心に抱いているなら、自ずとあなたは礼儀正しくするはずです。

2, そして信じることです。あなたは幸せになるため、向上するためにこの世に生まれてきた。だから、今あなたが心を悩ませるものも、そして報われぬ努力も、あなたが気がつかぬだけで、実は真の意義が潜んでいるのだと信じることです。

 もしかしたら……何の意義もないかも知れません。ですが、意義無くとも誠意を尽すあなたの行為に意義が生じてきます。

 信じることです。自分のみではなく、神仏天に頼るのでもなく、自分の持って生まれた宿命を信じることです。

3, さらには、待つことです。待つことが辛いからこそ、退屈と叫ぶのでしょう。ですが、それは待ち方が下手なのです。…… 待つことに自信があるなら、退屈するより期待します。退屈するのは期待を忘れているからなのです。それはつまり、心の姿勢がだらけているということでもあります。


 私が申し上げたいのは心の姿勢の美しさです。むろん、心の有様は人の眼には見えません。しかし、心の姿勢の乱れは、あなたの心に直ちに反映されます。

 あなたが恐れ、憎み、妬むとき、また、退屈や不満を感じるとき、あなたはその理由を自分以外の他の誰かの所為《せい》にし、それを責めて心を安らげようとします。

 それは礼儀正しくないばかりか、卑怯ですらあります。

 卑怯の証を肉体に見出すのは難しい……しかし、死後の世界では卑怯の証は当たり前に見えるものです。

 常に礼儀正しくありなさい。出来る限り礼儀正しくありなさい。……形だけでなく、心のあり方の中に正しさを身につけなさい。そうすれば、あなたも礼儀正しく扱われ、そこに興味の尽きぬ関心が生じます。


2005-05-22

 

不安

2005/05/19

2005/05/19

Q 「不安について再度質問いたします」

 強く信じるが故に不安になる――不安に囚われる者はいう、「自分を信じる力が弱いが為に不安になるのだ」と、だが、違う。自らの失敗を強く信じるが故に人は不安に陥るのだ。

 信念の弱い者は容易に人の意見に流される。だがなぜ、汝は信じよという言葉に流されぬのか? 汝は成功を信じているにあらず、失敗を強く信じているのだ。

 失敗を信じている己を、騙そうとしてあれこれと言い訳しているのが、不安に囚われる人の為していることだ。……嘘である。欺瞞である。それは悪しきことである。それは神仏に背くことである。

 不安の原因を、信じる心の弱さと思い、懸命に己を騙す者達が、見よ、他人にも騙される。信じることで不安を乗り切ろうとすればするほど、騙されやすい愚者が育つのである。

 ましてや、「失敗する自分」とは、果たして正しい事であるのか?……すると、間違ったこと(失敗する自分)を信じ、自分を騙そう(不安を打ち消す)とするのが不安の解消法となる。これでは騙されない方がおかしい。

 不安に囚われる人に必要なことは、強く信じることではない。間違った信念を弛めることなのである。

 信念には現実ほどの価値もない――確固たる信念は一つの魅力にも写る。だが、間違ったことを信じる者ほど迷惑なことはない。信念には真実ほどの価値はなく、ただ、真実を見抜く力を持たぬ者が安易に求める次善が信念なのだ。

 真実はどうあれ、ただ自分の信じるものに従う……それは眼をつぶって生きるのに等しい。まずは真実に目を向け、現実を受け入れる努力をすることだ。それでも見えぬものがあり、見えぬにも関わらず動かざるを得ないときにこそ信念に価値が生じる。

 ならばまず、何事にせよ強く信じることを止め、ただ、ありのままを見よ。不安から逃れようと眼をつぶって生きるのは決して正しい生き方ではないし、決して幸せな生き方でもない。さらには、楽に見えて一番辛い生き方である。

 不安と戦うな。まず、失敗を信じることを止めよ。すると真実が見え始める。真実が見えるなら、信じることに頼る必要がなくなる。そうすれば自ずと不安が減っていく。

 ありのままに生きよ――失敗を信じることで不安を産み、不安を癒すために自分を偽り、自分を偽ることで他人にも騙され、他人に騙されることで必ず失敗する自分を信じる。かような悪循環、地獄の輪廻からすみやかに目覚めよ。


霊査事例: 2005年5月19日(ML)

2005/05/19

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


巻頭言

 部屋の模様替えに挑戦中。7月を自分自身の年度替わりと位置づけて、来年は善い年にしたいな、と張り切っております。…… だから何だ! て?

 つまり、そういう発想もありではないか、と。正月を年度替わりにすると、年始の挨拶だとか、大掃除だとか、他へのしがらみに縛られてしまいます。だから自分だけの新年度を持つのも面白いですよ。 そう、私はHPの開始も、ドメイン収得も、実は7月を目安にしていたりするのです。

事例1

 悪い夢にうなされでもしましたか? 思い詰めないことが大切です。罪悪感を抱けば、そこをつけ込むものが出てきますから。

 何しろ人は、思い込みに騙されます。罪悪感を抱けば、無意識に償おうとして、障害を被ります。

 リラックス、リラックス。

事例2

 明るくなさっている様子がうかがえます。悩みに囚われることなく、軽やかな気分で仕事にも打ち込める、そんな感じですね。とても良いと思います。

 なにぶん、霊感というのは集中しすぎてもダメ、無関心でもダメ、その間がよいものです。その意味で、あまり統一・心霊を意識しないでいる、現状をお楽しみ下さい。

事例3

 不平不満に理論付けをしてはいけません。人は誰でも、疲れれば好き嫌いが激しくなります。疲れているときに勤め先が不快であっても、そんなものだと思っていれば、元気が出たら又好んで続けられるのに、疲れたときに嫌う口実を探し、口実に理論武装してしまえば、元気が良くなってもやっぱり仕事と折り合いがつかなくなります。

 長く付合うためには、必要以上に頭を使わぬ事です。いや、長く付合うべきものには、必要以上に頭を使わぬ事です。

事例4

 外部に意識が向いていらっしゃいません。明るくしていらっしゃるとは思うのですが、内向的に部屋に閉じこもっているかのようです。

 これが外に悩みのない状態ならば良いのですが、現実逃避的な傾向であると困りますね。従って一般論となりますが、忘れ物、失策にご注意を。

事例5

 あなたなりに状況との付き合い方を会得したようですね。明るく頑張っている姿が見えます。同僚の方々はというと、どうにも心が堅いと感じます。善良であろうとはしていらっしゃるのでしょうが、それにゆとりがない。

 つまり、同僚と分かり合ったつもりでいて、でも何も解らない状況と呼ぶべきでしょう。口の滑りすぎにご注意を。

事例6

『「辞めようかな?」と、考える贅沢』と聞こえました。あなたを叱るのではなく、今までだったら考えられないような贅沢ができるようになったね、責任感に潰されそうにもならないし、よかったね、という意味のようです。


迷子

2005/05/18

 勝手気ままに、右に曲がり、左に曲がり……そんな走り方をして、一体どこに着くというのか? 行き先どころか自分の所在地すら見失いかねない。

誰がそんな事をするのかって?

 あなたは人生をどう生きているのか? その場その場で好きなことに手を出し、嫌なことから逃げ出して。

・・・・・・・

 負けず嫌いは、失ったものを貶す。……「あんなくだらないものを私はいらない。」

 本当に不要ならば、黙って去るだろうに。

 援助が必要だとしても、当人がいらないと言えば、誰が無理強いしてくれるのか?

 努力しても手に入らぬものが多いのに、いらないと決めつければ手にはいるはずもない。

 負けず嫌いをいう。――それも人の好きずきだ。だが、自分を騙し、騙された自分は幸せになるのか?

 手を伸ばして手に入らず、もうあれもいらない、これもいらないと決めつけて、最後に何が残るだろう?

 必要だけど、不要なもの。――そんな葛藤ばかりを増やしていく。

 当人は幸せだ。欲しいものに振り回されるもの無く、誇りを持って生きられるから。

 ……だが、態度に不平不満がにじみ出ている人を、周囲の人々は不幸と呼ぶだろう。 


2005-05-17

‘偽善と叫ぶ偽善

2005/05/17

2005年 05月 17日


 慈善事業にいそしむ人を指して、「偽善者」と罵る人がいる。たしかに、うわべは善良そうに振る舞っていても、内心はどうか知れないし、悪事の隠れ蓑として慈善事業を行っている可能性もあるかも知れない。

 しかし、騙す意図が無ければ慈善は慈善だ。――まして、人は善良に生きようと努力してもなお、行き違いや過ちから他人に迷惑を掛けることもある。また、一方に利をもたらすことが他方の不利をもたらすことも世には多いものだ。つまり、動機を無視して、自分の利を正義と呼びかえるなら世の中はたちまち偽善者だらけで善良なる人はいなくなるだろう。まして内心に潜む名誉欲や自己顕示欲の働きや、又は罪悪感への埋め合わせといった心理分析までされてしまえばなおのことだ。

・・・・・・

 ところで慈善事業にいそしむ人が偽善者であることは否定できないが……他人をみだりに罵り、貶す人はいかなる人であろうか?…… 建前上は、「悪を正す」などといった理由をこじつけていたとしても、その動機の裏に、己自身の名誉欲や自己顕示欲、罪悪感、そして利害等といった事情が働いていないと言えるのだろうか? すなわち、「悪を正す」という行為自体が偽善でないのか? まして、実にくだらない話だが、他人を誹謗するのは善い行為なのか。

 こうしてみると思う。他者を「偽善家」と罵る人は純粋なる悪人ではないかと。本当に義心から行動に移すのなら、証拠を固めて告発するなどすればよい筈だ。

・・・・・・

 JR宝塚線の列車脱線事故以来、線路への置き石や自転車放置などといったイタズラが多数報道されている。乗務員へのイヤガラセも多数あるようだ。乗務員に余計なプレッシャーを与えつつ、同時により安全な運行を強いるのは矛盾でしかない。

 安全対策を怠ったJRと、無理な運転をした乗務員をかばう意図は無いが……因果律に委ねる……大事故であっても事故、すなわち過失である。それに対して、線路への置き石や自転車放置は事故誘発の危険性を承知で行う「故意」である。

 同じ人間であっても、立場によってはより厳しく過失を責められることは仕方がないことだが、だからといって故意に事故を起こそうとすることに対して寛大であってはならないと思う。

 私的制裁・リンチは、テロリズムとどう違うというのだろう? どちらも実行者は正義を掲げて不法行為をする。動機がどうであれ手段が悪なら、その主張する正義こそ偽善の極みではないか。


霊媒信任のジレンマ

2005/05/17

2005年 05月 16日


 オフ会常連の某氏の祖先は、全く私を相手にしないで、他の霊媒を通じて某氏と連絡を取ろうとする。ところが某氏は、世代があまりに隔離している某霊媒の言をしっかりと受け止められない。

 この状況下で私がする事と言えば、エヘラエヘラするだけだ。――当然だろう? 霊媒というのは、霊と人との媒介である。双方から信任されなければその任には相応しくないのだ。

 私にとって滑稽なことに、昭和初期・戦前(つまり敗戦前)の文化に浸った霊、又は人は、大抵私を傲慢扱いする。まあ、戦後生れにも傲慢扱いするが、そういう方々は眼中にない。眼中にないから傲慢扱いされるのだが、戦前の方々の視点はそれとは別だ。私は相手の言うことを聞かないのである。

 何が障壁になっているのか?……「祖先を尊敬せよ」と言われても、「出来るはずがない」と、私は相手にしないのである。

 愛する、尊敬する、好む、憎む、嫌う……これらは認識後の心の働きである。つまり、愛すべきものを見出さずに愛することは出来ないし、尊敬すべきものを見出さずに尊敬は出来ない。好むものがなければ好めないし、憎む者がなければ憎めない。嫌うべきものが無ければ嫌うことも出来ない。……どうして彼・彼女らは、このような命令に私たちが従うと思うのだろう?

 愛させたければ愛すべきものを見せればいい。尊敬させたければ尊敬すべきを見せればいい。――私たちが拒絶するのは、相手が理解を示さないからだ。そして、相手が私を拒絶するのは、私が拒絶をするからだ。

……何のことはない。内容に断絶があるのではなく、大前提からして断絶があるのだ。

 腹を割って話してみる。正直、内容には無理がある。だが、それが何であるというのか? 無理を無理と決めつけては成長がないではないか。互いに無理を押し付け合い、そこから出来ること、助け合って出来ることを一つずつ見つけていく。それが協調という行為ではないか。

 私は聞き、チャンスがあれば伝えると約束し、そして伝えていない。その間に、祖先の霊達は、無理な言い分であったかと反省さえしている。互いにお互いの言い分を聞こうという歩み寄り。……血は水より濃いのだと思う。

 私はいたずらにそれを引き裂こうとは思わない。


病 (霊査事例への補足)

2005/05/16

2005年 05月 16日


 病になると思えば、気が重い。それどころか不安で具合が悪くなる。

 病は気から……でも、気分を変えても楽にはならない。

 楽にならないから、ますます不安に、そして苦痛になっていく。

 病と争わぬ事です。争うから戦場である自分がますます荒れます。

 具合が悪ければそれ相応に、調子が良ければ相応に。

 在りもしない健康を求めるのも、必要以上の病気を求めるのもナンセンスです。

 しかし、人は気分に、そして情理に、つまり感情に従うが故に、無理に健康であろうとして、無理がたたり、不安故に必要以上に苦しみ、あるべき姿を見失うが為に何が健康であるかを見失ってしまいます。


選択肢

2005/05/15

2005年 05月 15日


辛いとき、苦しいとき……人は何を選ぶか?

 それでも神仏を信じ、

 運命論者であれば天を信じ、

 無神論者であれば正義を信じる。

 ……という選択肢もある。

 または、

 他者を妬み、恨み、怒り、

 他を犠牲にしても自分を助けようとし、

 自分を助けられなければ他者を巻き添えにしようとする

 ……という選択肢もある。

 卑怯とか、醜いというのは容易いが、……その時々の自分の行為、それ以外の何に意義があるのだろう?


 手段を間違えば、求める結果は得られない。

 一得一失――代償無く得られるものはなく、安易に得られるものはそれなりの価値しかないものだが、価値ある行為無くしてどうして価値あるものがえられると思うのだろう?

 妬み、恨み、怒り、甘え、横暴――このような代償で何を購えるというのか? 拒絶と憎悪の利子が付いて、代金が突き返されるのがオチだ……求めるものが得られぬと悩める人よ、あなたもそうするだろう?

 世に聖人が居るとしても、あなたの探している場所には居ない。


地獄・極楽

2005/05/14

2005年 05月 14日


 若い侍から、「地獄はあるか、無いか」と問われた白隠禅師は、「それで良く武家奉公が出来るな!」と、さんざんに罵倒した。ついに我慢できなくなった侍が刀を抜いたその瞬間、白隠は、「それが地獄だ!」と鋭く言い放った。 ハッとした侍が、「地獄の有無を悟りました」と笑みを浮かべたとき、白隠もにこやかに、「それが極楽だ!」と諭した。

 似たような説話に、山岡鉄舟が地獄の有無を僧に尋ねて鼻を捻られ、怒ったときに、「それが地獄だ!」と教えられた…… というものがある。

 推測するにこの説法は、白隠オリジナルであるのかどうか、まあ、チャンスがあれば私も試したくなるトンチだ。

 しかし、白隠に導かれた若侍も、山岡鉄舟も極楽に行くべき魂だからこそ、悟れたのだろう。なにしろ、昨今のニュース報道などをみるなら、唖然とするような理由で人殺しが行われるのだ。 罵倒し、または鼻を捻って、地獄の存在を教えても、そのまま相手の心境が地獄から戻らず、坊主なんてバッサリ!! となりかねない。いや、地獄へ一方通行なのは教わる側だけではない。「よそ様の過ちをただして差し上げなければ!!」と誹謗中傷、罵詈雑言、挙げ句の果てに目的を見失ってしまう乱暴・幼稚な、お先生様の何と多いことか。

たとえ正義が動機であろうとも、その手段が乱暴野蛮であれば、やはりあなたも地獄の住人なのです。

……等というと、人々はその心境から二つに分かれるだろう。……ますます腹を立てる人と、怒りを忘れようと努力する人と。つまり、地獄極楽は、それを望む人の心中にある。……極楽をもたぬ人は極楽にいけない。そしておそらく、心中に地獄をもたぬ人は(いるのか?)、こんな話題などに関心も持たぬ事だろう。

 そう、かくいう私も、人々に極楽を見せられるとは限らない。――だがそれがなんだというのか? 人の幸せは一体誰の責任に帰するのか?……当事者以外の誰に?

 私の主張は正論であるか、はたまた偽善、きれい事、虚飾であるのか……いずれにせよ、むき出しの憎悪よりも悪しき行いをしているというのだろうか?

 かくして、人はその心境に応じた世界に住み続ける。憎む者は憎しみ渦巻く地獄に。愛する者は愛情溢れる極楽に。そして私は未踏の荒野に……等というと、この文章のすべてが嘘くさく見えてしまうか?


 本日、東京オフ会。――和やかな内に閉会の次第。申し込みしつつも参加できなかった方々も含めて、心にしっかりと極楽を持っているなと思いつつ、地獄について思うところを記述し終える。


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