‘2005/02’ カテゴリーのアーカイブ

霊査事例: 2005年2月25日 (静岡オフ会)

2005/02/26

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


事例1

『出来ることは出来るとせよ――自分のやりたいことが人々を傷つける。(やりたいことを我慢しても)自分の学びたいことを学べる。充分に幸せです。』

事例2

『待つのも必要なことです』

……

『待てないといいたい気持ちも分かりますが、あなたは、待てという気持ちの辛さを理解していますか。また、待てないと言って何かが変わると思いますか?』

『あなたに必要なのは愚痴の聞き役か、それともあなたの幸福を祈ってくれる仲間か、どちらでしょうか?』

『あなたが味方を酷使して、喜ぶのは誰ですか? ここでいう味方とは、友人や背後霊だけでなく、家族や祖先や、そして自分を含めた諸々です。辛いから頼る――それは当たり前であっても智慧がありません。あなたは決して愚かではないのに不幸に甘えて愚かになっています』

『打算が嫌だと神に祈りながら、あなたは打算ばかりを考えています。想いに果たして力があるのか否か、いずれにせよ、あなたは自分の力を十分に発揮していません』

『非は相手にある。だが、あなたの迷いが、あなたの苦しみを増やしていることを忘れてはいけません。決定的なタイミングを何度も失って今日に至っているのです。これを繰り返しては、あなたは失うものを取り戻そうとしてより多くを失う悪循環から抜けられません。』

『待つ、とは一体どういうことか、よく考えてみなさい。失うために待つのではなく、得るために待つのです。同じ待つのでもその心構えは大きく違います』

事例3

『気の動揺を恥じるな。(動揺というような)生理とは自然であって、それに飲まれず、その波を活かして「大」を掴む。』……一般向けに解説すれば、「自分の動揺を恥じるよりも、その動揺に勢いを借りて大きな成果を成し遂げなさい」とのことです。

『天が与えた余暇は、遊びの為の時間ではなく、次のステップを狙うために使うことです』

事例4

『人の振りを見て、己の足らざる所を知る。それもまた大事なり』

『(悪しき心掛けの人を見ても)病気と思っていたわる。いずれあなたのかけがえの無さに相手が気がついてくれるだろう』

……あなたは、人に誠意を尽す人です。その事を誇りに思いなさい。多くの人は他人を進んで八つ当たりの相手に使います。ですがあなたはそれを慎み、誠意を尽そうと努力しています。それこそが善良という意味です。人である以上、至らぬ点もあるのは仕方のないこと、でも、あなたは努力している。それが大切です。

事例5

『無心に祈る。ありがとう、さようならを忘れずに』

 あなたは霊を拾いやすい体質ですが、そのくせ神社仏閣が大好きですね。本来は危険と止めるべきなのですが、ちゃんと守ってあげると聞こえました。ですからせめて、お参りするときには、ありがとうと、さようならを忘れずにして、くれぐれもつまらぬお客様を拾ってこないようにしてください。

総論

 真心を利用されないか、お人好しにつけ込まれぬかと、参加者全員が、ありきたりの道徳論に反発の念を抱いているのを指摘して……

『日常の事柄に色々と小細工ばかりが多い。真心を尽して見よ。裏切られることが悪いのではなく、裏切るのが悪である』

・・・

 ちょっとオフ会こぼれ話。

 帰り道、近道をしようと、カーナビの指示を無視して、右折禁止でかえって遠回りをすることに……ああ、小細工が多すぎたと一同、大爆笑。……だがこの失敗は一度だけでは終わらなかった。


心の翼、地獄へ

2005/02/25

2005年 02月 15日


 理想がなければ人生は味気ない。だが地に足のつかぬ理想、現実との接点がない理想は妄想とどう違うのだろう? 美しくも無意味な理想を抱いて、魂はどこに行くのだろう? 理想に見合った高みに登るのか……それとも、上も下も分からぬ迷宮で惰眠に似た満足を味わうのか?

 肉体を酷使して山に登るのは辛い。だが、空想の中ではどんな高い山でもひとっ飛びだ。それどころか月だろうが火星だろうが行けぬ所はない。心の翼はなんと自由なのだろう!? だが、これが理想の怖さだ。――あなたの理想は、果たして現実の役に立つのか? 役に立たぬのであれば、心の翼は地獄にしかあなたを運べない。

 霊界通信は語る。すべての創造力は霊界から流れ込む。と。だが、霊界起因のインスピレーションのすべてが現実の役に立つのだろうか? もしも役に立つのであれば、霊感の持ち主の社会的地位はもっと高いことだろう。

 すべての魂は、平等に試練に出会う。何を信じ、何を信じないのか。それは試練……というより遙かに試験《テスト》に近い。

 受かって当たり前……そして落ちたら悲惨なのだ。


本末転倒な原理主義

2005/02/25

2005年 02月 25日


 人の表現力には限界があり、人間の理解力にも限界がある。――人と人との関係は、それらの限界の元に成立っている。

 SF作家、アーサー・C・クラーク氏は、小説の中で信仰をこう断じた、「水槽の中の金魚が、毎日エサを与えてくれる者に対して感謝の祈りを捧げているとして、それが人になんの意味があるだろう?」――なるほど金魚の想いの意義は実に迂遠で理解がしがたい。

 では、大人達が幼子の世話をするのはなぜか? 幼子が感謝の祈りを捧げるにせよ、不平不満の泣声ばかりでうるさいとせよ、多くの大人達は、世話する者のない幼子を放置しようとはしない。その行為が報われるにせよ、しないにせよ……それが、人間の持つ「愛」の働きではないか。

 自分の思いを大切にすることこそが純粋と言われる所以である。そして、相手がどう思うかが大切なのではない。――神が存在しないことが合理的に見えても、人の心から信仰を消すことが合理的とはいえない。

 人が神からの愛を期待できないとせよ……仮説としてだ……人が何かに愛を抱いてはいけない理由には成らず、人が何かに愛を期待していけない理由にも成らない。人々が大自然の猛威の中で、幸運を期待するのと同様、神の愛を期待していけない理由がどこにあるというのか、ましてや、神を大自然の働きを支配する法則として捉えるならば、自身と自身の愛する者の無事を思わぬ者がどれだけ居るというのか。つまりは無神論者にしても日常に「神」に祈りを捧げているといえよう。

 ある者はそれを偶然と呼び、ある者はそれを詩的表現をもって「神」と呼ぶ。――人は皆、神に祈る。ただ、それぞれの信条・宗教宗派によって、その神の定義に違いがあるだけのことなのだ。

 神の定義が違うから、互いに相争う。なんと不毛なことだろう! ――人間の表現力には限界があり、人間の理解力に限界がある。そして人は助け合うことで一個人の限界を超えることも出来る。それもまた「愛」が大切とされる所以である。だが、表現力の限界・理解力の限界が争いを生み出すのも現実である。なんのことはない。人間の抱きうる愛には限界があるというだけのことだ。

 互いに違うからこそ助け合う必要があり、又、助け合うことに意義も出る。鉄筋コンクリートや複合素材、様々な企業の異業種提携等々、殊なる者同士が助け合うことで生み出す強さは、誰もが利用していることだ。だが、不明な人々は、異なる者を敵視する。まるで、他を侮蔑することでしか自分の立場を上げられぬがごとく――人を踏みつけにすることしか天に昇れぬ人はまさに哀れなるかな!! 踏みつけるべき人が居なくなったら、更に高みにはあがれなくなるのだから。 傲慢な人ほど依存心が強いということである。

 真の人よ、天の高きを目指す者よ。自己の個性(オリジナリティー)に誇りを抱け、他と比べることなく自身を抱くことの難しさを知るものこそが、人の真の価値を見いだせる人なのだ。

 違うからこそ助け合う――それこそが愛だ。対して同系の者だけを大切にするのは自己愛(ナルシズム)の現れ、生育不良の愛情、いや大人になっても生育不良であればでしかない。かような者は夢幻界で向上の夢を見るのみである。

 人の表現力には限りがあり、人間の理解力には限りがある――教条主義者や原理主義者は、暴力的な言動を以て現実を否定し、そして夢幻界で向上の夢を見るのである。

 地上に於いて山登りが辛いものであるように、死後の向上もやはり辛い。ただ、苦労が報われることを信じる者のみが、向上していくのだ。現実認識の痛みこそが、あなたが確実に天の高みを目指している証である。

 痛む者よ。痛みの中にも希望を手放さぬ者よ、あなたこそが神の愛情が証である。


一番の活力源

2005/02/17

2005年 02月 17日


 朝の給湯室。同僚が、いかにも疲れたという顔でうなだれている。挨拶しても気の抜けた返事。聞けば風邪が抜けないのだそうだ。

 人は疲れると、栄養のある食事、吸収の良い食事、又はビタミン剤やドリンク類に手を伸す――でも、大切なことを忘れては居ないか? 

栄養がエネルギーに変るには酸素が必要なのである。

 しばし冗談で同僚をなぶり、お互い笑った後で、彼の声は太く張りが出てきた。人間、呼吸が大事だ。食事や水よりも呼吸が大事なのである。そして世間にはいろいろな呼吸法が多々あるが、簡便かつ効果的な呼吸法は実は笑いなのだと思う。

 笑いは疲れを吹飛ばす……実は、思い詰めることで反射の働きが鈍くなり、深い呼吸を忘れた人が、笑いによって当り前の状態に復しただけなのだ。

 人はどうも自分を虐めすぎる。だから笑いが必要なのだ。無意識の自分いじめは、努力では直らない。別なことに気を向けることがいちばん手っ取り早い解決法なのである。

 笑いは人を救う――だがそれには深い意味がある。私が知り得ないいろいろな働きもあるだろう。 ……難しく考える必要もないし、かといってこれで充分だと思うのは向上の放棄に繋がる。 ……笑いは人を救うが、笑いだけで人を救えるわけでもない。

 笑顔を忘れている人には取戻す手伝いをなさい。笑うだけで大抵の問題は解決に向うし、少なくとも解決の糸口をもたらすこともある。――それから先はあなたの霊性の働きのままに、親身に話を聞くのも良し、励ますのも良し、同情を寄せるのも良し、その時こそがつまり、あなたの霊性が試され、磨かれる瞬間なのだ。


過去のしがらみ

2005/02/17

2005年 02月 17日


Q 「考えてみると私は自分という者に対してあまり意識したことがなく、自分があるようでないような感覚で生きてきたように思えます。自分っていったいなんなのだろう?と今は疑問が湧いています。また、自分の生い立ちに何があったのだろう?という変な興味もすごく湧いてきています。半分は知るのが怖いのですが・・・」

・・・・・・・・

A 「幼少時に充分な保護が得られず、懸命に突き進んで来た、ということです。ですが、もうペースダウンしてもよい・・・いや、ペースダウンが遅すぎたぐらいでしょう。息切れしてから我が身を省みても空しいだけ、今ならまだ、人生を楽しめます。

 あなたの生い立ちに何があったにせよ、あなたはあなたです。そしてあなたが何であるのかは、親の都合や望みで決まるのではなく、あなた自身の覚悟、努力と工夫で決まってきます。

 子供は親を選んで生まれてきます。そうでしょう? 先に生まれてきている親に、どうして子供を選別する自由があるというのでしょうか? どんな過去があったにせよ、あなたはそれを覚悟して、その親元を選んで生まれてきたのです。生れや育ちを恥じる必要はありません。むしろ、生まれ落ちた後に不平を言うことこそが、神の前での誓約をないがしろにする天地でもっとも恥じるべき行為であります。

 まして、富貴の家に生まれてもなお堕落して行く人がいることを思えば、不都合の多い家、不都合の多い肉体に宿ることがより難しいということに気がつかれるべきです。

困苦の元に生まれ落ちるのには、相応の実力を必要とするのです。

 一生懸命に生きてきた……それは、人の目を気にするため努力ではなく、自身を抱くための努力なのです。振り返る先を間違えては愚かです。――どうして己を卑下するために苦労があると思うのですか? 実績こそが自信の裏付け、実績の伴わぬ自信などなんと空虚で浅はかなのでしょうか。

 過去を嘆いても未来は変わりません。過去の苦労を生かしてこそ、未来は開けてくるのです。 恐れるべきは過去ではなく、虚ろな未来です。その意味において、あなたは何も恐れる必要はありません。」


心のスピードを落とす

2005/02/14

2005年 02月 14日


 自動車の運転教習では、車庫入れなどの難しい操作が必要な時には極力スピードを落とせと教わります。車速が遅ければ充分な判断・操作時間が得られるからです。――これは合理的な考えです。なにより、車等の財産を守るという意義と、命を守るという必然性があり、否応もなく会得することを強いられます。

 ところが人は一般的に、難問に直面すると焦り、また、失敗するとさらに焦るという習性があります。冷静ですら難しいことを焦ってどうして成功するというのでしょう?

 これが車の運転であれば、愛車を傷つけたり、物損事故で弁償したりで、否応もなくスピードを落とす習慣が身に付くものを、人々はどうして人生において、心のアクセルを弛め、心のブレーキを踏むという習慣を会得できず、焦って事をしくじるのでしょうか。

 必要な時に、必要なだけ、心のスピードを落とす――大切な習慣だといえましょう。

勘の働きが鈍い人がいる――まるで外部からブレーキが踏まれているみたいに? 自動車の運転教習で隣に座った教官が勝手にブレーキを踏むかのように?

 あなたが心のブレーキを掛けないから、あなたを見守る守護霊にブレーキを掛けられてしまうのです。

……折角の才能、折角の霊感を、あなたは無為にしていませんか?


霊査事例: 2005年2月12日(横浜)

2005/02/13

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


 今日はどうも会場の雰囲気が重苦しく、余りすっきりと精神統一できませんでした。先月と同じ会場なのですが……

霊査事例1

『心の垣根取れて始めて知る己』……あなたの親戚一同は、どうも警戒心が強くてそれが問題の種となっています。あなたが心を悩ませているのは氷山の一角、見えているのはほんの一部に過ぎません。問題解決はその一角ではなく水面下の問題まで含めて考えなければなりません。

『四百年に一度の大掃除』……慌てないでください。

 なお、生野菜が不足気味のようです。ストレスが胃にたまっていますよ。

『大地を踏みしめて、人に心を動かされない。――汝は人に滅ぼされます』――あなたの過失と言うより、人に振り回されて破滅するタイプの人です。

霊査事例2

『わが花は香りこそすれ見ゆるにあらじ』――お化粧や、服装に凝る前に、香りに気をつけてみてください。思わぬ好印象を周囲に与えます。

『「人はなかなか泣けないものよね。そうでしょう?」――あなたが苦しんだことを悲しい思い出にするのではなく、体験から同情できる人になって下さい』と聞こえました。

『素直すぎます。たとえば外で飲んでいても、「勉強させていただきます」みたいな態度を取ってしまう。もっとその場の雰囲気を楽しみなさい』――存在感が強すぎるという意味か?

霊査事例3

 祖母様の姿が見えます。

 また、あなたは何か、欲しいものがあってあくせくしていらっしゃるようですね。『慌てなくとも得られるものを慌てるのも愚か、慌てても得られないものを慌てるのも愚か』と聞こえました。

 また、『なにより大切なのはあなた自身です』と聞こえます。欲しがることで自分を虐めたり壊したりしない様になさって下さい。

 まだ心霊への偏見が残っています。気の抜けたときが一番自然に霊的なメッセージを受けられるのに、あなたは常に緊張していて、メッセージを受け入れる隙がないのです。ですから、メッセージを受けるのに苦痛が伴います。

霊査事例4

 薪の山が見えます。――仏教説話ですね。「百年掛けて積み上げた薪も、燃やせば一晩で燃え尽きる」――始めることには手間が掛るのに、止めるのは一瞬の判断で済みます。

霊査事例5

 人を立てて、人に立てられる。――部下に「働きやすい」といわれるのは上司の誇りとして良いことです。

 人の考えに届かないのは(感じるものがないのは)、あなたが自分の考え・アイデアに夢中だからです。もっとご自分に冷静になってください。人のアイデアにも見るべきものは多いものです。

霊査事例6

『子供らと共に踊る。楽しくないの?』

『二人で心を合わせるには、いそがず、ゆっくりと、でもしっかりと心を伝えることです』――あなたはどうも急ぎすぎます。

『もっとしっかり、子供の顔を見てコミュニケーションしてあげて』

『子供らと楽しく過ごしなさい。』

霊査事例7

 あなたはどうも道では不浄霊を拾いやすいですね。でもそれは、あなたに問題があるというより、あなたの背後霊に昔の行者が一人いるからです。彼が自分の修行のために拾ってしまいます。

 車中で暇つぶしのために、色々と妄想する――それはどうということはありません。ただ、暇つぶしの為に妄想しても、現実に理想を抱くことが少ないようです。まるで練習しすぎて試合では疲れて成績が出せないスポーツ選手のようです。


霊―霊媒―相談者の連携

2005/02/07

2005年 02月 07日


私も無料心霊相談を通じて、霊媒としていろいろと学んだが、霊媒業で一番難しいのは、正しい霊査をとることではないと感じる。人あるいは事情によって、精神統一の必要もなく、バッシ……と、答えが返ってくるのだ。それを口にした時の相談者の反応にもしっかりと手応えがある。つまり、答えは得るべくして得られるものなのである。それが摂理であり、摂理に従うことの大切さを私はこうやって会得・体得した。

ところが、なかには中々霊査が出てこない相手がある。つまりメッセージの送り手が居ないのである。そもそも霊媒というのは、霊と人との媒介であり、人側からどれほど強い要請または強要があろうとも、霊が答えようとしなければ霊媒・交霊は成り立たない。

が、世の中には押しの強い人がいる者で、何が何でもメッセージを受け取ろうとして、強引若しくは悪辣な事をする人がいるものだ。霊媒にゴマをするならさして不快にも思わないが、メールで脅したり、誹謗中傷を流したり……こういう輩なら、霊達が答えないのは当然だ。――と同時に、沈黙の価値を学ばなければいけないのだろう。私も人の子、時として悔しさに腹が立つこともあるが、下手な言動で物事が拗れたら、更に苦労を背負い込むこととなる。――最小の努力・被害で最大の効果を得る。人が競うべきは収穫の多さであって、他人や自然現象ではない。そうした高い視点に自分を押し上げてみるとまた一つのことに気が付く。助けが必要なのに敵を作る人は、つまり、収穫を求めると同時に他人と競っているのだ。知らずに二兎を追いかけ何も得られずにいるのである。

逆に、霊が重要なことを伝えようとしているのに、人側が自分の我を通すことばかりに夢中になっていると大切な話が進まない。今日、ふとした拍子に思い出したが、「子供が授からない」と悩む人に、「子供というのは一番良いタイミングで得られるように祈るもので、自分の都合に合うようにと祈ると想像もしない出来事で負担を感じたりするものだ……」と、返事をした。が、その返事がこない。あの時、私は随分残念に感じたものだが、訊きたくないと思うことを無理強いしても良い結果はあり得ない……そうして今に至っている。天変地異の多かった昨年を振り返ってみて、やはりあの人はものすごく祖霊・神霊から護られている人なのだな……と感じるのだが、当人は気が付いているのだろうか。苦労と苦悩で行き違いがなければいいと心配している。

先日、ふっと受け取ったメッセージ「他人の親にゴマする恩知らず(2005年2月2日)」は、ようするに先祖供養の大切さを説いたものだ。たしかに、心霊情報に詳しい人や、独学の霊媒は往々、先祖供養をうっとうしく思いがちだ。が、やりすぎるから自分が辛くなり、辛くなるから一切やめるという大げさな反応が、人々を先祖供養から遠ざけている。

死んじまって肉体もない霊魂相手に、本来金がかかるはずもないのだ。強い要請をするのはそれなりの理由が有るはずで、理由もなく厚遇する必要もない。そもそも、居候の不浄霊まで祖先扱いしてしまえば、厄の種になることは必至である。なにせ、居候は居づらくなったら出ていくだけの無責任な連中なのだから。

たとえば、心霊図書館で公開している幽魂問答に出てくる武士の霊が、祟りまで為して石碑を欲しがるなどというのは、その典型だ。ちゃんと読めば適宜に情報があるが、祟られた家は、見つけた切腹死体を埋葬することもなく、所持金を着服し、刀を売却して、今の家産の基礎としたのだ。こういう特殊な事情でもない限り、石碑を建てろ等といわれても従う必要はないのだ。

つまり、与太話まで真面目に受け答えするから疲労困憊するのである。そして、不毛な話を無視していくと、残された要求は案外、容易でしかも真心の大切さが身にしみるものだ。――礼儀正しさは、礼儀正しさにあって報われるし、身が清まる感じも得られる。

何も自分に関わるすべての霊魂を菩薩になるまで供養せよというのではない。実体はその反対で、先祖供養とは因縁の整理でもある。祖先を大切にする……祖先を見直すことで、知らずに抱え込んでいる居候の不浄霊――随伴霊を整理することを忘れてはいけない。

先祖供養の軽視とは、「大事なものは大事にせよ」といわれて、キョトンとしているのに似ている。だが、ゴミと一緒に押し込んで、「ちゃんと大事なものは大事にしている」と思うおかしさに大抵の人は――霊媒も――気が付いていない。そして祖霊(先祖の霊)をゴミと一緒にして気が付かないのは実は自分もゴミまみれで、それが当たり前の状態と思っているからだ。

泥のなか――苦海に沈んだままで、霊性向上などを狙うのは、食事の前に手を洗う習慣と逆行するものだ。清潔で栄養も充分の食を食べて腹をこわしたのでは愚かとしかいいようもない。霊的に不潔な環境をそのままにしておいては、つまらぬ障害で修行――または人生が邪魔されるのである。……だから真摯な求道者ほど、因縁解脱や罪障消滅といったことを熱心にする。言葉だけ聞けば何やらインチキ臭く感じるかも知れないが、身辺に漂う雰囲気すら関知出来なければ、神を学んで地獄に堕ちるものである。

たとえあばら屋に住んでいようとも、そこに客を招くならば清潔であるように心懸けるべきだ。たとえ貧しくても心まで貧しくある必要はないのだから。


いわゆる試練

2005/02/06

2005年 02月 06日


「悪いことをしたら、すぐに罰《ばち》が当れば、人はそれ以上悪くなることもないのにね」……という話を聞きます。確かにそうかも知れません。

しかし、現実に目を向けてみると、普段はしつこいぐらい法規を守り、安全運転を心がけている人が、やむを得ず路駐をしたら取り締まられたり、知らない土地で道に迷っているときに進路変更違反で捕まってみたりと、いう話を聞きます。

 「何十年かに一回の違反で捕まるなんて……」

 その一方で、路上駐車の常習者、スピード違反の常習者がゴールド免許を自慢したり……全く現実は無慈悲に思えます。

 今日のニュースに耳を傾けても、この現実の無慈悲さを痛感します。免停中に飲酒運転をして人をはねる、または、赤ん坊を刺し殺す……今更キチガイのフリをしようとしてもダメです。こういう人々に対して、世の中の多くはいささか不謹慎な考えが脳裏に浮かんで、追い払うことが出来ぬでしょう。

 心掛けの悪い人同士で、業《カルマ》を押しつけあってくれればいいのに。善良な人は善良な人同士でお互いを高めあえればいいのに――そう思うのは自然な発想です。なのに何故か、被害者になるのは大抵が善良な人です。運が悪いのは善良な人で、悪運強い人が悪事まで働いてしまう事があまりに多い。……そう、この理想は実現の手段がないのです。

・・・・・・・

 その事を心霊知識を踏まえて考察してみます。

 そもそも、行いの善し悪しを正しく指摘し、導けるのは誰でありましょうか? 神と呼ぶのは安易に過ぎるでしょうが、いずれにせよ、ある程度の高級霊であることは必然であると思われますね。そして、高級霊と繋がる……繋がらなければ導かれ様もありません……には、霊性の働きが不可欠です。たとえば霊感が強くても、憑依霊や悪霊しか見えないのであれば、魔が差すことは多くなっても、反省する機会は遠くなってしまいます。

 そう、いささか不公平な感がありまが、――または、システム的に不安定(負のフィードバックを持つ)ではありますが、霊性の高い者ほどより強く高級霊の指導を受けやすく、霊性が低いほど高級霊の指導を受けにくいのです。

 人皆平等と考えるなら、この事実は不可思議ではあります。しかし、私たち一般が現実に対して抱く不平等感は、霊性の仕組みと反するものではありません。つまり、霊性の高い者はより反省の機会が多く、霊性の低い者は反省の機会が少ないのです。

 ……善良に生きようと努力する人にとって、反省の機会が多いという事実は不愉快でしかありますまい。しかし、この論理を決して誤解しないでください。災難の多くは、不運または神仏の罰であるよりも、むしろ未熟さや要領の悪さの結果です。私がここで論証したいのは、 善良な人だからこそ被る被害もあるのだ……ということなのです。不運な思いは決してあなたの未熟さや、前世の悪行の証拠とはなりません。

 一体その違いはどこにあるのか――何事からも、自身の善良さを反省できる人が高き霊性の持ち主であり、何事も自身の善良さとは無関係であると思う人が低き霊性の持ち主なのです。

……等という話をすると、反省の下手な人が「そういうあなただって」とか「いっていることとやっていることが違うじゃない」などと言い出しますが、他人を悪く言っても自身の善良性は高まりません。そういう不毛なことに手を惜しまぬ事が霊性の低さの証だと私は思います。

……かくいう私も他人の否定をしていますがそれで一体何を得ようとしているのか――>反省できる人が高き霊性の証なのです。ですが、反省と自分虐めを混同してはいけません。反省とは無駄を く心の働きであって、自虐とは自ずと異なるのです。

 霊性が低ければ高級霊の指導を受けにくい。だが、いくら霊性が高くても、反省マニアと化してしまえば、やはり高級霊の指導がどこかに行ってしまいます。

 反省マニアもしつこいと面倒がられますよ。

・・・・・・・

 ところで、霊性が高いからこそ罰《ばち》……不運……に会いやすい。それが心霊研究の当然の帰結であると言われると釈然としないのが人情でありましょう。しかし、その判断は半面の理であります。つまり、せっかくの霊性――高級霊との絆を、反省という消極的、または後ろ向きな方針にのみ向けるから、損をした気分になるのです。どうせなら、創造性の向上という、霊性本来の目的に集中するなら、罰《ばち》の当りやすさなど問題にならぬぐらいの、有益さを感じ取れることでしょう。


運命・宿命

2005/02/06

2005年 02月 06日


活かされている

心霊家として生き、人生を振り返ってみて思う。

私も人生の要所要所に、不思議な力の働きを感じる。それを人々は、宿命であるとか、運命であるとか、呼ぶのであろう。そのような体験からか、宿命を変えよう、運命を転じよう、と様々な工夫を凝らす人たちがいる。

 その努力を、姑息――と呼ぶのは無慈悲に過ぎるかも知れない。だが、個人のための個人的な努力は、いわゆる独り善がりと呼ぶべきものだ。自分のための努力であればこそ、人は必死に打ち込み、必死の余りに周囲が見えなくなる。……周囲が見えないのにひたすら突っ走ろうとするから、自分を傷つけ、周囲を傷つけ、傷つけ合うことに傷つき、孤立していく自分に傷つき、傷ついている自分に傷つく。

人は誰も善良に生きたいと考える。だが、善良に生きようとして、自分も周囲も傷つくのだとしたら、果たして自分は善良であるのだろうか……と思い悩み、苦悩が重なり、あげく死を決意する人もいる。善良に生きようとして、善良に生きられぬからといって、死を選ぶなんて、何と善良で無思慮な人々だろう!? 世の中、むしゃくしゃするからといって子供を殺す大人もいるというのに、自ら死を選ぶ人もいるのだ……なんとこの世の仕組みは、無慈悲にもすれ違いが重なるのか。

善良であるためにも智慧がいるのである。いや、他人に善良さを認めさせるために智慧が必要なのである。……ただ、善良であるだけで満足できず、周囲に善良と認めさせるために努力し、その努力で周囲を傷つけているのだから。

 苦しむために努力するのは止めるべきだ。

 運命の好転術など、私は知らない。だが、こうは思う。自分の善良さが、独善に偏らず、より普遍に近づくように努力しているなら、私が願わなくても周囲が幸せを願ってくれると……少なくとも、神仏・祖霊・守護霊が守ってくれると……往々、個人的な努力よりもさらに大きな力で、人生が導かれていると感じる。それ故に思う、個人の努力を越えた力は、どうやって得られるのだろうか。と。

 

運命、宿命について考える。

何が運命、何が宿命か、大きな力を受けて始めて知り、そして、結果を得て始めて理解できるのが、運命や宿命である。そこに人の好悪、意志の立ち入る隙はない。……人の意志の立ち入れぬものならば考えを巡らせるのは無駄である。

だから思う。結局、人が選べるのは、自ら進んでそれに向かうか、無理強いされてそれに向かうかの違いだけである。ならば、前に向かって進むべきだ。それは負けず嫌いなのでも、積極さの表れでもない。たとえ恐ろしくとも、困苦・障害をしっかりと視野に入れているなら被害は最小に済ませることが出来るだろう。だが、後ろから困苦に襲われたらどうなるのか?

絶望は突然やってくるのではなく、目を背けただけで安心している人が襲われるものなのである。

己の威を過信する者も、往々、無駄な争いで被害を育てる。が、逃げられぬものから逃げようとするのは、難を避けるのではなく、被害を大きく育てているだけのことだ。避けようとして被害を増やす・乗り越えようとして被害を増やす……なんと愚かな生き方だろう! 無謀に前に勧めというのではない。そして困苦との勝敗に気取られてはいけない。ただ、最適な道を選ぶようにするだけである。

敵に後ろを見せるな……その努力は、勇気を見せるためにではなく、難を避けるために必要な努力なのである。

 

優しいとか、優しくないとか

過程だけをみて、優しいとか、優しくないとか、人を裁く。……なんと愚かな話だ。笑って地獄に突き落とす人が優しくて、迷妄から覚そうとする人が残酷であるのか? そういう人は根っからの魔界の住人に違いない。魂を地獄に留めたがっているのだから。

してみると、天国と地獄では、優しさの定義が違うのか? ――それはつまり、天国に住むべくして住む人と、地獄に住むべくして住む人とがいるということなのだ。天国地獄に垣根はない。どちらを選ぶのもその人の自由で、その自由意志の元にそこに暮らすのである。――辛いから地獄は嫌だって? ならなぜ、復讐の念を棄てず、独善を抑えようとせず、見栄を棄てようとしないのだろう?

復讐の賛同者、誹謗の賛同者が得られたなら、きっとあなたのいる境涯は、地獄か、魔界であるのだろう。そして、復讐の賛同者が得られぬのならば、まだあなたには天国への門が開かれているのだ。


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  • ・いろいろなる不平不満はあるだろう。だが人は歩んでいる。
  • ・与えられる事を当たり前に思っている者が飢える。
  • ・なぜ、争うのだろう? 事態はただ現実への妥協を求めているだけなのに。
  • ・ 見せられると信じたくなる
  • ・豊かな者は足りぬものに気が付かず、知りたる者は、知らざることに気が付かぬ。……
  • ・ 心に不満が生じるのは、あなたが焦っている証。もう少しゆっくりと生きなさい。

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