‘2005/01/29’ カテゴリーのアーカイブ

真実

2005/01/29

 造花の美

2005年 01月 30日

 文化に触れて善良に生きる人と、文化がなくとも善良に生きられる人がいる。

 文化に触れて善良に生きる人とは、善良でなければ恥ずかしいと思う人だ。こういう人はせっぱ詰まれば善良さを投げ捨てて生きることに集中する。文化がなくとも善良に生きられる人こそが、死に瀕しても善良さを棄てない。

 その違いは例えば、造花と生花の違いである。地上にあっては、造花の方があでやかで長く美しい。だが不自然で夢幻的な美しさを捨て去ってこそ魂は高みに登っていくのだ。

 花は人がいなくとも咲き続ける。だが、造花は人なくして咲くこともなく、人なくして価値があることもないのだ。

 魂が籠らなくとも形が同じであればいいのか? 造花とは唯物論者の比喩である――だが、あなたは気がついたであろうか? 人は人造物の中にも魂を感じ得ることを。人形やロボットに魂を感じるのは果たしてなぜか? 真に魂が宿っているのか、それとも、人は形象だけで騙されてしまうのか。どちらであろう?


真実

2005年 02月 13日

 不都合を他人のせいにする。――それで気は紛れても状況は変わらない。

 変えられるのは自分だけ、でも人を、社会を、世界を変えようとする。――何も変わらないのに。

 真実を知る人は稀だ。真実を知る勇気を持つ人はもっと稀だ。そして、現実を乗り越えて幸せを掴む人はさらに稀だ。


半面の理

2005/01/29

超常を信じる非常識。

2005年 01月 29日

 心霊というと、超常……という形容詞がつきやすい。が、奇をてらうだけで大きな成果を成し遂げられた人を私は知らない。現実と常識を疎かにして、果たして飛躍があり得るのか? 大事業には足下を固める必要があるし、巨大建築も基礎工事を大切にするものだ。眼に見える大成果は眼に見えない下積みの努力に支えられているものである。

 偉大なる理想を掲げるのはよい。だが、理想を実現する者と、妄想小僧の違いは、下準備の差である。……受け皿を持たずにご馳走を期待するのを妄想といって何を憚ることがあろうか?

 基礎的な努力を蔑視する者はとても多い。だが彼らは気がついているだろうか? 運の良い人と運の悪い人とがいるのではなく、努力を楽しめる人と努力を苦しむだけの人とがいることに。すなわち、努力を楽しむ人は偉大なる結果を得てこういうのだ……「楽に成功を得られた」。そして、努力を苦しむ人はこういう……「こんな苦労をしても幸せになれない」と。 とんでもない苦労を笑いながら越えていく人有り、些少の努力さえも我慢できずに挫折する人有り……そこに不平等があるのではなく、生れる以前からの優劣がある。

 勘違いしてはいけない。生まれる以前から恵まれている人がいると考えるのは、ひがみ根性である。なにしろ、最後の一歩だけを神に望んでも得難いというのに、最初の一歩から神頼みして、うまく行かないと嘆くのはあまりに幼稚だ。――願うだけ、心霊を信じるだけでワガママがまかり通る世の中ならば、誰が不平不満をためるというのだろうか? 泣きわめいて欲望が満たされるのは、良き親元に生まれた赤ん坊だけである。

 努力が結果を生む――この喜びを知る者だけが、努力と信念の果てにある豊かさを見ることになる。


半面の理

2005年 02月 08日

 そもそも人の理解力には限界がある。その限界は精神的な向上や知識の増大と共に拡大していくものだ。ちょうど、同じ本を何度も読むことで新たな発見があるように、物事を掘り下げれば切りもなく学ぶことに出くわす。

 従って、物事の一部しか気がつかぬ事は恥じるべきではなく、むしろ当たり前のことである。私がここで、ことさらに「半面の理」を指摘するが、かくいう私が、完全の理に至ったという保証はない。4分の3面の理に気が付いただけなのかも知れない。だが、「不完全な理解」そのものを問題としているのではない。

 半面の理の恐ろしさは、中途半端な答えで満足すること……不完全なまま満足してしまうことが一番の害なのである。それは偏見を助長し、偏見は真実を覆い隠すしてしまう。つまり間違った道に求道者を招き入れるのだ。

 特に心の内面に強い劣等感を持った者ほど、一足飛びに遠大な目標に飛びつこうとする。物質科学の対象物なら実証は簡単だ。論理もまた実証可能だ……だが、精神の高みについては、どうやって実証出来るのか? 上から下を見下ろすならその区別は容易だが、上を仰ぎ見ているだけでは区別は付かない。 それ故に自称、仏陀やキリストの生まれ変わりを信じる者もいれば、仏陀やキリストの生まれ変わりなどいる者かという人もいる。一体そのどちらを信じればよいのか……? そもそも実証が難しい事柄であるから人を悩ますのである。問題の一面にだけ捕らわれて真の問題で有る、人の理解力には限界がある……という事実を見逃すから不毛な議論に捕らわれてしまう。そもそも、自分の理解力を越えたものを信じる事の危険に気が付けば、仏陀やキリストの生まれ変わりの有無などという議論がどれだけくだらぬものであることに気が付くはずだ。

 半面の理だけで満足するから理解力の成長が止まり、現実に絶望する。人を信じるよりも真実を追究することに意義を見いだせば、世の中、嘘デタラメが多いからこそ楽しくも思えるのだ。

・・・・・・・

 真実を教わろうと思うから騙される。だが真実は誰のために必要なのか?

 自分にとって大切なのが「真実」であるから、騙された恨みも大きい……本当にそうなのか?

自分にとって大切なものなら、なぜ人に委ねるのか!?

大切なものを求めるのに、人頼り、おまけに言い訳まで用意して……

……そんな安易な考えで何が得られるのだろう?


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