「魔が差す」
2005/05/092005年 05月 09日
「魔が差す」という表現がある。災難……特に人災は、引寄せられるように陥っていくものだ。時として、目に見えるのに避けられない。これは半端でなく怖い。
「甘え」に甘える
人間関係においては、「この程度は許されるだろう」という、相手への甘えが特に危険だ。拒絶されると、相手にとって自分が何であったのかと、その絆への不信感が生じてしまう。つまり、相手に甘えることで、せっかくの人間関係を危険にさらしてしまうわけだが、「甘え」るのは案外に難しい。そもそも、事故災難にあった多くの人が、その反省点の一つとして、「自分に甘えがあった」というではないか。
ここで、なぜ、相手に対する甘えが生じるのか、を考えてみよう。疲労や狎れという問題もあるだろうが、特に対人関係では「思うように自分が動けなくなっているから、他に頼る(甘える)」……という部分が大きい、すると、意識する限りはわずかな甘えのつもりでいても、無意識にたくさんの甘えを相手に強いているかも知れない事に気が付く。つまり相手は忍耐の限界に達しているかも知れない。
ならば、相手の薄情さをなじることは、逆効果……相手から見れば、無責任で、面倒な相手と再認識させてしまうことになるだろう。しかも、自分の認識と、相手の認識との間にギャップがあれば、妥協はなかなか難しい。表面的な仲直りが出来ても、言分の違いが相手への不信、又は相手へのあきらめとなって蓄積されていくからだ。
つまり、自分の中に他への甘えが生じているときは、相手を恨むよりもむしろ、自分が認識するよりもはるかに事実は悪化しつつあると考えるべきだろう。交通事故なども、「この程度は大丈夫」という姿勢が危険であるといわれるが、仕組はほぼ同じだ。
コミュニケーションの一手段として甘えることはあっても良いと思うが、自分が不調であることから目をそらす手段として他に甘えてはいけない。自分に嘘をつくと何が真実であるか判らなくなり、その結果、思いもかけぬ被害を受けることにもなりかねない。
「甘えてはいけない」のではなく、「甘え」に甘えてはいけないのだ。
腰が軽いと夫婦仲が良くなる?
……これについては整体の知識がそれを裏付ける。
腰が軽くなる(立上がる動作が楽になる)と、夫婦仲が良くなるというのだ。つまり、腰が重くて面倒になり、互いに、あれをとって、これをとって、と面倒事を押しつけあうし、互いに面倒だから些細な依頼も強く不快に思うからイライラが募っていくというのだ。…… ここで問題なのは、互いにイライラとして喧嘩をしている状況が、実は自分たちの身体の不調にある事に機がつかず、相手のせいにすることで真の解決策が見えないことだ。
互いに罵りあえば罵りあうほど、身体への労りを忘れてしまい、身体を動かす(腰を上げる)せば解決する問題が、口を動かすだけだから拗れていくのである。そう、口は感情を動かすばかりで現実を動かす力はない。むしろ大抵の場合、口を動かしても拗れるばかりで解決はしないものなのだ。
そして、腰の重さとは、病気とは呼べなくても、充分不健康な身体を意味するのである。
病は気から
心霊知識は、心・霊・体の不調和が病気の原因と教えるが、イライラは、往々、心・霊・体の不協和音から生じる、という考えがご理解いただけると思う。つまり、イライラは病気の前兆と見なすことが出来るのだ。その意味で、私は「病は気から」という慣用句はむしろ逆であると考える。「気の乱れは病から」生じるのだ。少なくとも、病気の治療よりも予防を大切に思うのであれば、「気の乱れは病から」という視点はとても大切だと思う。
なお、不健康な状態は、病気としてしっかりと発病した方が、治療に専念できて不惑であるが、発病する手前の、不調ではあるがでも休むほどではない、というときに面倒が生じやすい。
低級霊が憑りやすい
身体不調・心霊体の不調和が、イライラの原因になる――霊感の強い人にとっては、低級霊が憑りやすくなる、という形で現れることもある。霊感が弱い人でもやはり悪霊・低級霊に憑りやすく、誤った選択をしやすくなる。
するとこうも言える。「魔が差す」というのは事実認識が上手く行かない状態であるのと同時に、悪霊・低級霊の影響を受けやすい時期だ。……と。
こういうときにせっせと浄霊・除霊するのは逆効果だ。(霊感なんていらない、等という人は大抵この逆効果に手を出している)
原因を断つことなく結果だけを取除こうとしても不毛なのだ。次々と感応する霊のすべてに丁寧な浄霊が出来るはずもなく、イライラが募ってだんだん乱暴な除霊に流れていく。すると、乱暴な除霊に腹を立てた霊が仲間を募って仕返しに来る……霊を追出すことよりも、霊を招きやすい自分の体調不良を整えるべきなのである。
そしてなまじ悪因縁……つまり中途半端な浄霊・除霊で低級霊の恨みを買うと、健康を取戻しても面倒が続くことになる。
妄想に囚われやすい
これは昔からいわれることだが、やはり疲れていると妄想に囚われやすい。――というより、不健康だから妄想が追払えないのだ。そして妄想を追払えないというのは、心霊的にいえば、悪霊・低級霊との感応が強い状態を意味する。普段ならば鼻にも掛けない誘惑を追払えなくなるのだから。
さらにいえば、妄想を追払えないと、現実とのギャップに悩むようになる。そうなるとなかなか抜出せない。
この事は、横着で妄想癖がある人を見ればわかりやすい。狂気を疑うよりも、心霊体の不調和、そういう言い方が厭なら、心身の不健全さを思うべきなのである。
身体が硬いのはストレスのせい?
しかし、その病気は一体どこから来るかと考察すると、身体の硬さ、柔軟性が失われていることにあると整体では見なすようだ。そしてその原因はというと、ストレスコントロールがヘタであるということに行着く。……で、こういう話をすると、大抵の人は、「どうしたらストレスコントロールが出来るか?」……ということに関心を持つ。
なんと霊媒適性の低いことか……と頭を抱えてしまう。これは、霊視も出来ないのに除霊法を教えろというのに均しい。または、目をつぶって喧嘩に勝つ方法というべきか。……つまり、目の付所が悪い人なら、本質を見損い、物事を拗らせるのは当り前と思える。
他に甘えたり、ついイライラしたり、又は、ミスが多くなった、車の運転中などに、ハラハラドキドキする機会が多い、等といった、身体不調・心霊体の不調和の兆候をきちんと読取れるのであれば、それ以上無理をしない、出来れば積極的に身体を休めることで自ずと問題が解消することが想像つくはず。
魔法の如き解決策を望むその前に、当り前な常識を身につけなければ、霊界から見放されてしまうし、病気よりも死後の孤独を恐れる気持がなければ心霊を学ぶ意味がなくなってしまう。
まあ、死後のことは棚上げすることとしても、身体が硬いのは、頭が固いのとも通じる。露骨にいえば不器用なのだ。……しかし、心・霊・体、性格、思想、生活スタイルも含め、その他すべては相互に連関し、それ故に、どこか一つを直そう、正そう、としても、他の部分が補正にはいるから向上するのは難しい。つまり、一部が不器用なのではなく全部が不器用なのだ。……一つ悪いところがあれば、もっと多くの過ちが自分にあることを予測できれば、少なくとも大難は小難、小難は無事に収るだろう。
現代人はとことん、素直にいきられぬと観ずる――これでは心霊知識をいくら得ても、幸せの糸口に使う代りに、不幸の言訳にしか役立てぬのではないか。
2005年 05月 10日
直感を大切に
主観というのは相対的な視野に支配されがちですから、体調が良ければ世のすべてに寛容になれるし、不調であれば世のすべてが気に入らなくなりもします。……かくして人は、己の不調に気がつく前に腹を立てます。腹を立てすぎて不調であることを忘れもします。
世の学問は、事実を積重ねて法則化しようとします。しかし、現場で事故の数を勘定している訳には参りません。ハッとした回数を勘定してそろそろ大きな事故が来るな……というのは統計学的には面白くても、また、管理職としては必要な知識であっても、事故が起ってからでは遅いのです。しかも、折角心霊を学んでいるのに。
自分には守護霊があり、祖霊の加護もあり、また、人には誰にでも霊感があり、ただコントロールの巧拙に違いがあるだけ、という大原則をふまえて、日常生活中にも自分の直感を活かし、また信じて、出来るだけ大難は小難、小難は無事に過せるように工夫すべきでしょう。
ヒヤリとした、ハッとした……体調が万全であれば環境が危険なのかも知れないし、環境が同じならば体調が悪くて注意力が不足気味なのかも知れない。
原因が自分にあるのか、環境にあるのかはともかくとして、危険であることには変らない―― 前兆に気が付かなければ災難は避けがたいし、予兆に気が付いても楽観的に過していれば災難が大きく育ってしまいます。
自分の欠点を観察するのに、第三者の視点……つまり冷静に観察・分析することは大切ですが、自分の現在の行動に対して傍観者であろうとすると後悔せねばならなくなります。当事者ならば当事者なりの態度が必要なのです。