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死後の自覚の前に、今の自覚

2005/03/12

2005年 03月 14日


 自分を過大評価する人は、周囲の人々の頭痛の種。
  他人に過ちを見つけても、自分の過ちは見もしない。
   そして死後には偽りの天国で暮らす。

 自分を過小評価する人は、自分自身が悩みの種。
  自分の過ちを見つけても、他人の過ちを見もしない。
   そして死後には、遠慮があって天に昇らぬ。

 為すべき事を知り、為すべき事を成す。
  当たり前の道が一番の近道なのに、わざわざ脇道を選ぶ多くの人々。
   自分を騙して生き、自分に騙されていることを知らずに生きる。

 騙されることが辛いという。他人に騙されることが辛いという。
  だが、自分に騙されずにいる人がどれだけいるというのだろう?
   自分を騙しながら、他人を信じようとする人々。

 自覚もなく、真実も知らず、ただ自分を信じることだけ。
  過大評価か、過小評価か――間違いを信じて人はどこに行くのだろう?

 人の心には光もあれば闇もある。
  闇を減らして光を増やすのが修行であるのに、
   闇を隠し、偽りの光を増やすのが当たり前の人生。

 自分を知らず世間を漂う人々。
  死後はどこに落ち着くのか? 地上にすら行き場がないのに。

 死後の自覚の前に、生きている今の自覚、
  今、幸せでなく、いつ幸せが得られるのか?
   この世で幸せでなく、死後に幸せになるのか?
    あなたはそれほど死後の世界を知っているのか?


朝の一時に見る霊性

2005/03/12

2005年 03月 12日


 朝のあわただしい中、出社途中の出来事です。始業時間に間が無く気持が焦っているとき、そろそろ正門が見えてきました。ふと正面の横断歩道の端に小学生が立っています。信号器はありません。急いでいるからやり過ごしちゃおうかな……という気持が生じた途端、でも、足はしっかりとブレーキを踏んでいました。……念のために告白しますが、私も往々、過失・故意に横断歩道の歩行者を無視することがあります。まあ言訳は色々なきにしもあらずですが、ここで注目するのは、このような状況下の心の働きです。

○でも気がついた。

 人間の視覚は、すべてを平等に見ているわけではなく、自分の関心のあるものに集中しがちです。それ故に急いでいればゴールである正門ばかりが目にとまるのはごく自然な反応です。……でも、横断歩道で歩行者が待っているのに気がついた。

 通常ならば澪としがちな事に気がつくことを、「霊感」と表現すると「その程度で!」とお怒りの方も多いことでしょうが、少なくともカタカナ表記の「インスピレーション」、思考の閃き的なものである、ということは感覚的に容認できることでしょう。そしてここでは敢て、このような気づきを「 霊感」と捉えてみてください。

 僅かな時間ではありますが、車を一時停止することは時間のロスになります。すなわち、横断者に気がつくことは自分にとって不利なことなのです。焦っているなら、気がつかない方がよい。実際、本当に焦っていたら正門以外は何も見えないかも知れません。そして、注意深い人でも見落しがないとはいえないのです。

 もし、横断歩行者に気がつくことを、霊感に喩えるなら、霊感とは「自分に不都合なものに気がつく」という一面があるといえるでしょう。この一点を認識するだけで、心霊研究上の様々な問題が見えてきます。

1,心霊相談の現場に生じる反目

 人々が答に気がつかないのは、自分に不都合な事を故意に無視している場合があるのです。その厭なものに相談者に代って、目を向け、それを相談者に受入れさせるのが、解決の道であるとしたら?

 もしも霊媒が、ストレートに回答したら、相談者はどう反応するでしょう。――現実認識に難のある人だから霊媒に相談せざるを得ないのです。大抵は、霊媒を憎んで他の相談先を探します。

……実をいえば、老練な霊媒(非合理的な言動かつ、強い問題解決力を持った、研究家泣かせの霊媒)は、この問題を、実にスマート(不器用な私から見ると)に解決しています。狐霊や狸霊や天狗のせいにして、相手の面目を立つようにするのです。が、こんなやり方は現代では通じない。厭、通じたとしたらその方が恐ろしく思えるのは私だけではありますまい。

 近代心霊研究がもたらした光は、迷信を追出したと同時に、悩める人々の言逃れのチャンスを奪ったのだろうと私は考えます。正義は両刃の剣なのです。

2,心霊嫌いな人々

 往々、心霊に興味を持つのは霊的に鈍感な人、ヒステリックな心霊嫌いの人ほど霊感が強いという傾向があります。もっとも、ある程度霊感が強いと、必死に心霊研究せねば自分が正気を保てなくなるという現実があり、更に霊感が強くなると、本来主観的な性質の強い心霊問題を鵜呑みにして迷信を生み出す側に廻るので厄介です。

 この霊感の強さによって揺らめく方向性の違いは、要するに霊感そのものが、自分の厭なものに目を向けさせる働きがある事と認識すれば理解しやすくなります。

 つまり、霊感が余り強くなければ、厭なことに直面するだけ、ある程度強くなると、厭なことの解決力が育つようになり、余り強いと厭なことを圧倒してしまうのです。

 ですから、心霊に関心を持ち、眠っている霊感を刺激された人が、霊的に敏感になると……覚悟が必要になるわけです。厭なことに直面したとき、自分を信じて解決の努力に進むか、目をつぶって立ちつくすか、現実逃避の方向に走り出すか……。この流れは従来全く目を向ける人がなく、ただ、「あの人も堕落したか」といわれて終っていたのです。

3,霊感開発法の嘘

 霊感を欲しがる人にその動機を聞くと、どうにも現実逃避的な色彩が強くあります。つまり、一足飛びに厭な事柄を圧倒する力を欲しがるだけで、本来自分自身が持つべき、問題解決力の育成については完全に目をつぶっていると感じるのです。これはとても皮肉な、つまりナンセンスな話です。修行したくないから霊感が欲しい、そのための修行ならする、というのですから。

 で、こんな矛盾を実現しようとするのでは、水道を引くのに、わざわざ曲りくねったパイプを使うようなものです。誰がそんな面倒な手段を使うというのでしょう?

○そして行動した。

 急いでいると、または焦っていると、人間はワガママになりがちです。この時の私は、心の隅には時間計算のタイムチャートがあって、「2,30秒程度の停車は問題ない」との計算も出来ていましたが、でも「急いでいるんだからいいや、そのままいっちゃえ」という思念が支配的でした。……でも足はブレーキを踏んだのです。

 この問題認識から行動に移る一連の働きを、人間の生理的な反応として見なすことに不都合な点はありませんし、あえて心霊的な解釈をすべき必然性もないでしょう。ですが私は思います。私は心霊――霊と心の相互作用働きを研究しているのであって、「霊」を研究対象にしているのではありません。

 その議論や証明の過程に様々な葛藤があるのにもかかわらず、なぜ人が霊を信じ、死後の個性存続を信じるのか。私はそこに知・情が持つべき必然性があると見るのです。

 そして、人間を単なる自立的存在としてのみ見るなら、唯物論者のごとき利己的な行動こそが最も自然な行動であると想像します。ただ心霊家は人間には物質的自立性の他に、非物質的な自立性があると考えるのです。

 論理的には無駄な行為を必要と認識させる働きを受けた。

 論理的な選択を抑えて必要な行動をもたらす働きを受けた。

 霊魂否定論者、または自力信仰者には気に入らぬであろう解釈を組立てると、会社に急ぐ私の心に代って、物質的な私(見かけ上の私)に交通道徳を護らせた意識の働きが存在した。――ここで私の心が果した役割は、ただ、急ぐことで得られる僅かな利を諦め、私の上位に位置する意識の働きを容認したというだけのことです。

 ずいぶんと回りくどい話ですが、どうか自分の心の働きと重ね合せてみてください。私が論じているのは、一つと思っているものが実は多層で成立っているというだけのことなのですが、その層、一つ、一つには皆様が知りたがっている相応の意味があるのです。

4,霊性向上のチャンス

 そもそも「霊性」という言葉自体が、様々な解釈が横行していて誤解の元なのですが、私は霊性を「人として為すべき事を感じ取る力」として論じます。

 上述の例でいえば、急いでいるときの一時停止は、自身にとって不利益ですが、交通マナーひいては人間としてあるべき姿として大切なことです。――つまり、この時は私の霊性(未熟ではあっても)が適切に働いたということです。もしもこの時、「急いでいるのに停車してやったのに、横断者の野郎は礼もしない、今度は通り過ぎよう」と考えたとしたら……人は必要なときに、善い行いではなく悪い行いを選ぶようになっていくでしょう。

 ところで、ここで挙げた実例は、朝の忙しい最中に、僅か30秒程度の時間を見ず知らずの人に割くか、割かぬか、という利害の差がとてもわずかな話題に過ぎず、誰かの命がかかっているわけでも、大きな損害が予想されるわけでもありません。従って、この程度の妥協……いえ善行を惜しむ人はさしておりますまい。この程度の話題だけならばきっと守護霊(上述の例では、色気の足りぬ我が守護霊ではありませんでしたが)はきっと楽な仕事なのでしょう。反対に、人の命がかかっているとか、一生払いきれない借金を背負いそうだ、等という極端な場合などは、恐らく人は歓んで守護霊の意に従うことでしょう。

 ところが人間の好き嫌いや、負けず嫌いの心が働いたりすると、人は霊性の働きに従わなくなります。上位の意志からのインスピレーションよりも、下位の意志に迎合してしまいがちなのです。

 人に認められる善行は行いやすく、人知れぬ善行は行いにくい……分不相応、実力不相応に外面ばかり善くして生きるから疲れ果てて家の奥に引き籠もる多くの人々、または引き籠もり寸前の疲れた人の群れ――外の評判を気にする事は決して悪くはありませんが、評判ばかりが気になって内なる声に耳を傾けなくなる――それが霊性損失のメカニズムなのです。

 自分よりも惨めな相手を探して安心し、自分より優れた人のアラを探してまた安心する。そのような日常は、断崖絶壁にしがみついて登ることもできず、プライドが邪魔して降りることも出来ずにいるのとどう違うのでしょうか?――たとえ一時的には不都合であっても、内なる声に耳を傾ければ、その過程は辛くてもいずれは順調な道に出くわします。いや、道に迷っているときに出会えばこそ、導きの力の価値が見えることもあるのです。


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