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ボランティアは御利益の夢を見るか?

2005/05/29

2005年 05月 29日

「努力がなかなか実にならない」……と思わずこぼすと、師匠や姉弟子たちは、「神様が見ていらっしゃるから、きっといつかは報われるわよ」という。いや、御利益を下さるというものを断りたくはないが、だからといって、志を御利益目的のようにいわれるのはいささか不快だ。

因果応報/因果律……正しい努力が良い結果をもたらすと考えるのが心霊思想であるし、それ以前に、世界宗教の多くもそう教えているのに、どうにも信心深い方々は、そこにわざわざ神様を持ち込む。私は自らの努力を神様に認めて貰いたいのではない。どうしたらよい結果が出るか、その助言を求めているのである。……が、こればかりはしょうがない。師匠も姉弟子も悪気があるのではなく、条件反射的に日本的な慣用句を口にしているだけだ。助言が欲しいのならば、助言をくれと問うべきなのである。

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 表現に注意が必要なため、なかなかご紹介できずにいたが、友人の一連の(自称)愚痴メールがなかなか興味深い。――  とあるボランティア活動を企画して、で、なかなか障害が多くて思わず愚痴がでているという図だ。

 で、まさか私が、「神様が見ていらっしゃるから、きっといつかは報われるわよ」という訳にはいかない。正直そんな受け答えは冗談にならない。……個人的感想で返事を書く前に、ガンガン霊査が降りる状態では。

 私の師匠の霊査などに、「善行は神がさせるもので、人がするものではない」という言葉が降りるが、これはまさしく至言であると私は肝に銘じている。この言葉は、ボランティア活動に熱心な人にとって不快に思われるかも知れないが、いくら志があろうともチャンスに恵まれないとなかなか善行は積めないものだ。むろん小さな一歩を積み重ねるという所から始めるという原則を大切にすればこの限りではないが、やはり世の中にはチャンスを掴んで大きな事をする人もいることに摂理を感じてみて欲しい。

 たとえば寄付をするのにも、環境が恵まれていればこそ大金を贈れる。反対にいくら稼ぎが多い人でも身内に博打好きなどがいたら、寄付をしたくても身内の道楽に皆喰われてしまうかも知れない……個人の志が無駄だというのではなく、善行が結果をもたらすのにも、やはり神仏の加護が必要なのだ、というのは人が心得るべき大切なことだと思う。それを忘れることは、支配霊無しで良い霊媒になろうとするようなものだ。つまり心霊家として落第である。

 ……だから、善行を積もうと努力している私、または、友人らが、うまく行かずに悩むことに、なおさら他者から、努力だけを褒められると不愉快になる。……善行の最高の報酬は、神様から認められることではなく、相手から喜ばれることなのだから。次善の御利益で誤魔化されるなら、お前の努力は無駄だといわれるようなものだ。

 それにしても、日本の精神風土には大きな問題を感じる。「お年寄りは大切にしよう、小さな子には親切にしよう」 ……だが考えてみて欲しい。あなたなら、「ありがとうという立場」と「ありがとうといわれる立場」の、どちらに立ちたいか?

 せっぱ詰まった状況でない限り、お年寄りや小さな子供だって、ありがとうと言われたいと思うものだ。どんな病人やけが人、そして心身・境遇に各種の障害を持つ人も、ありがとうと言われたいのである。そして、他にありがとうという機会の多い人ほど、出来ることなら、ありがとうと言わずに暮らしたいと願っている。――そういう人々を喜ばすことは難しい。簡単に喜びそうな人ほど、実は喜ばすことが難しいのである。……でも、なぜそんな難しい相手を喜ばせようとしたのだろうか?

 ここで私は爆笑しそうになる。ああ、神様っているものだ。……いや、侮蔑の気持ちはない。

教えられているのだと思うのだ。真心の真意と、人をもてなす心のなんたるかを。

その理屈ではなく、実践の機会を与えられているのである。これは得難い。

 これは人であれば、誰もが知っておくべき事だが、だが、しっかりと学ぶためには、それこそ天機《チャンス》を必要とすることである。 ……で、その努力は、神様の褒め言葉の代りに現実的な利益として返って来るのも、誰もが望めることではない。…… 要するに客商売をしている人でなければ出来ない修行であり、見返りの乏しい修行であるということだ。

 ところで、「ありがとう」という日本語は、漢字では「有り難う」と表記するが、これは当て字でなく、そのままの意味だそうだ。つまり、有り難い=あり得ない……幸運であるという表現なのだ。ならば親切があまりに多いと、有難くなくなってしまう。

 あれ、すると、困っている人に親切にすることは、それは「有難い」ことなのか、それとも「当たり前」のことなのか?

 ……言い出しながら反則的ではあるが、どうでもいいのですよね。「ありがとう」の言葉の行方は。

 人の真の強さが、どうか、こうかだって、同様。

 最後に必要なのは……時間切れ。


 05年 06月 04日

 某社会奉仕をもくろんだ某友人は、某社会奉仕の完了後、思わぬ幸運に恵まれたそうな。……ここに人間の器量が分かれる。配偶者との間の会話で、片や、努力がすぐ報われることに不安を感じ、片や、自分を信じて当たり前だと宣《のたま》う。…… 単なる視点の相違とは思わない。そもそも、真相解明の糸口は二つの事例の差分から得られることも多い。一心同体の配偶者の筈が、その体験にかくも差が生じる。その差をもたらしているものが何であるのか、大切なことである。

・ ・ ・

 双方の意見は、それぞれもっともだ。強いて言えば、「当たり前」という見解は、平均的な心霊主義者にとって傲慢に思えるかも知れないが、そもそも人生には、外に向かって伸びるべき時と、内に向かって充実を図るべき時がある。それを見極めた上で判断すれば、どちらの意見が正しいと言うことはなく、ただその時期かどうかが問題だと言える。

 ビールやジュースの製造業者は、初夏を迎えれば増産に入るわけだが、ここで遠慮しては儲け時を失してしまうだろう。大切なのは、時機であって、その態度ではない。時機に関わらず態度を選ぶのは、インスピレーションを無視する心霊家だ。つまり、ナンセンスである。

 もっとも、物事はそれほど単純ではない。誰もが経験のあるように…… 走り出したら止るのに苦労をするものだ。例え、チャンスが目の前にあっても、引き際をしくじればもうけはすべて吹っ飛んでしまう。そこまで考慮すれば往々、慎重であるが故に失うチャンスと、積極的であるが故にしくじるリスクとは等価ではない。はっきり言って、慎重な者ほど最後に笑えるのである。

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もろもろの事情を勘案して、私は敢て言う。

臨機応変――状況に合わせた態度こそが求められるのである。だが、マナーやエチケットという言葉に縛られている人々は応変ではあっても臨機がない。一方、臨機を気取る人々は、融通が利かずに応変できない。

幸運を恐れるよりも、幸運を期待することこそが、人として恥ずかしいのではないか?

 ならば、幸運に恵まれたら、素直に喜べばよいのだ。ただ、運気が変わったときには素早く亀のように手足を引っ込める覚悟を持つことだ。


強くあるには

2005/05/29

本当に弱いのは誰か?

2005年 05月 28日


「人生は霊性向上の修行の場」であるとは、多くの心霊思想が等しく標榜するところです。

――だからといって地上で一生懸命、色々な本を読んで勉強なさる方もいらっしゃいますが、教科書を開くのは休憩時間にすべきです。現場で座学は似合いません――

 修行の場とは、つまり行うことに意味があるのです。……でも、不幸にしてやり方を前世に失念してきたら?…… 誰かに尋ねなければなりませんね。

――心霊思想的に考えて、ここで大切なのは、前世で知らなかったことを今生で理解し、利用することの難しさです――

さて対人関係上の相談を受けていて、相談者からの気になる言葉を聞きました。

『相手は心が弱いが、プライドがあるから隠している、きっと本人も気付かないところで相当に追い詰められているだろう。これ以上追いつめると何が起こるか解らないから、難しいね』

相手が弱いなら? 

 人間の性質の一つに、「未知の物を恐れるが、取り敢ず原因を特定すると安心してしまう」というのがあります。これが心霊家にとって最大の敵で、その事は有名な川柳が表しています。

「幽霊の正体見たり枯尾花」

 幽霊だと思ったら、ススキ(枯尾花)であった……という、身も蓋もない川柳ですが、ススキのない場所でも幽霊の目撃談があります。これは読手の恐れと、その解決を表す川柳ですが、往々、心霊否定論の一つとして用いられます。更に滑稽なのは、たかがススキにも怯える、その小心さは解決したのでしょうか?

 原因を特定して、それで話をおえる。しかし終らせていけない話もあります。それが即ち、思案のしどころというわけです。

 特に対人関係というのは、一方の非だけで問題が生じないことにも留意すべきです。特に人間の強さ・弱さは相対的なもので、相手への印象は往々、自己評価の裏返しです。つまり、相手を弱いと見るのは、自分を強いと見るのと均しい。窮鼠猫を噛むといい、相手を追いつめてはいけないというが、それは鼠に対して猫の如く振舞うから噛まれるのであって、猫に対して鼠のように振舞うという解決策もあるはずです。

 つまり、相手が弱い人であり、弱いからこそ強がるのであれば、相手より更に弱い人間として振舞うことで、後腐れのない問題解決の道が開けるかもしれません。

 ところで、いにしえの戦略論に、「四路五動」という考えがあります。つまり、選択肢は前後左右の四通り(四路)あり、それ故に取るべき行動には、五通り(五動)あるのです。

――そう、弱者には五つの選択肢があります。

前,向上努力をする。

後,現実逃避をする。

左,弱者であることを利用する。

右,単に強がる。

止,何もしない。

 しかし、動きとしての「止」と、動けない「止」は意味が違います。なにより主体性の無い動作は、相手に操られているのと変りありません。つまり、相手が弱くても、その弱い相手に打つ手が無くて身動きできないのであれば、あなたは弱者に支配されているということになります。

 つまり相手が逃げ、しかもあなたが追えないのであれば、それは「相手の勝ち」 ということです。

 誇り高き勝者は誰でも演じられます。しかし、誇り高き敗者は真の英雄のみがなり得ます。また、真の弱者とは自分の弱さを認められぬ者で、真の強者はみだりに自分の強さを示しはしません。

 つまり、相手が「弱い」と見たら、為すべき手はただ一つであると私は思います。

相手の更正を願う?

 窮鼠猫を噛むと申しますから、相手を追いつめすぎないのは大切なことです。また、困っている人を虐めないのも大切なことですが……

『この事件が、私の成長の糧となり、また、彼の更生につながることであって欲しい』

――ええ、そうでないと後味が悪いですよね。でも――


 人は成功から知恵を失うこともあり、失敗からも学べます。また、増長を正す一番の薬は失敗ですが、薬も過ぎれば毒となり、その処方は正直、人間の才覚では施しようもありません。つまり、相手の更正など人が望んで得られるものではありません。しかも……

相手は弱い、相手を更正させたい』……無意識に相手の弁護をしていませんか? しかも解決に必要となる具体的な智慧が出ない。それはこの問題の解決を阻害しているが、実はあなた自身であることを暗示しています。

 問題が解決できないことを見越して、自分を慰めるためのいいわけを用意している。しかも、 解決策に頭を使わず失敗後の対応に頭を使っている。これでは少なくとも、解決の手を打つ前に精神的に敗北していることだけは間違いありません。

 それはつまり、相手の向上以前に、あなたが向上すべきだということです。

真の強さとは何か、もう一度考えてください。


真の強さを求める。

2005年 05月 29日

たとえば勝率が50パーセントだとします。

一回しか争わなければ全勝(又は全敗)です。

二回争っても、25パーセントの確率で、全勝が可能です。

でも百回争えば五十回は負けます。

さて、一生一戦の人と、一生百戦の人では、敗北の数にどれだけ差が出るでしょうか?

・・・・・・・

つまり、勝敗数は、人の強弱よりもむしろ、闘争数と関連があります。ところが往々人々は、勝敗の数を決めるのは、その人の実力、強さの差であると信じているようです。そして無駄に争い、必然的に敗北数が増えるのです。……極端な話、戦わなければ敗北もありません。

むろん、人生には挑戦も必要です。競わず、戦わずという人生も最後には後悔に押しつぶされるやも知れません。しかし、「ただ勝利感を味わいたいがため」に、または、「敗北感を紛らわせるため」に、そして「、現実逃避の手段」として人と争えば、無駄な争いが増え、争えば敗北の可能性も増え、結局、惨めさから現実逃避の為の争いを繰り返す、という敗北の悪循環に陥ることになります。

争い事に際して、ある人は「結果」を重視します。別なある人は「相手に勝つこと」を重視します。……  一体どちらに無駄な争いが多いでしょうか。

何が無駄で、何が必要なことなのか。――相手に勝てば恨みを我が身に引き寄せます。では結果はどこに行くでしょう? 同じ恨みを我が身に引き寄せるなら結果を重視なさるべきです。

勝利感を味わいたい、相手をいたぶりたい、という内部(魔)の誘惑に勝つのはとても難しいものですが、でも、無駄な争いは自らを不幸にします。だからこそ、こういう格言があるのです。……

「外の敵には勝ち易く、内なる敵には勝ち難し」

争わないことが勝利の秘訣だというのではありません。また、争わないことで敗北数を減らすというのは数字遊びとも言えます。考えていただきたいのは、「無駄な争いが多ければ負けが多い」……つまり、無駄な負けが多い、ということです。そしてわざわざ、無駄な負けを増やしているようでは、勝つことなど思いもよらないということです。

勘違い・思い違いは敗北の原因となりますが、正しい認識だけで勝利できるとは限りません。……つまり、努力だけでは勝星は上げられませんが(才能が大切)、無駄な敗北を減らすことは努力だけで出来るのです。

無駄な負けを減らす努力無く、勝率を上げられるというのでしょうか。

・・・・・・・

類似の問題で、「金儲け」を考えてみましょう。

神頼みで金持ちになりたいと願う人は多いものですが、そういう安易な発想の持ち主は、節約の大切を知りません。いくら収入が増えてもそれ以上に出費が増えれば、ますます貧しくなります。しかし、浪費したいが為に金を欲しがる人が無駄遣いを耐えることができません。

たとえばあなたは、砂漠に水を撒く仕事を楽しめるでしょうか?

反対に、ケチな人の祈りなら……

 どうせ水を撒くなら、肥沃な土地に撒く方が、やり甲斐がありそうですよね?

そう、無駄の多い人ほど神頼みを強く求めるが、神様だって無駄な仕事はやりたくないと思うのですが…… ねえ。

己に勝てない人なら、天の加護だって避けて通ります。


友情は争ってでも守る価値がある。

2005年 05月 30日

責任を持つべきは、己の言動であって、他人の誹謗中傷にまで責任を持つ必要を感じない。―― 他人の嘘・デタラメに騙されたとしても、己の言動に責任を持つべきであって、他人に責任を押しつけようとする人はどこまでも卑怯な行動を取る。

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友人から、対人関係の相談を持ち込まれた……それを発端としてブログ上で公開したのが、「真の強さを求める。」と「本当に弱いのは誰か?」だが、私としては無駄な争いを避け、本当に必要なことに全力を挙げて生きようとしているのに、家族・友人・知人にトラブルメーカーが多ければ、周囲の人々を大切にすればこそ、自分の人生に無駄が増えて勝率が上がらぬという滑稽なことにもなる。…… 家族との縁は天の定めたものだから、滅多に断ち切れるわけではないが、選ぶべきは友人だ。

と言って、悩める友人を切り捨てよというのではない。……腕試しや利害、そしてワガママから争い事を起こす人を遠ざけるべきだと思うのだ。

多くの人は善悪を、利害や好悪で決めようとする。手段を選ばず、道理を曲げ、恥を省みずに「利己」を追求する者にどう対処していくのか。不正に負けることは人としての尊厳を傷つけるものだ、だからこそ手を携えるべき友人を大切にしなければならないし、友情は他と争ってでも守る価値がある。

だが、他者の利己主義の為に争うことは、その争いからなんら利を得ないとしても、利己主義者の仲間入りをすることになる。…… 他人の業《カルマ》で悪者の仲間入りすることは何ともつまらない。


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