本当に弱いのは誰か?
2005年 05月 28日
「人生は霊性向上の修行の場」であるとは、多くの心霊思想が等しく標榜するところです。
――だからといって地上で一生懸命、色々な本を読んで勉強なさる方もいらっしゃいますが、教科書を開くのは休憩時間にすべきです。現場で座学は似合いません――
修行の場とは、つまり行うことに意味があるのです。……でも、不幸にしてやり方を前世に失念してきたら?…… 誰かに尋ねなければなりませんね。
――心霊思想的に考えて、ここで大切なのは、前世で知らなかったことを今生で理解し、利用することの難しさです――
さて対人関係上の相談を受けていて、相談者からの気になる言葉を聞きました。
『相手は心が弱いが、プライドがあるから隠している、きっと本人も気付かないところで相当に追い詰められているだろう。これ以上追いつめると何が起こるか解らないから、難しいね』
相手が弱いなら?
人間の性質の一つに、「未知の物を恐れるが、取り敢ず原因を特定すると安心してしまう」というのがあります。これが心霊家にとって最大の敵で、その事は有名な川柳が表しています。
「幽霊の正体見たり枯尾花」
幽霊だと思ったら、ススキ(枯尾花)であった……という、身も蓋もない川柳ですが、ススキのない場所でも幽霊の目撃談があります。これは読手の恐れと、その解決を表す川柳ですが、往々、心霊否定論の一つとして用いられます。更に滑稽なのは、たかがススキにも怯える、その小心さは解決したのでしょうか?
原因を特定して、それで話をおえる。しかし終らせていけない話もあります。それが即ち、思案のしどころというわけです。
特に対人関係というのは、一方の非だけで問題が生じないことにも留意すべきです。特に人間の強さ・弱さは相対的なもので、相手への印象は往々、自己評価の裏返しです。つまり、相手を弱いと見るのは、自分を強いと見るのと均しい。窮鼠猫を噛むといい、相手を追いつめてはいけないというが、それは鼠に対して猫の如く振舞うから噛まれるのであって、猫に対して鼠のように振舞うという解決策もあるはずです。
つまり、相手が弱い人であり、弱いからこそ強がるのであれば、相手より更に弱い人間として振舞うことで、後腐れのない問題解決の道が開けるかもしれません。
ところで、いにしえの戦略論に、「四路五動」という考えがあります。つまり、選択肢は前後左右の四通り(四路)あり、それ故に取るべき行動には、五通り(五動)あるのです。
――そう、弱者には五つの選択肢があります。
前,向上努力をする。
後,現実逃避をする。
左,弱者であることを利用する。
右,単に強がる。
止,何もしない。
しかし、動きとしての「止」と、動けない「止」は意味が違います。なにより主体性の無い動作は、相手に操られているのと変りありません。つまり、相手が弱くても、その弱い相手に打つ手が無くて身動きできないのであれば、あなたは弱者に支配されているということになります。
つまり相手が逃げ、しかもあなたが追えないのであれば、それは「相手の勝ち」 ということです。
誇り高き勝者は誰でも演じられます。しかし、誇り高き敗者は真の英雄のみがなり得ます。また、真の弱者とは自分の弱さを認められぬ者で、真の強者はみだりに自分の強さを示しはしません。
つまり、相手が「弱い」と見たら、為すべき手はただ一つであると私は思います。
相手の更正を願う?
窮鼠猫を噛むと申しますから、相手を追いつめすぎないのは大切なことです。また、困っている人を虐めないのも大切なことですが……
『この事件が、私の成長の糧となり、また、彼の更生につながることであって欲しい』
――ええ、そうでないと後味が悪いですよね。でも――
人は成功から知恵を失うこともあり、失敗からも学べます。また、増長を正す一番の薬は失敗ですが、薬も過ぎれば毒となり、その処方は正直、人間の才覚では施しようもありません。つまり、相手の更正など人が望んで得られるものではありません。しかも……
『相手は弱い、相手を更正させたい』……無意識に相手の弁護をしていませんか? しかも解決に必要となる具体的な智慧が出ない。それはこの問題の解決を阻害しているが、実はあなた自身であることを暗示しています。
問題が解決できないことを見越して、自分を慰めるためのいいわけを用意している。しかも、 解決策に頭を使わず失敗後の対応に頭を使っている。これでは少なくとも、解決の手を打つ前に精神的に敗北していることだけは間違いありません。
それはつまり、相手の向上以前に、あなたが向上すべきだということです。
真の強さとは何か、もう一度考えてください。
真の強さを求める。
2005年 05月 29日
たとえば勝率が50パーセントだとします。
一回しか争わなければ全勝(又は全敗)です。
二回争っても、25パーセントの確率で、全勝が可能です。
でも百回争えば五十回は負けます。
さて、一生一戦の人と、一生百戦の人では、敗北の数にどれだけ差が出るでしょうか?
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つまり、勝敗数は、人の強弱よりもむしろ、闘争数と関連があります。ところが往々人々は、勝敗の数を決めるのは、その人の実力、強さの差であると信じているようです。そして無駄に争い、必然的に敗北数が増えるのです。……極端な話、戦わなければ敗北もありません。
むろん、人生には挑戦も必要です。競わず、戦わずという人生も最後には後悔に押しつぶされるやも知れません。しかし、「ただ勝利感を味わいたいがため」に、または、「敗北感を紛らわせるため」に、そして「、現実逃避の手段」として人と争えば、無駄な争いが増え、争えば敗北の可能性も増え、結局、惨めさから現実逃避の為の争いを繰り返す、という敗北の悪循環に陥ることになります。
争い事に際して、ある人は「結果」を重視します。別なある人は「相手に勝つこと」を重視します。…… 一体どちらに無駄な争いが多いでしょうか。
何が無駄で、何が必要なことなのか。――相手に勝てば恨みを我が身に引き寄せます。では結果はどこに行くでしょう? 同じ恨みを我が身に引き寄せるなら結果を重視なさるべきです。
勝利感を味わいたい、相手をいたぶりたい、という内部(魔)の誘惑に勝つのはとても難しいものですが、でも、無駄な争いは自らを不幸にします。だからこそ、こういう格言があるのです。……
「外の敵には勝ち易く、内なる敵には勝ち難し」
争わないことが勝利の秘訣だというのではありません。また、争わないことで敗北数を減らすというのは数字遊びとも言えます。考えていただきたいのは、「無駄な争いが多ければ負けが多い」……つまり、無駄な負けが多い、ということです。そしてわざわざ、無駄な負けを増やしているようでは、勝つことなど思いもよらないということです。
勘違い・思い違いは敗北の原因となりますが、正しい認識だけで勝利できるとは限りません。……つまり、努力だけでは勝星は上げられませんが(才能が大切)、無駄な敗北を減らすことは努力だけで出来るのです。
無駄な負けを減らす努力無く、勝率を上げられるというのでしょうか。
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類似の問題で、「金儲け」を考えてみましょう。
神頼みで金持ちになりたいと願う人は多いものですが、そういう安易な発想の持ち主は、節約の大切を知りません。いくら収入が増えてもそれ以上に出費が増えれば、ますます貧しくなります。しかし、浪費したいが為に金を欲しがる人が無駄遣いを耐えることができません。
たとえばあなたは、砂漠に水を撒く仕事を楽しめるでしょうか?
反対に、ケチな人の祈りなら……
どうせ水を撒くなら、肥沃な土地に撒く方が、やり甲斐がありそうですよね?
そう、無駄の多い人ほど神頼みを強く求めるが、神様だって無駄な仕事はやりたくないと思うのですが…… ねえ。
己に勝てない人なら、天の加護だって避けて通ります。
友情は争ってでも守る価値がある。
2005年 05月 30日
責任を持つべきは、己の言動であって、他人の誹謗中傷にまで責任を持つ必要を感じない。―― 他人の嘘・デタラメに騙されたとしても、己の言動に責任を持つべきであって、他人に責任を押しつけようとする人はどこまでも卑怯な行動を取る。
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友人から、対人関係の相談を持ち込まれた……それを発端としてブログ上で公開したのが、「真の強さを求める。」と「本当に弱いのは誰か?」だが、私としては無駄な争いを避け、本当に必要なことに全力を挙げて生きようとしているのに、家族・友人・知人にトラブルメーカーが多ければ、周囲の人々を大切にすればこそ、自分の人生に無駄が増えて勝率が上がらぬという滑稽なことにもなる。…… 家族との縁は天の定めたものだから、滅多に断ち切れるわけではないが、選ぶべきは友人だ。
と言って、悩める友人を切り捨てよというのではない。……腕試しや利害、そしてワガママから争い事を起こす人を遠ざけるべきだと思うのだ。
多くの人は善悪を、利害や好悪で決めようとする。手段を選ばず、道理を曲げ、恥を省みずに「利己」を追求する者にどう対処していくのか。不正に負けることは人としての尊厳を傷つけるものだ、だからこそ手を携えるべき友人を大切にしなければならないし、友情は他と争ってでも守る価値がある。
だが、他者の利己主義の為に争うことは、その争いからなんら利を得ないとしても、利己主義者の仲間入りをすることになる。…… 他人の業《カルマ》で悪者の仲間入りすることは何ともつまらない。