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霊査事例: 2005年3月16日(ML)

2005/03/17

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


事例1

 巷ではそろそろ下火のオレオレ詐欺ですが、人が慌てると、冷静な判断や認識力を失うという特性をついた犯罪です。ただ、他人に悪用するから犯罪なのであって、慌ててミスすることは誰もが経験していることですね。

……ここで考えてみてください。

 あなたは普段、己の才を頼んで突っ走り、しくじると誰かに助言を求めようとする習慣が出来ています。でも慌てている時の相談相手には余程の信頼、いやあなた自身の尊敬が必要なのですよ。なぜなら、過ちがあるから慌てなければならないのです。ならばその助言者は、目を背けたいたいであろうあなた自身の過ちを指摘しなければならないかも知れないのです。

『そんな嫌なことを言うのならもう話を聞かない!!』

 こういう人は、困ったときに相談するとさらに被害を増やすでしょう。

 これはあなたと私の信頼関係の話題ではありません。あなた自身も、しっかりと霊的感覚に恵まれていながら、どうしてそれが有益に働かないのかを考察すべきなのです。……日常の当たり前な付き合いが疎かで、うまい話には耳が働くが、嫌な話には耳が塞がる。そして、困ったときばかりは必死に頼ろうとする。――まさかそんなに酷いとは言いませんが雰囲気は似ていることでしょう? で、このような霊覚の使い方では、うまく行くものもうまく行かなくなります。

 なお、仕事の話ですが、会社に満足を求めるのではなく、まずは家族との大切な時間に満足を求めてはいかがですか。二兎を追う者は一兎をも得ず。結果は後からついてきます。それは会社で認められるという意味であるのか、それとも、その実績が元で別な会社に良い条件で行くことになるのか、それは今論じるべきではありません。または、実家の手伝いに入る前の時間稼ぎ、準備時間でも――いずれにせよ、あなたにはまだ可能性があるが、今のままでは青田刈りですべてを無駄にしてしまいます。慌てないことです。

事例2

 あなたも結果を焦る人です。なぜ他人の変化には鷹揚に構えられるのに、自分に対してはそう厳しくなるのでしょう。そこにあなたの焦りが見えます。

 人を育てるように、自分を育てるのにもタイムチャートを作ってしっかりと検討してみてはいかがですか?

 運の悪い人は、どうもわざわざ悪い選択肢を選びたがります。――どうも気がついていないかのようです。自分の才能とは、他人を喜ばせ、または、他人から尊敬を受けるためのものではなく(そんな露骨では貧乏くさい・センスが足りません)、自分を幸せにするために使うべきなのです。

 ところがどうも、自尊心や虚栄心がさして強くない人も、ついつい自分の才能の使い道を誤ります。おそらく児童教育で、おだてて成果を追い掛けさせる悪影響でしょう。

事例3

 あなたも、せっかちな人ですが、急ぎすぎて疲れ、大切なものを後回しにするという困った癖があります。仕事のスケジュールなどには真剣になりますが、力業には無理が生じ、無理はどこかにしわ寄せが向かいます。

 ああ、疲れたな……と感じたとき、鍼灸や気功などに思いをはせるより、どうしたら無理なく仕事と私生活を成立させるかに思いをはせてください。それがまた精神統一に繋がっていきます。

事例4

 あなたはとてもせっかちな人ですが、あなたがせっかちな行動をしていると、どうも遊んでいるようにしか見られないのは、本来、得な天分なのです。

 でも、遊んでいると見られて、あなたはストレスを感じてしまう。これまたナンセンスです。なぜなら、あなたもまた、自尊心や虚栄心がさして強くないのに、努力や成果を、自分の幸せ、自分の満足という秤に掛けるよりも、誰かが喜び、誰かから褒められることに向けようとしてしまいがちだからです。

 価値観のずれとは、曲がった物差しと同様です。真っ直ぐな道ほどの近道はなく、あなたは誠実で真っ直ぐ歩きたい人なのに、物差しが曲がっていて、道も曲がるのでは……遊んでいるように見られるよりも、遊んでいるようですよ。

事例5

 あなたもかなりせっかちな人ですが、あなたがせっかちな行動をしていると、どうもバカにしているように見られてしまうのは、本当に損な天分です。

 あなたの背後霊から霊媒(老神)に向け、「あなたにも同様の傾向がある」と指摘されました。

 きっと段取りが悪いのでしょうね。たとえば、晩御飯の出来るのが遅かったら……箸を手に持って待ってみるとかすれば? 最初に適切なサインを出していれば誰も驚かないのに、温厚で冷静、親しげで柔和な人が、態度を急変させるから、相手に強く、そして悪い印象を与えるのです。

 落差が激しいから印象深い……忍耐強いのに、忍耐強良いからこそ短気に御思われてしまうのは、損ではありますが努力で補えます。

 これはML参加者全員に当てはまりますね。そのうち、晩御飯の催促法の練習でもいたしましょう。

事例6

 幼少時、待たされることが多かったので、自然、自分の事をせっかちな性格と思い込んでしまったようですが、このメンバーで一番おっとりしているのがあなたです。

 なにぶん、生活とは家族との連携で成り立ちます。あなた一人が頑張っても回りが鈍ければ、何事も遅れてしまう。遅れてしまうから焦るし、焦っていればせっかちにも思われ、せっかちに思われれば欠点だと反省してしまう。

 せっかちは必然であって性格ではない。ただ、あなたがリレーのアンカーとして責任を果たしてきた、と、誇りに思って良いでしょう。

 急かすときは急かし、弛めるべき所は弛める。

 焦って事情に振り回されるより、事情を裁く力を伸ばしていきましょう。つまり、――冷静に、冷静に。


急げば一人

2005/03/16

2005年 03月 16日


 辛い、寂しい、そして苦しい。
   早く楽になりたくて、急ぐ。
 懸命に急いで……急いで一人になる。

 一人だから、辛く、寂しく、苦しいのに。
   助けが必要なのに、焦って、急いで、そしてまた傷つく。

 優しく見守るものが、私たちの自由を尊重してくれるものが、
  私たちの後ろに立っていることを忘れて。
    振り返らずひたすら走る。走って一人になる。

   時には振り返れ。
    過去に戻るためでなく、
     一人でないことを確認するために。

   そして迷子にならぬように。


霊査事例: 2005年3月14日

2005/03/15

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


事例1

 先祖供養が話題になるこの季節、あなたは興味津々という風な心境になります。なまじ祖先の名を知り、顔を知るとそこに偏見が生じるかも知れません。

 知らぬと言うのは確かに寂しいことですが、同時に純粋かも知れません。

 お墓に行くよりも、小春日和に祖父母と縁側でひなたぼっこをするかのような、穏やかな気持ちを大切にする事が一番の先祖供養かも知れません。そしてあなたはそれが出来る人です。

 せっかちなお墓参りは、迷惑かも知れませんよ。おだやかに。おだやかに。

事例2

 あなたはこの時期になると、義務感から先祖供養を思います。ですが、あなたのお父様たちに言わせると、一年間でもっともあなたと遠い時機だそうです。 儀礼に囚われず、生死の区別なく心はいつも共に有りの気持ちで日々を送って下さい。大切なことはその先にあります。正しい道の先に正しい道がある。――当たり前なことではありませんか。

事例3

 あなたの、義理のお祖父様は、本当に良くできたお方です。
 まあ、あまり高級霊とは見えませんが……ここの部分は大切です。つまり、分不相応に責任感の強いお方です。こういう方を大切にしないと天罰《ばち》が当りますよ。ああ。戦前は遠くなりけり。戦前生れの責任感はスマートですな。

 どうもあなたのご先祖様は、直系、または義理の祖先に手を合わせるより、言葉にすれば胡散臭くなりますが、「この日本の礎となって下さった方々へ、無心に感謝を捧げること」が喜ばれるようです。 もっとも、よく考えてみればあなたもそういう人ですよね。つまり、「ありがとう」、といわれるよりも、あなたが目指す物(理想や夢)が大切であると認められる方が嬉しい人ですよね。

事例4

 あなたの理想の高さ(夢想ともいえるが)と、家族に対する愛情の異質さは、ある意味先祖供養において明らかになるものでしょう。理想と現実のギャップ。――あと一年は、その差に思いを巡らせましょう。

事例5

 あなたはちゃんと感謝の出来る人です。でも、霊的感覚だけでなく、物質的な才覚も持っているから、つい才に走って感謝を忘れます。――これはとても大切なことです。特にあなたにとって大切なことです。

 あなたはどっちつかずなのです。世俗と霊的なものと。――大切なのは極端ではなく程々なのですが、あなたはどうも極端に走りすぎます。

 分かりにくいでしょうか。つまり、神様をただ働きさせないことです。

事例6

 説明が難しいのです。あなたは論理も直覚も優れているのですが、どうにも論理を使うときに直覚を使い、直覚を使うべき時に論理を使ってしまいます。

 過酷ないい方ですが、どうもあなたは負け癖がついています。それを挽回しなければ、あなた自身が不幸に感じることです。

 もう一つ……あなたは男兄弟だけの筈ですよね?  姉、目上の女性の幸せを……と感じるのはなぜなんでしょう?――いえ、そう問われても困るでしょうが。


先祖供養

2005/03/13

先祖供養

05年 03月 21日

 日本の霊媒の多くは先祖供養を重視いたします。まあ重視というか敵視する人も決して少なくはありませんが、私に限って言えば、先祖供養を重視しつつも、人に先祖供養を勧めたりは致しません。それは供養する心のなんたるかを理解しないで、先祖供養をしても意味がないと思うからです。要約すると……「この先祖が居るから今の幸せな自分があるんだ……」と、素直に感謝の念が沸上がってくる様な心を育てることが霊媒の使命であると考えているからです。ただ墓参の回数や仏壇磨きの数で先祖が向上していくと勘違いされたら迷信の助長になるでしょう。

 実際、オフ会参加者の多くは、護られている自分、の認識を参加の都度、いや、日々の生活の中で強め、高めていった事と思います。その決算がいわば3月20日のオフ会だったわけです。

 とはいえ、別段、何か儀式めいたことをしたわけではありません。なにぶん、儀式的なことは僧侶・神官の職域というか、飯の種です。心霊を商売にする気のない私などが手を出すべき事ではありません。感謝の祈りすら挙げることなく、むしろ、宴会に置いてきぼりされたかのような不平不満が口を衝いて出たぐらいでした。

 せいぜいが、参加者全員に、判る限りで良いから家系図を作りなさいと勧めただけのことで、血の繋がり、縁の繋がりを再認識することには充分な意義もあれば、それなりに楽しい経験であったようです。――それだけのことです。

質疑(アフター・オフ会中にお酒を飲みながら)

Q 「霊界は階層世界だとのことですが、意味がよく分りません」

A 「この店には大勢のお客さんが、グループを作ってそれぞれテーブルを囲んでいますが、心霊の話をしているのはこのテーブルだけで、テーブルごとに行き来はありませんよね? 同じ店にありながら、それぞれが別な世界を作り上げているわけです。霊界も一つの世界のようですが、そこに暮す霊たちが様々なグループを作って、それぞれが一つの世界のようになっています。」

……地上において、又物質的な視点、即ち肉体だけに注目するなら、すべての人は一つの階層の上で暮して、それぞれを訪ねることは不可能ではありません。しかし、死後の世界、想念の世界においては、それぞれの心境に応じて、行動の自由度が異なります。

 たとえば偏見に囚われている人は、自分の属するグループから表に出ようとしません。外部から入ってくる者まで拒絶しようとします。このように自閉的な霊たちは、下層霊界に暮すと表現されます。又一方では様々な意見に触れても自分を見失うことのない自由な霊魂は、あちこちを旅して廻る事が出来ます。そして自由度が高い霊であっても理解の出来ないことは存在しないに均しいわけで、自ずと底に自由さの限界が生じます。

 さて、行動の制約が多い霊魂にしてみれば、自分の属するグループ外の誰かと面会したくても、相手の境涯にたどり着くことが出来なければ面会することが出来ません。反対に行動の自由度が大きな霊であっても、偏見や独善に捕われている霊では、面会希望しても気がついて貰えないことが往々にあります。

 つまり、自由度(心境・境涯)が同レベルの霊魂同士はすぐに会えるし、高い霊が下層を訪ねることも比較的自由に出来るのですが、下層から上層を尋ねることには無理が伴うのです。

 ところで、地上に暮らす子孫のことは、階層に関わらずおおむね皆、関心を持っていますので、地上が音頭をとると、階層をまたがった集会が行いやすいのだといいます。――2月のオフ会で、私が受信した、「先祖供養」という言葉で表現した要望とは、この階層を跨った一族会同のチャンスを作れというものだったのです。

オフ会前・オフ会中

 いつも友人と連れだって参加してくれている方から、「最近ラップ音が酷くて」……とのメールを受けました。私が精神統一してみると、「先祖供養の日」に向けて、歓び張切っている祖先の霊たちがいると感じ、その旨を返辞して、オフ会の日を迎えました。

 オフ会で、その後の話を聞いてみると、そのメールと前後してぱたりとラップが止ったそうです。

 興味深いのは、同じ参加者である友人が訪ねてくると、ラップ音も雰囲気も鎮まるのだそうで、曰く――「お行儀よくしている」

 ラップ音と言っても家の軋み程度の音だということで、それこそ本当に家の軋みかも知れません。誰が居ても構い無く鳴るのであれば霊とは思わぬ事でしょうが、友人が来ると鎮まるということから、やはり霊起因の音なのだろうと信じる次第。

 というわけで、ラップ音の具合で、やはり今回の、先祖供養――というより、一族会同がうまく行ったのだ、と認識したという訳です。

オフ会中

 今回は、会場の使用時間が長かったため、15分前後の統一を7回ほど繰返しました。ところが霊査がおりず、苦悩したのはオフ会レポートにあるとおりです。最もその実体はというと、霊査がおりないというよりも、霊査をとるべき私も、皆と一緒に船を漕いでいたのですが……

 不謹慎という意見も多いことでしょうが、理想的な瞑想状態は、睡眠と覚醒のぎりぎりのラインを維持することなのです。この状態下でこそ明瞭な霊視も可能となります。もっとも「願事を叶えるのには」まで書取りつつ、一線を越えて私が寝てしまったのは、参加者からブーイングが巻き起りましたが……でも、時間になると皆起きるのです。これが昼寝と精神統一の違いです。しかも、起きて気分がすがすがしいと感想を述べます。

 もう一つ、私の半夢中に見た姿は、

 地平線の彼方まで続くかの様な、一面に花が咲誇る草原。あちこちに、三人、四人と、人がよりあって花を摘みながら会話をしている様……とても平和な光景です。――ああ、こういう集りが霊界で催されているのだ、と、感じ入った次第です。

 

オフ会後

 電車の乗継ぎが順調で、しかも車で駅まで迎えに来て貰えた……電車の到着とほぼ同時に車が到着する手際の良さ……さっさと風呂に入って眠りたかったのだが、「寝ぼけて書いた様なメモ(そのまんまだ)を清書しないと、訳が分らなくなるぞ」といわれて渋々整理をした。――そして朝。もう少し眠っていたい気持と、鼻水で溺れそうになっている現実の板挟みの中で渋々と起きあがった。恐らく……早く寝ても眠い朝を迎えたことだろう。

 

オフ会翌日

 幾人かの霊から、感謝のメッセージを戴きました。別段私が働いたつもりもないので、面はゆいのですが、きっかけを作ることも大切な仕事ではありますね。定期的に繰返していきたいと思いますし、幅も拡げていこうと思います。

 そして、私の守護霊からの通信ですが……『世話役が大変だった。あれに会いたい。かれに逢いたい。○○の指導を受けたい等々……世話役の人では充分に集めておいたつもりであったが、何とも手不足であった。今度は絶対に、オフ会とは別な日にしよう。』――全く同感です。


 

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死後の自覚の前に、今の自覚

2005/03/12

2005年 03月 14日


 自分を過大評価する人は、周囲の人々の頭痛の種。
  他人に過ちを見つけても、自分の過ちは見もしない。
   そして死後には偽りの天国で暮らす。

 自分を過小評価する人は、自分自身が悩みの種。
  自分の過ちを見つけても、他人の過ちを見もしない。
   そして死後には、遠慮があって天に昇らぬ。

 為すべき事を知り、為すべき事を成す。
  当たり前の道が一番の近道なのに、わざわざ脇道を選ぶ多くの人々。
   自分を騙して生き、自分に騙されていることを知らずに生きる。

 騙されることが辛いという。他人に騙されることが辛いという。
  だが、自分に騙されずにいる人がどれだけいるというのだろう?
   自分を騙しながら、他人を信じようとする人々。

 自覚もなく、真実も知らず、ただ自分を信じることだけ。
  過大評価か、過小評価か――間違いを信じて人はどこに行くのだろう?

 人の心には光もあれば闇もある。
  闇を減らして光を増やすのが修行であるのに、
   闇を隠し、偽りの光を増やすのが当たり前の人生。

 自分を知らず世間を漂う人々。
  死後はどこに落ち着くのか? 地上にすら行き場がないのに。

 死後の自覚の前に、生きている今の自覚、
  今、幸せでなく、いつ幸せが得られるのか?
   この世で幸せでなく、死後に幸せになるのか?
    あなたはそれほど死後の世界を知っているのか?


朝の一時に見る霊性

2005/03/12

2005年 03月 12日


 朝のあわただしい中、出社途中の出来事です。始業時間に間が無く気持が焦っているとき、そろそろ正門が見えてきました。ふと正面の横断歩道の端に小学生が立っています。信号器はありません。急いでいるからやり過ごしちゃおうかな……という気持が生じた途端、でも、足はしっかりとブレーキを踏んでいました。……念のために告白しますが、私も往々、過失・故意に横断歩道の歩行者を無視することがあります。まあ言訳は色々なきにしもあらずですが、ここで注目するのは、このような状況下の心の働きです。

○でも気がついた。

 人間の視覚は、すべてを平等に見ているわけではなく、自分の関心のあるものに集中しがちです。それ故に急いでいればゴールである正門ばかりが目にとまるのはごく自然な反応です。……でも、横断歩道で歩行者が待っているのに気がついた。

 通常ならば澪としがちな事に気がつくことを、「霊感」と表現すると「その程度で!」とお怒りの方も多いことでしょうが、少なくともカタカナ表記の「インスピレーション」、思考の閃き的なものである、ということは感覚的に容認できることでしょう。そしてここでは敢て、このような気づきを「 霊感」と捉えてみてください。

 僅かな時間ではありますが、車を一時停止することは時間のロスになります。すなわち、横断者に気がつくことは自分にとって不利なことなのです。焦っているなら、気がつかない方がよい。実際、本当に焦っていたら正門以外は何も見えないかも知れません。そして、注意深い人でも見落しがないとはいえないのです。

 もし、横断歩行者に気がつくことを、霊感に喩えるなら、霊感とは「自分に不都合なものに気がつく」という一面があるといえるでしょう。この一点を認識するだけで、心霊研究上の様々な問題が見えてきます。

1,心霊相談の現場に生じる反目

 人々が答に気がつかないのは、自分に不都合な事を故意に無視している場合があるのです。その厭なものに相談者に代って、目を向け、それを相談者に受入れさせるのが、解決の道であるとしたら?

 もしも霊媒が、ストレートに回答したら、相談者はどう反応するでしょう。――現実認識に難のある人だから霊媒に相談せざるを得ないのです。大抵は、霊媒を憎んで他の相談先を探します。

……実をいえば、老練な霊媒(非合理的な言動かつ、強い問題解決力を持った、研究家泣かせの霊媒)は、この問題を、実にスマート(不器用な私から見ると)に解決しています。狐霊や狸霊や天狗のせいにして、相手の面目を立つようにするのです。が、こんなやり方は現代では通じない。厭、通じたとしたらその方が恐ろしく思えるのは私だけではありますまい。

 近代心霊研究がもたらした光は、迷信を追出したと同時に、悩める人々の言逃れのチャンスを奪ったのだろうと私は考えます。正義は両刃の剣なのです。

2,心霊嫌いな人々

 往々、心霊に興味を持つのは霊的に鈍感な人、ヒステリックな心霊嫌いの人ほど霊感が強いという傾向があります。もっとも、ある程度霊感が強いと、必死に心霊研究せねば自分が正気を保てなくなるという現実があり、更に霊感が強くなると、本来主観的な性質の強い心霊問題を鵜呑みにして迷信を生み出す側に廻るので厄介です。

 この霊感の強さによって揺らめく方向性の違いは、要するに霊感そのものが、自分の厭なものに目を向けさせる働きがある事と認識すれば理解しやすくなります。

 つまり、霊感が余り強くなければ、厭なことに直面するだけ、ある程度強くなると、厭なことの解決力が育つようになり、余り強いと厭なことを圧倒してしまうのです。

 ですから、心霊に関心を持ち、眠っている霊感を刺激された人が、霊的に敏感になると……覚悟が必要になるわけです。厭なことに直面したとき、自分を信じて解決の努力に進むか、目をつぶって立ちつくすか、現実逃避の方向に走り出すか……。この流れは従来全く目を向ける人がなく、ただ、「あの人も堕落したか」といわれて終っていたのです。

3,霊感開発法の嘘

 霊感を欲しがる人にその動機を聞くと、どうにも現実逃避的な色彩が強くあります。つまり、一足飛びに厭な事柄を圧倒する力を欲しがるだけで、本来自分自身が持つべき、問題解決力の育成については完全に目をつぶっていると感じるのです。これはとても皮肉な、つまりナンセンスな話です。修行したくないから霊感が欲しい、そのための修行ならする、というのですから。

 で、こんな矛盾を実現しようとするのでは、水道を引くのに、わざわざ曲りくねったパイプを使うようなものです。誰がそんな面倒な手段を使うというのでしょう?

○そして行動した。

 急いでいると、または焦っていると、人間はワガママになりがちです。この時の私は、心の隅には時間計算のタイムチャートがあって、「2,30秒程度の停車は問題ない」との計算も出来ていましたが、でも「急いでいるんだからいいや、そのままいっちゃえ」という思念が支配的でした。……でも足はブレーキを踏んだのです。

 この問題認識から行動に移る一連の働きを、人間の生理的な反応として見なすことに不都合な点はありませんし、あえて心霊的な解釈をすべき必然性もないでしょう。ですが私は思います。私は心霊――霊と心の相互作用働きを研究しているのであって、「霊」を研究対象にしているのではありません。

 その議論や証明の過程に様々な葛藤があるのにもかかわらず、なぜ人が霊を信じ、死後の個性存続を信じるのか。私はそこに知・情が持つべき必然性があると見るのです。

 そして、人間を単なる自立的存在としてのみ見るなら、唯物論者のごとき利己的な行動こそが最も自然な行動であると想像します。ただ心霊家は人間には物質的自立性の他に、非物質的な自立性があると考えるのです。

 論理的には無駄な行為を必要と認識させる働きを受けた。

 論理的な選択を抑えて必要な行動をもたらす働きを受けた。

 霊魂否定論者、または自力信仰者には気に入らぬであろう解釈を組立てると、会社に急ぐ私の心に代って、物質的な私(見かけ上の私)に交通道徳を護らせた意識の働きが存在した。――ここで私の心が果した役割は、ただ、急ぐことで得られる僅かな利を諦め、私の上位に位置する意識の働きを容認したというだけのことです。

 ずいぶんと回りくどい話ですが、どうか自分の心の働きと重ね合せてみてください。私が論じているのは、一つと思っているものが実は多層で成立っているというだけのことなのですが、その層、一つ、一つには皆様が知りたがっている相応の意味があるのです。

4,霊性向上のチャンス

 そもそも「霊性」という言葉自体が、様々な解釈が横行していて誤解の元なのですが、私は霊性を「人として為すべき事を感じ取る力」として論じます。

 上述の例でいえば、急いでいるときの一時停止は、自身にとって不利益ですが、交通マナーひいては人間としてあるべき姿として大切なことです。――つまり、この時は私の霊性(未熟ではあっても)が適切に働いたということです。もしもこの時、「急いでいるのに停車してやったのに、横断者の野郎は礼もしない、今度は通り過ぎよう」と考えたとしたら……人は必要なときに、善い行いではなく悪い行いを選ぶようになっていくでしょう。

 ところで、ここで挙げた実例は、朝の忙しい最中に、僅か30秒程度の時間を見ず知らずの人に割くか、割かぬか、という利害の差がとてもわずかな話題に過ぎず、誰かの命がかかっているわけでも、大きな損害が予想されるわけでもありません。従って、この程度の妥協……いえ善行を惜しむ人はさしておりますまい。この程度の話題だけならばきっと守護霊(上述の例では、色気の足りぬ我が守護霊ではありませんでしたが)はきっと楽な仕事なのでしょう。反対に、人の命がかかっているとか、一生払いきれない借金を背負いそうだ、等という極端な場合などは、恐らく人は歓んで守護霊の意に従うことでしょう。

 ところが人間の好き嫌いや、負けず嫌いの心が働いたりすると、人は霊性の働きに従わなくなります。上位の意志からのインスピレーションよりも、下位の意志に迎合してしまいがちなのです。

 人に認められる善行は行いやすく、人知れぬ善行は行いにくい……分不相応、実力不相応に外面ばかり善くして生きるから疲れ果てて家の奥に引き籠もる多くの人々、または引き籠もり寸前の疲れた人の群れ――外の評判を気にする事は決して悪くはありませんが、評判ばかりが気になって内なる声に耳を傾けなくなる――それが霊性損失のメカニズムなのです。

 自分よりも惨めな相手を探して安心し、自分より優れた人のアラを探してまた安心する。そのような日常は、断崖絶壁にしがみついて登ることもできず、プライドが邪魔して降りることも出来ずにいるのとどう違うのでしょうか?――たとえ一時的には不都合であっても、内なる声に耳を傾ければ、その過程は辛くてもいずれは順調な道に出くわします。いや、道に迷っているときに出会えばこそ、導きの力の価値が見えることもあるのです。


心霊主義再考

2005/03/10

2005年 03月 09日


 ――原点回帰――

 予定ではかなりの分量になります。多忙な時機に、そして、需要の高まる時機に、落ち着きのない時機にこのような文章を纏めるのは、きっと必然があってのことでしょう。決して、うまく纏められない言い訳ではないはずです。

――イントロダクション――

ガイドラインとして、しばらく雑然とした言葉が続きます。

――

 120パーセントではなく100パーセントが目標。

 心霊相談を受けていて、強く感じるのは懸命な相談者ほど、自分の実力を越えた要望をしがちである点です。人には器があります。理解の限界、才能の限界。その限界を打ち破るのが人間の底力であるかのように思うのは、傲慢であるというのが私の直覚です。そもそも、物質的なものには必ず限界があり、無理は長続きせず、作用には反作用が伴います。

 私は思います。「想いは限界を破る」……私はこれを否定します。

 限界とはすなわち限界、つまり越えることの出来ない境界の事です。それを越えることが出来るとしたら、それは限界を越えたのではなく、限界と思っていたラインが間違っていたと言うことだと信じます。

 すなわち、人々は100パーセントを超えるために努力を重ねるが……人々に必要なのは実は、100パーセントに近づく努力であると言うことです。人は失敗を恐れて自分の可能性を低めに見積もり、それでも達成できないと悩んでいます。ごく稀に自分で引いたらラインを突破できたものが有頂天になるが、それは物質的な限界を超えたのではなく、自分で勝手に引いたラインと遊んでいるだけだと私は思うわけです。

 一歩引いて論点を纏めます。――なぜ人は他に勝つことを強く求めるのでしょう。自分に勝つことを忘れてまで。

 先祖供養

 先祖供養はとても大切です――といって先祖供養のなんたるかは理解しがたい。いや、一から十まで本当に迂遠であればむしろ楽なのです。こういう時には反対に考えてみると糸口が掴めたりいたします。

 どのような人が先祖供養を軽視するのでしょうか?

 先祖供養はとても大切です。――先祖供養を軽視する人々の様になりたくなければ。


偽善者と踊る。悪魔と踊る。

2005/03/06

2005年 03月 06日


動機が攻撃的であると、文章まで攻撃的になる。そして攻撃的な文章は敵を生む。――ナンセンスな話だ、わざわざ悪縁を結ぶ必要もない。とはいえ、悪縁を恐れて口を噤めば真理に発展はない。

人が理解できることには限界があり、人はそれぞれ自分の理解できる範囲のことを語り、そして聞く。誰もが自分の理解できることをいっていれば居心地が良いが、理解のできぬことを言うものがいれば居心地悪く、敵意すら抱いてしまうのが人間。

真理が教えるように、人生が向上のために存在するのだとしても、多くの人々にとって「向上心」とは心の装飾品の一つとして口にするものでしかない。そして人は向上を目指して、向上を強いられる。

人は向上とは無関係な方向に足を向け、転げ落ちて少しだけ向上するのだ。痛みと共に真実を学ぶ……つまりは、多くの人々は失敗からのみ真実を学ぶ。失敗せぬように懸命に学び、修行をする人々もまた失敗からのみ学ぶ。

失敗を恐れて学ぶ者は哀れなり……痛みを得ずには学べぬのだから。

失敗を恐れぬ者のみが着実に学び、前に進む。

――痛みを避ける方法もまた、失敗を恐れぬ者のみが学び取る。

多くの霊媒は、「地上に悪霊が満ちている」という。そして人々に説く、悪霊に注意し、惑わされぬようにせよ、と。――おお、なんと幸せな視点であるのか。

私は口を噤み、人知れず涙する。……霊感を得て始めて気がついたその現実。

『なんと愚かだったのだろうか、生まれくる前の私は。正義は名も無き者にしか具わらず、地上に見いだせるのは偽善者ばかりだ。声高に、愛と、正義と、倫理と、常識を叫ぶ者は、罪の重みに喘ぐ者ではないか!! 自分の生み出した罪を、人知れず償うためだけに善行に励んでいる。許しを与えてくれるなら、インチキ宗教家、インチキ霊媒にだってその身を捧げる連中ばかりだ。』

罪を償った者は許すことの大切さを知るが、罪を隠す者は他人の罪を暴き立てることにばかり熱中する。

ううう……それこそが現代日本の姿である。恐ろしいのは悪霊でもなければ、悪人でもない。胸を張り、声高に愛と正義を叫ぶ偽善者である。

あなたは想像できるか?……悪人ばかりが警察官や弁護士や裁判官や政治家になる社会を。さすがに社会はそこまで酷くはないが、あえてその職業を名指しはすまい、人一倍倫理を必要とする職責の多くは、偽善者の巣窟である。

近代心霊の教えるところ……死者も生者も人であるには変わりない。すなわち、死後が悪霊ばかりであるなら、地上は悪人しかいないということなのだ。ならばこそ、死後の世界が悪霊ばかりだという、霊媒たちよ。あなた方はなんと幸せなのだ。その意味するところを思わずとも過ごせるというのは。


金よりも大切なものがある……なんと陳腐なセリフだろうと私は思う。いや、私は拝金主義者ではないし、金に力を認めるほど金持ちというわけでもない。しかし、人々がなぜ金を追い掛けるのか、その動機に思いを巡らせれば、「金よりも大切なことがある」などという無粋で陳腐なセリフをいう人が哀れに思えるだけだ。そして、無粋で陳腐なセリフと思えばこそ、そう言う事が多くの敵を生み出すことを理解する。

屁理屈を言えば――自分の愛するものを救うために金が必要ならば、愛情豊かな人ほど金を追求するだろう。まして良識で言うにせよ、金の亡者が金より大切なものがあるなどという話に耳を傾けるものだろうか? 「金より大切なものがある」などという、無粋で陳腐なセリフは、「金よりも大切なものがある」と信じ、なおかつ、金による苦労を知らぬ者だけが喜んで聞く話題に過ぎない。

世の中には不要なものなんて無い。金だって、人々が必要とするから生まれてきたのだ。なるほど金に迷って人生を失う人は多いが、所詮金は人の道具なのである。つまり、悪いのは金ではなく人の欲だ。人の欲を責めずに、「無情の金」すなわち心なき存在である金に罪をなすりつけるのはなんと偽善的で、なおかつ、人々の共感を得やすい話題であるのか。

欲を少なくしろ、というのと、金が悪い、というのとどちらが人々の共感を得やすいのか……誰もが現実逃避、責任転嫁を望んでいるのは、人々の心が破綻しつつある現実の一端だ。

お金は大切だ。だが、一番に大切なものではない。それが事実である。まして……物事を一面の理で割り切ろうとするのは視野の狭さの証である。

考えても見よ!……金は得がたい。では、金よりも大切なものは、金よりも得やすいのか?

金だけで良いというのは、なんと慎ましい心の持ち主なのだろう。――誠実さが失われつつある現代において、その誠実を裏切り、弄ぶ人々の何と多いことか。その貴重な誠実さを求めずにただ金だけを求めるなどと言うのは、なんと慎ましい欲望なのだろうかと私は思う。

欲を否定するのは容易い。まして、自分の欲を棚に上げて他人の欲ばかりをあげつらうのならば、良心と霊性さえ眠らせれば容易いことだ。だが欲は本当に悪なのか? 人々に欲望を与えたのは神ではないのか? ならば神は悪なのか?……なんと浅ましい論理の展開か。――私はそういう悪魔の思想と踊らない。

私は神の祝福と共に生まれた。たとえ私の人生に苦労と苦悩が満ちあふれたとしても……私は神と共にある。私は神の与えてくれた一切を、私が幸せになる為の力とする。嫉妬も妬みも向上心のバネにする。怒りも憎しみも正義のためのバネにする。物欲を発展の力に、性欲を愛情の豊かさのために。

私は神を祝福する。神が私に与えた一切を、私が自分の幸せにつなげることによって。


2005年 03月 07日

悪とは未熟さの表れ

心霊思想に於いて、悪とは未熟さの表れと見る。未熟さ=悪なのではなく、未熟さ<悪であることに留意して欲しい。自分が未熟であることを素直に認めず、虚飾しようとするから、周囲に迷惑を掛け、その結果から、「あいつは悪い奴だ」と罵られるようになるのだ。

意識して悪事を行うのは、まだましだ。つまり、善い行いを知っているということなのだから。だが、知らずに罪を重ねる、善い行いのなんたるかを知らぬ人はどうすればよいのか?――これこそが暗然たる現実だ。意図して悪事を行う人間は、切っ掛けだけで大きく変り得るが、意図せずに悪事を行う者はとても救いがたい。ましてそれが傲慢で自分の行いに自信を持っているならば。

悪しき言動を延々と繰返す……なぜ正しがたいのか?

智の質が低いからなのだ。

悪を正すのには愛と忍耐が必要である。それ故に善導するという仕事は、容易に始められることではない。だが、自分の非を正し、また、より良く生きようとする努力は、愛と忍耐とが欠けていようとも直ちに始めなければならない人間の義務だ。その義務は誰に強いられるわけでもないが、人類の歴史の最初から最後まで付添うものなのである。

欲だけが悪いのか?

間違った努力は良い結果を生まない。理を論じて答を得ても、それで問題が解決しないのであれば、その理も答も一面のみのものだということだ。

たとえば、金に憧れるのがいけないことなのか……私はその論議を愚かに思う。いくら金を持っていても、借金が多ければ心は安まらないものだが、大事業を行う者は、入ってくる金も多いが出る金も多く、扱う金が多いから借金も多いものだ。

今、金を持っていて明日も持っているとは限らない。今日、貧乏であっても、明日も貧乏とは限らない。富豪と結婚したつもりが結婚してすぐに破産に転落しないと誰が保証できるのか。または自分の命と引替えに大金を得てどうなるのか。

家族を楽にさせようと、金を稼ごうとして無理な仕事を続け、病気に罹って莫大な治療費を取られる――等という話も聞く。愛する者のための強欲であっても摂理は特例を認めないものだ。無理をするから破綻する。仕事も金銭もほどほどにした方が結局は豊かに生きられもする。

金に憧れる人は只今の金の有無ばかりに気をとられている。問題は金に憧れることではなく、目の前のことしか見えないことなのだ。目の前しか見ないから、騙されもすれば、大きな過ちも犯す、なにより周囲に迷惑を掛けるのである。

金銭欲の悪い部分を見て、ただ金銭欲だけを正そうとするのは一面の理だ。金銭欲が昂じる、その原因から治していかなければ、極端な行動に走るか、偽善的行為に走るのである。つまり、拝金主義から一点して、病的な禁欲主義に走ったり、他人の財産を「預ってやる」等ということが生じる。

一つの極端からもう一つの極端へ……それは中道を知らずにいるということだ。語るに値しないのである。


質問: 霊を感じる

2005/03/05

質問

Q「瀧行の初日、頭の中でずっと音楽がなっていました。せっかく瀧行に来たのに、雑念に絡まれっぱなしではイカンナ~と思って二日目を迎えたんですが、、、最初に瀧に打たれた時、確かに「声」が聞こえてきたんです。きっと、誰かの声が共鳴していたんだと思うのですが・・・女性の声のような感じが、、、後ろに戻って、真言を唱えると今度は男性の声がまた共鳴し始めて・・・すっかり怖くなってしまって」

 最初に余談

 精神統一やその他の修行、または単に霊媒を中心とした食事会などの場で、突然声が聞こえたり、光が見えたとしても慌てる必要はありません。「霊を感じるのは霊媒・霊能者だけ」というのがそもそも先入観であって、人は誰でも霊を感じる力を持っています。そもそも霊媒・霊能者だけが霊を見たり、霊と話が出来るのであれば、幽霊の目撃者や霊障を受ける一般人がいないことになります。

 まして霊魂のすべてが悪霊低級霊とは限りません。なにしろ、死は誰にも平等に訪れ、悪人であろうと善人であろうと死を免れることは出来ないのです。そして今、霊を恐れる人々にもいずれは死が訪れます。自分自身も死してしまえば、回りは皆死人だらけ、死人を怖がっていたら、おちおち死ぬことも出来なくなります。

 地上で出会う人間も、聖人君子ばかりではないが、ヤクザや泥棒ばかりでもない。霊界だって神様ばかりではないが、悪魔ばかりでもない。眼をつぶっていたら迷わされなくとも一歩も前に進めません。

 冒険よりも安全第一 …… そもそも危険の追求と冒険は意味が違うが、人の足を引くのが低級霊の性質で、人を危険に押しやるのが悪霊の性質なのです。慎重に、でも前に進むことを止めない。それこそが心霊を学ぶものの心がけることです。くれぐれも、低級霊や悪霊に迎合せず、時には共に助け合いながら慎重に修行の歩を進めましょう。

回答

A 「絶食などの荒行の最中、または座禅などの最中に、声が聞こえたり、光が見えたりということは良くあることとされています。(生憎とこの問題については、私の立場は非常に微妙です。なにしろ、食事の際や寝ている最中にも光が見えたり声が聞こえたりするものですから)
 この問題の解釈には、二つの立場があります。

 1,心霊科学を考慮しない立場

 潜在意識が修行から逃れたがって妄想を作り上げるという解釈です。釈迦やイエスが修行中に悪魔から誘惑を受けたというのは、この心の働きと見て差し支えありません。

 なお、釈迦やイエスはこの誘惑の拒絶に成功しましたが、過去多くの修行者がこの誘惑を受け入れてしまいました……しかし、元が現実逃避の妄想ですから、誘惑に乗ったからといって、実際に豊かになれるわけでも異性に好かれるわけでもありません。

 2,心霊科学を考慮した場合

 一種、異常な状況が感覚を鋭敏にし、霊感が働いた、と見なすことが出来ます。なお、1の立場の人から見たら、2の考えは嫌悪される考えでしょうが、それは霊感への誤解が底辺にあります。

   霊感について

 そもそも霊感は、荒行をせずとも生じる人には生じるものです。霊感を欲っして荒行を目指すという人も聞きますが、そういう人々は、霊能者は霊感を鈍くするために荒行するということを聞いたら、どう思うでしょう? (事実はそう単純ではないが) そして、霊感の発現は、その後の選択によって天界と魔界への分かれ道となります。

 才能の開花、そして生長の度合いには早い遅いがあります。早熟な開花、素早い生長を遂げる人を世間は天才などと呼ぶわけですが、たとえ天才であろうとも最初は幼稚な才能でしかありません。これは霊感にも当てはまります。

 最初から超高級霊が憑依して、高度な霊訓をバリバリと表現する……仮にそういう事実があったとしても、それは霊媒の才能を示すものではなく、憑る高級霊の能力によるものです。つまり、「 弘法筆を選ばず」ということです。ならば、高級霊はどうしてどんどん地上にメッセージを降ろさないのか……と疑問に思う方もいらっしゃるでしょうが、後が大変だからです。

 一度天界の高みを覗いた霊媒は、その後、何を見てもつまらなく思えてなりません。せめて死後にその境涯で暮らせるのならばいざ知らず、死んでも容易にたどり着けない境涯を覗いてしまえば、生も死もなんと虚ろなものか。知らぬものを恋いこがれるのは難しいが、一度知ったものを忘れるのは何とも難しいものです。すると、 たった一度の交霊がその後の霊媒を廃人にしかねないのが、較差が大きな境涯間の交信なのです。

 話を元に戻します。霊感にも訓練が必要である。ならば、霊感の初期には、挨拶や短い文書のやりとりが、しばらく続くのが普通です。当然、教育的な話をするにしても、最初は中継が断絶したり、低級霊からの通信と混信したりしがちなので、高度な内容よりも、むしろ子供向けの絵本じみた通信が主になるでしょう。

 ここでつまらぬ、と諦めた者はそこまでです。また、大騒ぎをして大恥をかく者もいます。……これが禅宗などで言うところの魔境に落ちた者なのです。 結局、招かれる者は多いが選ばれる者はごく僅か……初級クラスに入学しても卒業するのはごく僅かと言うことです。

   声が聞こえたらどうすべきか?

 まず、慌てたり、怯えたりしてはいけません。……その危険性は、来客を玄関で出迎えて、怯えて逃げ出すのに似ています。バツの悪い思いをした来客が、そのまま立ち去ったとしたら、誰が戸締まりをするのでしょう? 慌てたり怯えたりした心の動揺が、低級霊の憑依の切っ掛けになる可能性もあります。ですから決して怯えぬことです。

 決して増長してはいけません。……たとえ相手がどんなに高貴な霊であろうとも、先方から尋ねてきたのであれば、儀礼などは棚上げして、ただ、誠実に挨拶をするだけでよいのです。まして、見知らぬ同士であればしばらくは自己紹介が続くのです。――その事に思い至れぬ礼儀知らずが、霊感を取り違えて恥をかくのは、ある意味当たり前のことですらあります。

 決して卑下しないことです。……相手がどんなにつまらぬ通信を寄こそうとも、それを卑下してはいけません。不慣れな交信の初期には、まず簡単な通信を繰り返すのが手順なのです。この段階を疎かにした者はいつまでたっても上達しません。

 決して自分から通信を欲しがらぬことです。……霊媒初心者に通信を送るためには、根気・忍耐力と寛容さを必要とします。その条件を兼ね備えた霊であっても……四六時中、ずっと人間の側に待機して話し相手になれるわけではありません。そして、適切な相手(霊)がいないときに通信を欲しがったらどうなるか? 忍耐力の代わりにヒマもしくは必然性、根気の代わりに執着心、寛容さの代わりにワガママさを持った霊が返事を寄こすかも知れません。

悪縁断ち難し――そのような霊と関わると、縁を切るのに苦労いたします。

 欲をかかず、昂奮せず、淡々と受け止め、習熟していけば、いずれは有益なものに変わるでしょう。

 

 静岡オフ会補足

 瀧行後の雑談の話題ですが、冷水を浴びている最中に倒れられたら困るが、あまり早く切り上げたら修行にならない……そのバランスを見極めるのに苦労しますが、私の場合、当然霊感に配慮の多くを依存します。

 この日は興味深いことに、瀧の守護・支配霊(男性的)は「適度な修行にせよ、あまり水に長居するな」と助言を下さったのですが、と同時に女性的な霊が「もっと厳しくせよ」と主張し、間に挟まれて判断に迷いました。振り返って考えると、厳しさに心が歪むより、時間を掛けて仕上げようとする霊と、仕上げを急いだ霊がいるようです。


2005年 03月 04日

霊感の現れ方について

2005/03/01

2005年 03月 01日


Q 「特定の家を訪ねると、目がチカチカ、胸がムカムカする。――霊障でしょうか?」

A 「霊査、および、症状から考えると、どうも霊障というより、いわゆるハウスシックと思えます。それを霊障と思いこんでしまったのは、やはり幼少時から棚上げしてきた問題を、解決する糸口が欲しくて、無意識に霊問題と絡めていたのではないでしょうか。

 あなた自身は、本来霊感が強い体質だと思うのですが、その現れ方がどうもやはりアレルギー的だとしたら、チョット違う気がするのです。私の体験的には、霊障は緊張と似ています。極度の凝りや発汗、悪寒等という感じが主で、これはもちろん体質にも拠るでしょうが、あなたの場合チョット違うし、私が見た光景も、何やら薄暗い家の中(つまり信仰心が薄い)を、グルグル見回すのだけど、でも誰もいない、という感じでした。」

Q 「外にいる時も、頭痛や吐き気などに襲われることがたまにありますが…河川敷のグランドにいたときや、雰囲気の悪い家の庭にいたときになることがあります。」

A 「これはまた別な話題となりますが、あなたの潜在的な霊能力はかなり強いと思います。それを前提に考えると、あなたが霊を感じるとした場合、まず最初に霊視から始まる筈です。雰囲気から霊を感じるというのは、事故的な可能性もありますが、原則的には考えられないのです。ここでいう事故的、というのは、要するに無視し得るレベルの問題――むしろ無視すべきレベルの問題と言うことです。

・・・

 人はそれぞれに守護をする霊を持つわけですが、その守護霊、または祖霊たちにも得手不得手があるもので、書画が得意な霊は、ビジュアル的なメッセージが多く、書画が不得意な霊は主に、思念・音声的なメッセージが中心となって姿形を見せてはくれません。

 また、たとえば私一人で、神社仏閣にお参りしてもあまりビジュアル的な霊信を受けないのに対して、師匠と共に神社仏閣にお参りすると非常にビジュアル的な霊信を受けやすくなるのは、結局、中継ぎをしてくれる師匠の守護霊が書画を得意とすると理解できます。――ちなみに私の守護霊は少々訳があって滅多に表に出てきません。お陰で上述のような興味深いことが見えてきます。 つまり、相談者毎に、霊視しやすい人、音声だけの人、霊査が非常に取り難い人がいて、それは私のコンディションと言うより、やはり相談者・オフ会参加者毎の性質なのです。要するに、私の守護霊が滅多に表に出ないために、より相手の守護霊の性質が浮上がってくると言うことです。

 そして、オフ会参加者の中で、あなたの霊査はいつも飛び抜けてビジュアル的な要素が強いのです。すると、私の霊能力の特質よりも、むしろ、あなたの守護霊の特質としてビジュアルに強いのですから、その守護霊の影響を強く受けるあなたもビジュアル的な霊能力の発揮が期待できます。いえ、ビジュアルに強い人・霊には一般に苦手な感覚があり、それは大抵、臭覚に現れますがするとどうしても、ご相談の障害が不可解なのです。

・・・

 以上が論理的な帰結なのですが、文章を纏めている内に、ハッと気がついたことがあります。くどいようですが、心霊研究上の必要から、このハッという感覚をさらに分析しますが、いわゆる職業的な勘などと呼ばれている一種のインスピレーションは、自分を守護する上級の霊魂からの導き、と見なすことが出来ます。つまり、あなたの守護霊よりも上の存在がヒントを寄せてくれた、という意味と受け取ってください。

 それを踏まえて解説すると……

  1. あなたは「霊感が強い」=「共感する力が強い」
  2. だが霊(人霊)の影響が無いことを守護霊が主張する。
  3. 従ってあなたの感じる不快感は霊障(人霊からの障害)ではない。

 と、いうのが霊媒としての私の判断です。が、ハッとしたのは……

  3a、人霊以外の感化ではないか?

 と、言うことです。質問者向けと言うより、この文章を読む第三者向けの言い訳として書くなら、それはつまりあなたが変な霊の影響を受けやすいという意味ではなく、人間よりもむしろ、環境に敏感な動物たちに同情を寄せやすい人だから、人霊以外の感化を受けやすいのだと思い至ったと言うことです。


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