近代戦跡 (心霊談義)
2005/04/072005年 04月 07日
心霊用語、というより霊媒の業界用語として、「古戦場跡」が使われる。「ここは古戦場跡だから、未浄化霊が多くて霊感の強い人には辛いよね」――などと表現される。もっとも日本の大規模な平地で古戦場跡でないところを捜すのは難しい。
私が以前驚いたのは、元墓地の上に立っている賃貸住宅だ。知人の相談に応じて帰ろうとしたときに腰が抜けたようになって愕いてしまった。慌てて精神統一してみたところ、ボーッと佇む霊が何十体となく見える。「もしかしてここは墓地跡?」と尋ねると、果して「そうだ」という。霊感の強い人がこんな場所に暮していたら大変だ。不思議なのが、どういういきさつで墓地跡に賃貸住宅が建つことになったのだろう? 興味はあっても触れたくはない話題だ、やはり私は幽霊よりも人間の欲の方が恐ろしい。
結局のところ、地上には未浄化霊が溢れている。――だから何だというのだろう? チョット道を歩けば、たばこの吸殻からジュースの空缶まで、恐らく投捨てられたのだろうゴミがいくらでも目に付く、イヤそれどころか、投捨てる現場すら目撃できるだろう。人々の多くはかくも自分の行為の結果に無頓着・無責任であるのに、どうして人の死後が清らかなものだと信じられようか? もしも人間に再生(生れ変わり・輪廻)があるのなら、それ以上に未浄化霊が多いというのは至極単純に考察できそうなものだ。だから、霊媒が辛い人生を歩みがちなのも、道理が通らなくても、実際問題として仕方のない部分がある。
――従って、霊感を持ち、そしてチョット気が利いた人なら、日々の大部分を未浄化霊の供養に当てる。未浄化霊を供養するということは、多くの霊たちに恩を与えるということで、それが結局いざというときの自分を助ける力となる。自分の背後霊を育てるということだが、それをせずに、ただ、不合理だ、不公平だ、と歎いたところで問題は解決しない。なんとなれば、未浄化霊の大多数は社会保険制度や法治や裁判などの概念を全く知らない人々なのだから。
――地上に一番近い霊界相手で期待できるのは「相互扶助の精神」だが、困れば泣叫んで助けを求めるだけ、仮に助けられても礼も言えぬようでは、相互扶助の輪からはみ出ることがあっても入れて貰えることは期待しがたい。結局、未浄化霊に苦しむのは、将来の未浄化霊なのである。他に何かを期待するなら、先ず自分が与えるべきだし、何も与えるものがなければ、せめて礼儀正しく、人を妬まぬようにすることだ……が、果してそれが貫けるだろうか? 善良に生きるのは難しい。
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だいぶ脱線してしまった。主題の「近代戦跡」に戻る。――近代戦跡とは歴史用語で、正直、どこまでを近代というのか、その正しい定義を私も知らない。要するに太平洋戦争などの軍事遺跡――防空壕跡とか、滑走路跡などを指す。私の住む神奈川県にはかなり多く残っていて、桜の名所である横浜市瀬谷区の「海軍道路」などは、海軍の非常用滑走路跡だったというし、現存する米軍・自衛隊の基地などは遡れば大日本帝国時代の軍事基地跡だ。
近隣に数多くの戦跡があることを知る私は、太平洋戦争で没した軍人らが浄化するように常々祈りを欠かさずにいた。が、どうにもその祈りが通じない霊がいることに気が付いた。
これが古戦場であれば、比較的話は簡単だ。そんなところにいつまでも残っているのは、間抜けか、頑固者か、残留思念に過ぎない。どちらも正面切って誠実に応対すれば何とかなるのだ。また近代戦跡でも祈りを捧げると、ぴしっと軍装を決め込んだ立派な軍人が、敬礼で返礼するのを霊視出来たりする。なのになぜ、こそこそとした気配を感じるのだろう? そして何やら嫌がらせめいた出来事が起りやすいのか。
よくよく尋ねてみると、何のことはない。――誰も好きこのんで兵士になったわけでなく、日本軍人のすべてが英雄だったわけでもない。当り前な一市民、いや国民が戦争を遂行していたのである。中には、イヤおそらくは大部分は、恐怖と義務感との葛藤の中で戦争の日々を過し、そして葛藤の中に死んでいった。
当時の社会風潮は、戦死者を神として扱うが、実際の戦死者には神としての心得など期待しようもない。自分の職務に真っ向から取組み死んでいくものもいるが、大多数は、恐怖に駆られ、逃出すところを殺されたのだ。そして、ホンの一瞬でも逃げようという心が兆してから死んだ人は、死後、意識を取戻したときに恥の念がこみ上げてくるのだ。
家族はもとより、八百万の神にさえ顔向けが出来ない自称・臆病者の群れ――近代戦跡には、そういう霊が数多く佇んでいる。「英霊の供養」等というささげ言葉に胸を張って応えられる霊は一握りしかいないのだ。なのに日本国土にあるのは英霊碑ばかり。
だが問題は、死後の世界だけにあるのではない。死後の世界にどれだけ重大事が起ろうとも、地上が相手にしなければそれまでのことだからだ。
それにしても日本人というのは、とても義務感の強い民族なのだろう。その義務感を扱いかねて自分らしさを発揮できない人のなんと多いことか。達成できぬ義務感に疲れ果てて死を選ぶ人、義務感に振回されることに苦痛を感じて何も手を出せなくなっている人、義務感から病的に逃げようとして乱暴な生き方をしている人、人の長所を認めようとせず、短所ばかりをあげつらう人々。――義務に正面から向合う人のなんと少ないことか。
自称・臆病者の霊たちが、意図せず……つまり、自己嫌悪の苦しみから逃れようとしただけで……憑依しやすい寄代《よりしろ》が、現代には溢れている。これはとても危険なことである。意図する行為は説得ですら止められるが、意図せぬ行為は説得だけでは止らない。まして、身にやましさを覚えている人は、どうも姑息な行動に出やすくて扱いにこまる。
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それにしても戦争というのは実に大きな傷を残すものだ。たとえば今流行の真っ最中である花粉症なども、戦時中、過剰に伐採した山に、杉・檜ばかりを植林したことが重大要素であるし、目的意識が希薄な日本人の魂の彷徨はまだまだ終りそうにない。
都市や工場の再建はよほど容易だが、人や植生の再生には、いったい幾世代かかるのだろうか。
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戦争をロマンや匹夫の勇だけで語るべきでないのは当然だが、恐怖だけで語るのも結局のところ人は落着く先を失いかねない。恐怖で戦争に反対する一方で、たとえば悪口をいわれる恐怖や、仲間はずれにされる恐怖から他に暴力を行使するのでは平和主義とはいえないが、どうにも真の平和主義者というのは見たことがない。平和教育とは、戦争を嫌う心を育てることではなく、争わずに問題解決できる人間関係の育成が大切なのだと思う。