ライバルは誰か。
2005/05/302005年 05月 30日
俗に「君子豹変す」というが、これは、ヒョウが夏毛と冬毛を代えることから、鮮やかな変化を指すのだという。機会があれば動物園でも行って、どれだけ変わるか確かめてみたいものだが、どうにも現代では、獣に変わることを豹変として使われているようだ。……それは際だった変化ではあっても鮮やかとは言えないのではないかと思う。
まあ、つまらぬ愚物に見えてる人でも、豹変の可能性はある。獣と化すか、鮮やかに変わるかは別として、一時の姿で次の一瞬を想像する事は偏見と変わらない。――偏見を持つことは自分を騙すことである。―― 自分で自分を騙したら何が真実かが解らなくなる。――真実が解らぬ者が、いかなる正しさを持ち得るのだろう?
むろん、偏見に程度があるように、過ちにも限度がある。……しかし、どれが正しく、どれが間違っているのかが解らなければ、その知りたる事は何の役に立つのだろうか?
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そもそも大飛躍のためには長い助走、または、勢いをつけるための一時的な降下が必要なこともあり得る。一時の姿で判断せず、相手の将来性を信じることには価値があると私は信じる。……信じるが、信じよとはいわないし、私自身無闇に信じるわけでもない。
ただ、証拠もなく人を悪人呼ばわりせず、論理的な理由も無く人を嫌わぬようにはしている。
それは別段、自慢するほどのことでもなければ、心霊主義者の特質でもない。人として当たり前のことであろうが、だからといって他の誰かに強いられるものでもない。まあ、あまりに酷ければ相応の対処は出来るが、それはあくまでも浮き世の話題だ。
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ところで、私は素人心霊研究家(生業は学究ではない)で、兼業霊能者(生業は別にある)で、しかも、見なし宗教家(抹香臭い話ばかりだ)だ。いや、何とも中途半端な肩書きがたくさん揃ったものだが、本音は審神者(さにわ)のつもりである。審神者(さにわ)とは何かというと……まあ、その話題はいずれ改めて行うこととしよう。……要するに真偽を見抜く責務のことだ。それが論理的にどういう意味があるのかについても相応意見があるが、これまた後回しにする。
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世の中には様々な意見がある。それらの意見を審神者(さにわ)として俯瞰してみる。……私なりの手法で二つに大別する。閉じた意見と、開いた意見だ。
私のいう「閉じた意見」とは、ゲーム理論でいうところのゼロ和ゲームだ。つまり、一つのパイをどう取り合うかという競争である。得られるものには限りがあり、それ故にこのゲームの勝利とは競争相手からより多くを奪うことだ。……あいつも間違い、こいつも間違い、正しいのは私だけだ、と主張し、そこに未開の荒野に乗り出すという選択肢はない。対して、「開いた意見」 とは非ゼロ和ゲームだ。つまり創造力次第でいくらでも取り分が増やせる…… いわば神との競争である。
私は思う、心霊思想を語るものは、人ではなく神を相手に努力すべきだと。つまり、他の誰かを貶めるより、より多くを神から獲得すべきだと思う。
であるから、他人の非を見るより、他人の羨むべき所を我が身に取入れることこそがその第一歩であると思う。