偽善者と踊る。悪魔と踊る。
2005/03/062005年 03月 06日
動機が攻撃的であると、文章まで攻撃的になる。そして攻撃的な文章は敵を生む。――ナンセンスな話だ、わざわざ悪縁を結ぶ必要もない。とはいえ、悪縁を恐れて口を噤めば真理に発展はない。
人が理解できることには限界があり、人はそれぞれ自分の理解できる範囲のことを語り、そして聞く。誰もが自分の理解できることをいっていれば居心地が良いが、理解のできぬことを言うものがいれば居心地悪く、敵意すら抱いてしまうのが人間。
真理が教えるように、人生が向上のために存在するのだとしても、多くの人々にとって「向上心」とは心の装飾品の一つとして口にするものでしかない。そして人は向上を目指して、向上を強いられる。
人は向上とは無関係な方向に足を向け、転げ落ちて少しだけ向上するのだ。痛みと共に真実を学ぶ……つまりは、多くの人々は失敗からのみ真実を学ぶ。失敗せぬように懸命に学び、修行をする人々もまた失敗からのみ学ぶ。
失敗を恐れて学ぶ者は哀れなり……痛みを得ずには学べぬのだから。
失敗を恐れぬ者のみが着実に学び、前に進む。
――痛みを避ける方法もまた、失敗を恐れぬ者のみが学び取る。
多くの霊媒は、「地上に悪霊が満ちている」という。そして人々に説く、悪霊に注意し、惑わされぬようにせよ、と。――おお、なんと幸せな視点であるのか。
私は口を噤み、人知れず涙する。……霊感を得て始めて気がついたその現実。
『なんと愚かだったのだろうか、生まれくる前の私は。正義は名も無き者にしか具わらず、地上に見いだせるのは偽善者ばかりだ。声高に、愛と、正義と、倫理と、常識を叫ぶ者は、罪の重みに喘ぐ者ではないか!! 自分の生み出した罪を、人知れず償うためだけに善行に励んでいる。許しを与えてくれるなら、インチキ宗教家、インチキ霊媒にだってその身を捧げる連中ばかりだ。』
罪を償った者は許すことの大切さを知るが、罪を隠す者は他人の罪を暴き立てることにばかり熱中する。
ううう……それこそが現代日本の姿である。恐ろしいのは悪霊でもなければ、悪人でもない。胸を張り、声高に愛と正義を叫ぶ偽善者である。
あなたは想像できるか?……悪人ばかりが警察官や弁護士や裁判官や政治家になる社会を。さすがに社会はそこまで酷くはないが、あえてその職業を名指しはすまい、人一倍倫理を必要とする職責の多くは、偽善者の巣窟である。
近代心霊の教えるところ……死者も生者も人であるには変わりない。すなわち、死後が悪霊ばかりであるなら、地上は悪人しかいないということなのだ。ならばこそ、死後の世界が悪霊ばかりだという、霊媒たちよ。あなた方はなんと幸せなのだ。その意味するところを思わずとも過ごせるというのは。
金よりも大切なものがある……なんと陳腐なセリフだろうと私は思う。いや、私は拝金主義者ではないし、金に力を認めるほど金持ちというわけでもない。しかし、人々がなぜ金を追い掛けるのか、その動機に思いを巡らせれば、「金よりも大切なことがある」などという無粋で陳腐なセリフをいう人が哀れに思えるだけだ。そして、無粋で陳腐なセリフと思えばこそ、そう言う事が多くの敵を生み出すことを理解する。
屁理屈を言えば――自分の愛するものを救うために金が必要ならば、愛情豊かな人ほど金を追求するだろう。まして良識で言うにせよ、金の亡者が金より大切なものがあるなどという話に耳を傾けるものだろうか? 「金より大切なものがある」などという、無粋で陳腐なセリフは、「金よりも大切なものがある」と信じ、なおかつ、金による苦労を知らぬ者だけが喜んで聞く話題に過ぎない。
世の中には不要なものなんて無い。金だって、人々が必要とするから生まれてきたのだ。なるほど金に迷って人生を失う人は多いが、所詮金は人の道具なのである。つまり、悪いのは金ではなく人の欲だ。人の欲を責めずに、「無情の金」すなわち心なき存在である金に罪をなすりつけるのはなんと偽善的で、なおかつ、人々の共感を得やすい話題であるのか。
欲を少なくしろ、というのと、金が悪い、というのとどちらが人々の共感を得やすいのか……誰もが現実逃避、責任転嫁を望んでいるのは、人々の心が破綻しつつある現実の一端だ。
お金は大切だ。だが、一番に大切なものではない。それが事実である。まして……物事を一面の理で割り切ろうとするのは視野の狭さの証である。
考えても見よ!……金は得がたい。では、金よりも大切なものは、金よりも得やすいのか?
金だけで良いというのは、なんと慎ましい心の持ち主なのだろう。――誠実さが失われつつある現代において、その誠実を裏切り、弄ぶ人々の何と多いことか。その貴重な誠実さを求めずにただ金だけを求めるなどと言うのは、なんと慎ましい欲望なのだろうかと私は思う。
欲を否定するのは容易い。まして、自分の欲を棚に上げて他人の欲ばかりをあげつらうのならば、良心と霊性さえ眠らせれば容易いことだ。だが欲は本当に悪なのか? 人々に欲望を与えたのは神ではないのか? ならば神は悪なのか?……なんと浅ましい論理の展開か。――私はそういう悪魔の思想と踊らない。
私は神の祝福と共に生まれた。たとえ私の人生に苦労と苦悩が満ちあふれたとしても……私は神と共にある。私は神の与えてくれた一切を、私が幸せになる為の力とする。嫉妬も妬みも向上心のバネにする。怒りも憎しみも正義のためのバネにする。物欲を発展の力に、性欲を愛情の豊かさのために。
私は神を祝福する。神が私に与えた一切を、私が自分の幸せにつなげることによって。
2005年 03月 07日
悪とは未熟さの表れ
心霊思想に於いて、悪とは未熟さの表れと見る。未熟さ=悪なのではなく、未熟さ<悪であることに留意して欲しい。自分が未熟であることを素直に認めず、虚飾しようとするから、周囲に迷惑を掛け、その結果から、「あいつは悪い奴だ」と罵られるようになるのだ。
意識して悪事を行うのは、まだましだ。つまり、善い行いを知っているということなのだから。だが、知らずに罪を重ねる、善い行いのなんたるかを知らぬ人はどうすればよいのか?――これこそが暗然たる現実だ。意図して悪事を行う人間は、切っ掛けだけで大きく変り得るが、意図せずに悪事を行う者はとても救いがたい。ましてそれが傲慢で自分の行いに自信を持っているならば。
悪しき言動を延々と繰返す……なぜ正しがたいのか?
智の質が低いからなのだ。
悪を正すのには愛と忍耐が必要である。それ故に善導するという仕事は、容易に始められることではない。だが、自分の非を正し、また、より良く生きようとする努力は、愛と忍耐とが欠けていようとも直ちに始めなければならない人間の義務だ。その義務は誰に強いられるわけでもないが、人類の歴史の最初から最後まで付添うものなのである。
欲だけが悪いのか?
間違った努力は良い結果を生まない。理を論じて答を得ても、それで問題が解決しないのであれば、その理も答も一面のみのものだということだ。
たとえば、金に憧れるのがいけないことなのか……私はその論議を愚かに思う。いくら金を持っていても、借金が多ければ心は安まらないものだが、大事業を行う者は、入ってくる金も多いが出る金も多く、扱う金が多いから借金も多いものだ。
今、金を持っていて明日も持っているとは限らない。今日、貧乏であっても、明日も貧乏とは限らない。富豪と結婚したつもりが結婚してすぐに破産に転落しないと誰が保証できるのか。または自分の命と引替えに大金を得てどうなるのか。
家族を楽にさせようと、金を稼ごうとして無理な仕事を続け、病気に罹って莫大な治療費を取られる――等という話も聞く。愛する者のための強欲であっても摂理は特例を認めないものだ。無理をするから破綻する。仕事も金銭もほどほどにした方が結局は豊かに生きられもする。
金に憧れる人は只今の金の有無ばかりに気をとられている。問題は金に憧れることではなく、目の前のことしか見えないことなのだ。目の前しか見ないから、騙されもすれば、大きな過ちも犯す、なにより周囲に迷惑を掛けるのである。
金銭欲の悪い部分を見て、ただ金銭欲だけを正そうとするのは一面の理だ。金銭欲が昂じる、その原因から治していかなければ、極端な行動に走るか、偽善的行為に走るのである。つまり、拝金主義から一点して、病的な禁欲主義に走ったり、他人の財産を「預ってやる」等ということが生じる。
一つの極端からもう一つの極端へ……それは中道を知らずにいるということだ。語るに値しないのである。