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三度目の留年?

2005/02/01

三度目の留年?

2005年 02月 01日

 モーゼスの「霊訓」は百年前の霊界通信であるが、未だに光彩を放っている。だがそれは、未だ、モーゼスの背後霊団……「インペレータ霊団」の目指す所へ我々がたどり着いていないというだけのことだ。かつてのスピリチュアリズム・神霊主義が打破すべきは、唯物主義と迷信的旧信仰であった。むろん根絶は未だならないが、心霊思想ならずとも、多くの人々が心の大切さに注目しているのは、心霊思想の黎明期と比べれば大幅な前進がなったといえよう。

 ところで、忙中ヒマ有り……忙しい最中に、お茶をすすっていたその時、ふっと通信が入って書き留めたのが……

『唯物論者などは過去の遺物だ。その次に相手をせねばならぬのは効率至上主義であるが、そんなことはすっかり忘れられている。しかも、現時点ではもう二段階前に進んでいなければならぬのに、未だに主義主張のあり方を論じて何をすべきかが分かっておらん。

『魂は永遠の向上を目指さねばならぬ。霊界通信を読みて、もう充分と感じたときは、次のステップに取りかかっておらねばならぬのだ。それをたかだか峠の一つを超えただけで浮かれおって怠惰なことだ』

……どうせいって言うんだ!?

『何も言わん。ただ、人々は満たすべきレベルから三段階も遅れていることを覚悟せねばならん。手を引いてもらえると思ったら大間違いだ。尻を蹴飛ばされて当たり前と思わぬものは辛いぞ。』


「効率至上主義」という呪縛

 05年 02月 21日

 留年というキーワードが心に響いたのか、それとも効率至上主義の否定が共感を得たのか、「三度目の留年?」に関して、掲示板、メール、口頭でと、度々質問を受けます。

 やはり皆、もう一歩前に進むことの大切さに気がついているのでしょうが、その手掛かりすら掴めずにもどかしい思いをなさっている方が多いのでしょう。すると問題は、むしろ効率至上主義以前に、正しく問題認識できないという点にまで遡らなければならないのかも知れません。

 そもそも人は、何か問題提起があっても、自分をその対象から外そうという無意識の働きに支配されがちです。つまり「自分だけは効率至上主義に毒されてはいない、これは私以外の人々の問題で、だから私はこの問題の答えを解けるはずだ」……という思考順序がごく平凡な発想です。

 それはすなわち、盲点があるだけでなく、実は大きな勘違いが潜んでいます。そもそも質問者も中継した霊媒自身(私だ!)も、正しく、「効率至上主義」の意味を理解していないのですから、そのままで対策を考えようとも答えが出るはずがありません。ですから、「効率至上主義とはなんぞや?」から、話を始めるべきなのに、その問いが無い。まず自分だけは効率至上主義に毒されてはいない、という偏見から問題を見ているとしか言いようがありません。

・・・・・・・・

 物質文明の助けなくして、三日と暮らせぬ人ばかり増えた現代日本ですが、すでに唯物論的な発想の持ち主は決して主流とは言えません。まあ、正しい方向を向いているのか否かは別な問題として、むしろ心の豊かさを人生の目的と定めている人々が大多数を占めております。

 とはいえ、効率至上主義に毒されていて、子供はといえば成績という数字的指標でその価値を決められ、大人になっても、会社では業績という数字的な指標で価値を決められ、家庭に入っても家事の出来という成績でやはり善し悪しを決められてしまいます。

 芸術だって、味覚だって、個人の好みというより専門家による評価で善し悪しが計られ、時として評価に好みが支配されるかのような逆転現象を目にすることもあります。

 専門家が良いといった物が良いのか?

 皆が良いといった物が良いのか?

 ある成績や専門家の評価というのが絶対的な価値を決め得るのでしょうか??

・・・・・・・・

 最近、友人との話で、「自分がやろうとすることを皆が反対する。止めるべきなのだろうか?」という話になった。思わず話が重くなり、ビールばかりが減る始末。が、ふっと私の背筋が伸びて、神憑り的になったことを友人たちも気がついた。そして、私は、効率至上主義の話を引き合いに出した。

「なぜ、皆反対するのだろう? わざわざ苦労する必要はない、とか、もっと楽な方法があるとか、君が何に魅力を感じてその道を選ぼうとするのかまで考慮してくれてはいないようだね。

でも、苦労を避ける、もっと楽な道を選ぶ、という考え方こそが効率至上主義的な発想ではないか?  

苦労すればこそ得られる物もあるし、苦労すればこそその結果が埃にもなるだろう? 

悪銭身に付かずというけれど、楽々手に入った物を果たして大切にするだろうか?  

確かに皆が認めるようにリスクは大きいし、私だって大変だな、と感じるから出来ることならば反対したいよ。その方が楽だし、下手に応援して後で失敗したとしたらバツも悪いからね。 でも、人生や仕事や恋愛は、効率だけで割り切って良いのだろうか? ダメでも、不毛でも、それこそ夢想であろうとも、折角の人生、結果がどうであれチャレンジすることも大切な思い出になるのではないか?  

見てご覧よ、周りの人々は、結果ヌキに物事を考えられない人ばかりではないか。そうやって得た結果なんて、死んだら持っていけない物ばかりなのにさ。  君の人生、君らしく生きることも大切じゃないか? 効率ばかりを追い掛ける必要はないよ。」


……で、私を含めて一同、効率至上主義の問題点に気がついた。

友人「今までの霊査で、『営業活動ばかりに囚われるな』といわれ続けたけれど、仕事が増えないと生活も苦しいと、なんとなく理解できずにいたけれど、仕事も効率至上主義じゃあダメだ、良い物が作れないぞ、という意味か。みんなそこに関わってくるんだね」

「そうそう、自由な発想こそが人生に豊饒をもたらすんだよ。教科書的な生き方で人生を終えたら大過なくてもつまらないんじゃないか。そもそも目標を達成するのに効率を考慮するのは当たり前のことだよ。だけど、効率で目標を決めるなんてナンセンスじゃないか。そもそも効率を考えるなら生まれてこなければ苦労もないのだから。」

……効率至上主義の害というのは、自分らしさよりも、効率的という物質的・数字的な評価基準で自分の進むべき道を決めてしまうことなのです。 

 結果を恐れて、為すべき事を為さねば、失うものも少ない代わりに得るものも無いでしょう。そんな貧しい体験を持って一体、地上の生が報われるものでしょうか? 今は健康で活力に漲っていても、いずれは老い、病と苦を乗り越えた先に死がまっているというのに、楽な道を行こうが、苦労の多い道を行こうが死は避けがたいのなら、満足のいく生き方こそが大切ではないか?


摂理と真理の区別

2005/02/01

2005年 02月 01日


たとえば、「水は高きから、低きに流れる」――というのは、摂理であって真理ではありません。この違いは大切です。例えば、 ポンプや水車などといった機械的な揚水設備もあれば、サイホン管などの工夫でも水は高きに上がっていきます。もしも水が必ず低い方に流れて決して上がることがないとしたら、水道や農業用水などは使い物になりません。とはいえ特別な仕掛けがなければ、また、ミクロ的な現象を無視するなら、水は高きから低きに流れるのが、自然で無理のない状態なのです。

 そもそも、真理は絶対であり、摂理はおおよそ、という意味合いがあります。絶対にダメなのか、おおよそダメなのか、判断に巾があるのか、迷いの余地がないのかで意味は全く変わります。そして、この真理と摂理を区別は、心霊に限らず、宗教等の心の持ち方を扱うすべての分野で重要なスキルで、これを理解しない人は常に大きな間違いをしでかします。

 例えば食欲や性欲の抑制ということを考えてみてください。倫理的な人々は欲望の抑制を重視致しますが、これを真理と見なすと、大変な不公平が生じます。つまり、肉体が衰えた老人や病人なら、心が汚くても食欲・性欲は余り強くはありません。反対に子供の頃から妙に信仰深くて禁欲的な生活を送ってきた人は、つまらぬ新聞ネタを提供することがあります。

 他には、玄米食は身体によいものですが、闇雲にやるとぬかの油で不調を起こします。肉食が悪いというけれど、妊婦や育ち盛りの子供にはタンパク質は重大な意味を持ちます。「何十年も試してきて、私はこれが一番の健康法であると思う!!」――というのは、年寄り向けのメニューであっても、若者向けとは限らない。……もっともこういう勘違いは、中道・中庸という、基本的な真理を理解しないからおこる、不勉強の結果に過ぎません。

 確かに、食欲や性欲といった肉体に付随する欲求に、一度従ってしまうと、欲が欲を生んで雪だるま式に欲情して、精神性がなおざりにされてしまいがちです。美食を追求すればもっとおいしいものを追い掛けたくなるし、性の追求にも果てがありません。しかし、食を否定すれば肉体は滅び、性を否定すれば子孫が絶えます。といって、食欲も性欲も死ねば何の役にも立ちませんから、やはり程々がよい。――程々なのです。つまり、摂理で判断すべき事柄で、真理で考えるべき事ではありません。仮に真理で、食欲や性欲を否定したら、善良なる人は死に、善良なる人類は絶えてしまいます。

 遠大な計画は真理に添って立案されるべきですが、人生――個人レベルの行動原理は、摂理に従うのがよいのです。無理をしても長続きはせず、無理をするとどこかに嘘が出ます。

 そして、この真理と摂理を区別を理解しない人の大きな間違いとは、出来るはずのない理想を、「所詮は理想」と割り切って追い掛けてみたり、他人に強いたりすることです。

 向上に大切なのはレベルにあった目標を一つ一つクリアーしていくことなのに、出来ない目標を言い訳のために掲げて、結局、一つも向上することなく、ただ言い訳だけを重ね、善く生きようとする人に無駄で不毛な重荷を与えたりする人々。全くつまらぬ悪行です。このようなことがことさら問題視されないのは、何のことはない、世の多くが人生の向上を心がけても、霊性の向上を心がけていない……ようするに凡夫の一人に過ぎないからでしかありません。つまり、高速道路に乗っていないからといって、非難されるいわれはないというわけです。――ただ夢想的理想論者に惑わされる人だけが悲劇です。

 高い理想は往々、自己欺瞞と周囲を煙に巻くための言い訳に過ぎません。本当に向上の道を進む覚悟があるなら、頂上など忘れて出来ることを一つ一つ片付けていくことです。

・・・・・・・

 自分で自分に高い理想を掲げさせて不毛な人生を歩むのは、おおよそ、ただの自業自得です。世に氾濫しているのは、自分は現実と妥協しつつ、我が子には無理な理想を強いる親たち。我が子を地獄に落として、我が子に地獄に引き込まれる。哀れなるかな、恐るべきかな。

――誰とはいわないが、みにやましいさん、直ちに己の悪因縁を解消すべし。

・・・・・・・

 高き理想を掲げながら、足下をしっかり見ている人は滅多にいない。だから、そういう人との出会いは人生の宝だと思う。だが、足元を見ずに理想だけが高い人はとの出会いはまったく人生の負債だと思う。何しろ、良縁は得難く、悪縁は断ちがたいから。――つまり、自己逃避を続ける人がなによりも憎むのは現実で、その次は他人の妄想なのだ。不毛な生き方を嫌う人が真実を追究したら、凡百の恨みを買わずにはいられない。


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