心地よく生きる
2005/05/04
心地よく生きる
05年 05月 04日
昨日は、オフ会常連者の守護霊二人から更新ネタを貰ったが、今夜で三人目の飛び込み通信だ。
『人の心は心地よい状態を保とうとする。』……と聞こえた。耳を傾けてみる。
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『一人で生きているなら、心地よい状態を保っていればよい。だが、二人で暮らしていながら、我一人心地よい状態を保とうとすればどうなるか……往々、どちらかがストレスを溜め込む。結局、その心地よさは長続きしない。』
『大切なのは、一人でも心地よく過ごせるような、安定した心を得ることだ。二人の心が安定しているなら、一時の激情も力を合わせて乗り越えることが出来る。』……意味深だ。
『心地よいとは、幸福を意味しない。往々それは二つの状況の妥協点にすぎないからだ。チャレンジ精神と未知への恐れ、名誉欲と恥への恐怖、妥協は幸せをもたらさないが、少なくとも心地よい。多くの場合、人はそこに安住したいと願う。
『妥協は不満を生じ、決断は不安を生じる。人は妥協と決断との間に葛藤し、その間に又心地よい状態を見出す。……解るだろうか? 多くの心は決断をせずに状況の中をゆらゆらと漂い続ける。……不満を抱きながら。
『もし、自ら決断できぬとすれば、どうすれば不満を解消できるだろう……そう、第三者を利用するのが一番安易な解決策だ。なにせ、人の不安は他人事で済む。
『だが人の心は心地よい状態を保とうとする。そして誰が他人の葛藤を解決するために、わざわざ不安を抱え込もうというのか?
『簡単に見える解決法が、実は一番やっかいな解決策であるのだが、それに気がつかずに試行錯誤を繰り返す。愚者は失敗から学ばない。』
……少々安易なまとめではないか。これでは愚痴だ。で、落ちが付かぬ場合は廬氏に頼むのが良い。
廬氏より
『人は己の善さを生かせず、そもそも善さのなんたるかを知らない。社会はその利となる人を善者とよび、人は己の利となる人を善人と呼ぶ。かくして善く生きようとするものは、社会の利を計り、他人の利を計り、懸命に尽す。だがそれは利の奴隷である。善を志す者が利の奴隷となれば、見よ、地球がやせ細る。強欲なる者は奪い、徳ある者は忍耐を強いられ、かくして世の中は悪魔に牛耳られる。……私は恫喝を好まぬ。だがこの状況はなんたることか。人々は善を見失い、それ故に悩み苦しんでいる。
『我が師はこういわれた。……「人は自分が為すべき(責任を持つべき)善のすべてを知っている。そして、善き行いを勤めれば、さらに深き善の意味を知る(学ぶ)。だが人々は、善悪を言葉遊び、論理の遊びにして行うことをしない。行わぬから意味を忘れ、意義を忘れ、その尊さを忘れる。ただ、知識の多きことを善と呼びあい、その間にも地球がやせ衰える。そして強欲なる者は奪い、徳ある者が忍耐を強いられ、善良なる者が芽を出すいとまもない事となる。
『だから、不遇なる者は、その不遇をバネに努力せよ、志ある者が孤独に陥ることは決してない』
……珍しく廬氏がとても熱い。かなり間をおいてこう続く。
『人は一人では生きられぬのに、孤独なる者ほど妥協の価値を知らぬ。すべての魂が天の高みに登る宿命があるなら、孤独なる者ほど妥協の価値を知るはず。摂理の厳律には、昇る者と落ちる者との明白な線がある。これは慈悲の心と相容れぬ。……何とも切ない』
……それを称して縁と呼ぶのだろうけれど。
にっこり微笑んで廬氏が去る。
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……先ほどの守護霊が締めくくる。
『誰もが善く生きたいと願いながら、善く生きられぬこの現実。霊界から見れば何とも切ないが、生きている庇護者らは、切なさを感じるいとまもなきほど生きることに忙しい。崖っぷちに立ちながらその恐怖を知らずにいるのは果たして幸せなのだか、不幸なのだか』
『うむ、確かに。確かに未だに奈落に落ちず、そしてゆっくりではあるが前に進みつつある。私も信じて待つしかない』
心地よく生きる 2
05年 05月 06日
人の心は心地よさを求める。そして心地よさを得たら次に安定を求める。
つまり……往々、幸せになると人は努力を疎かにする。でも、明日の幸せは今造られるのだから…… 今の努力がなくなると明日の幸せは失われる。
努力を止めれば不幸になり、不幸になって努力を再開する。そして幸せを得ると努力を止めて……彼・彼女は、幸せと、不幸の間を常に行き来しながら歳をとっていくことになる。
過去、今、未来という流れの中で生き方を考えないと、浮き沈みの激しい人生となる。
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善く生きることは人間にとって必須の条件だが、人々はおおむね善良であろうとする。だが、人々が善のなんたるかを知らない、というより誤解している。……霊界から観て、それがとても危険なことであるというのが、廬氏の意見の要約だ。
「努力しているのに目標が無い」のであれば、どうして実現できるのだろう?
人々は、心地よさと幸福とを混同している。明日の幸せを願うなら、今の幸せに満足することなく、明日の幸せの種を播く事を忘れてはいけない。……しかも人それぞれ幸せに思うことが皆違う。
ちなみに、「善」という字は、「祭器」に盛られた「羊」が人々に振舞われる事を意味するという。つまり「善」とは喜び事を分ち合うの意味がある。……明快な解説なようでいて、なお、この「分ち合う」という言葉の意味が、人によってとても理解が難しいらしい。
たとえば一匹の魚を分ち合うにしても、偉いあなたは「頭」、賤しい私は「身」とやられたら、おだてられても損した気分になる場合もあり、でも相手は、「おだててあげたのだからこれで公平」と信じているかも知れない。…… 何に価値を見出すのか、それによって平等や公平、そして分かち合うということに歪みが生じ、歪みが亀裂を生み出す現実。
霊界は、嘘のつけない所だというが、人が真実と信じることが必ずしも正しいとは限らない――それ故に、人は霊性向上の修行を強いられる。とくに独善的な人ほど修行を強いられる。
分かち合うことが難しいのではなく、相手を理解することを忘れているのだ。そして、自分を理解することも。