質問: 霊を感じる
2005/03/05
質問
Q「瀧行の初日、頭の中でずっと音楽がなっていました。せっかく瀧行に来たのに、雑念に絡まれっぱなしではイカンナ~と思って二日目を迎えたんですが、、、最初に瀧に打たれた時、確かに「声」が聞こえてきたんです。きっと、誰かの声が共鳴していたんだと思うのですが・・・女性の声のような感じが、、、後ろに戻って、真言を唱えると今度は男性の声がまた共鳴し始めて・・・すっかり怖くなってしまって」
最初に余談
精神統一やその他の修行、または単に霊媒を中心とした食事会などの場で、突然声が聞こえたり、光が見えたとしても慌てる必要はありません。「霊を感じるのは霊媒・霊能者だけ」というのがそもそも先入観であって、人は誰でも霊を感じる力を持っています。そもそも霊媒・霊能者だけが霊を見たり、霊と話が出来るのであれば、幽霊の目撃者や霊障を受ける一般人がいないことになります。
まして霊魂のすべてが悪霊低級霊とは限りません。なにしろ、死は誰にも平等に訪れ、悪人であろうと善人であろうと死を免れることは出来ないのです。そして今、霊を恐れる人々にもいずれは死が訪れます。自分自身も死してしまえば、回りは皆死人だらけ、死人を怖がっていたら、おちおち死ぬことも出来なくなります。
地上で出会う人間も、聖人君子ばかりではないが、ヤクザや泥棒ばかりでもない。霊界だって神様ばかりではないが、悪魔ばかりでもない。眼をつぶっていたら迷わされなくとも一歩も前に進めません。
冒険よりも安全第一 …… そもそも危険の追求と冒険は意味が違うが、人の足を引くのが低級霊の性質で、人を危険に押しやるのが悪霊の性質なのです。慎重に、でも前に進むことを止めない。それこそが心霊を学ぶものの心がけることです。くれぐれも、低級霊や悪霊に迎合せず、時には共に助け合いながら慎重に修行の歩を進めましょう。
回答
A 「絶食などの荒行の最中、または座禅などの最中に、声が聞こえたり、光が見えたりということは良くあることとされています。(生憎とこの問題については、私の立場は非常に微妙です。なにしろ、食事の際や寝ている最中にも光が見えたり声が聞こえたりするものですから)
この問題の解釈には、二つの立場があります。
1,心霊科学を考慮しない立場
潜在意識が修行から逃れたがって妄想を作り上げるという解釈です。釈迦やイエスが修行中に悪魔から誘惑を受けたというのは、この心の働きと見て差し支えありません。
なお、釈迦やイエスはこの誘惑の拒絶に成功しましたが、過去多くの修行者がこの誘惑を受け入れてしまいました……しかし、元が現実逃避の妄想ですから、誘惑に乗ったからといって、実際に豊かになれるわけでも異性に好かれるわけでもありません。
2,心霊科学を考慮した場合
一種、異常な状況が感覚を鋭敏にし、霊感が働いた、と見なすことが出来ます。なお、1の立場の人から見たら、2の考えは嫌悪される考えでしょうが、それは霊感への誤解が底辺にあります。
霊感について
そもそも霊感は、荒行をせずとも生じる人には生じるものです。霊感を欲っして荒行を目指すという人も聞きますが、そういう人々は、霊能者は霊感を鈍くするために荒行するということを聞いたら、どう思うでしょう? (事実はそう単純ではないが) そして、霊感の発現は、その後の選択によって天界と魔界への分かれ道となります。
才能の開花、そして生長の度合いには早い遅いがあります。早熟な開花、素早い生長を遂げる人を世間は天才などと呼ぶわけですが、たとえ天才であろうとも最初は幼稚な才能でしかありません。これは霊感にも当てはまります。
最初から超高級霊が憑依して、高度な霊訓をバリバリと表現する……仮にそういう事実があったとしても、それは霊媒の才能を示すものではなく、憑る高級霊の能力によるものです。つまり、「 弘法筆を選ばず」ということです。ならば、高級霊はどうしてどんどん地上にメッセージを降ろさないのか……と疑問に思う方もいらっしゃるでしょうが、後が大変だからです。
一度天界の高みを覗いた霊媒は、その後、何を見てもつまらなく思えてなりません。せめて死後にその境涯で暮らせるのならばいざ知らず、死んでも容易にたどり着けない境涯を覗いてしまえば、生も死もなんと虚ろなものか。知らぬものを恋いこがれるのは難しいが、一度知ったものを忘れるのは何とも難しいものです。すると、 たった一度の交霊がその後の霊媒を廃人にしかねないのが、較差が大きな境涯間の交信なのです。
話を元に戻します。霊感にも訓練が必要である。ならば、霊感の初期には、挨拶や短い文書のやりとりが、しばらく続くのが普通です。当然、教育的な話をするにしても、最初は中継が断絶したり、低級霊からの通信と混信したりしがちなので、高度な内容よりも、むしろ子供向けの絵本じみた通信が主になるでしょう。
ここでつまらぬ、と諦めた者はそこまでです。また、大騒ぎをして大恥をかく者もいます。……これが禅宗などで言うところの魔境に落ちた者なのです。 結局、招かれる者は多いが選ばれる者はごく僅か……初級クラスに入学しても卒業するのはごく僅かと言うことです。
声が聞こえたらどうすべきか?
まず、慌てたり、怯えたりしてはいけません。……その危険性は、来客を玄関で出迎えて、怯えて逃げ出すのに似ています。バツの悪い思いをした来客が、そのまま立ち去ったとしたら、誰が戸締まりをするのでしょう? 慌てたり怯えたりした心の動揺が、低級霊の憑依の切っ掛けになる可能性もあります。ですから決して怯えぬことです。
決して増長してはいけません。……たとえ相手がどんなに高貴な霊であろうとも、先方から尋ねてきたのであれば、儀礼などは棚上げして、ただ、誠実に挨拶をするだけでよいのです。まして、見知らぬ同士であればしばらくは自己紹介が続くのです。――その事に思い至れぬ礼儀知らずが、霊感を取り違えて恥をかくのは、ある意味当たり前のことですらあります。
決して卑下しないことです。……相手がどんなにつまらぬ通信を寄こそうとも、それを卑下してはいけません。不慣れな交信の初期には、まず簡単な通信を繰り返すのが手順なのです。この段階を疎かにした者はいつまでたっても上達しません。
決して自分から通信を欲しがらぬことです。……霊媒初心者に通信を送るためには、根気・忍耐力と寛容さを必要とします。その条件を兼ね備えた霊であっても……四六時中、ずっと人間の側に待機して話し相手になれるわけではありません。そして、適切な相手(霊)がいないときに通信を欲しがったらどうなるか? 忍耐力の代わりにヒマもしくは必然性、根気の代わりに執着心、寛容さの代わりにワガママさを持った霊が返事を寄こすかも知れません。
悪縁断ち難し――そのような霊と関わると、縁を切るのに苦労いたします。
欲をかかず、昂奮せず、淡々と受け止め、習熟していけば、いずれは有益なものに変わるでしょう。
静岡オフ会補足
瀧行後の雑談の話題ですが、冷水を浴びている最中に倒れられたら困るが、あまり早く切り上げたら修行にならない……そのバランスを見極めるのに苦労しますが、私の場合、当然霊感に配慮の多くを依存します。
この日は興味深いことに、瀧の守護・支配霊(男性的)は「適度な修行にせよ、あまり水に長居するな」と助言を下さったのですが、と同時に女性的な霊が「もっと厳しくせよ」と主張し、間に挟まれて判断に迷いました。振り返って考えると、厳しさに心が歪むより、時間を掛けて仕上げようとする霊と、仕上げを急いだ霊がいるようです。
2005年 03月 04日