‘2005/05’ カテゴリーのアーカイブ

信仰心の質の低下

2005/05/31

2005年 06月 04日


 今、中尾良知氏の「透視と其実例」を読んでいる。浅野和三郎氏の一連の著作でもそうであるが、中尾良知氏の思想を支える情熱的な信仰心にはやや複雑な心境を抱かざるを得ない。

 端的に言って、しらけるのである。……これは真理云々ではなく、恐らく世代的な問題だろう。 しかし、だ。霊力というのは、霊界の支持と同義語なのだ。つまり、霊界の支持が無ければ霊力の発揮はあり得ない。

 一宗教に肩入れしすぎる浅野和三郎氏を黙殺しようとする心霊家もあるが、彼が多くの霊媒の協力を得て心霊学上に多大の足跡を残せたのは、神道の威力云々ではなく、信じるべきものに注ぐその熱情、すなわち信仰心故ではなかったか?

 以後の心霊家は、この熱情に嘲笑を向けるが故に、献身的な霊媒を得られないのではないか。…… それどころか、信仰心が欠如しているが故に霊媒がその実力を発揮できないのではないか? ……その背後霊たちが、妙にクールなのでは?

 信仰心というと、神仏におねだりすることだと勘違いしているかのような現代。…… そんな信仰心が恥をかく話は良く聞くが、役に立ったという話も聞かない。


人は前世の罪で裁かれるか?

2005/05/31

ガマガエルを殺した罪

2005年 05月 31日

 だいぶ昔の話だが、霊障除去の相談をやむを得ず断ることになった。そのいきさつの説明はあえて省くが、その決意に至ったのは、以下のような霊信であった。

『この者が苦しむのは、前世でガマガエルを殺した為である』

これにはいささか面食らった。ガマガエルを殺したからといって、気が変になるのであれば、牛や豚を食べてどうして無事に済むのだろう?

『生きるためにやむを得ない殺生をわざわざ責めたりしない。ましてガマガエルも虫を食って生きている。だが、この者は姿が醜いからという理由でガマガエルを殺したのである。そんな醜い心を変えることなくどうして救えようか?』

……実は霊障相談中に、「姿が美しい霊とは交信したいが、そうでない霊だけ取除いて欲しい」という条件がついていたのだ。これでは直らないとようやく私も確信した。

 もっとも、こういうトンチの効いた、というか、仰々しい表現方法はどうにも好きになれない。何事も理詰で考えたがる現代人向けにこういう表現を使うことはかえって誤解の元だとも思う。

 むろん先方(霊)にも言分があるようだ。

『仰々しい、ご大層だ……なる批判は理解する。が、超然とした態度でないと、どうも地上との間の低級霊が干渉して困るのだ。いわば、混信を受けても原意が伝わりやすいような表現を選んでいるのだと理解せよ。曲げられるのが厭であれば、硬く作らねばならぬのである。』…… 他に言外の意味もあるが、それを含めて止むを得ないらしい。

 ところで、上記、『前世でのガマ殺し』の話には、(そもそも霊信が充分に正しいという前提が必要だが)再生論上微妙な意図が隠れている。

 単に「前世の罪で苦しんでいる」との表現ではなく、 前世の過ちを未だに正さないから苦しんでいるというのだ。二代にわたって直らぬ悪癖は、(わざと言葉を濁すが)容易には改まらない。そして、私の相談回答体験を通じてしみじみと認識したことは、前世から今生、そして来世にわたる苦しみは、その罪の大小によって決るのではなく、その罪を正す意志の有無によって変るのである。

 これは唯物論者や無神論者に対する私の不信にも繋がっていく……例えば唯物論者や無神論者も、その大多数は善良に生きようと努力していることだろう。これは唯識論者や有神論者にも独善的な人がいるのと何ら代りのない。だが、他が見ている前だけ、善良であろうとすることは人として足りないものがあるだろう。

 善良であろうと努力する人の中には、他に恥じぬ善良さに努める人もいれば、己に恥じぬ善良さに努める人もいる。この二者は区別すべきだと心霊主義者である私は強く思う。

 折角なので、相談者に対して、『前世の……』という霊信があった事例をいくつか紹介しよう。念のために注記するが、これは性格占いではなく、困苦の解消法の一部であり、霊媒の指導が伴わなければ意味のない情報だろう。

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1,自殺者

『前世で自殺している』という霊査が出た人は、根気が足りず、物事をやり遂げようとしない。それはつまり、無責任さを暗示するし、根気がない≒移り気、ということも示す。……相談に乗っていてとても不毛な相手である。痛みが無くなれば通院を辞めて病気を拗らせては又通院する病人のようなものだ。

2,異教徒排斥

『前世で異教徒を排斥した』という霊査が出た人は、正しい信仰を持ち得ない。――それがなんだ、と思われるかも知れないが、つまり他に恥じぬ善良さを持っていても、己に恥じぬ善良さを持つことが出来ない人だということだ。端的にいうと偽善者、または、御都合主義者なのである。

3,神を呪う

 これは前世に限らないが、『神を呪った』という霊査が出た人は、端的にいえば、「恩知らず」、「逆恨みの多い」という、あまり関わるべきでない人間性の持主であることを示す。が、根底にあるのはもっと大きな矛盾だ。

 心霊思想において、神とは主として観念上の存在を指す。日本においてはいささか面倒な事情があって、神道でいうところの神は、観念上と、高級霊との二種類に分別すべきであり、また、高級霊の行動はより忠実に摂理に従うので、見かけ上は観念的な神と同等に扱えるのだが、取り敢ずここでいう神とは、「観念上の神」であり、摂理・自然の運行と読替えてもいい。すると「神を呪う」とは、毎日の日の出や日没にまで文句をいう、独善極まりない性質を表す。

 だが、考えてもみて欲しい。鳥が早く飛ぶことを妨げるのは空気の存在だが、鳥が飛べるのも空気が存在するからだ。…… 早く飛びたいから空気を抜け、といえば、飛ぶことも出来ず、それ以前に呼吸うもできずに鳥は死ぬ。そう、物事は一長一短、作用には反作用が伴うので、どちらか一方だけを得ようというのは大自然の法則に反することだ。……「天に唾する」という言葉もあるが、つまり、神を恨む、とは、不自然な考え、矛盾や葛藤から抜出せないことの意味がある。つまり望みを抱いても果せず、自分の矛盾や葛藤から苦しみ、その原因が自分の中にあるが故に、その状態から抜けられない人を指すのである。

 もっとも、心の時代といわれる一方で、宗教が悪の秘密結社のように扱われる現代において、「神を呪う」人は珍しくもない。


ライバルは誰か。

2005/05/30

2005年 05月 30日


 俗に「君子豹変す」というが、これは、ヒョウが夏毛と冬毛を代えることから、鮮やかな変化を指すのだという。機会があれば動物園でも行って、どれだけ変わるか確かめてみたいものだが、どうにも現代では、獣に変わることを豹変として使われているようだ。……それは際だった変化ではあっても鮮やかとは言えないのではないかと思う。

 まあ、つまらぬ愚物に見えてる人でも、豹変の可能性はある。獣と化すか、鮮やかに変わるかは別として、一時の姿で次の一瞬を想像する事は偏見と変わらない。――偏見を持つことは自分を騙すことである。―― 自分で自分を騙したら何が真実かが解らなくなる。――真実が解らぬ者が、いかなる正しさを持ち得るのだろう?

 むろん、偏見に程度があるように、過ちにも限度がある。……しかし、どれが正しく、どれが間違っているのかが解らなければ、その知りたる事は何の役に立つのだろうか?

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 そもそも大飛躍のためには長い助走、または、勢いをつけるための一時的な降下が必要なこともあり得る。一時の姿で判断せず、相手の将来性を信じることには価値があると私は信じる。……信じるが、信じよとはいわないし、私自身無闇に信じるわけでもない。

ただ、証拠もなく人を悪人呼ばわりせず、論理的な理由も無く人を嫌わぬようにはしている。

 それは別段、自慢するほどのことでもなければ、心霊主義者の特質でもない。人として当たり前のことであろうが、だからといって他の誰かに強いられるものでもない。まあ、あまりに酷ければ相応の対処は出来るが、それはあくまでも浮き世の話題だ。

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 ところで、私は素人心霊研究家(生業は学究ではない)で、兼業霊能者(生業は別にある)で、しかも、見なし宗教家(抹香臭い話ばかりだ)だ。いや、何とも中途半端な肩書きがたくさん揃ったものだが、本音は審神者(さにわ)のつもりである。審神者(さにわ)とは何かというと……まあ、その話題はいずれ改めて行うこととしよう。……要するに真偽を見抜く責務のことだ。それが論理的にどういう意味があるのかについても相応意見があるが、これまた後回しにする。

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 世の中には様々な意見がある。それらの意見を審神者(さにわ)として俯瞰してみる。……私なりの手法で二つに大別する。閉じた意見と、開いた意見だ。

 私のいう「閉じた意見」とは、ゲーム理論でいうところのゼロ和ゲームだ。つまり、一つのパイをどう取り合うかという競争である。得られるものには限りがあり、それ故にこのゲームの勝利とは競争相手からより多くを奪うことだ。……あいつも間違い、こいつも間違い、正しいのは私だけだ、と主張し、そこに未開の荒野に乗り出すという選択肢はない。対して、「開いた意見」 とは非ゼロ和ゲームだ。つまり創造力次第でいくらでも取り分が増やせる…… いわば神との競争である。

 私は思う、心霊思想を語るものは、人ではなく神を相手に努力すべきだと。つまり、他の誰かを貶めるより、より多くを神から獲得すべきだと思う。

 であるから、他人の非を見るより、他人の羨むべき所を我が身に取入れることこそがその第一歩であると思う。


ボランティアは御利益の夢を見るか?

2005/05/29

2005年 05月 29日

「努力がなかなか実にならない」……と思わずこぼすと、師匠や姉弟子たちは、「神様が見ていらっしゃるから、きっといつかは報われるわよ」という。いや、御利益を下さるというものを断りたくはないが、だからといって、志を御利益目的のようにいわれるのはいささか不快だ。

因果応報/因果律……正しい努力が良い結果をもたらすと考えるのが心霊思想であるし、それ以前に、世界宗教の多くもそう教えているのに、どうにも信心深い方々は、そこにわざわざ神様を持ち込む。私は自らの努力を神様に認めて貰いたいのではない。どうしたらよい結果が出るか、その助言を求めているのである。……が、こればかりはしょうがない。師匠も姉弟子も悪気があるのではなく、条件反射的に日本的な慣用句を口にしているだけだ。助言が欲しいのならば、助言をくれと問うべきなのである。

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 表現に注意が必要なため、なかなかご紹介できずにいたが、友人の一連の(自称)愚痴メールがなかなか興味深い。――  とあるボランティア活動を企画して、で、なかなか障害が多くて思わず愚痴がでているという図だ。

 で、まさか私が、「神様が見ていらっしゃるから、きっといつかは報われるわよ」という訳にはいかない。正直そんな受け答えは冗談にならない。……個人的感想で返事を書く前に、ガンガン霊査が降りる状態では。

 私の師匠の霊査などに、「善行は神がさせるもので、人がするものではない」という言葉が降りるが、これはまさしく至言であると私は肝に銘じている。この言葉は、ボランティア活動に熱心な人にとって不快に思われるかも知れないが、いくら志があろうともチャンスに恵まれないとなかなか善行は積めないものだ。むろん小さな一歩を積み重ねるという所から始めるという原則を大切にすればこの限りではないが、やはり世の中にはチャンスを掴んで大きな事をする人もいることに摂理を感じてみて欲しい。

 たとえば寄付をするのにも、環境が恵まれていればこそ大金を贈れる。反対にいくら稼ぎが多い人でも身内に博打好きなどがいたら、寄付をしたくても身内の道楽に皆喰われてしまうかも知れない……個人の志が無駄だというのではなく、善行が結果をもたらすのにも、やはり神仏の加護が必要なのだ、というのは人が心得るべき大切なことだと思う。それを忘れることは、支配霊無しで良い霊媒になろうとするようなものだ。つまり心霊家として落第である。

 ……だから、善行を積もうと努力している私、または、友人らが、うまく行かずに悩むことに、なおさら他者から、努力だけを褒められると不愉快になる。……善行の最高の報酬は、神様から認められることではなく、相手から喜ばれることなのだから。次善の御利益で誤魔化されるなら、お前の努力は無駄だといわれるようなものだ。

 それにしても、日本の精神風土には大きな問題を感じる。「お年寄りは大切にしよう、小さな子には親切にしよう」 ……だが考えてみて欲しい。あなたなら、「ありがとうという立場」と「ありがとうといわれる立場」の、どちらに立ちたいか?

 せっぱ詰まった状況でない限り、お年寄りや小さな子供だって、ありがとうと言われたいと思うものだ。どんな病人やけが人、そして心身・境遇に各種の障害を持つ人も、ありがとうと言われたいのである。そして、他にありがとうという機会の多い人ほど、出来ることなら、ありがとうと言わずに暮らしたいと願っている。――そういう人々を喜ばすことは難しい。簡単に喜びそうな人ほど、実は喜ばすことが難しいのである。……でも、なぜそんな難しい相手を喜ばせようとしたのだろうか?

 ここで私は爆笑しそうになる。ああ、神様っているものだ。……いや、侮蔑の気持ちはない。

教えられているのだと思うのだ。真心の真意と、人をもてなす心のなんたるかを。

その理屈ではなく、実践の機会を与えられているのである。これは得難い。

 これは人であれば、誰もが知っておくべき事だが、だが、しっかりと学ぶためには、それこそ天機《チャンス》を必要とすることである。 ……で、その努力は、神様の褒め言葉の代りに現実的な利益として返って来るのも、誰もが望めることではない。…… 要するに客商売をしている人でなければ出来ない修行であり、見返りの乏しい修行であるということだ。

 ところで、「ありがとう」という日本語は、漢字では「有り難う」と表記するが、これは当て字でなく、そのままの意味だそうだ。つまり、有り難い=あり得ない……幸運であるという表現なのだ。ならば親切があまりに多いと、有難くなくなってしまう。

 あれ、すると、困っている人に親切にすることは、それは「有難い」ことなのか、それとも「当たり前」のことなのか?

 ……言い出しながら反則的ではあるが、どうでもいいのですよね。「ありがとう」の言葉の行方は。

 人の真の強さが、どうか、こうかだって、同様。

 最後に必要なのは……時間切れ。


 05年 06月 04日

 某社会奉仕をもくろんだ某友人は、某社会奉仕の完了後、思わぬ幸運に恵まれたそうな。……ここに人間の器量が分かれる。配偶者との間の会話で、片や、努力がすぐ報われることに不安を感じ、片や、自分を信じて当たり前だと宣《のたま》う。…… 単なる視点の相違とは思わない。そもそも、真相解明の糸口は二つの事例の差分から得られることも多い。一心同体の配偶者の筈が、その体験にかくも差が生じる。その差をもたらしているものが何であるのか、大切なことである。

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 双方の意見は、それぞれもっともだ。強いて言えば、「当たり前」という見解は、平均的な心霊主義者にとって傲慢に思えるかも知れないが、そもそも人生には、外に向かって伸びるべき時と、内に向かって充実を図るべき時がある。それを見極めた上で判断すれば、どちらの意見が正しいと言うことはなく、ただその時期かどうかが問題だと言える。

 ビールやジュースの製造業者は、初夏を迎えれば増産に入るわけだが、ここで遠慮しては儲け時を失してしまうだろう。大切なのは、時機であって、その態度ではない。時機に関わらず態度を選ぶのは、インスピレーションを無視する心霊家だ。つまり、ナンセンスである。

 もっとも、物事はそれほど単純ではない。誰もが経験のあるように…… 走り出したら止るのに苦労をするものだ。例え、チャンスが目の前にあっても、引き際をしくじればもうけはすべて吹っ飛んでしまう。そこまで考慮すれば往々、慎重であるが故に失うチャンスと、積極的であるが故にしくじるリスクとは等価ではない。はっきり言って、慎重な者ほど最後に笑えるのである。

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もろもろの事情を勘案して、私は敢て言う。

臨機応変――状況に合わせた態度こそが求められるのである。だが、マナーやエチケットという言葉に縛られている人々は応変ではあっても臨機がない。一方、臨機を気取る人々は、融通が利かずに応変できない。

幸運を恐れるよりも、幸運を期待することこそが、人として恥ずかしいのではないか?

 ならば、幸運に恵まれたら、素直に喜べばよいのだ。ただ、運気が変わったときには素早く亀のように手足を引っ込める覚悟を持つことだ。


強くあるには

2005/05/29

本当に弱いのは誰か?

2005年 05月 28日


「人生は霊性向上の修行の場」であるとは、多くの心霊思想が等しく標榜するところです。

――だからといって地上で一生懸命、色々な本を読んで勉強なさる方もいらっしゃいますが、教科書を開くのは休憩時間にすべきです。現場で座学は似合いません――

 修行の場とは、つまり行うことに意味があるのです。……でも、不幸にしてやり方を前世に失念してきたら?…… 誰かに尋ねなければなりませんね。

――心霊思想的に考えて、ここで大切なのは、前世で知らなかったことを今生で理解し、利用することの難しさです――

さて対人関係上の相談を受けていて、相談者からの気になる言葉を聞きました。

『相手は心が弱いが、プライドがあるから隠している、きっと本人も気付かないところで相当に追い詰められているだろう。これ以上追いつめると何が起こるか解らないから、難しいね』

相手が弱いなら? 

 人間の性質の一つに、「未知の物を恐れるが、取り敢ず原因を特定すると安心してしまう」というのがあります。これが心霊家にとって最大の敵で、その事は有名な川柳が表しています。

「幽霊の正体見たり枯尾花」

 幽霊だと思ったら、ススキ(枯尾花)であった……という、身も蓋もない川柳ですが、ススキのない場所でも幽霊の目撃談があります。これは読手の恐れと、その解決を表す川柳ですが、往々、心霊否定論の一つとして用いられます。更に滑稽なのは、たかがススキにも怯える、その小心さは解決したのでしょうか?

 原因を特定して、それで話をおえる。しかし終らせていけない話もあります。それが即ち、思案のしどころというわけです。

 特に対人関係というのは、一方の非だけで問題が生じないことにも留意すべきです。特に人間の強さ・弱さは相対的なもので、相手への印象は往々、自己評価の裏返しです。つまり、相手を弱いと見るのは、自分を強いと見るのと均しい。窮鼠猫を噛むといい、相手を追いつめてはいけないというが、それは鼠に対して猫の如く振舞うから噛まれるのであって、猫に対して鼠のように振舞うという解決策もあるはずです。

 つまり、相手が弱い人であり、弱いからこそ強がるのであれば、相手より更に弱い人間として振舞うことで、後腐れのない問題解決の道が開けるかもしれません。

 ところで、いにしえの戦略論に、「四路五動」という考えがあります。つまり、選択肢は前後左右の四通り(四路)あり、それ故に取るべき行動には、五通り(五動)あるのです。

――そう、弱者には五つの選択肢があります。

前,向上努力をする。

後,現実逃避をする。

左,弱者であることを利用する。

右,単に強がる。

止,何もしない。

 しかし、動きとしての「止」と、動けない「止」は意味が違います。なにより主体性の無い動作は、相手に操られているのと変りありません。つまり、相手が弱くても、その弱い相手に打つ手が無くて身動きできないのであれば、あなたは弱者に支配されているということになります。

 つまり相手が逃げ、しかもあなたが追えないのであれば、それは「相手の勝ち」 ということです。

 誇り高き勝者は誰でも演じられます。しかし、誇り高き敗者は真の英雄のみがなり得ます。また、真の弱者とは自分の弱さを認められぬ者で、真の強者はみだりに自分の強さを示しはしません。

 つまり、相手が「弱い」と見たら、為すべき手はただ一つであると私は思います。

相手の更正を願う?

 窮鼠猫を噛むと申しますから、相手を追いつめすぎないのは大切なことです。また、困っている人を虐めないのも大切なことですが……

『この事件が、私の成長の糧となり、また、彼の更生につながることであって欲しい』

――ええ、そうでないと後味が悪いですよね。でも――


 人は成功から知恵を失うこともあり、失敗からも学べます。また、増長を正す一番の薬は失敗ですが、薬も過ぎれば毒となり、その処方は正直、人間の才覚では施しようもありません。つまり、相手の更正など人が望んで得られるものではありません。しかも……

相手は弱い、相手を更正させたい』……無意識に相手の弁護をしていませんか? しかも解決に必要となる具体的な智慧が出ない。それはこの問題の解決を阻害しているが、実はあなた自身であることを暗示しています。

 問題が解決できないことを見越して、自分を慰めるためのいいわけを用意している。しかも、 解決策に頭を使わず失敗後の対応に頭を使っている。これでは少なくとも、解決の手を打つ前に精神的に敗北していることだけは間違いありません。

 それはつまり、相手の向上以前に、あなたが向上すべきだということです。

真の強さとは何か、もう一度考えてください。


真の強さを求める。

2005年 05月 29日

たとえば勝率が50パーセントだとします。

一回しか争わなければ全勝(又は全敗)です。

二回争っても、25パーセントの確率で、全勝が可能です。

でも百回争えば五十回は負けます。

さて、一生一戦の人と、一生百戦の人では、敗北の数にどれだけ差が出るでしょうか?

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つまり、勝敗数は、人の強弱よりもむしろ、闘争数と関連があります。ところが往々人々は、勝敗の数を決めるのは、その人の実力、強さの差であると信じているようです。そして無駄に争い、必然的に敗北数が増えるのです。……極端な話、戦わなければ敗北もありません。

むろん、人生には挑戦も必要です。競わず、戦わずという人生も最後には後悔に押しつぶされるやも知れません。しかし、「ただ勝利感を味わいたいがため」に、または、「敗北感を紛らわせるため」に、そして「、現実逃避の手段」として人と争えば、無駄な争いが増え、争えば敗北の可能性も増え、結局、惨めさから現実逃避の為の争いを繰り返す、という敗北の悪循環に陥ることになります。

争い事に際して、ある人は「結果」を重視します。別なある人は「相手に勝つこと」を重視します。……  一体どちらに無駄な争いが多いでしょうか。

何が無駄で、何が必要なことなのか。――相手に勝てば恨みを我が身に引き寄せます。では結果はどこに行くでしょう? 同じ恨みを我が身に引き寄せるなら結果を重視なさるべきです。

勝利感を味わいたい、相手をいたぶりたい、という内部(魔)の誘惑に勝つのはとても難しいものですが、でも、無駄な争いは自らを不幸にします。だからこそ、こういう格言があるのです。……

「外の敵には勝ち易く、内なる敵には勝ち難し」

争わないことが勝利の秘訣だというのではありません。また、争わないことで敗北数を減らすというのは数字遊びとも言えます。考えていただきたいのは、「無駄な争いが多ければ負けが多い」……つまり、無駄な負けが多い、ということです。そしてわざわざ、無駄な負けを増やしているようでは、勝つことなど思いもよらないということです。

勘違い・思い違いは敗北の原因となりますが、正しい認識だけで勝利できるとは限りません。……つまり、努力だけでは勝星は上げられませんが(才能が大切)、無駄な敗北を減らすことは努力だけで出来るのです。

無駄な負けを減らす努力無く、勝率を上げられるというのでしょうか。

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類似の問題で、「金儲け」を考えてみましょう。

神頼みで金持ちになりたいと願う人は多いものですが、そういう安易な発想の持ち主は、節約の大切を知りません。いくら収入が増えてもそれ以上に出費が増えれば、ますます貧しくなります。しかし、浪費したいが為に金を欲しがる人が無駄遣いを耐えることができません。

たとえばあなたは、砂漠に水を撒く仕事を楽しめるでしょうか?

反対に、ケチな人の祈りなら……

 どうせ水を撒くなら、肥沃な土地に撒く方が、やり甲斐がありそうですよね?

そう、無駄の多い人ほど神頼みを強く求めるが、神様だって無駄な仕事はやりたくないと思うのですが…… ねえ。

己に勝てない人なら、天の加護だって避けて通ります。


友情は争ってでも守る価値がある。

2005年 05月 30日

責任を持つべきは、己の言動であって、他人の誹謗中傷にまで責任を持つ必要を感じない。―― 他人の嘘・デタラメに騙されたとしても、己の言動に責任を持つべきであって、他人に責任を押しつけようとする人はどこまでも卑怯な行動を取る。

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友人から、対人関係の相談を持ち込まれた……それを発端としてブログ上で公開したのが、「真の強さを求める。」と「本当に弱いのは誰か?」だが、私としては無駄な争いを避け、本当に必要なことに全力を挙げて生きようとしているのに、家族・友人・知人にトラブルメーカーが多ければ、周囲の人々を大切にすればこそ、自分の人生に無駄が増えて勝率が上がらぬという滑稽なことにもなる。…… 家族との縁は天の定めたものだから、滅多に断ち切れるわけではないが、選ぶべきは友人だ。

と言って、悩める友人を切り捨てよというのではない。……腕試しや利害、そしてワガママから争い事を起こす人を遠ざけるべきだと思うのだ。

多くの人は善悪を、利害や好悪で決めようとする。手段を選ばず、道理を曲げ、恥を省みずに「利己」を追求する者にどう対処していくのか。不正に負けることは人としての尊厳を傷つけるものだ、だからこそ手を携えるべき友人を大切にしなければならないし、友情は他と争ってでも守る価値がある。

だが、他者の利己主義の為に争うことは、その争いからなんら利を得ないとしても、利己主義者の仲間入りをすることになる。…… 他人の業《カルマ》で悪者の仲間入りすることは何ともつまらない。


迷惑なる者への心構え

2005/05/28

 なにやら、人の為す事にイライラとなさっているご様子。それを見て叱ろうなどとは考えておりません。ただなるべく心穏やかになさいませと、ご意見申し上げます。

 人が何ゆえにこの世に生まれいずるかといえば、いうまでも無くそれは未熟さを克服するが為。その第一歩がまず、己の未熟さに気がつくことであることを知れば、世の中、己が欠点に気が付かない迷惑なる人が多いのは、腹を立てるまでも無くあたりまえの事。

 かように未熟者が多い世に、生まれ出るにおいては、腹立たしき事もさぞかし多き事でしょうが、それを覚悟でお生まれになったことは常に身命に刻み込んでいただきたく思います。苦労は避けがたく、逃れがたいが、決して乗り越えがたくはありません。

 向上の第二歩目が、己の未熟さの克服であれば、素人もまた、素人なりに己が才能を発揮したいと思わざるを得ず、してみれば、未熟な話、未熟な才能に突き合わされて辟易ともなさいますでしょうが、これもまた地上の生の特色であります。

 未熟なる者との付き合いは、いわば霊界が徴収する税金のようなものでして、未熟者には手厚く指導がなされ、向上を果たすほど、より未熟なる者の世話が肩にのしかかるのは、この世の摂理に他なりません。それによりて御神命が損なわれては一大事ですが、あまり神経質には成らぬようにお心やすくお願いいたします。

 だれもが、自分なりに満足の行く人生を歩みたいもの。未熟な者が指導を嫌うのは、それが自分の向上につながらぬがゆえ。また、巧みなる者が未熟者を嫌うのは、それが足手まといなため。それぞれが自分の技量に見合った環境を得れば、おのずと住む世界も分かれて心地よく暮らせるようになります。

 迷惑な者を退け、清々と気持ちよくお過ごしになりたいのは、誰もが同じ事でしょう。しかし、地上は兎角狭苦しく、住む世界を分かつまでにも肘も当たれば、足も踏みます。入れ替えには時間がかかるがゆえに、少々の狭苦しき思いや、面倒ごとは寛大なる気持ちでお許しください。何も成さぬのではなく、後に恨みの残らぬように、様子を見ながら勧めておりますゆえに。

(2003年5月27日)


再就職が決まらない

2005/05/28

あわてるな!

2005年 05月 27日


 「再就職が決まらない」と泣きつかれた。――それは大変な事だが、この不景気の折、どうにもならない。多少景気が持ち直してきたということだが、日本の企業はまだまだ生産性が低すぎる。いわば潜在的なリストラ要因が多分にあるのだ、お手配もなかなかつけいる隙がない。

 これは当人にはとても言えないことだが、引っ越しをしなければ良い仕事があったのだ。えり好みする人は往々幸運を逃す。これを貧乏癖というわけだが、ではそれをどう直すか、と、今問われても困る。人生を支配する要因は決して一つではないし、自分の都合だけで物事は決まらない。時として、自分にとって都合の悪いときに、その他一切の都合がうまく合うときもある。

天に任せる生き方でないと、なかなか効率よくは生きられない。

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テーマは違うが、本件へのやりとりをかいつまんで説明する。

Q 「求人に応募しても、なかなか面接までに至らない。一生懸命やる気があるのにチャンスをくれる人がない。このまま失敗が続くと、断られるのが怖くてうつ病になりそう」

A 「とりあえず、配達のアルバイトでも探しなさい。土地勘が養われるし、色々な商売の裏側を覗けて商売の勉強になります。今すぐ良い仕事に就こうとするから難しいのであって、この機会に社会勉強を積むならいずれ良い仕事が見つかります。いきなり良い仕事を求めるのではなく、今、ここで色々な経験を積むことで近い将来、より良い仕事につけるようにと努力と工夫をすることです。大きな一歩を目指さすから、動けなくて苦しいのです。小さくても一歩を進めなさい」

…… 種も蒔かずに刈り取るのは摂理に反します。

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 オフ会の参加者に繰り返しいうことは、「結果をあわてないこと」……そして、時折寄せられる質問に対する回答も又、「あわててはいけません」だ。こういう注意ばかりでは、彼・彼女も内心で「うつ病になりそうだ」、等と思っているだろう。

 いや、もちろん責めているのではない。

 「尊敬しろ!」と、言われても尊敬できないように、「我慢しろ、焦るな」といわれて、「ハイ、そうですか」と心をなだめられるのならば、それは物凄いことだ。それが出来るなら、私などに精神統一の指導を受ける意味がない。むしろ私が指導を受けるべきだろう。

 すると、「こういう時のための精神統一ですよね!」……と切り替えされる。なるほどそういう内容の霊界通信もあるが、その発想は「霊学」的だ。生きている人間には、肉体的な要素がとても大きな影響を持っている。心の働きだけで心を止めることはまず不可能だ。だからむしろ、軽くスポーツをし、風呂に入り、一時間で良いから寝る方がよほど心が落ち着く。

 真の心霊学に至るためには、霊の前に心、そして心と密接な関係にある「肉体」の心に与える影響をよく知る必要がある。

 焦りの衝動は、物理的な限界と寿命を持つ肉体がもたらすものだ。従って、生きている人か、低級霊しか焦りはしない。いわば焦りに従うことは低級霊に迎合するのに等しいのだ。焦るときほど冷静に過ごす努力は、実は物凄い除霊効果がある。

 いささかやっかいなことに、物事が霊界の助けを得て順調に流れ出すのは、焦りの感情で人をそそのかす低級霊が去った後なのだ。

 だから、守護霊や高級祖霊からの通信を中継する霊媒は、繰り返し「あせるな!」という。だが、下手にその理由をいうと、低級霊がムキになって居座るから、「それが一番の低級霊除霊法なのです」とは言わない。……いや、私がバラしたが。

 従って、これを読んだ人は、その対策を心がけなければいけない。

 ……自分が後回しされるのは、残り物に福があるからだ。「どうぞお先に」の気持ちを大切にしよう。

 ……自分が焦るのは、心が下を向いているからだ。私は理想と真実に目を向けよう。

 ……信じても辛いのは、方法を間違えているからかも知れない。自分のやり方を反省してみよう。

・・・・・・・

 いずれにしても、この世界はたいした出来映えじゃない。といって、文句だけで是正させられるほど、人は立派な存在じゃない。足りない分は、工夫と努力で補うしかない。

 最後に笑うのは、出来る努力をした者であって、不平不満で時間を潰した奴らじゃない。

 あわてるな! ちょっと工夫すればもっと幸せになれるさ。


心霊用語の使い方について

2005/05/27

2005年 05月 27日


 心霊研究は主として霊媒を通じて行われる。したがって、心霊用語全般は霊媒の主観の影響を受けやすい。また直感勝負の霊媒は往々、同業者と没交渉になりがちで見解の統一がとりにくい。

 たとえば人間を護り導く、いわゆる「背後霊」の定義についても、守護霊や祖霊などといった、守護の霊一般を指すのが普通だが、往々、憑依霊などを指して背後霊という霊媒もいる。

 こういう用語上の揺らぎに神経質なのは非霊媒・霊媒との関係が疎遠な研究家だ。なるほど霊媒毎に異なる基準を利用されては、分類に難を来すのは目に見えている。だが根本的な調査手段を欠いたまま心霊研究をすれば不都合が生じないはずもない。……つまり、表現に揺らぎがあるのは、調査対象の分類が難しいからに他ならない。その分類そのものを霊媒にゆだねて研究するなら、それは心霊研究家というより、霊媒の秘書でしかない。

 そもそも親切であるからといって高い能力を持っているとは限らない。世間でよく見るように、物事を教えたがる者は、往々知らないことを知ったかぶる傾向もある。

 また、高い能力を持っているからといって、それが有益とは限らない。素樸な疑問を専門家に質問したら、回答があまりに高度すぎて理解できないという話もよく聞く。……むろん、相手に応じた回答能力も専門家に要求される技能の内だが、往々、質問者は見栄を張って素朴な質問を難しく問い、かくして難しい答を与えられがちだ。

 善意の霊や強い霊が、その庇護者にとって好都合をもたらすと限らぬ以上、率直な霊媒の意見と、実際的な観察結果と食違うことはなきにしもあらずだ。

「いや、一流の霊媒ならば、それぐらい」……そういう考えを机上の空論という。バカとハサミは使いよう。適材適所に道具を使えぬ者が、良い道具を手に入れたとして使いこなせるかどうか。プロは素人に自分の道具を貸さない。…… 道具も人を選ぶ。

 心霊用語の統一は、むろん必要なことだ。そのためには個人の研究家ではなく、多くの霊媒を有する団体組織がこれに当る必要がある。が、その事業に見合う実力を持った心霊研究団体は未だ無い。


先祖供養について

2005/05/26

2005年 05月 26日


 昭和初期生れの私が師は、くどくどと「先祖を敬え」と口にする。だが、「敬いなさい」と命じられて、人は尊敬の念を抱けるものか? 抱いたとして真心が籠るものだろうか?……などと口にすると、「全くお前は頭でっかちで!!」と、叱られてしまう。

 私も真意は理解しているつもりだ。多くの人々が、神仏・祖先を軽視し、関心を抱かず、無関心であるから敬うべき点も見つからないという悪循環に陥っている。……むろん先祖供養などしなくても大抵の場合、生活に支障は生じないし、一方で、ヘタに先祖供養に関心を持つと、開運産業の食い物にされるのがオチだ。

 更に、一霊媒として意見をいうなら、先祖供養の念を抱くとめったやたらに自称・祖先の数が増えてしまう。それが困る。「ニセ先祖を見抜けないのか?」と嗤う人もいようが、見抜くことに実務上の意義はない。……真っ当な人格の持主ならば、供養されなくとも肩をすくめて立去るだけだ。だが、嘘までついて供養せよ、という霊をほっぽり出せば、復讐心に駆られて祟りを為すだろう。 実際、私の廻りにはほっぽり出されて逆恨みする霊・人が大勢いる。

 心霊的(霊的ではなく)な先祖供養を志すなら、単に尊敬の念を抱くだけでなく、相応の環境設定が必要なのだ。…… それは人前や往来で食事をしない、といった程度の心得だけで足りるはずだ。つまり、苦しみから逃れたい霊が大勢いる場所で、自分の祖先だけを特別厚遇しようとするから自称・祖先が集るのである。まずは祖先の霊と静かに交信できる環境を作っていけば、自ずと祖先への愛情と尊敬の念が生じ、尊敬の念が生じれば、お墓も仏壇も、立派ではなくても相応にこぎれいな物を揃える気分にもなる。当然、お墓や仏壇が汚れていれば綺麗にしたくなるのも自然な流れの一部だ。

 その家庭がよほど信仰心と尊崇の念が篤く、充分に心・霊的環境が整っているのであれば直ちに先祖供養に飛込んでも何ら問題ないだろう。その事は我が師匠の信仰生活を見てそう思う。…… 恵まれた環境にいる人から叱られてもなあ、などと口にするから、またまた叱られもするが……だが、その環境が出来ていない人は、慌てるのは危険だと思う。


先日、(霊媒信任の)ジレンマにおいて、祖霊とのコミュニケーションを話題にした。……それを読み返すと支離滅裂な感が多分にあるが、それはさておき、本件について問い合わせがあった。

Q 「私の先祖のことでしょうか? 先日のオフ会のあとも、疲労(肩が重い、頭痛)がきてしまい、次の日も後をひいてしまいました。」

(霊媒信任の)ジレンマ」で取り上げたのは別な方です。しかし、一般的な問題でもあります。その為、多くの方が当て嵌まるものを感じられたことでしょう。

発言の機会を窺う霊が憑いていると、大抵、不眠や緊張等の症状が現れます。

(だが、不眠や緊張の症状のすべてが霊障とは言えない)

又、心霊を勉強し始めると、一・二年は、霊障を受けやすい……助けを求める霊が集まりやすくなります。

そもそも強固な憑依は、同化の結果……すなわち同じ性情で結びついてしまうことですが、心霊初心者と救いを求める霊との間には、「結果を焦る」という共通の性情があります。とくに問題となるのは、「結果を焦る」心理が、往々、妄想や勘違いの引き金となることです。つまり、ついつい自分に都合の良いように問題を解釈してしまうのです。

真の修行・勉強は、この状態を脱した後、すなわち、自分を客観視出来るようになった後に始まります。ここでいう自分を客観視、というのは常に、ではなく、必要に応じて、であることにご留意下さい。

なお、あなたのストレスは霊的な影響4分で、残り6分は他メンバーへの遠慮が原因かと思われます。端的に言えば、遠慮がある/とけ込めないものを感じている……のでしょう。

当サイトのオフ会参加時に留意すべきは、壁を手探りすることよりも、むしろ壁にぶつかった後の態度にあります。「これやめて」といわれたら、笑って「ごめんごめん」で、方向転換すればいいのです。スピンアウトしていくのは「ごり押し」をする人です。


似而非《エセヒ》

2005/05/25

2005年 05月 25日


似而非《エセヒ》……似て非なるもの

インターネット上には無数のホームページがある。関心・無関心の差によって、アクセス数の違いはあれど、扱われる情報には、それぞれに価値や意義があるのだろう。……だが、乱立すればそこに競争が始まる。その競争の中には、往々、似而非的な議論が見いだせる。

 

発端

……たまたま、ネットサーフィン中に浅ましいサイトを見つけて批判めいたことが心中に浮かんだが、背後から叱られてその話題は辞めることとする。なんとなれば、批判は下品、ケンカは愚か、ただ黙って己を世に問うべしと言うのがわが背後霊の指導方針だそうだ。

……対人・金銭問題に悩む某氏に、本日午前中に返事を送ったが、どうも充分に理解していない様子。補足を送るべきと文案を練りつつあった私の耳元に『自分で考えることも大切。今理解しないからといって甘やかすな……』と聞こえる。 私はどうも、水を遣りすぎて花を枯らすタイプだ。

 

主義・主張

 当サイトが配付したいと思うものは、知識ではなく知恵だ。そして、知識とは「知ること」であり、知恵とは「知を生む力」である。

 多くのサイトは、知識を与えてくれる。それはつまり、水を与えるのに例えられよう。対して、知恵を与えるというのは、知識を生み出す根源、つまり、水源たる泉を与えるのに例えられる。

 私は、知識ではなく、知識をもたらす知恵を伝えたいのだ。

 ……いや、私もまだまだ未熟で、知恵を与えるつもりが知識を与えて悦に入る場面も多々あり、叱られ、反省しながら日々を過ごしている。

 

広告・宣伝

 知識の優劣を論じるのはナンセンスだ。山ほど在庫を抱えていても、売れるのは顧客が必要とする商品である。すなわち、需要の多い知識であれば、多くの人々から求められるだろう。だが、需要のない知識は、他と比べたり、宣伝・脚色が無ければ人々の関心を得もしない。

 何事にせよ広告が必要であるとしても、他と比較するような浅ましい宣伝までが必要となるのは、その程度の価値しかないからだ。――情理に訴える程度の価値しかないのだ。

 では知恵はどうか?……より大きな知恵が好ましいのは言うまでもないが、いざという時、せっぱ詰まったとき、己を救うのは智者の知恵か、己の知恵か?

 

知恵の功罪

 人は己の思いつきに騙されもする。だから己の知恵が生み出すものと、一般常識としての知識とくらべる事は大切だ。

 だが、知識が正しいとも限らない。……知識の良否を見抜くにも知恵が必要だからだ。

 大切なのは、知恵と知識とを上手に扱うことである。

 

知識偏重の嘘

 としても、知識は一夜漬けが効くが、知恵は一夜では身に付かない。

 知識は受売りも出来るが、知恵は受売りできない。

 世の中には、知恵と知識を比べて、知識を大切にする人も見受けられるが、容易に偽装が可能なものを尊ぶ人を私は信じる気になれない。

 

似而非

 似而非が横行する現代――そんなにも己を虚飾したいのか。自ら考えることを辞めてまで、先人の知恵を尊ぶのであれば、その心のあり方は亡者でしかない。

 考えよ! 考えることを楽しめ! それこそが永遠不滅の生命のありかただ。


お知らせBy老神いさお。

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