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鎖国政策――半面の理

2005/01/30

2005年 01月 30日


 徳川幕府三百年の歴史は、果たして鎖国政策なくしてならなかったか? ――歴史学を好む人にとっては興味深い問題かも知れない。私はここで慎みを持って征夷大将軍の幕府運営方針に口を挟むのを止め、小学生ですら知っている一つの歴史的事実を指摘する。―― 徳川幕府は外国からの開国圧力に揺さぶられて大政奉還に至った。

・・・・・・・

 以前ある人から質問を受けた。

Q 「スピリチュアリズム(?)では、すでに真理を得ているから、新たな霊界通信は必要ないというが、どう思うか?」

A 「変だと思います。」

 だいぶ情報が古いが、淺野和三郎氏が紹介したスピリチュアリズムの七大綱領を引用してみる。

 (一) 神は万有の祖である。
 (二) 人類は皆同胞である。
 (三) 人間の個性は死後に存続する。
 (四) 幽明間に交通があり、人類は天使の支配を受ける。
 (五) 各人各個の責務がある。
 (六) 生前死後を通じて因果応報がある。
 (七) 人類は永遠に向上する。

 第四項は、ようするに、「死者との交信は可能」という意味だが、一体どこの国のスピリチュアリズム団体、もしくは、スピリチュアリストが、その状況を卒業できたのであろう? 第七項に注目していただきたい。「人類は永遠に向上する」とある。では、「もうこれで充分」という言葉は矛盾しないだろうか?

 むろん、その意図する所は別にあるのだろう。たとえば、くだらぬものを見るのならば目をふさぐべきだと――だが私はここに 鎖国政策同様の意図を感じざるを得ない。人々の耳目を塞いで、その指導者は一体何を得るというのだろう?

 人の魂が肉体の牢獄に閉じこめられている限り、外のことを知りたがるのは自然な欲求である。その自然な欲求を抑圧して、自然な魂の発育があると思うのはナンセンスだ。真の問題は悪情報の氾濫ではなく、悪情報すら手に取らざるを得ない情報不足が問題なのである。すなわち、良き情報が充分に手にはいるのならば、善良なる人々は自ずと悪情報を棄て、良情報を読みふけることだろう。更にいえば、 物事は裏面まで見て始めて立体的に理解が出来るものだ。例えば「人殺しはいけない」というのは正しい話だが、正しい話を知っているだけでは犯罪者の更正や、犯罪抑止には力がない。なぜ、人を殺そうとするのか、ということにまで知識を拡げることも大切なことだ。 大切なのは知識を道具として使いこなすことであり、知識に支配されて生きることではない。――悪情報の氾濫のみ注目して、善情報の不足に配慮しなければ、それは半面の理というものだ。

 いや、善情報――すなわち、全地球的、もしくは宇宙的視点から事物を見た良い霊界通信が枯渇しているのも事実である。が、それ故に現状得られるすべての霊界通信をくだらぬものと断定するのもまた半面の理というべきである。

 一九世紀の欧米諸国は、時代にそぐわぬキリスト教と、行過ぎた反動主義といえる唯物主義に占拠されて、この二大勢力を相手にすべく、霊界からの干渉には非常な努力を必要とした。輩出した大霊媒や降りてくる霊界通信の質と量は、実にその必要があったからだ。だが人生に有益なのは、天界の雰囲気よりも、今すぐ役立つ智慧ではないか? 高度な理論に見せられて基本的な実技スキルが身に付いていないのではどうにもならない。

 そもそも地上は、座学の場ではない。単に知識を仕入れるだけならば霊界の法が余程都合が良いことは、心霊を学ぶものにとって自明の理であろう。睡眠も食事もせずにただひたすら本を読み続ければいいし、必要な本を探す手間すら不要なのだから。

 地上は実践の場、実習の場なのだ。

 座学であれば一人の講師が多数の学生を扱う事も出来る。だが実習時には、出来るだけマンツーマンの指導が好ましい。であるから、心霊主義者は精神統一とその後の霊査を大切にする。 地上生活の実習教官である守護霊との絆を深めるためにだ。その過程で必然的に、誰に耳を傾けるべきであり、何を信じ、何を信じてはいけないかの実践も学ぶ。……座学ではなく実践である……誰某から、信じて良いものと、信じてはいけないものを一々指示されているのではなく、主体的にその区別をつけることを重視するのだ。――それがどうして危険で、難しいというのだろう? 霊を利用しようとしない限り、霊に依存する必要もなく、霊に依存しなければ騙されたとしても何の被害もない。 そう、嘘と冗談との区別がつけばよいだけだ。

 座学は地上に生まれる前に済ませておくべきだ。少なくとも現場に出てから補習・補講は早めに切り上げ、実習に専念すべきであるし、実習教官を無視して実習にいそしんでも我流に陥るだけだ。――身に付いた我流はなかなか取り除けないし、独学者は往々、自分の都合の良いことだけに関心を向け、都合の悪いことからは目を背け、背けたことにも気がつかない。

――これはとても危うい。

 さて、上述質問者が、いかなる相手を「スピリチュアリスト」と読んでいるのかは知らない。が、仮にスピリチュアリストの七大綱領に意義を見いだすならば、第五項の「各人各個の責務がある。」、第六項の「生前死後を通じて因果応報がある。」にも注意を払うべきだ。

 何が正しく、何が間違っているのか――その判断は誰の責務であるのか。一々人に指図されるようでは、第五項を満たさぬ事になる。そして、行いの報いは指図した人ではなく、実行した人が受けるのだ。


 整理すると、質問にある、「すでに真理を得ているから、新たな霊界通信は必要ない」という意見は、スピリチュアリズムの七大綱領を遵守していないが為に、 特殊、または独特な思想と思われる。またその意見に、何ら創造的意義を見いだし得ないが為に、私は価値を感じない。――そういう意見の持ち主がいた所で私には関係がないし、関係を持ちたいとも思わない。

 さらにまた、これもこそが真の回答と思えるが……新たな霊界通信などというのは、提供者(高級霊)と、中継者(霊媒)と、受信者(需要)があって始めて整理するものだ。受信者のレベルが低ければ、高度な霊界通信は得られないものだし、霊媒や霊界側の都合がつかなければやはり高度な霊界通信は得られまい。

 本当に霊界通信は不要なのか? そうではなく、単にその環境を整えられないのではないか? ――と、うがった見方も出来るだろう。

 私にとって関心があるのは、罪悪感や劣等感を誤魔化す為に善良であろうとするのではなく、素直であるが故に善良である人が一人でも増えることだ。素直な人が増えればこそ、再び顕幽両界の交通が盛んになるのだから。――いい加減、真冬のカエルの様な生き方にはウンザリである。


 ところで鎖国政策をとる国は大抵……

真実

2005/01/29

 造花の美

2005年 01月 30日

 文化に触れて善良に生きる人と、文化がなくとも善良に生きられる人がいる。

 文化に触れて善良に生きる人とは、善良でなければ恥ずかしいと思う人だ。こういう人はせっぱ詰まれば善良さを投げ捨てて生きることに集中する。文化がなくとも善良に生きられる人こそが、死に瀕しても善良さを棄てない。

 その違いは例えば、造花と生花の違いである。地上にあっては、造花の方があでやかで長く美しい。だが不自然で夢幻的な美しさを捨て去ってこそ魂は高みに登っていくのだ。

 花は人がいなくとも咲き続ける。だが、造花は人なくして咲くこともなく、人なくして価値があることもないのだ。

 魂が籠らなくとも形が同じであればいいのか? 造花とは唯物論者の比喩である――だが、あなたは気がついたであろうか? 人は人造物の中にも魂を感じ得ることを。人形やロボットに魂を感じるのは果たしてなぜか? 真に魂が宿っているのか、それとも、人は形象だけで騙されてしまうのか。どちらであろう?


真実

2005年 02月 13日

 不都合を他人のせいにする。――それで気は紛れても状況は変わらない。

 変えられるのは自分だけ、でも人を、社会を、世界を変えようとする。――何も変わらないのに。

 真実を知る人は稀だ。真実を知る勇気を持つ人はもっと稀だ。そして、現実を乗り越えて幸せを掴む人はさらに稀だ。


半面の理

2005/01/29

超常を信じる非常識。

2005年 01月 29日

 心霊というと、超常……という形容詞がつきやすい。が、奇をてらうだけで大きな成果を成し遂げられた人を私は知らない。現実と常識を疎かにして、果たして飛躍があり得るのか? 大事業には足下を固める必要があるし、巨大建築も基礎工事を大切にするものだ。眼に見える大成果は眼に見えない下積みの努力に支えられているものである。

 偉大なる理想を掲げるのはよい。だが、理想を実現する者と、妄想小僧の違いは、下準備の差である。……受け皿を持たずにご馳走を期待するのを妄想といって何を憚ることがあろうか?

 基礎的な努力を蔑視する者はとても多い。だが彼らは気がついているだろうか? 運の良い人と運の悪い人とがいるのではなく、努力を楽しめる人と努力を苦しむだけの人とがいることに。すなわち、努力を楽しむ人は偉大なる結果を得てこういうのだ……「楽に成功を得られた」。そして、努力を苦しむ人はこういう……「こんな苦労をしても幸せになれない」と。 とんでもない苦労を笑いながら越えていく人有り、些少の努力さえも我慢できずに挫折する人有り……そこに不平等があるのではなく、生れる以前からの優劣がある。

 勘違いしてはいけない。生まれる以前から恵まれている人がいると考えるのは、ひがみ根性である。なにしろ、最後の一歩だけを神に望んでも得難いというのに、最初の一歩から神頼みして、うまく行かないと嘆くのはあまりに幼稚だ。――願うだけ、心霊を信じるだけでワガママがまかり通る世の中ならば、誰が不平不満をためるというのだろうか? 泣きわめいて欲望が満たされるのは、良き親元に生まれた赤ん坊だけである。

 努力が結果を生む――この喜びを知る者だけが、努力と信念の果てにある豊かさを見ることになる。


半面の理

2005年 02月 08日

 そもそも人の理解力には限界がある。その限界は精神的な向上や知識の増大と共に拡大していくものだ。ちょうど、同じ本を何度も読むことで新たな発見があるように、物事を掘り下げれば切りもなく学ぶことに出くわす。

 従って、物事の一部しか気がつかぬ事は恥じるべきではなく、むしろ当たり前のことである。私がここで、ことさらに「半面の理」を指摘するが、かくいう私が、完全の理に至ったという保証はない。4分の3面の理に気が付いただけなのかも知れない。だが、「不完全な理解」そのものを問題としているのではない。

 半面の理の恐ろしさは、中途半端な答えで満足すること……不完全なまま満足してしまうことが一番の害なのである。それは偏見を助長し、偏見は真実を覆い隠すしてしまう。つまり間違った道に求道者を招き入れるのだ。

 特に心の内面に強い劣等感を持った者ほど、一足飛びに遠大な目標に飛びつこうとする。物質科学の対象物なら実証は簡単だ。論理もまた実証可能だ……だが、精神の高みについては、どうやって実証出来るのか? 上から下を見下ろすならその区別は容易だが、上を仰ぎ見ているだけでは区別は付かない。 それ故に自称、仏陀やキリストの生まれ変わりを信じる者もいれば、仏陀やキリストの生まれ変わりなどいる者かという人もいる。一体そのどちらを信じればよいのか……? そもそも実証が難しい事柄であるから人を悩ますのである。問題の一面にだけ捕らわれて真の問題で有る、人の理解力には限界がある……という事実を見逃すから不毛な議論に捕らわれてしまう。そもそも、自分の理解力を越えたものを信じる事の危険に気が付けば、仏陀やキリストの生まれ変わりの有無などという議論がどれだけくだらぬものであることに気が付くはずだ。

 半面の理だけで満足するから理解力の成長が止まり、現実に絶望する。人を信じるよりも真実を追究することに意義を見いだせば、世の中、嘘デタラメが多いからこそ楽しくも思えるのだ。

・・・・・・・

 真実を教わろうと思うから騙される。だが真実は誰のために必要なのか?

 自分にとって大切なのが「真実」であるから、騙された恨みも大きい……本当にそうなのか?

自分にとって大切なものなら、なぜ人に委ねるのか!?

大切なものを求めるのに、人頼り、おまけに言い訳まで用意して……

……そんな安易な考えで何が得られるのだろう?


真冬に目覚めたカエル

2005/01/26

2005年 01月 26日


 私は常々、我が身を省みて、冬に目覚めたカエルのようだと自覚します。どうにもバツの悪い時期に霊感が開いてしまったものだ……春(心霊思想勃興期)に目覚めればこそ、生の喜びを謳歌できるものを、真冬(心霊思想低迷期)のカエル(霊媒)は狂気のごとき薄ら寒さがあります。

 倉を満たすためでも、腹を満たすためでもなく、ただ、飢えを癒やすためだけに存在する。――なんと間の悪いことでしょう。まあ仕方がない。需要がある限り、応えぬ訳にはいかぬのだから。


 人はなぜ心霊を信じるのか?――ある種の人々には、神秘主義者の動機が理解できぬらしい。ところが、神秘主義者同士、または、心霊主義者同士でもお互いに分かり合えるとは限りません。その原因について私も思いをはせることが多々ありますが、……が、それは不毛だ。

 人の理解できることには限りがあり、事実はあまりに複雑怪奇で扱いにくい。すると、ありのままの事実よりも、少々ディフォルメされた事実でなければ扱いに困ることも多々あります。そう考えると、心霊主義も真実のあちこちを簡略化していて、大抵の神秘主義は抽象的もしくは比喩的に過ぎ、大抵の現実主義は空虚に簡素化した事実だけを扱っている。――そう思えてなりません。

 何が正しくて、何が間違っているのか……そういう議論は、自身の理解力を妄信している人の発想で、事実上の問題は、どれだけ真実に近いかであり、本当に必要とするのは、充分に事実に近いかどうかだけではなでしょうか? 芸術家は、真実を絵画や彫像で表現し、技術者はシンボル化した図面で表わす。感動を伝えるには芸術の方が優れているでしょうが、伝授するには技術的な方法が有利でしょう。―― 手段は目的に添って選ばれるべきです。

 強く何かを信じることは、自分の信念を縛ることだ――信じすぎるが故に間違いを認めがたい。

 強く何かを否定することは、自分の信念を縛ることだ――否定しすぎるが故に真実を認めがたい。

 何かを強く信じることも、何かを強く否定する事も、実は自分を束縛していることにどれだけの人が気がついているのでしょう!? ……不可思議にも人は檻に入りたがる唯一の動物。にも関わらず、自由を得るために命を賭ける動物でもあります。何とも理不尽ですが、その理不尽さは何がもたらすのでしょう? ……その追求もまた不毛に思えます。

 理不尽な生き方が、どうして効率や納得をもたらし得るのか? 「人間なんて不条理なものさ」……原理が簡単であれば事象は簡単ですが、複雑な運動の蔭にはきっと複雑な原理が潜んでいるのでしょう。そして、人間が自分の行動原理を知り得ないのは、自分で思う以上の複雑を果たして心の中に持っているからなのでしょうか?

 しかし、主体性を持った人の行動は予測しやすいものです。行動が予測しがたいのは、欲望やら環境やらに影響を受けやすい主体性の不足した人々でありましょう。すると、人間は不条理なのではなく、単に、自己のコントロールを失っているだけということができます。

 間違っている。だから正しく行なえないのだ。――それを、間違いを正すことなく正しく生きようとしている。全く人間は不条理だ。 

 というより、間違いを正せぬほど愚かで弱虫というべきか。――だからこそ他人ばかりを責めたがる。


 真夏のカエルは、集団で騒ぐが故に煩がられます。

 真冬のカエルは、珍しいが故に煩がられます。

 どちらも煩がられますが……集団で非難を受けるのと、個人で非難を受けるのとでは苦労の度合いが違います。全く、間の悪い時期に冬眠から目覚めたものです。


愚痴の転載

2005/01/24

2005年 01月 24日


愚痴混じりのメールが二件来た。……個人の問題は個人宛に。よって以下は一般論だ。

1,成果は天の導き、だが苦労は自分持ち。――やはり何事も成果は人智を越えた存在の導きによると、思い至る。が、結果にたどり着くまで、寝て待つわけにもいかず、苦労に苦痛はついて回る。さらには、どのような結果が出るか、ちゃんと結果が出るか、しくじりはしないかと、心配を始めたら、苦労の他に心痛が伴うことになる。

 さらに……さらに不幸なのは、理不尽・不平等に対して、疑念を持ったときだ。これはなかなか耐え難い。何しろ、自分の努力で解決できないことなのだ。ならば誰が解決できる? 思わず……本当に思わず、頼る先は神様だろう。口には出さず、思っても打ち消そうとするが……でも内心、神様やってよ、あいつをやっつけてよ、という気持ちが持ち上がってくる。

 成果を得るためには努力が必要と知っているのにも関わらず、努力しない人の変化を期待している。これはかなり不毛な話だ。……

2, 不公平が一番嫌い――人間、何が嫌だといって、不公平なことが一番嫌かも知れない。その理由は……

3,思念の殻――不公平を嫌うのには、心霊研究的な裏付けもある。思考とは単なる論理・演算に似て、化学反応的な振る舞もする。つまり、論理の否定と肯定とは強さが違うのである。たとえば、○○が嫌だ、というのと、○○が好きというのとでは、発揮しうる行動力が全然違う。○○が嫌だ……という動機よりも圧倒的に○○が好きだ……という動機が強いのだ。

 同時に、人の心は外圧には強いが、内圧には弱い。敵意に晒された人は心の殻を厚くして(面《つら》の皮が厚いと表現される状態になる)……現実を否認で逆境に耐えることもできる。霊的な意味でも殻が出来る。が、他人から認められたいという欲求……主に幼児体験から得た愛情飢餓……には、相当に弱い。殻を作ろうにも、内なる敵なのだから意味もない。つまり、お前は駄目な奴だ、といわれるよりも、第三者を褒められることが辛かったりする。

これは特に偽善者の判別法に有益だ。当人褒めずに第三者を褒めちぎれば不機嫌になるのは、偽善者だ。まあ、嫉妬心が内皮ともないので、事はそう簡単ではないが、嫉妬心に負けるようでは偽善者呼ばわりされても仕方がない。

4,ようするに、不平不満、愚痴が多くて扱い難い人は、不満の解消を求めているというより、実は褒められたくているのだ。だから、そういう人にいくら建設的な意見をしても、心の殻に拒絶されて無駄玉となる。こういう相手はおだてて接する方が扱いやすいのだ。


長南年恵氏について

2005/01/23

2005年 01月 23日


 長南年恵氏についての情報は多いが、おおよその関心は、「祈祷数分で空瓶を薬水で満たす」……という部分であろうか。なるほど、霊魂説(死後の個性存続、または、いわゆる霊媒現象の原因を、死後個性の働きに求める考え方)の有力な証拠資料だ。だが、すでに霊魂説を信じている人間にとって、それがいかなる意義を持つのか?

 奇跡の人ではあるが、奇跡以外の部分が殆ど残されていないのでは、日本心霊研究の看板にはなっても看板以外の意義に乏しい。このような扱いは彼女の人間性を侮蔑する物ではないか。

 むろん、これは実弟・長南雄吉氏の説明上の不備にも問題はあるだろう。雄吉氏による長南年恵伝は、奇跡と天真爛漫さとに重点を置かれているからだ。しかし、どうも日本の心霊研究、もしくは、非霊媒の心霊研究は霊媒の人間性、ひいてはその背後霊団の人間性について、故意に無視を決め込んでいるかのような印象を強く受ける。

 むろん、祈祷数分で薬水を引き寄せるとか、その他の物品引き寄せ現象は、あれば便利だろうなと思う。イヤできることならば収得したいし、その代償として食事をしてはいけないとしても……考慮の余地はある。が、私は見える成果を支える見えざる苦労に注目し、思わず涙ぐみもする。他人事ではないからだ。

続幽魂問答「付録、長南年恵物語」六 霊水忽ち壜中に湧く……サブサイトである、心霊図書館から引用する。

『私は姉が什麼《どんな》ことをして病気を治《なお》すか、一と通り其《その》実況を述べて置きたいと思います。先《》ず驚かれるのは其《その》感応の強烈なことで、患者が玄関に入ったか入らぬ時にモー二階の姉の肉体に当人の病気が感応するのです。 (注ルビタグは使っていません)

……実にさらっと書かれているが、当人の病気が感応するというのは、患者の病痛を共有する……同じ痛みを味わうという意味です。その事は「長南年惠物語補遺(下) 高野氏の報告」の中にさらに具体的な記述がある。

 病人が来ると、年惠様の躯には病人の病苦そのままの苦痛が起りましたので、実に並大抵の苦労ではなかったのです。又物忌《ものいみ》がきびしく年惠様はこれにも絶えず苦《くるし》まれました。心なき人達が汚れた躯でお願いに来ると、その咎を年惠様が引受けて了《しま》うのです。それでも一心に助けを乞う人達を不憫に思われ、厭な顔一つせず、神様に願ってあげるので、いつとはなしに依頼者が集まり少《すくな》き時も数人、多い時は二三十人に及ぶことがありました。

 長南年恵氏は、奇跡に守られて苦労を知らぬ極楽娘ではなく、苦労に負けぬ極楽娘であったのだ。しかも、心掛け一つで感じる必要もない痛みまで、長南年恵氏は黙って受け止めてきたのだという。

 奇跡は神様の受け持ちだ、一方、痛みは霊媒の受け持ちだ。その霊媒の苦労は評価されず、奇跡ばかりが惜しまれる。その運命から長南年恵氏は逃げなかった。……現代にも霊媒能力の持ち主は大勢いるが、苦労から逃げない霊媒は本当に見つけがたいし、霊能力を欲しがるものも多いが、苦労はいらないというものばかりだ。


 私が長南年恵氏について人に語ると、大抵の相手は、奇跡の部分だけを覚えていて、病痛の身代わりについては関心を持っていない。こういう人心の冷淡さをみて、私は時々、もしも彼女が今も地上にいたら、どうしただろう……と、自問自答する。今も人々の苦しみを身代わり続けるのか、それとも、過度の飲酒や喫煙、不摂生な暮らしが生む病気や、努力も忍耐なく嘆き喚く人々の悩みを身代わり続けるのだろうか?……無意味な疑問ではある。

 なお、病人の病痛を肩代わりして直す……というのは、決して長南年恵氏の独占ではなく、割とありふれた話だ。というか、今から見ると、いささか芸のない話で、霊媒が直接痛みをかぶらぬ方法がいくつか案出されている。だからこそ、なおのこと先人の苦労に感極まる思いがする。……ただ苦労することが良いとは思わないが、価値のある苦労は疎かにすべきでないと思う。


霊査事例: 2005年1月21日(ML)

2005/01/22

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


事例1

 危険だと思います。何がって、どうもあなたの思いと周囲の流れが食い違っています。

 思うように動かぬというのは、不運と表現するべきではありません。ただ、あなたが無理をすると自分を傷つける時機であるということです。

 それでなくても、あなたは自分の運勢を過小評価する癖があります。よくいえば楽観的ですが、途中で冷静になるとうつ病的にもなります。物には流れがあり、原理があります。ただ流されず、しっかりと見極めてください。あなたが不幸になるために運命があるのではないからです。

事例2

 能力ある人は頼られて当たり前です。才能ある人を遊ばせておけるほど、世の中は寛ではないのです。頼られることを不幸に思わず、頼られないことを不幸と思ってください。また、頼られても何の見返りもないことも、不幸と思って良いでしょう。

 不信を抱いたり、関心を失ったりしても、霊界から目が届かなくなります。考え事はしばらく放りだして、例えば一日五分でも精神統一を続けてください。

事例3

 悩むなら、悩む価値のあることに時間を割いてください。

 物事はその世って立つ原因に基づいて結果に至ります。それはつまり、あなたの事情や好みとは無関係なと頃で物事が動いて当然ということなのです。

 考えるなというのではなく、考えすぎぬ事です。何しろ、考えて答えが出ることばかりではないし、人間の事情を超越した事実も大自然には多いのですから。

事例4

 私がサンディエゴを旅行中、皆に見せたくてせっせと写真を撮っているとき、ふっと『(狭いファインダーばかりを覗いて)それで楽しいの?』と聞こえ/感じました。むろん楽しくありません。

 記憶はたちどころに失われていきます。しかし、写真やビデオに記録できることばかりが思い出とは言えないのです。もっと、自分が感じ取れること、感じ取るべき事を大切になさって下さい。もっともっと人生を楽しまれることです。

 あなたは楽しむことを罪悪視するから、幸せな過去を振り返ってより強い悲しみに襲われてしまいます。それはつまり、あなたを喜ばせようとした人々があなたを苦しめているかのようです。むろん違いますよね?

 いずれ訪れる別れの時に怯えるのではなく、今あることを楽しんでください。それが後悔をしない、唯一の方法です。

事例5

 正直、事情はさっぱり見えていませんが、あなたの強い光は見えています。色々と大変かも知れないし、愚痴をこぼしたいことも多いのでしょうが、でも、あなたは、自分と自分の運命に不信感はい抱いていないはず。つまり、何とかなるさ!? と思えているでしょう!?

 それって、世間を見回してとても幸せなことだと思いませんか? だって、あなたは他人への不満は言えても、他人の足を引く必要を今は感じていないではありませんか。

 それって、すごい幸せなことだと思いませんか?


事例1について

Q 「今回いただきました霊査がとても気になります。というのも、会社で起こっていることと重ね合わせて考えるとまさにこのことなんです。と、まぁ、私生活でも同じようなことが多々ありますが。」


回答

私が今回、ぱしっと感じたのは (あなたに限らず、時々気配がまるで感じられなくて霊査を取るのに不自由することが間々あります) 行動力が萎える一方で、頭が働いている状態です。整体などでは「腰が重い」等と表現しますが、頭が動いて身体が動かないというのは、仕事上のトラブルや、事故などに遭いやすい状況、つまり、身体に思考がついて行けない状態なのです。

悪循環――さらにこれは、「行動力が失われているから気持ちが焦る、焦る気持ちで行動するから、ますます身体がついて行かない……という悪循環」です。 これは主に、体調・バイオリズムの問題です。念のために申し上げますが、私はバイオリズムを計算で割り出せるような単純なものとして捉えておりません。

身体は異質な物の組み合わせ――心と体は一組でありますが、異質な存在なのです。異質な性質のものを組み合わせて使うのは難しいもので、相乗効果・弱点を補い合ってより強くなる組み合わせは理想的ではありますが、そのように使いこなせる人はほとんど見ません。大抵の場合はリズムの合わぬ二人三脚のように、心身双方が足を引っ張り合って、自身が持っている才能・能力の十分の一も発揮できません。そして、自己マネジメントが悪くて才能を発揮できないのに、自分自身を卑下して、自信を喪失し、いわば、 無能と思い込むことで本当に無能になっている人が数多く見られます。……これは悲劇です。

これはまさに、自縛的な人生というわけで、死後に霊媒と出会い、浄霊を受けるまで自縛で苦しみ続けるなどといったら、もう悪夢以外の何物でもありません。……一応、当方は心霊サイトなので、無理矢理あの世の話に結びつけましたが、不毛ではあります。どうせ、気がつかぬ人は死んでも気がつかぬものなのですから。

休息の取り方が大切――さて、肝腎の対策です。 休むべき時、または、心と体のタイミングをすりあわせるべき時に、色々考えるのはナンセンスです。何しろ人はうまく行かぬ時、うまく行かぬ事ばかりを考え始めて、かえって苦悩を深くします。すると考えるよりも休む方が有益となります。また、思うように自分が動けないからといって、自分を否定したり、貶したりする(すなわち内攻)するのは害はあっても利はありません。むしろ、 心身(体)の協調に必要な知恵を磨くことです。

すなわち、心に身体がついてこないならば、効率の良い作業手順を考えるべき、ですし、頭が働かなかったり、情緒不安定なときは、単純作業や運動・スポーツで身体を動かすこと、です。

余力のある部位を活用し、鈍い部位を休ませることで、バイオリズム如何に関わらず心身の協調が取りやすくなり、多少疲労があってもリズムが合うことで、結局調子よく生きることが出来ます。

ところが、この辺の仕組みが判らぬ人は、身体が衰え、心・頭脳が盛んなときに、身体が動かない、自分は駄目な奴だと思い悩んで、心身をすり減らし、反対に頭が衰えているときに無駄な行為を繰り返して気苦労を増やし、ひいては病気になったりします。また、浮気や事業の失敗なども、頭が働かず、でも身体が元気なときに新規なことに手を出したくなってしでかす過ちなのです。


助言: 身体または頭脳の働きが低下したとき、無理に働かせるよりも、もう一方の働きを落とす方がうまく行く

従って……

バカとハサミは使いよう――自分を卑下するよりも、自分を活用することに努力すべきです。

愚者とは自らの知恵で自らを滅ぼすものをいう――『私はおバカさんだから……』 と、頭も使わぬ人もいますが、なるほど頭を使わなければ利も少ないが害も少ないものです。その選択はそうバカにしたものではありません。ところが、なまじ知恵者ぶる人は、自分の行動力が発揮できないとき、自分を過剰に宣伝してみたり、周囲をバカにして、自己顕示欲を満たしたりします。さらには徒党を組み、類友を集めて……行動力が低下しているとき、必要なのは味方であって敵ではありません。にもかかわらず、主に自己防衛本能からわざわざ外敵を増やしてしまう人がいます。……劣等感を抱いたとき、つい他人を攻撃したくなるのは人情ですが、その結果は自滅の近道です。くれぐれもわきまえてください。 愚者とは智慧ない人や頭脳の働きの鈍い人をいうのではなりません。愚者とは、自らの知恵・自らの努力で、自らを滅ぼす人をいうのです。

愚者の法則: うまく行かないときはジタバタしない。うまく行かないときにジタバタすると、ますます悪循環の深みにはまり込んでしまうから。


自己信仰の盲信者 (基本的人権)

2005/01/21

2005年 01月 21日


 何やら物凄く久しぶりに、「お前は間違っている!」的なメールが舞い込んだ。内容はナンセンスで取り上げるほどの話でもないが、内容そのものよりもその言語表現や非論理的な動機に唖然とする。

 サイト立ち上げ初期には、「心霊を信じるなんて非科学的だ!」的な論戦を持ち込まれたこともあったが、非科学的であるとか、私の持説が間違っているか、等ということの前に、人間として踏まえておくべき事があるのではなかろうか?

 つまり、基本的人権への配慮である。

 非科学的?――さすがに「非科学的な事を信じている連中(心霊論者?)」と「科学的な論理で会話が可能である」と思考する非論理的な連中(?)とは、最近とんと縁もなく、忙しいだけで平穏な日々を送れている。これはまあ結構なことだ。迂遠なことを扱っているのにせせこましい論戦など面倒以外の何物でもないからだ。

 私にしてみれば非論理的であろうが非科学的であろうが、応用手段があるなら利用する……しかし、怪しいノウハウを売り物にした営業活動で我が身を貶める気もない。隠すべき事は隠すが、隠さなくても良いことは隠さない……私が提供する知識を利用するのもしないのも、読者の勝手、笑いたければ笑えばいいし、有益と思えば使えばいい。

 私は議論そのものを嫌うのではない。不毛な議論を嫌うのだ。

 盲信者――どうも不思議なことに、宗教や心霊に関心のある人ほど、基本的な人権への配慮が足りない。例えば日本では憲法で「信仰の自由」が保証されているが、憲法の保障下で活動している宗教家が、迷惑な布教活動などで他人の信仰の自由を侵犯している事を散見する。基本的な人権を認めない、または、軽視する……神様なり、仏様なり、はたまた教祖様というのは、一体どのような霊格・人格の持ち主なのだろう? 少なくとも私は、そのような神仏・人間に尊敬の意は抱けない。

 例えば、僧侶が源氏物語の大胆な現代語訳をして、著作者人格権云々の話題が出たことがあった……私も、著作商用権の切れた浅野氏の本などを電子化して改めて、著作者人格権と向き合うことになり、著作者人格権の制約に歯がみをしている。なるほど読みやすさを考えれば書き直したい所が多々あるのだ。だが……死体を勝手に解剖する医者がいたら、遺族から訴えられないだろうか? 死んで50年たったら、その人が生前に残したものをどう扱っても良いというわけではない。たとえ僧侶であろうが、霊媒であろうが……。訴える人がいないからといって行いは肯定できない。

 また、意見の異なる相手に、大人ぶって、「誰某さんの間違った心を直してあげたい」等という人も散見するが、『基本的人権て、聞いたことがある?』等と思ってしまう。

 宗教や心霊関係者が、各種の人権を軽視するかの態度を取ることは、非科学的以上に大きな問題ではなかろうか? それはもう、何がどう問題であるのかなどと、分析する気も起こらないぐらいに、バカバカしいほど基本的な問題だ。というか、わざわざ書くのは恥の上塗り的な気分ですらある。

つまり、人権を軽視する人は、人としての資質を備えているのだろうか? そして、そうした連中の仲間と私も見られてしまうのだろうか?

自身の過ちの結果は自業自得として甘受せざるを得ないが、他人と同一視されるのはかなり迷惑である。

 さて、今回、届いたメールには「何でこんなホームページ開いてまで、人に主張することがあるのか、」とあったが、ホームページを読む、読まないは受け手の自由である。そしてホームページの開設が、作者のうぬぼれの結果だったとしても、ホームページの開設そのものは、うぬぼれを何ら第三者に押しつけてはいない。反して、メールは相手に送りつけるものだ……勝手に読んで腹を立て、腹が立ったからとわざわざ三通のメールで批判を寄こすのは、私の立場から見れば、送信者のうぬぼれの押しつけである。……基本的人権に「うぬぼれる権利」が含まれるか、否かは不勉強で知らないが、少なくとも「うぬぼれを押しつける権利」が憲法で保障されているとは思えない。まあ、人それぞれ目指すものが違うが、良識の範囲でやっていただきたいものだ。

 むろん、異なる意見の持ち主と議論することは、良いことだと思う。だが、自己矛盾やうぬぼれの押し付け合いは不毛だし、不毛なことをしたがるのは愚か者だ。 そして、議論と恥のさらし合いの違いの分からぬ人々の何と多いことか。見ている方が恥ずかしくなる。

善悪――人間の数だけ意見があり、利害がある。自分の信念や利益だけを追求すれば他と争いが生じるのは避けられない。その上で何を目指すのだろう? 求めるべきは真理か、愛か、利益か、幸福か……人により価値観は異なるだろうが、修羅の如く、ただ争いを求める低き境涯ならばいざ知らず、もうちょっと高尚な目的を持つ人であるなら、周囲とは程々のところで妥協しつつ、極力自己の人生に集中しようとする。例えば、百獣の王と呼ばれるライオンは、人類を支配し得ない……一能は最終的な勝利をもたらさないものだ。

 そして社会は、種々雑多な理念の妥協の産物……それは一見矛盾の塊、キメラのごとき複雑怪奇な化け物じみた存在ではある。だが社会、いや、他人に強く依存しなければ、社会の矛盾など問題にもなるまいし、自分に自信があるなら、他人の意見なども指して問題にはなるまい。また、そもそも、無理・無駄・矛盾は余計な努力を必要とするが故に自然に淘汰されていく。

 どれほど社会に矛盾があろうが幸せを掴む人はいる。霊能力がなくても幸せを掴む人がいる。世界中にどんな意見の持ち主がいようが幸せを掴む人がいる。――人の間違いを正したければ、相手よりも高潔な態度を示すべきだ。それが出来なければ笑えばいい。それをわざわざ、意見したことであざ笑われるような真似は、誰に利のある行為なのか? 利敵行為は矛盾に思えるし、 墓穴を掘るのはあまり建設的とは思えない。

 私は思う――他人を怨むよりも、社会に押しつぶされぬように生きていくべきだ。……だが、その思いを誰かに押しつけようなどとは思わない。だから、批判的なメールにメールで返事をして、異なる意見の相手に読むことを強要する代わりに、ここに「1月20日、くだらぬ意見が寄せられた」という事実だけを記す。

 備考――相談メールなら、第三者には絶対に見せないけれど、批判メールは広く第三者に見せて、より公平な観点での意見を仰ぐべき性質のものだと思う。といって、わざわざ我がサイトに掲載する気はさらさら無いが。


地には平和を!

2005/01/13

2005年 01月 13日


地には平和を!

 私はかつて、地球人という自負を持っていた。日本人としてのナショナリズムに陥ることなく、汎地球的な利害で物事を考えようという態度だ。だが、高邁な理想にも関わらず、語学力的な面から見てもその達成度はすこぶる低いが、それはまあご愛敬である。

 今も別に地球人としての自負心を棄てたわけではない。ただ、霊感に目覚めて以後、自分にラベルを貼るのを止めただけだ。つまり、そう、今はラベルが貼られているから地球人なのではなく……あるがままの老神いさおであることを大切にしているということだ。

 だが、地球人という考えの矛盾に気がついてしまった。人は結局、己の理解できる範囲でその世界を考えるが、その範囲は、果たしてどれだけの広がりを持っているのだろう?

 もしも地球が、例えば宇宙の侵略者や、全地球的規模の天災に見舞われようとしているのなら――地球に暮らす人間誰もが地球人として振る舞えることだろう。だが、地上の二つの国が戦争を始めたとしたら、その両国民は果たして地球人として振る舞えるだろうか? 自国のナショナリズムに囚われずに済むのか、または、自己保身に走らずに済むのだろうか????

 遠大な理想を抱くことは必ずしも、その人格の高邁さを示しはしない。多くの人々が世界の平和を願う一方で、利害の反する一個人の破滅を願っていたりもするのだ。世界平和の祈りといえども、実は自己保身の一部であることも多い、我が身を犠牲にすれば皆が幸せに暮らせるとして、どれだけの人が我が身を犠牲に出来るだろうか? いやいや、その問いに言葉で答える必要はない。間違う余地なく世界が平和になるほどには、善意ある人は多くないのだから。

 自称平和主義者はとても多い。戦争論者よりも遙かに多いだろう。だが、果実から木の種類をみるという、聖書の智慧を用いるのならば、世の中は偽善者ばかりであると思えるだろう。……理想と現実のこのギャップこそが、絶望を暗示しているのだ。理想が希望ではなく、ただのファッションとなっている現代。希望が信頼に値しないなら、人々に果たして未来はあるのか? 

 犯罪の低年齢化、児童・生徒の学力低下、日本の未来を担う子供達が堕落しているのだ、今、日本の中堅を担う我らは、一体誰にバトンを渡すのか? 地球的な利害で考え、日本の子供達以外に未来を託すとしても……まともな子供を育てられぬ日本人にいかなる存在価値があるのだろうか?

 日本人は幻想に我を忘れて、未来を棄ててはいないか? ――ただ今の幸せを得るために、明日を安値で売り飛ばしてはいないか? 

 絶望とは希望を失うことだ、そして、希望とは現在の欲望充足ではなく、願望が未来に達成される事を信じることだ――明日の幸せではなく、今の幸せを追い掛けることは、幸福なようでいて実は絶望と同じではないか?

 必要なのは世界平和か? 必要なのは今の幸せか? なすべき事が闘争の放棄、求めるべきは明日の幸せ……迂遠な考えをあざ笑うのは、智者か、愚者か、どちらであろうか? ――そして私は今の幸福よりも、智者であることを選ぶ。それが切ない選択であるとしても。


嫌い……が意味する所

 月とスッポンの違い――世界平和を祈りながら、現実には隣人との争いを止められぬ人が多い。つまり、人の祈りに嘘はなくとも、人の行いは欠陥だらけのまがい物に過ぎないことは明々白々な事といえる。

 霊格の高低は何が基準か――霊媒共は、低級霊とか、高級霊とかいう。だが、何を基準にして低いとか、高いと格別するのか、正しく知る者は少ない。また、善悪についても相対的な見方が出来なくもない。だが相対的な観点を絶対視するのは合理的に見えて実は愚かである。真理とは不偏の事実であり、不偏ではないが故に相対的な価値観は真理と呼び得ないからだ。

 人の多くは、自分に利をもたらす者を善と呼び、利を損なう者を悪と呼ぶ。そうした相対的な基準で好き嫌いを決めたりもする。真理を知らぬ者は、いつまでも相対的視点から、善悪・高低を評価し、好き嫌いで物事に一線を引く。だが、真理に背いて真実が得られるはずもない。

 善悪・高低、実は絶対的・普遍的な視点が存在する。自らを貶める者を悪と呼び、自らを高める者を善と呼ぶ。また、己を慎む者を(説明より)高いと呼び、己を過大評価する者を(説明より)低いと評価するのも普遍的な基準である。

 愚者にも智者にも、人の好き嫌いはあるだろう。だが、相対的な観点で人の好き嫌いをいってもそれは派閥争いにしか成らない。しかし、絶対的な観点での好き嫌いはどうだろうか?

 我欲を謹んで向上の道を進む者と、共に生きられるならばあなたも向上するだろう。しかし、我欲のままに己を貶める生き方をする者と共に生きて、あなたはどこに進むのか? 急な坂道は頂上への近道であるが、楽だからと下り坂を進めば頂上から離れるばかりだ。

 私は嫌う……下り坂を行かんとする者を、そのような者と共に道を歩む気はない。

 そして多くの人々は嫌う――険しく苦しい上り坂を強いる人を。

 だが、私は今の幸せよりも、今の希望を大切にする。快楽よりも生き甲斐を、自尊心の充足よりも神の誉れを……人それぞれに求める者と価値観は違うだろう。私はそれを相対的な見地で区別はしない。ただ、その結果で違いを判断するのだ。


嫌な顔が目の前にちらつく

2005/01/12

2005年 01月 11日


かわらけ割り

 当サイトには、変な用語がある。「アフターオフ会」はその代表だろう。ネットで知り合い、メールなどを通じて付き合う仲間達と遊びに行く……普通ならばオフ会と呼ぶべきものが、当サイトでは、精神統一や滝行の集まりが正規のオフ会で、そのオフ会後の息抜きがアフターオフ会と呼ばれる。まあ、大抵の場合、オフ会よりも時間も金もかかるのが普通で、息抜きがメインと受け取る向きも無くはない。

 似た言葉に、「裏掲示板」なるものがある。別に隠し掲示板でも怪しい話題専門の掲示板でもない。心霊問題を扱うのが表掲示板で、息抜き話題用が裏掲示板と呼ばれているだけのこと。

 何せ、主催者からして、勤めの合間を縫って、心霊研究をしている。当然ストレスも溜まるし、堅い話ばかりでは互いがうち解ける機会もない。当初、一つの掲示板だけで運営していたら、おふざけ話題が掲示板を塞いでしまったので、真面目な表、お楽しみの裏、と分けただけの話だ。まあ、最近ではすっかり閑古鳥が鳴いているが、このスタイルは大切なものと思う。

 さて、1月の「アフターオフ会」は……どこからがアフターなのかは微妙なところだ、精神統一後、中華街に繰り出して、新年会、生ビールを飲みながらも心霊や統一に関する話題で盛り上がったからだ。その後、関帝廟にお参りした後は、間違いなくアフターオフ会だろう。我々は鎌倉に向かい、まずは鶴岡八幡宮を参拝、丸坊主の大イチョウの木を見てカメラを持ってこなかったことを後悔しつつ、鎌倉宮に向かう……カワラケ割をするために。

 午後4時を過ぎて、門前の通りを夕日が照らす。神社参りにふさわしい時間帯ではないし、動機を考えると危険な感じも有りはするが、兎も角皆でカワラケ割りを楽しむ。

 簡単に説明すると、酒杯型の素焼きの土器(カワラケ)を一枚百円で買い、厭な思いを込めるつもりで、カワラケに息を吹きかけ、それを敷地内の石に叩きつけて割ることでストレス発散が出来るという仕組みだ。そして我々はカモで有る。我々がバチバチ割っているのを見て、神職がイタズラを疑ってようすを見に来たぐらいである。しかし、ちゃんと五百円玉の山が出来ていた。

 たどり着くまでに充分に盛り上がっていた私は、一万円札を出すだの、千円札を出すだの、大きな事を言っていたが、いざとなると羞恥が兆して最初は三百円、後でこっそりともう百円の、都合4回、カワラケを割った。

 実は、道中、うるさく背後霊から説教を喰らっていたのだ。……やれ、物に八つ当たりするのはみっともない、怒りや不満を人前で顕わにするのはみっともない、バカ騒ぎはみっともない、……こいつへの怒りもカワラケに込めたか、どうかは読み手の妄想に任せることとする。

 心霊的といえるかどうか……ストレス発散法として、私は滝行や水垢離を行っていた。その代わりにカワラケ割りが良いとは思わないが、滝行や水垢離は誰でも真似が出来るわけではないし、下手に真似をされて風邪を引かれたり、酷い場合、脳溢血や心臓麻痺で死人でも出られた日には寝覚めが悪いことこの上ない。まして、皆で楽しめたことはいうまでもない。

 この後、二点気になることがあった。

 帰宅途中、メンバーが、お汁粉が食べたいと言い出した。ところが、門前をチョット離れると、お汁粉が食べられる店が無く、あっても一杯700円前後も取る。下手をするとカニ天丼が食べられる値段だ……などと思うと、もう食べる気がしなくなってしまった。が……

 また、普段の穏和さとはうって変わって、凶暴なまでにカワラケを割っている人は、どうなったのだろうか……トップページ的な話題に持って行くが……つまりこういう事だ。

 作用には反作用が伴う。

 そして、怒りは往々、相手よりも自分を傷つけるものなのだ。

 そう、後悔先に立たず、皆が、カワラケ割りで無駄に疲れ、自分を傷つけはしなかっただろうかと、心配になったのである。

 ついでに言うと、我々の帰り際に、見知らぬ一人の女性が参拝し、カワラケを一枚割って、それを見ていた我々に気が付き、はずかしそうに立ち去っていった。帰路再びすれ違ったら、彼女の顔はとても晴々していたことにメンバー全員が気が付いたのだ。

 まあ、カワラケ割りはやっても一枚にすべきだな……でも、わざわざ鎌倉に行ったなら、やはり10枚は割りたいかな? イヤ、どうせならカワラケに顔を描いて……結局、貧乏性(むしろ貧乏人根性?)に捕らわれ、我らはサル並の学習能力である。

嫌な顔がちらつく

 私も人の子、厭な相手の1人や2人や、その数の10倍から2、30倍はいなくもない。まあ、面倒なので勘定をしたことはないが3桁までは行かないだろう。それほど広い人間関係は築いていないし、おバカさんなのでそんなに多くの憎しみを管理できない。

 論理的にいうなら、嫌いな人間を持つことは自分の可能性を狭めることであり、決して好ましいことではないし、 「好きにならなくて良いから、嫌いにならないようにしなさい」という教えも受けている。しかし、『ああ、これ以上係わると嫌いになりそうだから、チョット距離を置こうかなぁーー』と思っても、距離というのは相対的なものなので難しい。こちらが遠ざかろうとすると、相手はますます寄ろうとすることもある。これは別段、私に魅力があるとか、価値があるからとは限らない。単に、「人から嫌われる自分」がイヤで、離れていこうとする相手に、反射的にサービス精神を示す人は多々居る……女性に多く、病的なまでの反応を示す人もいる……からだ。要するに距離を置いた関係を築くのは難しい。――というより、対人関係の距離感のつかみ方が下手な人が現代にはあまりに多い。そして、距離感が掴めないから人に嫌われていることに気が付かず、包容力のある人に執着したりもする。

 ただ、幸いなことに、私には、仕事や生活などの都合から縁を切れずに困る相手はホンの数人しかいない。つまり、大半の厭な相手は私にとって無用の相手、無価値な相手なのである。そして、厭な相手を無視して困ることが少ないのはきっと幸いなのだろうと思う。……これはあくまでも実際面でのことだ。

 ところが迷惑なことに、時々、私にとって無用な相手の顔が、脳裏にちらつくことがある。これは霊感故とは言い難い、恐らく似たような体験は霊感を自認しない人でも持っていることだろう。……どうしてこういう事が起こるのだろうか。「大脳生理学的、記憶システムの構造的な問題」――にも原因の一端はあるだろうが、私はそれをナンセンスに思う。思念の働きのスタートからゴールまでの過程に生理現象が介在する事には意義がない。が、なぜそれがスタートするのだろうか……私が求める答えはそこにある。少なくとも構造的に仕方がないという答えは学術的に正しくても意義は見えない。そして、今までもその答えを求め続けたが答えが得られずにいた。が、カワラケ割りの後にふっと聞き取ったメッセージがある。

・・・・・

『ストレス発散の為に他を頼るなどというのは情けないことだ。相手が石とカワラケ(土器)だから文句も言うまいがそれでよいのか?

『(多くの)人は無意識にストレスを他者にぶつけて発散し、悪びれることもない。さもしい心で冷静ぶりながらも、無自覚のストレスが溜まると、憎き相手を心に浮かべる。本来は内在するストレスや自己矛盾だが、自分を責めずに人を責める。それで何が変わるのだろう?

『自分を変えるためには有力な味方が必要なのに、野次馬を味方と誤解し、強い敵を増やしてしまう。愚かな行為といえばいえる。しかしそれも摂理のうちである。人はそうして慎みを覚えていくのだ。他人の手を煩わせる必要が無くなり、転生を卒業していく者は僅かしかいない。

『好まぬ者の顔が脳裏にちらつくという――その者が生け贄を求めているのだ。決してあなただけを思うわけではない。ちょうど、そう、ケンカ相手をネットワークで検索しているようなものだ。その面影にいらだちを覚え、応じてしまえばそこで争いが起こる。めんどくさいかも知れぬが、それもまた霊感の仕組みなのだ。』

……どうせなら、同じ喧噪な相手を選べばよいのに

『それは出来ぬ。彼らにもまた向上心があればこそ、より高き者を相手にしたがる。人を導くことが出来ぬから、人の足を引こうとするのだ。争いで得られるのは軽蔑だけだと魂の芯にまで届くその日まで。』

……なるほど、摂理には神も仏もいるが、それ以上に悪魔も多いらしい。

『そして、神と悪魔の区別もつかぬ者が、悪魔の数以上に多い。みよ、我欲を満たすためだけに神に祈りを捧げる者達を。神と接するのに悪魔に接する態度を取る者ばかりだ』

……情けを掛ければ裏切られるしね。

『目の向け先どころを間違うなかれ』

……トラップ仕掛けて良い? すると嘲笑が遠ざかった。


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