‘2005/03’ カテゴリーのアーカイブ

嫌いになるな!

2005/03/31

05年 03月 30日


好きになれとは言いません。ただ、嫌いにならぬように心がけることです。―― 嫌いだからといってやらなくて良いことならばまだ良いのです。嫌々続ければ、気が滅入ります、気に触ります、そして病になります。

嫌いにならぬように心がけることです。時には間をおき、時には休み、高ぶる感情を鎮めることです。

怨むなとは言いません。ただ、責任転嫁をしないことです。―― 失敗は辛い。そして恥ずかしい。人は往々、痛みよりも恥を耐え難く思います。だから誰かのせいにしたくなり……誰かのせいにする。

それで気持ちが収まる……かも知れません。

ですが、原因が自分にあるのであれば、同じ過ちは何度もあなたに襲いかかります。二度目、三度目、次は一体誰のせいにするのですか? 

過ちを繰り返して、でも真の原因が見えない。

それは、あなたの明日が行方不明だということです。ですから、人を怨むなとは言いません。ただ、責任転嫁をしないことです。

……そして、自分を嫌いにならぬことです。


05年 04月 05日

「嫌いになるな!」(2005/3/30)に関して、補足を指示されました。

『「あなたにも嫌いな人が大勢あるでしょう」と、考える読者が大勢います。補足するべきです』

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 確かに私にも嫌いな物、嫌いな人がいます。しかし私は、嫌《いや》だからと嫌《きら》いません。私が嫌うのは、嫌だといっているのにしつこい相手です。

 いくら私が、嫌いにならぬように心掛け、時には間をおき、時には休み、高ぶる感情を鎮めようとしても、相手の思慮や配慮が足りなければ意味をなしません。

 間を開ければ詮索し、心を静めようとするとうるさく労り、嫌だとほのめかしても気がつかず、嫌だといっても聞きもせず、無視すればなおしつこく、罵声を浴びせると逆上して帰って突っかかってくるのでは嫌いにもなります。

「あなたとは相性が悪い」「もっと信頼できる相手を探してはどうか」……これらは、私がやんわり相談を断る常套句ですが、今までこれで察して引き下がった人がいません。その上滑稽なことに、相談を断る前に諦めてしまう人の何と多いことでしょう!

 私は人を嫌わぬ努力をしていますし、嫌われない努力もしています。――しかし、相手が無頓着では努力は報われないし、往々、私の努力を悪用する人がいるので困ります。

 欠点もまた嫌なことの一つではあります。しかし、私は欠点を嫌うのではなく、欠点を直さぬ人、開き直る人を嫌います。


決してあわてないこと!!

2005/03/30

2005年 03月 30日


 ストップ! ―― うまく行かないときには、まず立ち止まることです。立ち止まって状況を確認してみましょう。

 それからゆっくり前に進む……ここで大切なのは足下ではなく、あなたの足がしっかりしているかどうかです。つまり、あなたは、自分自身をコントロールしていますか?

 失敗が重なれば不安になります。そして動いて不安を打ち消したくなる……不安に駆られて無謀な行動に出るのが匹夫の勇なのです。

 まずは状況確認。そして自分自身を確認し、ゆっくり進む。普通に出来ないことが、どうしてあわてて出来るというのです? あわてるのは失敗への近道。うまく行かないときほど勇気を持って……スローダウン!


無い袖は振れぬ(霊感の働き)

2005/03/28

2005年 04月 05日


 自分に関する霊感は働きにくいと多くの霊媒はいう。……意地の悪い人向けに釘を刺せば、我身を省みないのは霊媒だけにあてはまる欠点ではない。そもそも自己の洞察に自信を持てなければ霊媒を名乗れぬ訳で、自己の正しさに疑問を抱けば、それが霊感に対する葛藤となって霊感をにぶらせる働きがある。そして、これは主観的な観察ではあるが、霊感に自信を持っている霊媒ほど、自己を省みることを忘れがちで、それがなおさら自分に対する霊感を働きにくくさせるのかも知れない。

 いずれにせよ、霊媒に必要なのは、霊媒能力よりもむしろ自信なのだろうと私は観ずる。霊媒能力が充分に強ければ、自ずと自信が沸上がるという方もいるがそれは机上の空論だろう。

 揚足取り的な事例ではあるが、伊勢方面に心霊仲間と旅行中、空腹を感じて良い食事場所を探せとの要望を受けた、霊査に入るまもなく、『こんな山中で何を期待しているのだ。食べられるだけで幸せに思え』……との通信。当り前なことと一同納得してしまった。

 もうチョット滑稽な事例を紹介すると、師匠の運転手として、入院中の某霊媒をお見舞に訪ねたときのことである。運転中にふっと、病院に行ってはいけない、という気がした。先に自宅に向うか、少なくとも自宅に電話すべきと師匠に進言したが、おそらくは携帯電話を操作するのがイヤだったのだろう……かくいう私は運転中である。

 師匠はお守代りのペンダントを握りしめて精神統一に入る。10秒としないうちに、師匠は「へんねぇ」と言出す。「いま『四階の霊安置室』にいるというのだけど、普通、霊安置室は地下よねぇ」という。そして師に促されるまま、訳の分らぬまま病院を目指すことにする。

 病院に到着後、受付に訊ねるが該当する入院患者はいないという。で、仕方なく自宅に電話をしてみると、同名の病院が他にあり、そちらが入院先であったこと、また、某霊媒は一時退院で自宅におり、今、相談を受けている最中だからチョット遅れて訪ねてくれとのこと…… つまり、病院に行っても会えなかった。だが、まっすぐ自宅に来られても迷惑を掛けた。という事情があったわけだ。こういう複雑な事情は霊査で受信するのは難しい。質問はイエスかノーかで応えられるぐらいに整理しないと確たる答は得難く、複雑になるほど誤解の種が入り込みやすい。さらにいえば、電話で済むことを霊査に頼るのはやはり難しい。で、この時は、「あんたのところの狐にバカされた」と、なぜか私が怒られてしまったが、後日談がある。

 108歳まで生きると断じていた某霊媒は、その後ほどなく亡くなり、既に霊安置室にいる――死ぬ前の準備をしている、という意味において、先の霊査が正しかったと理解された。なぜ4階だったのかには疑問が残るが、それを追究すると屁理屈になるのでやめておく。

 念のために指摘するが、知人、それも親しい友人がもうじき亡くなるという霊査を受けるのは、辛いが故に難しいものだ。私は死期の近づきを感じていたが……108歳、108は人間の煩悩の数で、煩悩がらみの暗喩であって本当の寿命ではないと理解するのが自然だ……素直に受止められたのは、師よりも付合いが浅いからだろう。そして、その時には私の考えを師には告げられなかった。

 結局、真実は扱いが難しい。そして、いつでも答があるとは限らない。暫く待ってみなければ答が生れないことも多いのだ。そして、今無い答を今受取ることは出来ない。

無い袖は振れぬ――無い物ねだりをしているから、何の応えも得られぬのに、「神様なんていやしない、仏様なんていやしない、死後の世界なんてあるはずない、自分には霊感がないし、霊媒なんて嘘つきばかりだ」と物事を否定的にしか考えなければ、たとえどんなものであろうと利用できるはずがない。

 見つからないのは、さがしどころが悪いのだ。……そう思う。


霊感談義

2005/03/28

ヒヨコが吠える

2005年 03月 28日

 久しぶりに師匠&姉弟子と会って心霊談義、というか、師匠が帰った後で心霊談義。五〇・六〇歳は洟ッタレのこの世界でヒッヨコが吠える(?)。

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 心霊書籍というと、霊界主導の「霊界通信・霊訓」、非霊媒・心霊研究家の「理論・考察」、心霊事跡の収集つまり「歴史」、そして「霊媒の体験談」に四大別できるだろう。そして霊媒の体験談の大部分は営利霊媒の自己宣伝本だ。

 そして自己宣伝本というのは角の立つ呼び方で、そう分類されることを不本意に思う著者も多いだろう。が、私として単なる主観でその線引きをする気はない。いささか比較対象の相手が悪いかとは思うが、英国の霊言霊媒レナルド夫人の「霊能開発法」などを読むと、そのオリジナリティーに感動する。頁あたりの感動の数で比べると、他の霊媒の体験談などは月とスッポンの差がある。別な呼び方をすると、他の霊媒の体験談にセンスのかけらも見出しがたい。

(つまり私が自己宣伝本と呼ぶのは、オリジナリティー、ひいては、センスのない本である。わざわざそんなものを読むよりも、その大本になった本を読む方が誤解が少ないからだ)

 センスのかけらも見出しがたい――というのは、念のためにここに記すが、レナルド夫人と比べては、他の霊媒のセンスが劣って見えるという意味であり、私を含めた他の霊媒がクズという意味ではない。いや、レナルド夫人と比べられたらおよそクズと見られても仕方がないだろうが、レナルド夫人はそういう考えを持たないと言うことを指摘したい。

 手前味噌、というか、浅野和三郎氏流に言うなら自己免状といわれるかも知れないが、いささか審神者(さにわ)の体験・心得を持つ身として私見を著させていただくなら、私は在命の心霊家に対して、一つ苦言を抱いている。苦労なく得た物(シルバーバーチに言わせれば、それなりの物だ)を批判しすぎると思うのだ。

 極端な話、「現代はろくな霊媒がいない」という意見を耳にするが、霊媒であると同時に心霊研究をしている我が身から見れば、では、霊媒を養成するためのいかなる努力を払っているのだろうか? と思えるのである。探すのに苦労していると、言うかも知れないが、所詮は他人のフンドシで相撲を取ろうとする努力に過ぎない。私から見れば本末転倒だ。つまり、自分の代わりに苦労してくれる人を探すのに苦労しているのである。

 霊媒能力に恵まれないのだから仕方がないではないか……という心霊家がいたら、私は内心で侮蔑するだろう。どの分野に努力の不要な才能があるのか。天才と呼ばれる人であろうと努力が不要という話を私は聞かない。エジソンには失敗がないのか、モーツアルトやシェイクスピアにはスランプがないのか……言うまでもない。天才にも努力は必要なのである。当然、霊媒にだって努力は必要だ。その上で思う。現代の心霊家の大多数は、生み出す努力を惜しんで浪費ばかりしている。育てるのではなく、ただ批判に晒している。それで実績を上げようというのは摂理、そして、因果律に反することである。

 つまり、身も蓋もない見方をすれば、

1,他人の努力の結果を受売りしている最低の心霊家
 と
2,他人の努力の結果を批判しているだけの最低の心霊評論家
 と
3,ただの野次馬
 の三者が心霊研究家の大多数に思えるのである。 ……などという不平不満が吹き飛ぶぐらい、レナルド夫人著の「霊能開発法」は素晴らしい。

 夫人の言葉を要約すると、

「最初から理想を求めるな」――当たり前のことだ。天才にも努力は必要なのである。

「支配霊の好きにさせよ」――霊感の源泉は支配霊なのである。 それはつまり、すべての霊媒が、教科書的な霊媒になることが大切なのではなく、それぞれが持っている持ち味を発揮することが大切だということだ。

 レナルド夫人は、霊媒のなんたるかを生身で感じ取り……当たり前だ。レナルド夫人も霊媒なのだから……多くの心霊家は、非人間的な要求を霊媒に突きつけている。するとこのような意見は、レナルド夫人は必ずや否定するだろうが、あえて極論を提示すれば、肌身で心霊のなんたるか、交霊のなんたるかを知り得ない心霊研究家こそが、心霊研究・顕幽交通をダメにしているのである。

 そして、レナルド夫人ならばきっとこう主張するだろう。「そういう心霊研究家にこそ、真の交霊が必要なのだ」 ……と。

 さて、タイトルに関する話題にこっそりと戻る。品良く、分別も持ち合わせる姉弟子ならば言えないことをヒヨッコである私が、師匠に隠れて言うのである。まあ、明日の今頃にはバレて国際電話で叱られるのだろうが……とはいえ、くだらぬ憎悪に関わらぬ程度の分別はある。

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 創造力が充分にあれば、評論家などをせず、自ら生み出す……他人の事をあれこれと批判するのは、つまり、創造できないが、だが創造せずにはいられず、といって野次馬の無責任な言動に我慢が成らぬものだ……つまり、評論家とは作者になれぬ者である。 そして、評論家と野次馬の差は、真美の知識の有無である。
 つまり、真の評論家とは、たとえ気に入らぬ作者の作品であっても、美しければ美しいと評価し得るが、野次馬は好悪で作品を選ぶのだ。すると、野次馬はこういう表現を多用する。「あんな奴が良い作品を作れるはずがない」
 あにはからずや、インスピレーションは人を選ばず、機会を選ぶのである。つまり、どんな奴であろうと、チャンスに恵まれれば良い作品を残すのである。


ヒヨコが吠える(2) 霊能力の考察

姉弟子と顔を合わせれば、やはり関心は霊能開発に集まる。ただ、仁義に篤い姉弟子たちは人を批判するよりも自己反省を重ねてしまいがちだ。

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 オフ会参加者のAさんには、なかなか霊査が降りずに苦労する。わざわざ時間を割いて参加してくれるのだから、皆と同じか、それ以上の物を持って帰っていただきたいのだが、ただ黙って二時間座り、食事をして帰るのでは、いささか霊媒として心苦しいと感じるのだ。

 良い霊査を取ろうと、私自身がしっかりと精神統一を計ると何やら当たり障りのない言葉が浮かび上がる。それではつまらないからと、さらに集中すると……「おまえはAを感心させようと努力している」と釘を刺されてしまった。

 私としては虚栄心が皆無であると主張するつもりはないが、さして強いとも思えない。むろん、霊査への欲求は参加者への当然の気配りのつもりでいる。と同時に、答えがないことも答えの内だと知ってもいる。だが、こう言われては引き下がるしかない。

 ところが同じ会に参加するBさんには、しっかりと十二単衣を纏った女性が霊視できて、あげく『この子に、しかじかとお伝え下さい』などと丁寧に頼まれもする。しかもこの女性(霊)、下手をすると別な参加者の分まで霊査を中継してくれるのである。(この女性の身元調査は私の重大関心事ではあるが、Bさんの霊能開発をなおざりにしてその守護霊の身元調査を行うほど私は礼儀知らずではない。守護霊はBさんの幸せのために私に時間を割いているのだ。私の関心に応えるためにではないのである)

 一方は沈黙だけが漂い、もう一方は極彩色で音声画像付の霊信が寄せられる……さらに不可解なのは、Aさんの守護霊が通信下手かと思いきや、Aさんは時々霊聴を体験する。対してBさんには未だそういう体験がない。

 こういう体験をすると、やはり霊界通信というのは、霊媒能力のみに依存するのではなく、通信相手の技能、または、表現方法への志向が重要なのだと思う。つまりAさんの守護霊は無駄口を嫌うのであるが、交信能力は充分に強いと察せられる。そしてBさんが自分の守護霊と通じるようになったらきっと素晴らしい霊視霊媒になるのだろうと思う……が、これらは別な話題だ。

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 霊媒能力が発揮できるか否かは、その通信相手による。―― しかし、相談者によっては霊査が取れないのであれば、職業霊媒は勤まらない。ではどうするか……実は自明の話で、昔からまともな霊媒は、相談者の守護霊と直接交信することをせず、主に自分の守護霊、または支配霊を通信相手とするのである。

 私は諸般の事情……たとえば心霊研究上の都合から、支配霊を通さず、直接交流しているが、この状態がベストでないことは当然すぎることなのだ。

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 姉弟子は霊視が苦手であると私に告げたが、私はそれが姉弟子に原因があるのではないと、上述の経験から指摘した。そしてレナルド夫人の著書を例にとって自説を述べた。

「師匠とか、そのまた師匠の用になろうとしてもうまく行きませんよ。霊能力には人の数だけそのあり方があるのだと思います。つまり自分なりの霊能発揮が大切なのであって、その訓練のためには自分の守護霊、または支配霊の好き勝手にさせる方が良いのでしょう。『霊媒とはこうでなければならない』という偏見から何年も無駄にしてしまったと、レナルド夫人も告白していますよ。」

 さらに私の貧しい心霊体験を開陳した。

「私の精神統一の参加者中に、写真家がいるのですが、一緒に旅行に行った時など、一体どこで見つけたのかと思うような綺麗な写真を彼は写します。私などが見落としている物を、彼はインスピレーションで見出しているのです。その意味で、彼の霊能力は素晴らしい物だと思うのですが、いかんせん、写真の被写体を見つける方向にしかそれが活かされていません。ですからこう言えると思うのです。」

『霊能力をもたぬ人はない。ただ、その現れ方(表現方法)が、人の数だけ違うのだ。』

そして思います。

「『死んだ人間と交信できる』、なんていう能力は、すごいというより気持ち悪い能力ですよ。本当に大切な能力は、人生や社会にとって素晴らしい物を見つけ出す能力だと思います。霊視が出来るとか、出来ないとか、というのは霊媒の問題ではなく、霊界の意志次第なのだと思います」

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 死者と交信する力は、ないよりはあった方が良いと思うのです。ただ大切なのは、交信能力のそのものではなく、その能力をいかに用いて、人生を、そして社会をより豊かにしていく、その理想実現のための企画・行動力なのだと思います。

 つまり、何事も無駄にせず、活用して行く力こそが、人間にとって大切な力であって、霊視が出来るとか、出来ないとか、そんなことは表面的な長所短所に過ぎぬと思うのです。

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 霊感がなくても他を幸せに出来る人もいれば、霊感があっても他を幸せに出来ない人もいます。決定的なのは霊感ではなく、才能やチャンスの活用法であり、活用する覚悟だと私は思います。


不平不満が苦痛を招く

2005/03/24

2005年 03月 24日


愚痴

口が動くか、体が動くか――不平不満が口を衝くのは、行動が思う結果をもたらさぬからです。

愚痴は三度まで――物事には時機があり、時機が外れると努力しても結果をもたらさぬものです。その時機を待つ間、テンションを落さずにするためには、愚痴の一つや二つはむしろ結構なことです。諦めて投出すよりはよほど宜しい。

ただ、行動を諦めてただ愚痴を言うだけならば、それこそが無駄、行動を諦めるなら愚痴を言うのも諦めるのが筋というものです。でなければ負犬癖が付いて、周囲の信望も失います。

時機を窺うための愚痴であること……ただ愚痴をこぼすのでなく、打開策を模索する視点を決して失わぬようにすべきことが大切です。

不平不満

不平不満の多い人を、迷惑がり、嫌う人はとても多いものです。しかし、迷惑に思われるのならばまだ愛情が残っているとも言えます。そもそも、行動が思う結果をもたらす人なら、不平不満などをいう閑がありません。むしろ、自分の中に沸上がる不平不満を次の行動に繋げていくことでしょう。

失敗は成功の母、等と申しますが、その言葉を生かせる人は失敗の要因を分析し、成功の為の道筋を明らかに出来る人です。いわば、適切な計画力を持たなければ成功は掴めず、計画力を持たぬが故に失敗する人は、努力しようが、誰かを頼ろうが、また、不平不満で一時を過そうが、成功し得るはずがありません。

端的に言えば、不平不満の多い人とは、いかなる種類の成功からも縁の遠い人ということになります。

 人に災難をもたらすのは、悪意よりも未熟さ、不運よりも要領の悪さなのです。

 反省とは自らを省みることをいいます。失敗に不平不満をいうのをやめて、何が原因なのか、その克服のためには何が必要なのかを良く研究することが大切です。

反省下手

ところで反省がとても下手な種類の人がいます。私が見る限りにおいて、反省が下手な人は、分析力や企画力に劣っているのではなく、問題提起が下手であるようです。

単に計画に問題があるのであれば、多くの人はその原因を見いだせます。ところが人間には死角が備わっています。生理的な意味での死角の他に、精神的な意味での死角があることを常に心の片隅に置いておくべきでしょう。 つまり、人は見たくない者を見ないという習慣が身に付いているのです。 たとえば自己嫌悪気味の人は偽善的な善行に走り勝ちです。劣等感に悩む人は分不相応に手を出してしまいます。――この手の話は、実例を挙げだしたら切りがありません。それを要約するなら、自分を知らずに行動することの危険性ということです。

本来は、動機があり、目的があり、目的に沿った手段があって行動が生じるべきなのです。ところが、「無意識の自己防衛」が動機であるなら、目的も計画もすべては妄想に過ぎません。これでは適切な計画が立つはずもありません。――誰がどう考えてもうまく行くはずのない、不合理な行動計画を狂気の沙汰、等と表現しますが、個人の行動に関してみる限り、「プチ妄想」が社会に蔓延し、「ミニ狂気の沙汰」がそこかしこに見受けられるわけです。

社会の大勢を占めているから、自分はこれで良いのだ、等とは思わぬ事です。狂気の定義とは第三者に理解し得ないこと、だそうですが、「不合理」を推し進める人の心を、第三者がどう理解し得るというのでしょう? 狂気が蔓延する社会、という現実から目を背けるために、不合理な社会と呼ばれるだけのことなのです。――そして、不合理だからこそ行動に結果が伴わず、結果が伴わないから苦悩する……その連鎖の中でどうして人が幸せになれるというのでしょうか? 幸せになるどころか、周囲、特に自分を愛してくれる人ほど激しく不幸に押しやりながら、自分も益々不幸になっていく状態は、地獄としかいいようがありません。それも努力するほど苦しくなっていくのですから。

反省とは自らを省みることです。単に行動失敗の原因を取除くだけでなく、なぜ、失敗に向けた努力をしてしまったのか、そこまで含めて反省をすることが大切です。

正直、反省は辛い。人の失敗ならば笑い飛ばせても、自分の失敗は見たくないのが人情です。ましてや、自己嫌悪や劣等感(または過剰な自意識)を抱えているのなら、自分の失敗を見ることは死ぬよりも辛いことが多いでしょう。――しかし、失敗の原因が自分の中にあるなら、どれほど力のある、誰の助けを借りられるとしても、反省無くして幸せは掴めません。それはつまり、適切な反省ほど、自分を幸せにする効果が高いということでもあります。

悲観的な人

起らざる不運に苦しむ――悲観的であるというのは辛いものです。まだ起っていない災難を恐れ悩むというのですから。その状態から脱したくて、無理に楽観的に振舞おうとする人がいますが、多くの場合、かえって傷を深くするようです。そもそも、楽観とか悲観とか、人間の性質の違いはどうして生じるのでしょうか。

心霊的にいうなら、生前の気質の表れも大切な要因でしょうが、人間は学習し、順応する知性なのです。したがって、育った環境にこそ目を向けるべきでしょう。

将来の性質がどうであれ、思うままに生きられた人は必然的に楽観的になっていきます。反対に、多くの挫折を経験すれば、悲観的になるのは仕方がないというより適切な学習です。

ここで問題なのは、なぜ挫折するのか、ということです。悲観的だから挫折するのか――ならば、楽観的に行動することが解決となるでしょうが、挫折するから悲観的になったのなら、楽観的に行動することはさらなる挫折の原因となります。いえ、悲観的つまり消極的に行動してもなお挫折したのだとしたら、楽観的に行動することは挫折どころか悲劇の原因となるでしょう。

間違った努力は良い結果をもたらしません――悲観的であることを悩み、楽観的であろうと努力する人が陥る過ちは、真の問題、原因を取除くことなく、その結果だけを変えようとすることにあります。それこそ、木に竹を接ぐようなもの――摂理に反することは、長続きするはずもないのです。

悩むべきは、悲観的であることではなく、想いを実現する力の乏しいことです。さらにいえば、よからぬ動機にあおられて居ることなのです。――なぜ、苦しむために努力するのか。その原因に気がつけば幸せに手が届くことでしょう。

不幸の原因

不幸の原因を何所に求めるのか――他人の悪意か、己の不運か――しかし、過去の努力が今を作り、今の努力が明日を作っているのも摂理です。他人の悪意や、不運については事前に見抜くことはなるほど難しい。……でも、自らが生み出している不幸については、考察・工夫・努力で避けることが出来ます。

反省して見てください。――自分を幸せにするための努力をしていますか? そして、自分を不幸にしないように節制していますか?

あなた自身が、自分を幸せにする努力をさぼり、不幸の原因をまき散らしているなら、一体誰があなたを幸せに出来るのでしょう――いいえ、それ以前に、一体誰があなたを幸せにしようと努力してくれるというのでしょうか?

面倒を嫌うのも、不毛な努力を嫌うのも、人情であることをお忘れ無く。

痛みを選ぶ

幸せになるのを阻害しているのが自分自身であるなら、自分を変えずには幸せは掴めません。

神仏頼りでの開運も――大切なことを見落しています。自己改革には痛みが伴います。自ら行うのであれば痛みの調整も可能でしょうが、他委せでは痛みの調整など思いもよりません。まして、途中で逃出せば、痛み損、下手をすれば出血死が待っています。

行き詰り……誰がその道を選んだのでしょうか? 自分と共に破滅するか、自分と共に幸せを掴むか。

反省とは自分を虐めることではなく、自分と共に幸せになるための努力、その先ず第一歩なのです。反省に痛みが伴うにせよ、その痛みは報われる痛みです。報われる大痛を嫌って、報われぬ小痛を選ぶ……短期間の大痛より、永遠の小痛を選ぶことが果して幸せなのでしょうか?

自分を不幸にする人とは、不幸への選択をする人なのです。


自己を導く

2005/03/24

2005年 03月 24日


 霊査事例でも紹介しているとおり、他人に対しては包容力を持って指導出来る人が、自分に対してはなぜか葛藤が止められないという人がいる。……その原因克服のための助言が出来ないところに私の限界が……有り体に言うと私も同病なのだろう。

 同病なのだろうということで、私自身も自分自身のコーチングに対して関心を持っている。というわけで、本屋で「コーチングの技術」という本を立ち読みした。で、「叱って指導すると治るよりも嫌いになる」という記述に行き当たって気がついた。

 敵意の中では人は身構えるのが普通だ。

そして身構えたら、生長どころではなくなるだろう。

 他人を指導できるのに、自分を指導できない……それは被指導者の周囲に包容力の持ち主がどれだけいるかと言うことではないか。で、自分を差し引いてしまうと、一体指導環境はどうなってしまうだろう?

 自分だけ、または、心霊主義に関心のある人だけに包容力が具わるとは言わない。だが、周囲を見回すと、包容力の持ち主は決して多くない。包容力どころか、他人を侮辱しなければ自意識が保てないコンプレックスの塊ばかりが目につくのが現実だ。さらに不幸なことに、心霊主義に関心を持つ人の多くは、病的に他人の長所を認めようとする人も多い。つまり、他人の長所を認めてコンプレックスを感じてしまう有様なのだ。

 自分の指導は……これじゃうまく行かない。

 個人の、そしてあるべきレベルに於いて、霊性向上は大切なテーマかも知れない。だが、現実的なレベルで考えると、他人の霊性向上を邪魔しないことすら難しいのが現実ではないか。天界の高みに登るどころか、悪しき業《カルマ》を増やして意図とは逆に地獄の深みへと引きずられつつあるようだ。


真心を君に

2005/03/22

2005年 03月 22日


 霊の実在を論じる前に、そもそも霊という言葉が意味するものを明らかにしなくては、「霊は実在する」と証明できたとしても、「その霊って何?」と、何が実在するのか分かりません。そもそも霊とは自律的存在であるのか、又は観念的な問題であるのか、の結論が出なければ霊が実在するといったところで、結局それは訳に分らぬものがいるらしい、というに過ぎません。――心霊研究以前の、基礎研究が大切と思う所以です。

 分っていると思いこんでいる様々な常識の上にあぐらを掻いて、様々なことを議論する……でも基礎の部分に誤解があれば、どんなに素晴しく高度な議論の結果だって、覆ってしまいます。

真心てなんだ?

 人のために一生懸命につくしても、裏切られたり、誤解されたり……大切にしているつもりなのに、相手は増長して手が付けられなくなる。等ということも経験します。

 人に接するには、やはり、技能が必要なのだろう……社会人を何年も繰返せば、誰もが、真心の大切さは想いながらも、手管ばかりを磨くようになっていくことが避けられません。

 静岡オフ会でもその話題が持上がり、色々な意見が飛出しました。その時、私の霊耳に飛込んできた言葉が、

『大切なのは真心です。真心を裏切るのは相手であって、裏切られたあなた方には何の非もありません』と聞えた。つまり、周囲が悪人だからといって悪巧みをするな、誠実に生きる努力をせよ、ということなのです。

 一同、その言葉に納得して、又日々を過したわけですが、かく通信をもたらした私でさえ、その後の日常生活中に、『真心だけで本当に足りるのか? やはり不足を感じるぞ』という念が沸上がり、しかし忙しさに追究を忘れていました。そして東京オフ会――参加者の一人から、「真心って何ですか?」と質問が出て、呆気にとられたのです。内心、『バカだな、真心って言うのは』……真剣な想い、とか、純粋な想い、といった字引的な解釈が頭をよぎります。でも違うな、と気がついたのです。……この3月20日の東京オフ会は、何の巡り合せか、私や参加者の背後霊たちが休日を宣言した日でもあり、霊査をとるのにとっても困難を感じていたのですが、それを押して廬氏に呼びかけ質問を託します。まさか廬氏まで忙しそうにしていて、その合間に貰った答は……

『真心と心は別物。人は意識をさして心と呼ぶが、真心とは意識に登らぬ心をさす』――浅野和三郎氏流に言うのならば、荒魂以外の霊魂の働きというところでしょうか。

 これには私も衝撃を受けました。今までも、相手の立場に立った論理で相手を説得しようとしていたからです。そういえば、私もかつて、師匠の言葉に反論していたとき、「こんなに心配しているのに」と絞り出すようなかすれ声と共に、一条の涙を流されたときには、論理がつまらぬものに思えて全面降伏した覚えがあります。……会得は難しく、忘れるのは素早い。

 そうか、あれが真心か――容易にはたどり着けぬ事を自覚しました。

 「真心が大切」と、いくら通信を送っても、それを聞いた者達が、真心の意味を理解したつもりで居るだけ(誤解と偏見がある)のでは、言っても何もなりません。その後の霊査で、真心に関するものが相次いだことを観ると、参加者の守護霊達も誤解と偏見という「詰り」が取れた事を歓んでいるのだろうと察知しました。

 知っているつもりは、知らない者よりも愚かなのでしょう。知らなければ間違いもないが、知っているつもりだと間違いを犯すのだから。振返れば以前の霊査がいかに真心という言葉を使わずに、真心の大切さを説いていたのかが見えてきます。やはり、交霊主義には読書に勝る益があり、時間を掛けることには意義があると認識した次第です。

 真心という意味を知るのには真心が必要だ。でも真心の意味を知って始めて、真心の意味を教えることができる。

 真心を君に……今までは空論だったのでしょうか?


先祖供養

2005/03/21

2005年 03月 21日


 日本の霊媒の多くは先祖供養を重視いたします。まあ重視というか敵視する人も決して少なくはありませんが、私に限って言えば、先祖供養を重視しつつも、人に先祖供養を勧めたりは致しません。それは供養する心のなんたるかを理解しないで、先祖供養をしても意味がないと思うからです。要約すると……「この先祖が居るから今の幸せな自分があるんだ……」と、素直に感謝の念が沸上がってくる様な心を育てることが霊媒の使命であると考えているからです。ただ墓参の回数や仏壇磨きの数で先祖が向上していくと勘違いされたら迷信の助長になるでしょう。

 実際、オフ会参加者の多くは、護られている自分、の認識を参加の都度、いや、日々の生活の中で強め、高めていった事と思います。その決算がいわば3月20日のオフ会だったわけです。

 とはいえ、別段、何か儀式めいたことをしたわけではありません。なにぶん、儀式的なことは僧侶・神官の職域というか、飯の種です。心霊を商売にする気のない私などが手を出すべき事ではありません。感謝の祈りすら挙げることなく、むしろ、宴会に置いてきぼりされたかのような不平不満が口を衝いて出たぐらいでした。

 せいぜいが、参加者全員に、判る限りで良いから家系図を作りなさいと勧めただけのことで、血の繋がり、縁の繋がりを再認識することには充分な意義もあれば、それなりに楽しい経験であったようです。――それだけのことです。

質疑(アフター・オフ会中にお酒を飲みながら)

Q 「霊界は階層世界だとのことですが、意味がよく分りません」

A 「この店には大勢のお客さんが、グループを作ってそれぞれテーブルを囲んでいますが、心霊の話をしているのはこのテーブルだけで、テーブルごとに行き来はありませんよね? 同じ店にありながら、それぞれが別な世界を作り上げているわけです。霊界も一つの世界のようですが、そこに暮す霊たちが様々なグループを作って、それぞれが一つの世界のようになっています。」

……地上において、又物質的な視点、即ち肉体だけに注目するなら、すべての人は一つの階層の上で暮して、それぞれを訪ねることは不可能ではありません。しかし、死後の世界、想念の世界においては、それぞれの心境に応じて、行動の自由度が異なります。

 たとえば偏見に囚われている人は、自分の属するグループから表に出ようとしません。外部から入ってくる者まで拒絶しようとします。このように自閉的な霊たちは、下層霊界に暮すと表現されます。又一方では様々な意見に触れても自分を見失うことのない自由な霊魂は、あちこちを旅して廻る事が出来ます。そして自由度が高い霊であっても理解の出来ないことは存在しないに均しいわけで、自ずと底に自由さの限界が生じます。

 さて、行動の制約が多い霊魂にしてみれば、自分の属するグループ外の誰かと面会したくても、相手の境涯にたどり着くことが出来なければ面会することが出来ません。反対に行動の自由度が大きな霊であっても、偏見や独善に捕われている霊では、面会希望しても気がついて貰えないことが往々にあります。

 つまり、自由度(心境・境涯)が同レベルの霊魂同士はすぐに会えるし、高い霊が下層を訪ねることも比較的自由に出来るのですが、下層から上層を尋ねることには無理が伴うのです。

 ところで、地上に暮らす子孫のことは、階層に関わらずおおむね皆、関心を持っていますので、地上が音頭をとると、階層をまたがった集会が行いやすいのだといいます。――2月のオフ会で、私が受信した、「先祖供養」という言葉で表現した要望とは、この階層を跨った一族会同のチャンスを作れというものだったのです。

オフ会前・オフ会中

 いつも友人と連れだって参加してくれている方から、「最近ラップ音が酷くて」……とのメールを受けました。私が精神統一してみると、「先祖供養の日」に向けて、歓び張切っている祖先の霊たちがいると感じ、その旨を返辞して、オフ会の日を迎えました。

 オフ会で、その後の話を聞いてみると、そのメールと前後してぱたりとラップが止ったそうです。

 興味深いのは、同じ参加者である友人が訪ねてくると、ラップ音も雰囲気も鎮まるのだそうで、曰く――「お行儀よくしている」

 ラップ音と言っても家の軋み程度の音だということで、それこそ本当に家の軋みかも知れません。誰が居ても構い無く鳴るのであれば霊とは思わぬ事でしょうが、友人が来ると鎮まるということから、やはり霊起因の音なのだろうと信じる次第。

 というわけで、ラップ音の具合で、やはり今回の、先祖供養――というより、一族会同がうまく行ったのだ、と認識したという訳です。

オフ会中

 今回は、会場の使用時間が長かったため、15分前後の統一を7回ほど繰返しました。ところが霊査がおりず、苦悩したのはオフ会レポートにあるとおりです。最もその実体はというと、霊査がおりないというよりも、霊査をとるべき私も、皆と一緒に船を漕いでいたのですが……

 不謹慎という意見も多いことでしょうが、理想的な瞑想状態は、睡眠と覚醒のぎりぎりのラインを維持することなのです。この状態下でこそ明瞭な霊視も可能となります。もっとも「願事を叶えるのには」まで書取りつつ、一線を越えて私が寝てしまったのは、参加者からブーイングが巻き起りましたが……でも、時間になると皆起きるのです。これが昼寝と精神統一の違いです。しかも、起きて気分がすがすがしいと感想を述べます。

 もう一つ、私の半夢中に見た姿は、

 地平線の彼方まで続くかの様な、一面に花が咲誇る草原。あちこちに、三人、四人と、人がよりあって花を摘みながら会話をしている様……とても平和な光景です。――ああ、こういう集りが霊界で催されているのだ、と、感じ入った次第です。

オフ会後

 電車の乗継ぎが順調で、しかも車で駅まで迎えに来て貰えた……電車の到着とほぼ同時に車が到着する手際の良さ……さっさと風呂に入って眠りたかったのだが、「寝ぼけて書いた様なメモ(そのまんまだ)を清書しないと、訳が分らなくなるぞ」といわれて渋々整理をした。――そして朝。もう少し眠っていたい気持と、鼻水で溺れそうになっている現実の板挟みの中で渋々と起きあがった。恐らく……早く寝ても眠い朝を迎えたことだろう。

オフ会翌日

 幾人かの霊から、感謝のメッセージを戴きました。別段私が働いたつもりもないので、面はゆいのですが、きっかけを作ることも大切な仕事ではありますね。定期的に繰返していきたいと思いますし、幅も拡げていこうと思います。
 そして、私の守護霊からの通信ですが……『世話役が大変だった。あれに会いたい。かれに逢いたい。○○の指導を受けたい等々……世話役の人では充分に集めておいたつもりであったが、何とも手不足であった。今度は絶対に、オフ会とは別な日にしよう。』――全く同感です。


霊査事例: 2005年3月20日(東京オフ会)

2005/03/21

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


はじめに

 前回2月のオフ会において、「3月20日は先祖供養の日」と宣言し、予定を立てていたが、神ならぬ身には予測もつかぬ事態の推移により、なんとこの日が東京オフ会開催日となってしまった。しかも珍しく会場の手配がつき、いつもならば午前中だけの精神統一が、午前午後を費やしての精神統一が可能となった。――本来ならば張り切るべき3月の東京オフ会。が、参加する背後霊がいなかった。……今日ほど霊査を受けるのに困難な精神統一はなかった。

 これは焦る。答えがないのも答えの内、と、私は常々いうわけだが、遠路集まってきた人に、ただ座っただけで帰れというのは私の気持ちに重荷になる。

 すると……

『本日は、あなた方にとって祖霊を祀る日であるが、正しくは背後の霊達の休日である。だから安息にしてくれるのが何よりありがたい。』

『たしかに、何も持ち帰れないのは残念ではあろうが、物事が静まれば物事が見えやすくもなる。静かにすることにはそれだけで意義がある』

事例1

『「想念」の活かし方があなたに大切です。』

『意図が外れるのに、意図することを止めない。もっと直感を生かしてください。』

『まずは出来ることから始めましょう。』

『矛盾点を指摘すれば、相手は自己保身からあなたを拒絶します。むしろ、疑問点を尋ねることです。雄弁よりも単純な質問のほうが、相手に真実を強く認めさせる力があります。』

事例2

『「信念」を正すのがあなたの課題です。――恨みや妬みから足を引く人が見えます。周囲の言葉に耳を傾けることは誤解を解き、敵を減らす上で大切ですが、だからといって周囲の言葉に従うばかりでは、ちっとも前に進めません。融和を計りながら、でも信念を貫く、その方策を見出さなければ夢は叶いません。』

『あなたは自分を知らずに、自分を知る人を探そうとしていらっしゃいます。しかし、自分を知らなければ、どうして相手が自分を知っていると判断できるのでしょうか? ――人から認められたいという欲求は自然なものですが、その実現手段は充分に考慮する必要があります。』

『……幹部の育成を大切に。』

『あなたはとっくに気がついていらっしゃることですが――自分がどこに座するのが一番良いか、を考えましょう。あなたは事を始めるのが上手ですが、運営するのはあまり上手ではありません。ですから始めと、要所を確認するだけにした方がうまく行くようです』

事例3

『あなたは「表層」に流されがちです。うわべの言葉に振り回され、うわべの言葉に傷つきもします。もっと相手の真相を察する努力をいたしましょう。』

『「本音で語ろうよ!」でも皆、本音で語りはしません。あなたはとても幸せな人なのです。周囲の多くは、自分の欠点や弱点を素直に認められるほど強くないのですよ。だからあなたほど正直に本音を言えないのです。』

『おおむね順調、では次のステップについて考えましょう』

事例4

『「感情」への対処法があなたの課題です。』

『あなたの声で「だっさい、コミュニケーション法だな」と聞こえます。不平不満はもっともですが、文句だけでは発展がありません。』

『あなたの守護霊さんの声で、『理屈に理屈で返すのは不毛です。』といわれました。』

『腹が立ったとき、そのストレスをただ発散するのは無駄です。怒りを創造・創作に結びつけることは出来ませんか?』

 Q「……ではどうすれば良いのでしょう?」

 A「別な霊に聞いてみました。」

 『(相手のいうのは)理屈ではなく、言い訳と思え。言わずに出来るのであれば理屈などは言わぬ。理屈の相手が嫌であれば、相手が言い訳もせずにいられるように気配りせよ』

 Q「以前の霊査で、真心が大切といわれましたが、真心ってなんですか」

 A「廬氏に尋ねてみました。」

 『人々は純粋なる心を真心と呼ぶ、また、己の意識を心と思う。だが、心と真心は別なものである。真心とは意識に登らぬ心の働き、心の芯となる部分をさす。すなわち、自覚無く、自然に現れる行動――その動機をもたらすものが真心であり、意図し、思考した結果は、すでに真心とは呼べない。』

事例5

『「愛情」の意義を深く考えてみましょう。あなたの思い道理にする事が子供に対する愛情表現ではありません。子供の持ち味を伸ばすのが愛情なのです。』

『自分だって人から認められたいのです。子供たちならばなおのこと認められたいのですよ。』

『世話をすべき相手が多いから、(真心よりも)つい頭を使います。それは信頼関係が出来上がるまでの辛抱です。』

『「現実」に振り回されているから、何を得ても満足できずにいるのです。――たとえばどんなご馳走であっても、家族の世話をしながら食べるのであれば、お腹はふくれてもどこに入ったのか分からず、何やら物足りない気がするでしょう。楽しむときには、ただひたすら楽しむ、そう決めて現実を直視することが満足を得るために第一歩です。』

事例6

『「知性」の活かし方、応用が大切です。』

『言葉以外に成せるもの有り。その意味を知る。』――表現方法は必ずしも言葉に限りません。そして言葉にならぬ事こそが、人が一番伝えたいことです。それに気がつき、またそれを伝えるために何が必要なのでしょう?

『自分をプロデュースしてご覧なさい』

 あなたはあまり、無駄なことに頭を使いませんねぇ。美徳です。

事例7

『「意義」を見つけましょう。自分が感じ取っているもの、それにいかなる意義があるか、その意義を見つけたときに興味が広がります。』

『あなたの祖母様の声です。『可愛い、可愛い』と聞こえます。今まで緊張ぎみで伝わらなかった意志が、強く感じ取れるようになっているのです。意思の伝達の上で緊張がどれほど大きな障害になることでしょう。』

『あなたは、つい日頃から皮肉に走りがちですが、本来、人に多くを期待しすぎるあなたの性質が、無意識にバランスを取ろうとして皮肉な見方に流れるのです。つまりあなたが皮肉屋なのは信じすぎることの反発・矯正なのですから、皮肉は程々に、バランスを取るという目的を忘れぬようにいたしましょう。』

(事例4のアンサーを得た後)
『真心を観察なさい』――周囲の人々が無心に求め、無心に与えている真心を観察なさい。

Q『祖母は私にだけメッセージをくれるのでしょうか、他の兄弟はどうなのでしょう?』

A『水は洩れやすいところから洩れます。つまり、チャンスが多いからあなたに対して祖母様がメッセージを送るのであって、もちろん、他の子孫の事も気に掛けているのは間違いありません』

Q『母ではなく、祖母なのですか?』

A『人間に個体差があるように、死者の歩む過程も皆異なります。あなたの祖母様は信仰心が篤かったために、目覚めるのが早かったようです。また、子孫を思うのも強すぎると、苦しくて眠ってしまったり、弱ければ動機がなくて寝てしまったりします。つまり休日などに人に合う約束でもないと、ついうたた寝で過ごしてしまうようなものです。
 また信仰心が篤いといっても、人によっては欲心を念じることを信仰だと勘違いしている場合もありますので、一見しただけでは、本当に信仰心が篤いかどうかは分からないものです。大切なのは結果を見て判断することなのでしょうね。』

事例8

『「豊かさ」を活かしましょう。折角持っている才能やチャンスを無駄に使ってはもったいないですよ。』

『あなたは、頭で考え得る完全な仕事を追求していらっしゃいます。ですがそれでは工夫の余地がありません。』

(事例4のアンサーを得た後)
『我を忘れて動物と一緒になって働く。動物には理屈は通じません。つまりあなたは真心の大切さを誰よりも学んでいる人です。』

『同情の次は導くことだ』――共感力の強い人は、病人などの痛みも共感してしまいがちです。でも痛いものを痛いと感じただけではお互いに辛いだけ。その苦しみを和らげる手段を獲得してください。

特殊事例1

Aさん、Bさん、あなた方お二人とも神社参りがお好きですが――連関した霊査内容です。

Aさん

『神社参拝の効能は、神様からのお助けを得るよりも、自分を信じて行うところにあります。つまり自信が無くて出来なかったことも、神社参拝するとなぜかできそうな気がして、何とかなってしまう。だから神社にお参りして良かった。と感じているのです。』

Bさん

『まず自分の力を百パーセント出すことです。百二十パーセントの力を求めるのはその後にすべきです。――あなたにいうことではありませんが、どうも人々の多くは、実力を惜しんでお助けだけを欲しがります。そういうさもしい気持ちでは出来ることも出来なくなって当たり前でしょう。
 自分の実力さえ充分に出せずにいる人が、実力を充分に発揮できれば自ずと幸せになるはず。欲をかくのは、限界を極めてからで良いというのは自然な発想ですよね。』

特殊事例2

Cさん、Dさんに連関した霊査内容です。

Cさん

『発想の転換、家庭内起業』と聞こえます。『アクセサリーの製作販売をなさい。私が指導します』とのことです。要するにあなたの指導霊になりたいという申し出があります。

Dさん

『あなたのパートナーと力を合わせて小物を作って売るのも面白いと思います。』


地球幼齢期は続く

2005/03/18

 多くの心霊思想は「霊性向上」を人生の一大事と見なします。しかし「霊性」に関する見解が様々に分れるのは、滑稽であると同時に暗示的でもあります。

 ―― 人の理解力には限界があり、さらには個体差がある。

 人々はたとえ同じものを見たとしても、誰もが同じ見解に到達するとは限りません。それ故に、互いが知りたる真理の真偽を論じ、優劣を競うのは愚かというべきです。

 真理とは普遍で絶対なものであり、議論の余地があるのは真理とは呼び得ません。(例;「死は避けられぬ」等、または「神は絶対である」も真理に属しますが、これは迂遠な、というより宗教的論理の典型です。なぜなら絶対であるものを神と呼ぶのですから)

 人々は真理を論じているのではなく、真理に対する己の理解力を競い合っているのです。つまり、言い換えれば人は真理を論じて、己のセンスを競い合う……というより、真理にいたらざるもの同士の言い争いですから、己のナンセンスさを競い合っているという方がより適切でしょう。

 一個人が理解しがたいものに対する見解の違いとは、どちらかの間違いであるより、相互補完的――つまり互いの見解を持寄ってこそより真実に近づくものなのです。それを見解の違いから同一事実を貶し合えば真実から遠ざかるばかりです。

 霊性向上が最大の重要事でありながら、霊性のなんであるかに意見が分かれる――滑稽に見えても現実を暗示しています。つまり人は「目的を果たすために生きている」のではなく、「目的を見出すために生きている」ということなのです。

 もう少し掘下げます。

「人生とはなんぞや?」――という疑問は、古今東西、多くの人々を悩ませます。評価は達成度で決るのです。人生の目的を果さずにどんな良き人生があるというのでしょう? そして、目的を知らずにどうして目的が果せるのでしょう?

 しかし、人は産まれてくる時も、場所も、境遇も選べません。……そして死すべき時も人は選べない。自殺という手段があっても成功するとは限らないのです。選択肢はかくも乏しく、悩みの種は滅多に尽きない。すると人生の主導権を握っているのは、全知全能の神(本当にいるのか?)ではなくとも、少なくとも己自身ではないらしく思われます。

 一体、個人の意志でどれだけ人生が変えられるというのでしょうか? その不自由な境遇を思えば、人は、「生きている」のではなく「活かされている」と考えるのが自然な見方でしょう。

 霊性のなんたるかを知らずに霊性を論じ、主導権もないのに人生を論じる。――人は、そして知性と自覚は、なんと矛盾したものでありましょう。しかし、人生に合理的な答えがないとは思えません。ただ、人は真実を認めるのが難しいだけなのでしょう。

 要するに、人類の知性・霊性のレベルは、真の目的を追求する以前の、真の目的を担えるだけの成熟さを追求すべき時期にある、ということなのです。そして、「真の目的」を理解するために、今の人生があり、目的を果たすための人生ではない――だからこそ、「霊性向上が人生の主たる目的」というのです。その事は一般家庭において考えれば理解しやすいことでしょう。

「家の手伝いはしなくていいから、あなたは勉強に専念しなさい。」

……と、いわれるのは果して誰か。子供扱されるのは子供にとって不愉快な事であったとしても、心身の発達が足りなければ手伝いはむしろ足手まといになるのです。

 霊性向上が人生の目的。それが現実で、現実から逃げても敗北が待っているだけです。しかし、目的を理解するためだけの人生とは何とも惨めに思えます。たとえそれが、精神的に子供であるが故に子供扱される事に不快の念を抱くのだ、としても……いや、ならばこそ、嬉々として「人生の目的は霊性向上にある」と語る人を見ると、気味悪くも思います。子供が大人に憧れるのも又、霊性の導きなのです。なのになぜ、人々は子供扱されることに歓びを見いだすというのでしょう! ―― 不愉快であっても、人は霊性向上のその後に見えるものを理解できず、その状況を抜け出すためにはやはり霊性の向上が必要なのです。

 すなわち、霊性の意味を知らず霊性を論じ、主導権を持たずに人生を論じるのは、成長過程の子供らの会話に比すべきものなのです。大切なのは真理よりもむしろ考え、悩み、そしてより深い洞察力を身につけていくことです。

 つまり、人類は未だ幼齢期にあるということです。幼齢期とはすなわち、独り立ちする以前の状態ということです。そして、多くの心霊思想は人類を幼齢期あつかいしているわけですが、幼齢期は安住すべき境涯ではありません。


2005年 03月 18日

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