‘2005/04’ カテゴリーのアーカイブ

責任論

2005/04/20


 

  それは誰が為すのか? そして誰が止めるべき事か?


   とある霊がかく語る。

『負けることと、悪しき行いとどちらが恥ずかしいことだろうか?

 相手がある事なら、優劣・勝ち負けは避けがたい。

 だが、悪しきことは、自らの努力で止めることが出来る。

 嫉妬、憎悪、執着……そして強欲。

 それは誰が為すのか? そして誰が止めるべき事か?

 為すべき事を為す。それこそが人間であるということだ。

 為すべき事を為さぬのは、人間をやめるということだ。』


‘, ”, 1, 5, 0, 21, ’2005-04-19 00:00:00′, 63, ”, ’0000-00-00 00:00:00′, 0, 0, ’0000-00-00 00:00:00′, ’2006-04-11 23:43:23′, ’0000-00-00 00:00:00′, ”, ”, ‘pageclass_sfx=\nback_button=\nitem_title=1\nlink_titles=\nintrotext=1\nsection=0\nsection_link=0\ncategory=0\ncategory_link=0\nrating=\nauthor=\ncreatedate=\nmodifydate=\npdf=\nprint=\nemail=\nkeyref=\ndocbook_type=’, 1, 0, 19, ”, ”, 0, 1939),

「いつも一緒にいます」

2005/04/18

「いつも一緒にいます」

2005年 04月 18日


 横浜オフ会(4月9日)の霊査事例中に「いつも一緒にいます」――という霊信がありまして、その受取人より、「これは守護霊からのメッセージと受取って良いか」、との問い合せがありました。

 端的に答えれば、守護霊からのメッセージと受取って良いのですが、もう少し深みをもって読んで欲しいとの霊信を受けました。

・・・・・・・・

『守護霊であるなら、いつも付添うのは当然の義務です。実際には、守護霊にも様々な仕事があり、出掛けなければならないことも多いものですが、それはたいした 問題ではありません。そもそも、人が死して一番に戸惑うのは、死後の世界の何とも便利なことです。どこかを訪ねるにせよ、一瞬でたどり着けるのですから、 一時、傍を離れるなどというのは、単に視線を外す程度の意味合いでしかありません。……そうそう、夫婦が死後に別居するなども同様です。生きている時に四 六時中視線を合わせている夫婦があるでしょうか? 生前に視線を外すことと、死後の世界で別居することはほぼ同じ事なのです。

 もちろん、守護霊の職責にあろうとも、庇護者を四六時中見つめ続けていることは出来ません。なにより大切なのは、庇護者が決して躓かぬように、先々に気を配ることなのですから、見つめ続けては役割が果せません。

 ここで私が、「いつも一緒にいます」と表現したのは、もっと深い意味があります。守護霊と庇護者とが、死と生という二つの境涯でバラバラな生活を続けるのではなく、「私(守護霊)は、常にあなたに語りかけているよ、共に息と歩調を合わせて、一緒に前に進めるように、努力しているよ」 と伝えたかったのです。

 同じ目的を持っていながら、それぞれがバラバラに努力するのは、大きな間違いなのです。いくら守護霊や祖霊の助けを得て生きていても、あなたが孤独感に苛まされているなら、守護霊がいないのとどう代りがあるでしょう!

  すぐ傍に、守護の霊や、祖先の霊がいて、何とかこの子を助け、導こうとしているのに、それに気がついて貰えないのは寂しいことですし、私どもが傍で見守っ ているのにも関わらず、その子が、他を妬み、恨み、憎み、不平不満の中で心を穢していくのを見るのは、とても、とても情けないことなのです。

 どんなに素晴らしい信仰を持ち、どんなに素晴らしい指導者を得ても、あなたの心が清く正しい方向に向かわなければ、それは躓きの元となって、あなたの助けにはなりません。――でも、今のあなたはもうすぐ私の手に届かんとしております。

 あなたには私がついております。手を携えて、正しき道を、胸を張って歩みましょう。共に……』

・・・・・・・・

 眼に見えるものを風景と思うか、問題解決の糸口と見るかで、人生は大きく変わってきます。

 守護霊がいつも傍にいる。――それも大切なことかも知れません。でも、なんのために一緒にいるのか、それはもっと大切なことです。知って終わるのではなく、知ることが始まりなのです。

 すべては始まりの始まりなのだ――そういう視点が得られてこそ、永遠の大道を歩むことが出来るのです。


再・「いつも一緒にいます」

2005年 04月 26日

 オフ会参加者への霊査で、「いつも一緒にいます」という霊査を受け、その解説はすでにしました。 今回改めて取り上げるのは、いささかつっけんどんな返答となった、”『どうでもいいじゃないか』という答”の別視点です。――つまり、異なる相手に向けた回答であると同時に、普遍的な問題でもあります。


「私たちは、いつもそばにいます。あなたを励まし、癒し、そして時には諫めて、あなたが良き人生を歩めるように常に働きかけております。でも、あなたは、常に孤独を感じ、苦悩し、そして庇護者の手応えを求めて、つい、危うい行動に走ってしまいます。

 あなたが心静かに、そしてひたすら私たちを思っていても、なかなか絆を感じることが出来ないというのに、心すさみ、忍耐を失い、素直さを忘れて自暴自棄になっていては、どうして私たちとの絆を感じ取ることが出来ましょうか?

私たちの手を握れないのは、あなたが反対を向いているからです。

あなたが何よりも助けを欲している時は、何より助けを与えにくい時なのです。

 助けを求める――その後もまたあなたの人生なのです。助けを求めたからといって努力を放り投げて、辛いのはあなたなのです。』


 この一連のやりとりは、「愛」についてが引き金となったものです。

自分を大切にする心と、人を大切にする心とが、きちんと対照していることです。その対照に歪みがあれば、何らかの欲念、正しくない想念の働きがあなたの判断に作用していることが窺われます。

他を愛することは、他から愛されることと対照していなければなりません。つまり、正しく相手を愛することは、正しく相手から愛されるということなのです。 (注:片思いは反例になりません。特別な関係、という独占欲の働きは、相手から反発を受ける要因だからです)……それがつまり、滅私の意義です。守護霊・高級祖霊もまた、あなたを愛しますが、あなたの心の働きが鈍ければ、そこに対照、すなわち相互に好影響を及ぼすことが出来ず、守護霊・高級祖霊はあなたのために充分な働きが出来なくなってしまいます。――絆が大切な所以です。

 これは、滅私の姿勢にも当てはまることです。あなたが懸命に滅私しても、周囲の人々がそれを利用して喜ぶだけであれば、あなたの「滅私」には歪みがあるということです。あなたが「滅私」の奉仕を得られなければ、つまりあなたの滅私は幼稚であるか、まがい物であると考えなければなりません。

 より深い愛を日々育てる努力、その努力も又、愛という言葉の中に含まれているということです。

 あなたが愛を受け、また、滅私の奉仕を受けられるようになるまで、あなたが愛を与え、滅私の奉仕を続けること、それが、あなたが愛の意味を知るという過程なのです。

 あなたが、日々を素直に生き、素直な愛を育てられますように祈念いたします。

 素直――という事が、愛を語る上でどれだけ重要な役割を果たしているか、あなたは心の痛みと共に理解を始めていらっしゃることでしょう。ですがその痛みを責めとは思わぬ事です。本来ならば棄てておくべき執着心を、今、手放す。いわば昔の過ちが育てた痛みなのです。今まで自覚せずに苦悩を抱え込んでいたのです。そろそろ棄てても良い頃です。


霊査事例: 2005年4月16日(東京オフ会)

2005/04/16

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


事例1

『投げ出して、でも雑にしない。自由とはそういうものです。』

気持ちが安定し、自信も出てきて、自立心が育ってきました。それは結構なのですが―― 『ご主人の前ではもう少し女性であることを意識しなさい。それもまた傲慢の一種です。』

『信仰心を持つこと』――先祖供養がうまく行っても、油断なさらないでください。日々、汚れが生じるのですから、日々、清掃に気を配るべきです。それは人にできることではありませんので、祈りを生活習慣に取入れてください。『人付き合いの上手な人は多くと付き合えます』

事例2

『大局的な見方を身につけてください。』

『大切なのは商売ではなく人生、人生の中で商売を考えましょう』

『努力で早くなることと、ならぬこと。焦ることは努力の内には入りません』

事例3

『行為に無駄があるのではなく、心構えに無駄があります。』

『花散るは、次の芽吹きの備えかな――「失うのではなく送り出す」いずれは迎える手順です。つまらぬ争いに道理を見失わぬように。』

『初心を忘れるな』

事例4

『嵐は頭を引くして去るのを待つべきです。』

――もうお気づきとは思いますが、『折角のアイデアも、小さく纏めようとするとつまらなくなります。』

『答が見えないのは……インスピレーションがうまく働かないのは、活かし方がうまくないからです』――アイデアは、小さなものを膨らませようとしてもうまく行きません。大きなアイデアの無駄や矛盾を削り込んでいく方が自然なのです。『地味の痩せた土地には、何を植えても収穫は難しいものです』

事例5

『深呼吸を活用しましょう。あなたは何をするのにもストレスを溜め込むタイプです。呼吸を整えて、自然さを取り戻しましょう。』

『気配り――人はすべてに注意力を注ぐことなど出来ません。注意力に限りがあるなら、無意味な事に力を入れず、意義あることに力を入れることです』

『でも……理屈に流れぬように』

事例6

『胃・消化器が弱っています。』――霊査中、『失業する』との念を感じましたが、あなたの守護霊に止められました。あなたの不安を読み取ってしまったようです。

今の統一で「出来るだけ焦らず、信じて行う」――と、あなたは考えていらしたようです。それに対してこういう答を受けました。『それでよいのだ。暇が出来れば片付け事も出来るでだろう?』

『(あなたの)気持ちが落ち着いていればこそ、(守護霊は)先々の準備に専念できる』

事例7

『まずは、心身が健康であるように。気を呑まれるな! 威勢で勝とうとするな!』――身体に不調があると、鷹揚さが失われ、対人関係が拗れやすくなります。

総括

 今日はどうも霊査の纏りが悪い感じがして、私自身が反省してみました。

 参加者の日常の悩み事などを聞き知っているせいか、つい、それに対する答を見出す手伝いをしてあげようという気持ちになり、私は無意識に霊査を選んでいるのかも知れません。……というわけで、原点に返って、「精神統一会」そのものに霊査を取ってみました。

『真剣であれば答が耳に届かず、散漫であっても答を聞き漏らす。程々、が大切であるが、どこが程々であるのかは、試行錯誤を繰り返さなければ見出せない。が、工夫によってはより近い道がある。

 精神統一といっても、最初から無心を狙わず、手近な問題を4つほど片付け、気を楽にしてから、集中にするとよい。

まず、

  1. 自分の身体に悪いところがないか、身体に訊ねかけるように。体調が悪いと発想も穢れがちです。
  2. 自分の行いや考え方に悪いところがないか、反省する。反省と自分虐めや言い訳と混同せぬように。自分自身に問題提起をするようになさい。
  3. その他の悩みや、すべての問題を一事棚上げして、善いことを計画しなさい。たとえば取り返せない今日の失敗を、水に流すつもりで募金箱に100円入れるなど……額はたいした問題ではなく、自分の劣等感などから気を反らして、霊性・清浄な気分を取り戻すのです。
  4. それから自分の不足の解消を祈りなさい。自分で解決することに執着せず、出来ることは自分で、足りない分は誰かの助けを求めるつもりでいることです。

 悩み事を持ち、その悩みがなかなか解決しないのであれば、ついつい悩むことに疲れて、悪しき考え、邪な考えが湧き上がります。それでは悩むことで自分の霊格を下げてしまうでしょう。ですから心を清らかに保つ工夫も大切です。

 まず身体を労り、過ちに流れていないか反省し、善い行いを考え、他の助けを願い――その上で自分が為すべき事を探す。この順番は大切です。』

 この精神統一では、答が得られずに気が晴れぬかも知れません。でも、焦って答を求めても、今はまだ答がないこともあるのです。焦る気持ちを静めて、今一番良い行動を選ぶためには、心を静めることです。そして、悩める時に心を静められるとしたら、それも大切な答の一面なのです。


いわゆる「餓鬼」の処置

2005/04/16

「良心の試練」掲示板の話題より

心霊相談を始めたばかりの頃、わが師匠は私を馬鹿者呼ばわりしました。まあ、言われるまでもないのですし、その理由については私も十二分に理解していたのです。

浅野和三郎著 「中尾教授の霊能」より、

『即ち人格者というのは自己の欠点の自覚を出発点として精進の道を辿るものであり、非人格者というものは自己の欠点を全然棚に上げ、どこまでも自己慾望の満足に腐心するものであります。ですから最初は両者の間にそう大した懸隔もない筈なのですが、しばらく過ぎてから振り返って見ると実績の上に東西万里の相違が生じてまいります。』

別に私が人格者であると言いたいわけではありません。ただ、「そう努力している」ということが、以下の伏線となるのです。

・・・・・・・

 時折、「私が霊感を得たら世の中の困っている人・霊を懸命に助けるのに」という人がいます。私は微笑で応えますが、本音をいえば、そういう覚悟は、地雷原の上でタップダンスを踊るようなものです。これは経験者……つまり私……が言うのですから間違いがありません。

困っている人・霊は、その原因から二種類に別けられます。一つは他者が原因である場合。この場合は他者の助けが解決の手助けになります。

もう一つは自分自身が原因である場合。この場合の解決は複雑です。

そもそもいかなる論理でわざわざ自分を不幸に追いやるというのでしょう? そんな矛盾に満ちた行為が事実であるとしたら、どうして本気で自分を幸せにしようとするのでしょう? つまり、犯人がわざわざ、自分の犯行を邪魔させるというのでしょうか?

自傷行為というと非論理的ですが、こういう行為は現代に於いてざらに見られることです。たとえば親から虐待、または冷遇を受けている子供は、親に対する愛情ゆえに、それを認められません。そして自分の苦しみの原因を隠そうとします。……霊障、実は犯人をかばっての無意識、かつ幼稚なでっち上げが多いのです。――これは非常に皮肉な話です。なにしろ、こういう場合、その親は、霊障を騒ぐ子供をキチガイ扱いしてしまうからです。つまり、子供は親をかばおうとするのに、親はそれを覆そうとするのですから。

いえ、これは単なる悲劇に終わりません。もしもこの子を助けようとしたらどうなるかを想像してみてください。苦しんでいる子供を救えば、親を責めることになります。自ら苦しみを甘受、いえ、辛受しつつも親をかばっている子供の立場から見れば、その子の苦しみを救う努力は、自分の苦しみよりもさらに耐え難い苦しみを与えることになります。彼・彼女は、必死に抵抗することでしょう。

いえ、念のために申し上げますが、「良心の試練」掲示板の投稿者が親の虐待に苦しんだというのではありません。自傷行為の一つの事例を紹介しただけです。

とにかく、理論的にも、また体験的にも、霊媒には救い得ない相手がいる。救い得ないどころか、救おうと手を出せば、必死の抵抗で火傷をする相手がいることはとても重要です。それはつまり、助けようと努力すればするほど、霊媒にとって自滅行為になるのですから。――困っている人を助ける。その志は立派だと思いますが、それは相手の苦しみを増すことに為りかねないのです。

さて、仏教用語に「餓鬼」と呼ばれる境涯があります。かつて私は餓鬼を、非常に(つまり鬼のように)飢えている霊であると考えました。しかし実体は、鬼のように強欲だから飢えているのです。飢え故にむさぼるのではなく、むさぼる故に飢えているのを、どうやって満たせるというのか……満たすことが必要なのではなく、むさぼるのを止めさせることが必要であることに気がついたのです。つまり、餓鬼に愛を与えても、餓鬼が大勢集まるだけなんです。すると、優しければこそ、餓鬼を助けようとして、餓鬼を集めて、師よりも恐ろしい体験をする霊媒が出てきます。

ですが、自らの優しさを否定して、人は人の心を持ち続けられましょうか。――これは決して論理だけでは割り切れません。


2005年 04月 15日

不合理な楽

2005/04/13

2005年 04月 13日


中庸こそ答――ひたすら努力することが正しく、楽な道、楽な方法を選ぶことが悪いのではありません。世間には、ことさら勤勉さや努力を尊ぶ人がいたり、反対に努力を時代遅れとみなして楽な方法ばかりを追いかける人がいます。しかし、その議論の大多数は本末転倒というべきです。

 目的があるなら、大切なのは目的達成の為に最も効率の良い手段、そして適切な手段を選ぶことなのです。楽だとか、丁寧だとかいうのは、二番目の要素でしかありません。なんとなれば、怠惰故に、楽な道を選んで、結局、結果が得られなかったというのは、昔話によく使われる題材なのです。知っている人にはいう必要が無く、知らない人は知ろうともしない初歩的な摂理というべきです。

 反対に、勤勉さに誇りを持つ人が、一部に凝りすぎて全体のまとまりが悪くなるということもよく見ることです。要するにはバランス、中道・中庸が大切なわけです。

改善策は人によって異なる――ですから、私が、「努力が足りない!」と指摘するとしたら、それには「楽な生き方の否定」という意図はありません。手の抜きすぎで目的を失する事への注意なのです。 ……これはとても皮肉な話です。

 楽をして結局何も得られない……仕事をして給料を貰うのと、手抜き仕事で結局給料を貰えないのと、一体どちらが楽だというのでしょう? どうせ給料が貰えないなら、わざわざ手抜き仕事をするほうが面倒です。いっそ何もしないほうが良いはずですね。

 楽をしようと、実は役に立たないことをしている。役に立つことなら報われるのに、報われないことをして楽だといっている。…… これはとても変な話です。

急な坂道は頂上への近道」――ですよね。そして、「いくら楽だといっても坂を下れば頂上にはたどり着かない」――坂道を登る気がないなら、なぜ山を訪れるのでしょう? 

産まれて来たくて、生まれてきたのではない?

 ……ここで、生来の疑問が心にわき上がる人がいるかも知れません。

「私は生れて来たくて、生れてきたのではない」――では誰が望んだというのでしょう? 親はなるほど、子供が欲しくていたかも知れません。でも、選べることならば、もうチョット心掛けよく、親に不平を言わぬ都合の良い子が欲しかったのではありませんか。本当はもっと親孝行の子供が欲しかったのに、蓋を開けてみたら、不平不満の塊が生れてきて、内心はがっかりしているかも知れません。

 もしも魂があり、人が再生するなら……心霊主義者の見解です……一体、親が子供を選ぶのか、それとも子供が親を選ぶのか、どちらでしょうか? 合理的なのは子供が親を選ぶという選択です。なんとなれば、後から生れてくるのが子供なのですから。

 だとすると、「生れて来たくて生れてきたのではない」という主張は、……心霊主義者の見解が正しいとすれば…… 霊界から見たら契約違反的な言動となりましょう。

非効率な楽

 本題に戻ります。面倒でも役に立つことをするのと、楽でも役に立たぬ事をするのと、一体どちらが効率の良い生き方でしょうか? そして非効率な楽というのは、なんと滑稽な話でしょうか?

 このように矛盾に満ちた選択に、論理的な答を求めるのはナンセンスです。答があるとすれば、感情論に求めるべきでしょう。つまり、 問題は、そういう選択をせざるを得ない心理状況にあるのだ、ということです。

 非効率であっても楽をしたい……こういう矛盾した考えに陥っている人にとって、または、陥っている人に対して必要なのは、説教ではないし、論理でもありません。まずは休養が大切であり、そして、立ち止っての問題整理が大切なのです。

 自分の心が適切に働いていない。そういう時に、無理に前に進もうとするから、かえって状態を困難にするのです。


追記: 心霊サイト的意見

 矛盾した考えは状況を好転させることはありません。非効率な楽も続ければ自分を苦況に追込みます。そこに至る過程において、問題を自覚し、適切な相手に必要な援助を求められる人はごく稀です。

 必要な援助を得た人についてはもうここで論じる必要もありません。しかし、援助を得られない、というより、援助を求めなかった人はというと、矛盾が妄想の域まで達するようです。

 私は心霊家です。心霊家であるが故に、祟りや前世の因縁という事柄を否定は致しません。しかし同時に、祟りや因縁といったあやしげなものを引出す必然の全くない問題を、宛も心霊問題であるかのように論じるのには参加する気がいたしません。いえ、実はこれらの問題を霊媒が解決するのを見もし、体験もし、時には実行も致しますが、その原理は通俗的に考えられているような悪霊・低級霊等の除霊の必要ではなく、守護霊・祖霊との絆の強化、働きやすさの改善の結果であって、いわば自己の問題解決能力の効率化を図るという視点に立っております。そしてそういう立場、心霊主義の立場に立つが故に、私の目には、これらの問題が目に付くのです。

――ここに私は、「愚者」という言葉の意味を再認識すべきと考えます。

 いくら知識があり、思考や理解の素早い人でも、それを自分の幸せに役立てられない、そういう効率の悪い生き方をする人は愚者と呼ぶべきですし、こういう愚者に追随するのも愚者と呼ぶべきです。

 そして、効率の悪い生き方ゆえに行き詰り、助けを求める人がいるとして、智者ならまず方法の改善を計るでしょう。――突然ですが、ここに交霊主義の意義があります。つまり霊界からの助言で幸せを得るというのは、方法を改善することが前提であって、非合理的な楽をもたらすものではありません。そして、ここに困った事実が生じます。

 楽を求める心は、本来は合理性を追求する心なのです。ところが原因・結果の仕組、合理的な解決策が理解できないから、無駄に苦労し、苦労に疲れ果てて、非合理的な楽を選ぶ人が出てくるのです。

 端的にいえば、解決策が見えないから、不合理な楽を追究するのです。そのような人に、合理的な答を提示して、理解が望めましょうか? ――すべての人にあてはまることではありませんが、悩み、苦しむ人の中には、解決策を理解できない人がいるということなのです。

 当サイトが、基礎を大切にする所以です。一足飛びに頂上に着くのは妄想中の出来事でしかないのです。霊感があっても、神の助けを得ても、努力を必要とするのです。


分っているけれど変えられない

2005/04/13

2005年 04月 13日


某霊より、「分かっているけれど変えられない」――というテーマでメモを取ってくれと通信がはいりました。

分かっているけれど変えられない

己に主体性がない――自分を律することが出来ない人は、主体性を失っているということです。見てご覧なさい。そういう人ほどプライドが高く、声高に自己の権利を主張します。しかし口が先に出るのは身体が動かぬ人の特徴なのです。

敗北寸前だからこそ声を出さずにはいられない――しかし、本当に状況を変えたいなら、口を噤《つぐ》んで努力すべきです。罵声で援助を強いるのではなく、頭を下げて助けを乞うことを学ぶべきです。

 味方を必要とするとき、わざわざ親切な隣人すら敵に回してしまう。不幸な人の多くは、自ら進んで不幸を増やします。

・・・・・・・・

改善策がなければ、適切な霊信とは思えません。本件に関して廬氏に助言を求めました。

・・・・・・・・

廬氏より

 人の為せることには限りがある。言訳や八つ当りに力を注げば、解決が疎かになるのはいうまでもない。イヤ、努力する前に敗北の言訳を用意するところが、すべてを物語っている。……敗北癖が身に染みついているのだ。そこから直さなければならない。

 人が生きるにおいて、誇りを持つことは大切なことだ。だが誇りとは誰に向けるべきものか? 真の仏者は、天に恥じぬ生き方をし、人に嘲笑《わら》われることを恐れない。なんとなれば、人は都合の悪いものに敵対し、打ち、嘲笑《わら》い、それが出来なければ黙殺するものだからだ。

 天が人情に対して超然としているかのように、正しき人も人情に流されはしない。人が侮辱を試みるのは、侮る相手ばかりではない。自分が勝てぬ相手も嘲笑《わら》おうとするのだ。顔を引きつらせながら。
 時とすれば、嘲笑《わら》われ、黙殺されることこそが勝利を示すのに、その勝利を投出すために戦うというのか? それでは敗北しかあり得ぬ。

 真の武人は、戦いを選ぶという。選ぶためには敵を知らねばならぬ。

 人が戦うべきは己自身であり、見習うべきは天のあり方(摂理)である。天に恥じぬ生き方こそ人が求めるべきものだ。

 摂理は、天に唾を吐くような者を愚者と扱う、しかし、人は都合の悪いものも嘲笑《わら》うのである。


無能者の歌

2005/04/10

2005年 04月 10日


 助けを求めて良いのは、手の足りぬ人。
 おろおろと、何も出来ずにいる人は、助けを求めてはいけない。
 助けを求めずに、身を引く算段こそが必要なのだ。

 何も出来ぬのに、何かをしようとする。
 そんな欺瞞に騙されるのは、誰あろう自分だけだ。

 天を騙したつもりで、道化を演じる。
 それが幸せなら、世に不幸があるというのか?

 そんな欺瞞に騙されては、真実を見ることが恐ろしくなる。
 それほどの不幸が、他にあるというのか?


霊視談義

2005/04/09

2005年 04月 09日


 アフターオフ会での会話……某参加者は、霊査の際にいつも守護霊の姿が見えます。

Q 「守護霊さんの衣服は、何色ですか?」

老 「ピンクというか、薄い朱というか……色の名前とか、柄の名前とかに疎いんですよね。私は。」(帰宅後に、鴇色というのだと聞いた)。

A 「その下にもっと濃い色のものを着ていますよね」

老 「そうそう」

B 「そうそう僕もピンク色かと思った……」

Q 「残念。私は当らなかった。てっきり緑と思いました」

――ああ。それは簡単です。「ピンク系統だと、当たり前すぎる」と、うがった見方をしてしまったのでしょう。だから、反対色(三原色では赤の反対が緑だ)の緑といってしまったのです。

 そもそも、霊視というのは、霊媒本人の能力というより、画像を用意する通信霊の表現次第なのです。だから、上手な通信霊が相手だと、比較的、誰でも霊視しやすいのです。問題は、それを素直に受け止められるかどうかなのです。あなたはどうも頑張りやさんで、しっかり見ようとするから、歪んで事実が感じられてしまいます。もっとリラックスするべきです。

 


2005年 04月 16日

  2005年4月9日の「霊視談義」で、某氏の守護霊の衣服の色を通じて霊視問題を論じましたが、遺憾ながら訂正を行わなければなりません。

・・・・・・・

 質問者は、4月9日に、守護霊の衣服の色を私に尋ねました。そして、その時の服の色は、ピンク系、鴇《トキ》色とのことでした。

 そして……誰も感心を持たぬかも知れませんが、バツが悪いのでわざわざ書きますと、私の守護霊はいつも墨染めの衣服で私の前に現れます。大抵は、あちこち破れた墨染めで、時々は折り目のしっかりした墨染め姿で表われるのです。今日はちゃんとしているね……などと思うと、打ち合わせに参加していたのだといいます。物事の取り分、役割分担の打ち合わせの時には、なるべくちゃんとした格好をするのだそうで、見た目に流されるのは困るが、本音と建前があるのは、あの世もこの世も同じらしい。いずれにせよ、わが守護霊を写真で写すなら、白黒フイルムで充分なのです。

 ところで、本日の臨時オフ会には、某質問者は参加しませんでしたが、その守護霊から再度この話題にして欲しい、とメッセージを受けました。なんのことはありません。

「女性は果たして何日も着替えずにいるでしょうか?」

 私は某守護霊の服の色を訊ねられて、その時見たものを答えたのだけれど……その動機を考えれば、反対色だから、等という話で納得する前にもうちょっと深く考えるべきでしたね。

 萌木色……だそうです。

 で……何色かという問題以前に、「設問に注意すべきです。相手も一個の人格の持ち主であり、佇む存在ではないのですから、変化のあることは踏まえて質問してください」とのことでした。


霊査事例: 2005年4月9日(横浜)

2005/04/09

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


事例1

  •  神社でパワーを感じたとか――『貰うのではなく与えることを考えなさい。」無駄にする人に与える者はいないよ。』―― 感じたエネルギーを貰って喜ぶのでは、そこで終わります。得たものをどう活用するか、そういう発想が出来ないと、親切にするとばからしい相手と思われてしまいます。
  • 『軽口で小さな恨みを買う。塵も積もれば山となる。吹けば飛ぶような山ではあるが、邪魔ではある』
  • 『眺めの良い場所で、背伸びをする。「自分は幸せだ!」と思う、その瞬間が、あなたの心が守護霊と通じているのです』
  • 『無駄な力み、無駄な力み』
  • 『緊張・ストレスを感じやすい――だから軽口を叩く。誰がお前を緊張させるのか? 心の置き所に気をつけよ、不安定なところにおくから気疲れするのだ』

事例2

  • 『肩に力が入り(無駄なところに凝り)、手抜きに言い訳がはいる。誇りばかりが先立ち、何が必要なのかを忘れている。独善は我が家の欠点である。くれぐれも(以後の子孫に伝えぬように)頼むぞ。』
  • 『「努力せず、結果を欲しがる」霊を、独善家は呼び寄せやすい。あなたはそういう霊には憑かれませんが、そういう霊が家の邪魔をするのだと心に留めておいてください』
  • 『人のために働く。だが人とは何か? 時々は立ち止まれそれが大切だ。(目標を見失わぬようにしなさい)』―― 端的に言えば簡単なのですが、そういういい方はしないでくれといわれました。参考までに……「行き詰まるまで歩き続けるのは悪い癖だ」
  • 『変わり者なのに、職場でもどこでも理解者を得る。それも功徳だ。だが作用には反作用が伴う。嫌な相手にも関わろうが、それを厭うな。反作用を嫌えば、作用も失うのだから』

事例3

  • 『たとえ他から認められなくても、あなたは善良なのです。そして、善良であることだけが、天に恥じずに誇れるものです』―― 頭がよいとか、知識が豊富であるとか、才能を誇るのならば上には上がいるものです。それを誇ればあざ笑われてしまいます。それに対して善良であることは当たり前のことではありますが、善良な行いの人がコソコソするようでは世の中がよくなりません。
  • 『家に帰るとホッとして、邪気を吐く。外で大変だった人ほど家に邪気を持ち帰ります。家を清める心を大切になさって下さい。』
  • 『次男坊気質』と聞こえます。認めて欲しいという気持ちが人一倍多いようですが、特別運が悪いとか、周囲が無関心と言うことではありませんよ。
  • 『あせるな、あせるな』と聞こえます。あなたが、会社で虐められているのか、と心配になって霊視してみましたが、明るく活気のある会社ですよね。(肯定)
  • でも、その中でどうもあなたは居心地悪く感じていらっしゃいます。(肯定)気持ちの置き所を工夫しましょう。

Q「家族に心配事があるのですが」(この時点では具体的な質問を言わない)

……お父様は、信仰心が篤い……というか、お祀りはしっかりするけれど、あまり信じてはいない方ですね。近隣との付き合いも頑張るけれど、頑張りすぎて具合が悪くなるタイプですね。……(以下略)

Q「父が急に痩せてしまい……」

……癌? いやいや。あなたの心配を読み取ってしまいました。あまりそう悪い方に考えない方が良いですよ。

  • 『原因は病にあらず、病を作る心にあり。故に、心が病を作ることを知らぬ者は、うわべの幸せに満足せねばならぬ』―― 病気になるというのは、もう結果が表われたと言うことなのです。そうなる前に原因を取り除けない人、いや、心の健康の大切さに気がつかぬ人を、周囲が心配したら、当人はますますストレスを感じて病気になりやすくなってしまいます。まずはあなたが明るい気持ちを持つ様になさって下さい。

事例4

  • 『偉そうにしている人こそ可哀想です。同情されぬし、同情されると傷つくのですから』
  • 『ダメでもともと、ではだめだし、悲観的なのも損です。もっと自分を信じ、人を知る努力をしてください。』
  • 『一生懸命に統一してはダメです。立ち止まるつもりでいなさい。』――遠路ですので、参加するのにも努力が必要でしょう。ですが、参加した後は、なにもせず、心静かにお座り下さい。たとえるなら、「人の話を聞く」方法にたとえられるでしょう。頑張っていたら、人の話が聞こえなくなってしまいます。心にゆとりを持つことが大切なのです。そのゆとりを持つために頑張る。つまり、ゆとりの時間を作るために、前と後を頑張る。そういうメリハリの作り方がよい精神統一のための努力と工夫なのです。
  • 『いつも一緒にいますよ』
  • 『春が来て喜ぶ子等よ。――だれよろこぶや、春が来るを?――素直な者のみ春を喜ぶ』

事例5

  • 『雨が降るのも、降らぬのも困る。だが、枯れ果てた人よりは潤いがある人の方がつぶしが効くぞ』
  • 『家を構える。一人、二人ではなく、一つなのだ。その視点を忘れるなかれ。』
  • 『あせるな、あせるな、苦労せずに得たものは、失われやすいものなのだから』
  • 『春に花咲く。誰のために咲く花か。――今はまだ、「わが為に咲く花さ」、と心に思う。咲く花は、咲くために咲く花ぞ』『自分のものではないのに、自分のものと思う。失えば悲しむが、元々自分のものではないのだ。つまり苦しむために心が働いている。』

質疑(事例3)

Q 霊査で、自分の運勢を過小評価する傾向と指摘されましたが、もう少し詳しく説明してください。

A 『端的に表現すると、あなたのご家族も、他人の評価を気にしすぎて、ストレスをため込むタイプですね。これも広義の因縁です。』


Q 「善良」という言葉が出ましたが具体的に霊界での善良とは人間界での、辞書にある善良と根本的にどこが違うのでしょうか?

A 『ご自分の善良さに不信を抱く人は、ある意味とても善良です。少なくとも、独善に陥らぬように努力しているということなのですから。

 さて、恵能禅師は、月を指さして、「わが指ではなく月を見よ」と説きました。善良さとは何か? それは月を指さすようなものです。つまり、人はそれを指させても、手で触れることが出来ません。善良さも同様で、理想を目指せば切りなく、といって理想を差す「指」は理想とは異なります。

 人も霊も、それぞれ、自分の能力・才能の範囲で、精一杯善良に生きようとすることしかできないのです。したがって、これで終わり、これだけで充分、という善良さの定義など有りはしません。あなたが善良であると霊界からお墨付きをいただいたところで、知らずに人に迷惑を掛けることまで無いとは言えないのです。

 ただ大切なことは、あなたは自分に出来る限り善良であろうとしている。そして、チャンスがあれば己の器量を越えた善良さをも獲得しようと努力していることです。それこそが大切なことではありませんか。

 意図せず害を為しても、意図して悪事を為すことはない。あなたがそういう人であると霊界は見ている、ということなのです。』 

Q  「結果を焦る」ということを沈めるためには、そう感じないためには、やはり気を静める、落ち着くということと形に当てはめない発想を持つということでしょうか?

A 『あくどい話ですが、あなたの場合、「他人は外ズラが良く見えても、内心は穢れているものだ。」と、思うことが大切でしょう。あなたは、隣のバラや芝生を過大評価しすぎていると私は感じます。

 他を過大評価するから、自信が揺らぎ、不安になって焦るのです。

 でもそれは、あなたが善良であるから、相手の欠点を見るよりも、相手の長所を見るように無意識に振舞っているからなのです。隣のバラが赤く見えるのは、あなたの優しさの証なのです。ただ、それで自分いじめを始めてしまうところがあなたの欠点といえます。せっかくの長所を生かし方一つで欠点としてしまうのは何とももったいないことですよ。』 

Q  以前、霊査で『水子の供養』という話題が出たのですが、その件が家族、または私個人の生活等に影響が出てますでしょうか?

A 『今回の統一会でだいぶ見えてきたのですが、あなたのご家族も、どうも隣のバラを赤く見すぎる人で、その反動から懸命になりすぎて力及ばず、結局、表面的な部分に力を入れて内面が就いてこないという悪循環に陥っていらっしゃいます。

 たとえば先祖や神様のお祀りも、儀式には熱心ですが、信仰心の働く余地に乏しいようで、その祈りには効果があまりないようです。

 すると、何かの祟りを恐れるよりも、身内を護る味方の働きが薄いことのほうが問題かも知れません。「水子霊の話題」なども、それが祟るというより、未だに片付いていないことの方が重大事であると私は感じます。

 譬えは悪いかも知れませんが、ゴキブリを一匹見かけたら、あと何匹いるか、を考えるよりも、害虫が繁殖しやすい環境を改善する努力が必要と考えるべきでしょう。いずれにせよ、結果から過程の善し悪しを判断することも大切なことです。 』 

Q 帰宅時に邪気を吐いている、と指摘されましたが、この邪気がたまると病気がちになったり、影響が少なからず出る可能性があるという認識で間違えないですか? また、現在の実家関連で何か障害が出ているということも言えるような気がしますが、この点はいかがでしょうか?

A 『某霊媒が、個人宅を会場に借りて精神統一会を行ったところ、その家族がつぎつぎと変な病気に罹ったそうです。その他、心霊的な話題に熱心だと、供養をして貰いたくて霊が集り、苦しむ霊が集れば気を惹こうとしてイタズラすることは良くある話です。また、霊媒がする除霊・浄霊等というのは、落ちているゴミを拾うようなもので、それだけではチリ・ホコリが溜ることまでは防げません。それ故に心霊に関心のある人は、定期的にお祓いを受ける事などが大切です。

 ですが、心霊的な作用は、客観的な観測手段に乏しいものです。特に敏感な霊媒と呼ばれる者が大騒ぎすることで、問題の一端に触れることが出来るわけですが、作用・反作用の法則を前提に考えるなら、観測手段に乏しいエネルギーの直接的な作用力は、本来、とても非力であると考えるべきでしょう。

 確かに、家などに邪気が溜ると健康その他に影響が生じることは、霊感の持主にとって直覚的に理解しやすいことですし、経験的な裏付けもあります。しかし、見かけ上の効果だけで、それを原理であると解釈するのには、天体の運行を地上から眺めるかのような誤解の種となります。

 つまり、邪気そのものに大きな毒性があるというより、邪気の処理が出来ない状況が危険性を暗示していると考える方が合理的だろうというのが私の判断です。

 帰宅時に、ほっとして邪気が出る……疲れて家に帰るということです。つまり、ストレスを家に持帰っているわけですね。ところが、ストレスというのは単なる精神的な重荷を意味せず、生理・化学的な働きも重要素なのです。つまり、休むだけでストレスを発散するのはとても難しく、生理的なストレスの解消には身体を動かした方が好ましいのです。しかし、普段であれば家に帰るのが精一杯で、あとは何も出来ない、考えたくないというのが本音でしょう。

 ですから、心の中に、「もう一歩」の習慣を植付ける必要があります。玄関で柏手《かしわで》を打つなどの動作でも……音を立てる、手を打つ、という動作だけでも結構、ストレスの解消になります。貧乏揺すりなども無意識のストレス発散運動なのです…… 無いより余程楽なのです。さらにいえば、限界まで表で頑張るのではなく、若干、ゆとりを持って付合いを断ろう、という考えも大切にすべきでしょう。

 むろん、心霊家である以上、帰宅時には、無事帰宅できた事への感謝の祈りを神・仏・天・守護霊・祖霊のいずれか、又は全部(すきにしてください)に捧げることはあってしかるべきと思います。すると、守護霊・祖霊もつまらぬ因縁を持帰らぬように、いろいろと気配りしてくれます。大切なのは、祈られたから、又は、頼まれたから、という事ではなく、連携・協調の手段としての祈りです。守護霊・祖霊とバラバラ・ちぐはぐな行動をしていると、なかなか中々加護が及びにくい、その対策として、祈りが大切なのです。』


近代戦跡 (心霊談義)

2005/04/07

2005年 04月 07日


 心霊用語、というより霊媒の業界用語として、「古戦場跡」が使われる。「ここは古戦場跡だから、未浄化霊が多くて霊感の強い人には辛いよね」――などと表現される。もっとも日本の大規模な平地で古戦場跡でないところを捜すのは難しい。

 私が以前驚いたのは、元墓地の上に立っている賃貸住宅だ。知人の相談に応じて帰ろうとしたときに腰が抜けたようになって愕いてしまった。慌てて精神統一してみたところ、ボーッと佇む霊が何十体となく見える。「もしかしてここは墓地跡?」と尋ねると、果して「そうだ」という。霊感の強い人がこんな場所に暮していたら大変だ。不思議なのが、どういういきさつで墓地跡に賃貸住宅が建つことになったのだろう? 興味はあっても触れたくはない話題だ、やはり私は幽霊よりも人間の欲の方が恐ろしい。

 結局のところ、地上には未浄化霊が溢れている。――だから何だというのだろう? チョット道を歩けば、たばこの吸殻からジュースの空缶まで、恐らく投捨てられたのだろうゴミがいくらでも目に付く、イヤそれどころか、投捨てる現場すら目撃できるだろう。人々の多くはかくも自分の行為の結果に無頓着・無責任であるのに、どうして人の死後が清らかなものだと信じられようか? もしも人間に再生(生れ変わり・輪廻)があるのなら、それ以上に未浄化霊が多いというのは至極単純に考察できそうなものだ。だから、霊媒が辛い人生を歩みがちなのも、道理が通らなくても、実際問題として仕方のない部分がある。

――従って、霊感を持ち、そしてチョット気が利いた人なら、日々の大部分を未浄化霊の供養に当てる。未浄化霊を供養するということは、多くの霊たちに恩を与えるということで、それが結局いざというときの自分を助ける力となる。自分の背後霊を育てるということだが、それをせずに、ただ、不合理だ、不公平だ、と歎いたところで問題は解決しない。なんとなれば、未浄化霊の大多数は社会保険制度や法治や裁判などの概念を全く知らない人々なのだから。

――地上に一番近い霊界相手で期待できるのは「相互扶助の精神」だが、困れば泣叫んで助けを求めるだけ、仮に助けられても礼も言えぬようでは、相互扶助の輪からはみ出ることがあっても入れて貰えることは期待しがたい。結局、未浄化霊に苦しむのは、将来の未浄化霊なのである。他に何かを期待するなら、先ず自分が与えるべきだし、何も与えるものがなければ、せめて礼儀正しく、人を妬まぬようにすることだ……が、果してそれが貫けるだろうか? 善良に生きるのは難しい。

・・・・・・・

 だいぶ脱線してしまった。主題の「近代戦跡」に戻る。――近代戦跡とは歴史用語で、正直、どこまでを近代というのか、その正しい定義を私も知らない。要するに太平洋戦争などの軍事遺跡――防空壕跡とか、滑走路跡などを指す。私の住む神奈川県にはかなり多く残っていて、桜の名所である横浜市瀬谷区の「海軍道路」などは、海軍の非常用滑走路跡だったというし、現存する米軍・自衛隊の基地などは遡れば大日本帝国時代の軍事基地跡だ。

 近隣に数多くの戦跡があることを知る私は、太平洋戦争で没した軍人らが浄化するように常々祈りを欠かさずにいた。が、どうにもその祈りが通じない霊がいることに気が付いた。

 これが古戦場であれば、比較的話は簡単だ。そんなところにいつまでも残っているのは、間抜けか、頑固者か、残留思念に過ぎない。どちらも正面切って誠実に応対すれば何とかなるのだ。また近代戦跡でも祈りを捧げると、ぴしっと軍装を決め込んだ立派な軍人が、敬礼で返礼するのを霊視出来たりする。なのになぜ、こそこそとした気配を感じるのだろう? そして何やら嫌がらせめいた出来事が起りやすいのか。

 よくよく尋ねてみると、何のことはない。――誰も好きこのんで兵士になったわけでなく、日本軍人のすべてが英雄だったわけでもない。当り前な一市民、いや国民が戦争を遂行していたのである。中には、イヤおそらくは大部分は、恐怖と義務感との葛藤の中で戦争の日々を過し、そして葛藤の中に死んでいった。

 当時の社会風潮は、戦死者を神として扱うが、実際の戦死者には神としての心得など期待しようもない。自分の職務に真っ向から取組み死んでいくものもいるが、大多数は、恐怖に駆られ、逃出すところを殺されたのだ。そして、ホンの一瞬でも逃げようという心が兆してから死んだ人は、死後、意識を取戻したときに恥の念がこみ上げてくるのだ。

 家族はもとより、八百万の神にさえ顔向けが出来ない自称・臆病者の群れ――近代戦跡には、そういう霊が数多く佇んでいる。「英霊の供養」等というささげ言葉に胸を張って応えられる霊は一握りしかいないのだ。なのに日本国土にあるのは英霊碑ばかり。

 だが問題は、死後の世界だけにあるのではない。死後の世界にどれだけ重大事が起ろうとも、地上が相手にしなければそれまでのことだからだ。

 それにしても日本人というのは、とても義務感の強い民族なのだろう。その義務感を扱いかねて自分らしさを発揮できない人のなんと多いことか。達成できぬ義務感に疲れ果てて死を選ぶ人、義務感に振回されることに苦痛を感じて何も手を出せなくなっている人、義務感から病的に逃げようとして乱暴な生き方をしている人、人の長所を認めようとせず、短所ばかりをあげつらう人々。――義務に正面から向合う人のなんと少ないことか。

 自称・臆病者の霊たちが、意図せず……つまり、自己嫌悪の苦しみから逃れようとしただけで……憑依しやすい寄代《よりしろ》が、現代には溢れている。これはとても危険なことである。意図する行為は説得ですら止められるが、意図せぬ行為は説得だけでは止らない。まして、身にやましさを覚えている人は、どうも姑息な行動に出やすくて扱いにこまる。

・・・・・・・

 それにしても戦争というのは実に大きな傷を残すものだ。たとえば今流行の真っ最中である花粉症なども、戦時中、過剰に伐採した山に、杉・檜ばかりを植林したことが重大要素であるし、目的意識が希薄な日本人の魂の彷徨はまだまだ終りそうにない。

 都市や工場の再建はよほど容易だが、人や植生の再生には、いったい幾世代かかるのだろうか。

・・・・・・・

 戦争をロマンや匹夫の勇だけで語るべきでないのは当然だが、恐怖だけで語るのも結局のところ人は落着く先を失いかねない。恐怖で戦争に反対する一方で、たとえば悪口をいわれる恐怖や、仲間はずれにされる恐怖から他に暴力を行使するのでは平和主義とはいえないが、どうにも真の平和主義者というのは見たことがない。平和教育とは、戦争を嫌う心を育てることではなく、争わずに問題解決できる人間関係の育成が大切なのだと思う。


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