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再生論

2005/05/02

2005年 05月 15日


 昨日のオフ会後、皆で昼食を囲みながらの心霊雑談中の話題です。

「ある女性に『あなたの前世は、○○家のお姫様でした』と教えたところ、単純に喜んでいたので私はその後を黙ることにしたのです。しかし、現世の生れを見れば、明らかに降格人事なんだけど……」 ……で、一同爆笑。

 もっとも彼女は、その後は玉の輿に乗られたようです。

質疑

Q 「先日、某番組を見て感じたことですが、現世で苦しむのは、昔から言うように前世で悪いことをした結果でしょうか? そうは思いたくないのですが。」

A 「ご質問の思想は、心霊研究的には単純再生などとも呼ばれますが、因果応報の思想も組み合わされていることから、古代インドの『輪廻転生論』と呼ぶべきです。浅野和三郎氏の論文などでも誤解が見られますが、これは仏教の思想ではなく、仏教成立以前の思想です。釈迦は、『死後のことよりも今の生き方を大切にせよ』との思想を掲げて、輪廻転生論を比喩、または教化の手段として用いることがあっても、積極的に肯定したことはありません。

 単純再生、または、輪廻転生論は、国内の新興宗教、とくに霊媒が起こす新興宗教にも盛んに利用されますが、その特徴は、

  1,素人にも解りやすい。

  2,前世の記憶の持ち主、霊媒の前世調査などと矛盾がない。

  3,現世の不公平感を緩和する。

  4,前世といわれる人物と、似たような人生を歩みがちだ。

 等があげられますが、とくに三番目の項目は幼稚な勧善懲悪理論というべきで、実際、輪廻転生論を口実に布教をする新興宗教団体が、家族に障害者を持つ方々から嫌われる原因にもなっています。その理由は後述いたします。

 ところが単純再生は、同時に霊媒内にも否定的な意見があります。たとえば……

  1、前世として、有名人の名前ばかりが出やすい。

  2,同じ名前の人が何人も生まれ変わっていることになる。

  3,現世の不公平感を酷くする。

 単純再生の肯定意見3と、否定意見3が、相反していることに留意してください。つまり、何を持って公平とするか、何を持って善とするかの判断基準によって、意見がまっぷたつに割れるのです。

 以上は、地上の視点から見た再生論の分析ですが、では、死者からの通信、霊界通信で教えるものは、「部分再生論」とよばれます。これはいささか理解が難しく、一つの霊の未浄化の一部分だけがが地上に生まれ変わる、という思想です。その他、浅野和三郎氏などは「創造的再生論」なるものを提唱していまして、これが現在では無視されているのが不思議なぐらいに良くできている意見だと思うのですが、その内容はといえば、部分再生論と、肉体の優性理論(つまり両親の掛け合わせで優秀な子が生まれる)の組み合わせです。

 ところで、私、本人の思想はといえば、単純再生論、部分再生論双方に疑問を抱いております。

 1,単純再生論はあまりにおおざっぱで原始的だ。

 2,部分再生論は、霊魂の切り貼りを論じるところから何やら胡散臭い。むしろ、「一人の肉体」を使う霊魂が複数あるのだ…… という考えでおります。

 なお、私の観点から再生論を論じると、複雑になりすぎますので、今は棚上げさせていただきます。

 ブラックボックス

 再生のメカニズムの詳細はブラックボックスと見なして、原因と結果の関連について再検討いたしましょう。再生論を通じて考えるべき重大問題が「因果応報」、といえば仏教用語ですが、キリスト教などでも「因果律」なる言葉で、原因と結果の関連について教えています。

 神仏の前に置いてすべての人間が平等であるとしても、人間が生まれてくる環境や身体的条件などは決して平等ではありません。又、善良に生きる人が幸せな最後を迎えるとは限らず、悪人がのさばる姿も良く目にします。統計的にいえば、「憎まれっ子世にはばかる」が裏付けられるそうで、その原因は、他人に遠慮する人は精神的ストレスが溜まりやすいからと考えられるとか……こういう不公平感から、善良さが報われるのは来世であるという思想が根強く存在を続けるわけですが、上述の例の如く、善良に生きようとする・他人に遠慮する人が精神的ストレスで寿命を縮めがちである事実は覆らぬ事でしょう。

 往々大人物は、短命に終わるものですが、ある整体の大家は、「バカ共と付合うのに飽きた」と、60歳前半で帰幽いたしました。この一点だけ見れば傲慢にも思えましょうが、ここでいう「バカ」とは、おおざっぱに言って、健康管理の下手な人――、自分を大切にしないくせに病気になると大騒ぎする人々の事と見ると、ご理解いただけるかと思います。つまり、物事の解っている人は用が済めばさっさと帰幽してしまいがちなわけで、単純にこれをひっくり返すと、長生きする人とはいつまでも物事の解らぬ人と見なすことも出来ます。……このように一つ一つの価値観、因果応報を考えれば、何が良くて、何が悪いのか、ますます解らなくなるでしょう。

 ですので、ここの問題からも目を背けて、原理法則を求めてみました。

『智者は、状況に応じて必要なことをする。』

 まあ、出所は私の霊感であるので、証拠能力に乏しいかも知れませんが、従来の再生論が人間の「自由意志」を無視していることに留意すれば、私の説がそう不自然なものでないと思えることでしょう。

 つまり、個々の魂、個々の環境に応じて、適切な再生手段や再生先を選ぶのだということです。……ちょうど、東京から大阪まで出掛けるのに、飛行機、新幹線、深夜バス、自家用車、船、等様々な手段が選べるのと同様です。

 寿命の長さも、長いから良いとか、優れていれば短くて良いとか、そう単純なものではなく、与えられる条件の範囲内で、その魂にもっとも適当なものが選ばれるというわけです。

 ですから、貧しい環境に生まれ変わるというのも、前世で浪費しすぎたから苦労を学ばされる魂もあるでしょうし、逆に、豊かな暮らしの中では退屈して、自ら苦労に飛び込んだ魂もあるでしょう。 ……ですから同情(相手と同じ立場であったらと考えてみる)することは必要でも、逆境に対して、哀れむという考えは持つべきではないと思います。

 

心霊主義的発想……または「霊的視点」

 再生論、ひいては、心霊思想一般を難しく感じるのは、地上的視点でそれを眺めるからです。つまり、地上のみの幸せ、物質的幸福だけに応用しようとするから心霊思想が解りにくくなるのです。

 たとえば地上では、生と死を相反するものと考えます。しかし、霊界から見れば、修行の一相にすぎません。つまり肉体の有無が違うだけで、同じ魂と見なすのです。

 当然、「人生の長さ」も問題にするのは地上的視点です。物質的豊かさの代償も、手段に応じた道具はあった方がよいと同情されはしますが、どうせ死ねば無一物です。苦労が多ければ実力を発揮するチャンスが多く、苦労が少なければチャンスに乏しい……地上の視点だけで人生を見るから、その価値が分からないのです。

 また、冒頭の話題にも潜んでいる勘違いですが、「貧しい」うまれは、罰を意味しません。そもそも生まれてくる時は無一物なのです。確かに財産家に生まれる方が楽ではあるし、相対的に見れば貧しい家に生まれるのは可哀想とも言えるでしょう。しかし、豊かな家は最初から豊かだったわけではありません。人類が文化を持つようになってこの方、過去に生きてきた人々の努力と苦労の結果として現代の文明があります。つまり作らずして家産はないのです。

 ですから、貧しいことが特別なのではなく、豊かなことが特別なのです。……でも、現代の日本人は先祖供養の大切さを省みません。どうせならもっと豊かな家に生まれたかったと思う人が大多数です。……特別であることに特別な配慮をせず、当たり前なことを特別視したらどうなるでしょう? 

 戦後、神国日本という特別感は、あっさり消えて無くなりましたが、豊かな国日本という特別勘はいつまで続くでしょう。

 江戸時代に生まれたら、大名や貴族だって夏は暑い。でも、現代はごく当たり前にエアコンがありますよね。


念を込めるな (修正要す)

2005/05/02

2005年 05月 02日


守護霊の懇願

 つっけんどんな守護霊相手に霊査を受信を終えたとき、今度は普段愛想のいい某守護霊が『たすけてよ』と飛込んできた。庇護者が何やら霊視実験にこり始めてやたらと念を凝らすのだそうだ。『針のむしろだ』という。……確かにそうだろう。幸い、我が守護霊はむさ苦しい(?)ので、私は進んで霊視をしない。美人とはとんだところで苦労するものだ。

 念を込めるのは除霊の時にすることで、霊視・霊聴を働かせるためには、逆に自分の念を散らし、偏見を取除く必要があるのだけど…… 熱中するとつい、集中してしまうのは他人事ではなく私もしてしまいがちのことだ。そして、本来であれば、守護霊が主導権を握れば、思念を集中してもへし折って散らされ、ちゃんと霊視を続けられるものだが、最初から気張って霊視してやる…… などとすると相手に圧迫感を与えてしまう。

 そもそも視覚や聴覚はパッシップ(受動的)なものだ。視聴覚に集中するというのは、目的外のものを無視するというのに均しい…… つまり、見たいもの、聞きたいもの以外は逆に見えなくなるのである。だから大切なのは精神統一で指導しているとおり、無我が無理ならせめてゆっくり、ゆったり構える。貰えたらめっけもの、貰えなければ昼寝が出来て良かった、ぐらいのつもりでいる事が大切だ。急ぐな、慌てるな、というのは、そうすべきだからというより、そうでなければならないからなのだ。

 何もないところで何かを観ようとすれば、それこそ、壁のシミまで顔に見える。「自称霊感あり」の人がいう「霊が見える」は、大抵、無縁な相手である――無理してみようとするから関係ない霊を見つけてしまう。見つけるだけならばまだ良いが、向こうにも見つかってしまうから面倒になりがちだ。

 そういえば同様のトラブルは私も往々に巻き込まれる。たとえば自称霊感が強い、という人がメールを送ってくると、大抵その後二三日は堪らなくうっとうしい。「ああ、私のことを霊視しようとしているな」と気が付くのだけど、念を凝らしている相手にわざわざ見せてやれるほど私は自在ではない。

 そもそも、期待度と妄想度は比例するのが人の常だ。真実を知りたければ真実を知ろうとしてはいけないのである。知ろうとすると、自分自身の妄想に騙されてしまうのだから。

『メッセージが自然に流れ込むようにするのです。かき集めようとすると余計なものまで受け入れてしまいます。』 とのことだ。注意、注意。

おまじない

 その他、類似な話に、念を込めてから手紙やメールを出す、というおまじないがある。もっとも、当人がそう明かした上でメールを寄越すわけではないが、気持の悪いメールが来たな、と思うと後から守護霊に実は……と聞かされるのである。従って証拠はないが、それはたいした問題でもない。

 相手に何かを強いようという気持が、相手に好意を呼び起すはずもない。むしろ不快感を生じるし、なによりも滑稽なのが、文章にもその傲慢さ現れることである。つまり、一読して嫌気がさすようなメールの差出人なら、まじないの有無に関わらず、付合いたいとは思えないのだ。(その他初メールから不平不満を聞いてくれ的なのも厭なものだ)

――このような机上の空論的なおまじないがどうして信じられるのかが私には不思議でならない。もしも何かを依頼するとしたら、あなたは相手を怒鳴りつけるだろうか? 念の強さにも配慮が必要なのである。

 また、念を籠めるのに集中したら手紙やメールの文章に充分に気配りが出来るだろうか?――「人事を尽して天命を待つ」のではなく「天命を頼って人事を疎かにする」のでは、人としての魅力に乏しい。むろん、呶鳴らずに頼むのならば話は別だが…… 必要にして充分、間を大切にしてしつこくならず、でもメリハリを付けて相手に印象づける。儀礼というのは下品な人が真似をするとかえって無惨に見えるのが困りものだ。

 まあ、メールへのおまじないは兎も角、相手に念を込めるのはやめた方がいい。また、不幸が続くなどして、ついつい念を込める癖が身に付いた人もいるが、速やかにやめるべきだ。すくなくとも力のヌキ加減を身につけるまでは。

  


 『祈るような気持でメールを出します』という場合、その念は悪影響を及さないだろうか?

 大概、大丈夫です。

 1,素人の念はそうそう相手まで届かない。

 2,真摯な願いの場合、双方の守護霊が上手に処理してくれます。

 3,少なくとも文章に真摯さが見えれば、不快な念を感じるメールでも相手も辛いのだろうと同情できます。

 4,文章が下手でも、返答に対して返辞が出来る人であれば少なくとも誠意は伝わります。

――要するに、余程霊感が強い人でなければ相手にまで念を送るのは無理だし、念が届いてもメールなどの文章に誠意があれば誤解は招きません。相手に不快を与えるのは念(いや慾)を込めることに夢中になって手抜きがあるメールです。というか、念を込めれば相手に通じると思いこんでいる迷信家のメールです。なにしろ、そんな相手のメールに了解を与えたら、次々と迷信じみたメールが来るかも知れないではありませんか。


親との縁

2005/05/02

 まだ、風邪が抜けきらずチョット頭痛がある。更新ネタを用意しようと精神統一するとやたらに長い話ばかりでまとまりがつかず、面倒になってすべてを抛り出した。改めて考えてみると、4月のオフ会で寄せられた質問に、いまだ答えていない事に気が付き、こちらの霊査を優先してみた。

Q 「前世の親を名告る霊を感じたのだが、本当だろうか?」

 ざっと霊査してみたところではそのような霊は見つからず、取り敢ず一般論として、「前世の縁を名告って、供養して貰いたがる霊は大勢いるから注意が必要です。それ以上は今度の機会に」と回答して終えた。今度は質問者の守護霊に改めてこの答を貰おうとしたのだが、

『調べておく、答は次回のオフ会に……』という返辞で、今日の更新には間に合いそうもない。すると相手に私の落胆が大げさに……又は、私の自覚よりも真実は激しい落胆だったのか……伝わったのだろう。『どうした、急ぐのか?』と問う。

「今日のページ更新に使いたかったのだけど……」と答えると、

『では、こういう話はどうか?』という、耳を傾けてみた。


『昔二人の禅僧が、風にはためく幟《のぼり》をみて、風が動いているのだ、いや、幟が動いているのだ、と論じていたところ、一人の僧が通りかかり、「風や幟と共にあなた方の心が動いているのだ」と指摘した。往々真理と真実とは区別が難しいのはこの心の働きがあるからだな。』―― 禅話の本などでは有名な話で今更聞かされるほどのことではない。

「……で? ……それで? ……それでなんだ? ……おおい、どこへ行っちゃたんだ? 全くあいつの守護霊はつっけんどんで扱いにくい。」

 さて、この先が実は微妙だ。以下の霊信は言葉として受信していた。実はアニメーション附きだ。つまり光景も見えていた。で、この後だが正直自分一人でこの答えに至ったかどうかは自信がない。つまりインスピレーション、閃きと共に得た「気づき」は、一段高い霊からの示唆によると考えるが心霊研究的である。まあ内からの答か、外からの答かは知らないが、いずれにせよ私はこの皮肉に気が付いた。

「前世で親であった霊から通信があったかどうかは知らないが、その時の質問者は親のことを思っていたに違いない」

 仮に前世の親の霊が訪ねてきたとしたら、互いに思わずして繋がらないのが霊信だから、相応の原因が双方にあるはず。親を騙って供養をねだるつもりにしても、やはり質問者は親のことで何かしら悩んでいたのだろう。そして霊側に強い必然があるのなら、その後もチャンスを窺っているだろうから、私が相談を受けたときに速やかに答を得られたことだろう。

 つまり、禅話を知りつつ、私も同じ愚問を繰返していたの……か? あれ、そういうものか? 私は霊媒で禅僧ではない。質問に答えようとしただけなのだが、……やはりしてやられたらしい。やっぱり彼の守護霊は食えない。


 以上の出来事を書き取っているとき、彼の守護霊が私の顔をのぞき込んでいた。

『まあ、あながち冗談でもない。前世の親がどうであれ、必要なことならば皆守護霊を通して話が進む。守護霊が即答できなかったとしたら、たいした問題ではないのだ。だからそれが答でもある。』

『むろん、真実には興味深い事実が含まれているやも知れない。又はくだらぬ戯言が判明するのかも知れない。だが、 求める答と必要な答は往々に懸隔がある。 特に気づかずに真実を踏みつけて答を捜すことも人にはよく見られることだ。』

『前世の親よりも、真実の親、つまり血肉の繋がりではなく、心の繋がりの心細さこそが本当の質問であったかも知れない。』

『まったくまったく。お前(霊媒)の守護霊とも話したが、人の心の隠された部分を観るのに、(心理学などでは)様々なレトリックを駆使するだろうに。だが、死後の心を推し量るのに、簡単に白黒つくと思うのは、心霊家と呼ぶより迷信家と呼ぶべきだ。霊感に映じるのは、真実の霊ばかりではない、自分の心の半面も又、良く霊感に映るのだ。だからこそ霊媒は良き相談相手になるのである。』

『そうそう、前世の親との縁を考えるよりも、今生の親との縁を考えるべきだ。血肉が繋がっていてもなお親の価値が理解できないなら、どうして前世の親の価値が判るというのか。』

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