真冬に目覚めたカエル
2005/01/262005年 01月 26日
私は常々、我が身を省みて、冬に目覚めたカエルのようだと自覚します。どうにもバツの悪い時期に霊感が開いてしまったものだ……春(心霊思想勃興期)に目覚めればこそ、生の喜びを謳歌できるものを、真冬(心霊思想低迷期)のカエル(霊媒)は狂気のごとき薄ら寒さがあります。
倉を満たすためでも、腹を満たすためでもなく、ただ、飢えを癒やすためだけに存在する。――なんと間の悪いことでしょう。まあ仕方がない。需要がある限り、応えぬ訳にはいかぬのだから。
人はなぜ心霊を信じるのか?――ある種の人々には、神秘主義者の動機が理解できぬらしい。ところが、神秘主義者同士、または、心霊主義者同士でもお互いに分かり合えるとは限りません。その原因について私も思いをはせることが多々ありますが、……が、それは不毛だ。
人の理解できることには限りがあり、事実はあまりに複雑怪奇で扱いにくい。すると、ありのままの事実よりも、少々ディフォルメされた事実でなければ扱いに困ることも多々あります。そう考えると、心霊主義も真実のあちこちを簡略化していて、大抵の神秘主義は抽象的もしくは比喩的に過ぎ、大抵の現実主義は空虚に簡素化した事実だけを扱っている。――そう思えてなりません。
何が正しくて、何が間違っているのか……そういう議論は、自身の理解力を妄信している人の発想で、事実上の問題は、どれだけ真実に近いかであり、本当に必要とするのは、充分に事実に近いかどうかだけではなでしょうか? 芸術家は、真実を絵画や彫像で表現し、技術者はシンボル化した図面で表わす。感動を伝えるには芸術の方が優れているでしょうが、伝授するには技術的な方法が有利でしょう。―― 手段は目的に添って選ばれるべきです。
強く何かを信じることは、自分の信念を縛ることだ――信じすぎるが故に間違いを認めがたい。
強く何かを否定することは、自分の信念を縛ることだ――否定しすぎるが故に真実を認めがたい。
何かを強く信じることも、何かを強く否定する事も、実は自分を束縛していることにどれだけの人が気がついているのでしょう!? ……不可思議にも人は檻に入りたがる唯一の動物。にも関わらず、自由を得るために命を賭ける動物でもあります。何とも理不尽ですが、その理不尽さは何がもたらすのでしょう? ……その追求もまた不毛に思えます。
理不尽な生き方が、どうして効率や納得をもたらし得るのか? 「人間なんて不条理なものさ」……原理が簡単であれば事象は簡単ですが、複雑な運動の蔭にはきっと複雑な原理が潜んでいるのでしょう。そして、人間が自分の行動原理を知り得ないのは、自分で思う以上の複雑を果たして心の中に持っているからなのでしょうか?
しかし、主体性を持った人の行動は予測しやすいものです。行動が予測しがたいのは、欲望やら環境やらに影響を受けやすい主体性の不足した人々でありましょう。すると、人間は不条理なのではなく、単に、自己のコントロールを失っているだけということができます。
間違っている。だから正しく行なえないのだ。――それを、間違いを正すことなく正しく生きようとしている。全く人間は不条理だ。
というより、間違いを正せぬほど愚かで弱虫というべきか。――だからこそ他人ばかりを責めたがる。
真夏のカエルは、集団で騒ぐが故に煩がられます。
真冬のカエルは、珍しいが故に煩がられます。
どちらも煩がられますが……集団で非難を受けるのと、個人で非難を受けるのとでは苦労の度合いが違います。全く、間の悪い時期に冬眠から目覚めたものです。