‘2004/11’ カテゴリーのアーカイブ

憎悪という生き甲斐

2004/11/11

憎悪という生き甲斐

2004年 11月 10日


 人間、目標があれば困難に出逢っても、痛みを忘れることが出来ます。逆に、目標を持たぬ人は些細な困難すら乗り越えることは出来ません。

「お前なんかに出来るはずがない」――と言われて腹を立て、発憤して実現するという話も良く聞く話です。このような事実の見聞を通じてこそ、私は思います。憎悪も嫉妬も執着心も(迷惑ではあっても)やはり神から送られた財産であり、人間の武器であると。

 しかし、憎悪をバネに努力した人は、実現した後に不毛感に囚われます。――憎悪があればこそ得られる幸せって奇妙なものとは思えませんか?

 無気力な家族や部下を持った人は、たとえ憎悪でもいいから生き甲斐をもってくれよ――などと安易に思いがちですが、後始末は大変です。


業が深い・正しい努力のために

2004/11/10

04年 11月 10日


 ここでいう業とは、仏教での業《カルマ》であり、旧来の心霊思想が借用するオカルト的な解釈とは異なります。また、何度も繰り返し説明していることでもあります。

 業――「行為」と見なしても構いません。友達が作れないとか、周囲から阻害されるといった悩み事には、なかなか解決策の見えないものですが、果たして周囲が悪いのか、自分が悪いのか……原因が見つからなければ解決策も見いだせません。

 いえ、実をいえば、原因を見いださぬまま解決に向けて必死に努力する人で世の中は満ちております。その努力が何を意味するのか? 必死に努力している内だけ、苦しみを忘れ、劣等感を忘れているが、でも問題は解決しない。息が切れた後に残るのはただ不毛感だけ。そのような状態で誰かに助けを求めても、もう自分の指一つ動かす元気も残らない。……誰が自分の人生に責任を持つべきなのだろう?

 業が深い――現在は過去の積み重ねであり、未来は現在が生み出しつつあるものです。良い未来を生み出したければ、その為の努力が必要でしょう。業――業《カルマ》――行為……今の行為が自分の未来を作るのです。その事に気がつけば、さらに大切なことにも気がつきます。

 現在が悪ければ、それは過去に原因があるということだ。

 現在を作るのが過去であるという原理を理解しなければ、良い未来を作るための原理も理解出来ません。それはすなわち、イエスがいったという言葉……木の種類を見るのに実を見る……ということです。木を見ても種類が分からないのであれば、せめてその実を見ればよい――より良い未来を生み出す手段が思い描けないとしても、現在の状況から過去の反省点を見いだせるのならばまだ希望があります。しかし、木を見てもその種類が分からず、実を見てもその種類が分からないなら一体どうやって木の種類を特定すべきなのでしょうか? 誰かに尋ねる……どうしてその人が真実をいうと確信出来るのでしょう?

 結局、木を見ても、実を見てもその種類が分からず、真実を知る人がどこにいるかも知らないなら、結局、木の種類を正しく見極めることが出来ぬということです。……木とは努力、実とは結果、木の種類を見極めるとは正しい努力の方法を知るということです。正しい努力を知らずにいては、努力が報われないことは理解出来るでしょう。

 報われぬ努力を重ねることにくたびれる――それでは、努力が嫌になって当たり前です。では人は、自分を苦しめるために行為を重ねるのでしょうか? そう、 自分を苦しめるために努力する人を指して「業が深い」というわけです。

・・・・・・・

 では、業を和らげるにはどうすればいいのだろう?

 ――対策のない指摘は無責任ですらあります――

 が、難しい。――是非もう一度説明を読み直して下さい。誰が好んで不毛な努力をするというのでしょう?――>努力の意義を知らぬ人を指して 「業が深い」と表現するのです。――>正しい努力の見極めが出来る人を知らず、むろん、自分で見極めることも出来ないから、不毛な努力を重ねるのです。――> 人に聞けず、自分で分からなければどうして理解出来るのでしょう?……その設問は非常に滑稽でしかありません。

 端的に言って、簡便な手段など有りはしません。出来ることはただ、小さい所、すなわち騙されても良いと思える所から少しずつ他人を信頼してみて、その過程で正しい努力の見極めが出来る人を見つけるか、さもなくば、自分で見極められるように学習していくだけのことです。

・・・・・・・

 それも出来なければ?

 ――一体、誰の人生なのでしょう?――

 間違った努力が不毛であるのと同様、間違った工夫も不毛だし、間違った設問に適切な答えを期待するのも不毛です。そもそも、 「業が深い」という状況は、悔い改めれば解決するような問題ではありません。正しき道を知る力がないから間違った道を選ぶというのです。疑問がそこに至ってもなお、間違った方法で答えを見つけようとしてどうして正しい答えにたどり着けるというのでしょうか? ――それこそ業の深い話です。


霊査事例: 2004年11月7日 (静岡オフ会)

2004/11/07

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


静岡オフ会の夜は長い。会場設定の問題から精神統一にかける時間は短いが、その分、しっかりとアフターフォローが出来る。……まあ、愚痴が多すぎる嫌いはあるが、時期的なものとしてあまり気にしないようにする。

 霊査事例(補足1)

『二者択一で悩む……いえ、二者に限りません。いろいろの選択肢があって、一つを選ぶのが難しい時に考えるべき事です。……迷うのは真の答えがそこにないからなのです。』

 心霊思想、特に欧米の心霊思想を学んだ人々(スピリチュアリズムにかぶれた人)が、陥る過ちとして、「霊性向上」の意味の取り違えがあります。本当に向上したのか否か? 実は向上という幻想に取憑かれているだけではないか? 容易にいける死後の世界は夢幻界・サマーランド、すなわち、妄想が実体化し、妄想の中だけで満足を得る境涯なのです。

 迷える人こそが真実を知る機会を得ます。すなわち、人が迷いの中にいるのは真の答えが見いだせぬ時なのです。真の答えが見いだせぬが為に、一長一短ある複数の回答もどきを選びかねて迷わなければなりません。二者択一の条件下で迷うなら、真の答えは第三の選択肢であり、三者択一の条件下で迷うなら第四番目の選択肢こそが答えなのです。

 これはすなわち、迷うのは、より高い視点で物事を見るべき時が来たことの証ということなのです。背伸びをしない限り真の答えは見えない。迷いながらも答えを見いだせないのは、成長すべき時に成長の出来ない人なのです。

 霊査事例(補足2)

『幸運も実力の内といいますが、もらうまであなたのものではありません。今まで幸運だったから……きっともらえるだろうと思って高をくくってはいけません。与えられるまであなたのものではないからです。』

 他人の物をあてにして、計算が狂って怒り狂う……他の所為にするのはワガママな話です。

 季節に四季があるように、人生の巡り合わせにも座して多くを得る時機と、努めて多くを失う時機とがあります。しかし、これは巡り合わせであって、常に失うばかりでなく、また常に得るばかりでもありません。今まで多くを得た人が常に多くを得るとは限らず、常に多くを失った人がこれからも失い続けるとは限らないのです。ですから、得たものを我が物とするのは構わなくとも、未だ得ぬものをあてにしてしくじらぬ事です。

 運も実力の内といいますが、運を持つのが実力なのではなく、運を生かせるのが実力なのですよ。

 霊査事例(補足3)

『今まであなたは、幸運と才能とに甘えてきましたね』――ちょっと解りにくい霊査ですが、こういう事です。人生には多大な選択肢があり得ます。それぞれを辿って大過なく過ごすのは奇跡に近いことなのです。思慮無く生きていたなら、人生はうまく行かないのがむしろ当たり前、おおよそ幸運に生きられたとしたら、それはあなたの守護霊や祖先の霊達がどれほど手間ヒマ愛情を注いだのか、その事に思いをはせて下さい。

 無思慮ならば、むしろうまく行かないのが当たり前。いや、思慮した所で人間の浅智慧では拗らせて当たり前。しかし、いくら祖先や守護の霊達が愛情を注いだ所で、やはり季節が巡ることには逆らえません。すなわち、真冬にスイカを実らせるようなことを祖先に望むのはナンセンスであります。

 あなたが苦しみもだえて、必死に努力している姿は見て取れます。しかし、真冬には真冬の生活、真夏には真夏の生活態度が大切なのです。真冬に薄着で歩けば、どれほど祖先が大切に思っていようが、あなたは風邪をひき、辛い思いをするのはなによりもあなたであるということです。


現在は必然の結果

2004/11/07

2004年 11月 17日


 進化の過程を示すのに樹形図を書きます。木の根本から枝先まで複雑に分岐している……一つの原因から様々な結果が生まれうる……未来予測もまた、樹形図で表わされます。

 根本(過去)から、枝先(現在または未来)まで数多くの選択肢がありますが、逆に枝先から根本に向かう選択肢はたった一つしかありません。それはつまり――未来は数多くの可能性があるが、現在を生み出したのはたった一つの道筋しかないという事です。

 それはつまり、今現在の苦しみや悲しみは、そうなるようにあなたが選んできた、必然の結果であるという事です。

 あなたが自分の今に不満を抱いたとすると、それは今までの人生の要所要所での判断を誤ったという事なのです。過ちを正すのは決して容易ではないし、容易ではないからと先送りにすると、さらに修正に苦労する事となります。

 人生をより良くしようと安易な解決策を求める人は多いものですが、安易な手段で得られる結果など、それ相応でしかない……さもなければ今までのあなたの苦労は何だったのでしょうか?

 止まれ! うまくやる事に気を取られて下品な妄想はしない事です。自分の苦労を愚かしく思う人は、他人の苦労も馬鹿にする事でしょう。そういう人のために懸命になってくれる人が果たして見つかるかどうか? 見つけたつもりでいても注意すべきことがあります。 楽して儲けようとする人ほど、詐欺師に騙されやすいという事を。


霊査事例: 2004年11月6日 (静岡オフ会)

2004/11/06

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


 総論

 両日とも天気に恵まれ、無事に静岡オフ会を終えた。参加人数は少なかったがある意味目論見通りでもある。あまり参加者が増えすぎると身動きが取りにくいからだ。また、滝行もあまり人数が多いと、待ち時間が長くて、寒さに耐えがたいものとなる。今後も試行錯誤を重ねて、ベストな道を探していくつもりだが、滝行を含む静岡オフ会はやはり本流にはなり得ないと思う。

 私、個人は滝行に意義を感じているし、参加者も皆、滝行に意義を見いだしてくれている。なによりも経験者ならでは解ることとして、滝行後のポワポワとした幸福感が溜まらなく良い。あくせくとした日常を送ることの愚かさが身にしみて感じられるのである。これだけでも得難い体験だ。ところが心霊主義的な修行という観点に置いて、滝行は本流たり得ない。心霊主義的な修行とはあくまでも精神統一なのである。

 むろん、滝行の最中に精神統一するのも興味深いことではある。しかし、それでは霊媒があまりに忙しい。滝行を無事に終わらせるための監視と同時に、霊査を取るのも難しいし、水を浴びながら霊査を記録するのも難しい。そして霊査が伴わない精神統一は……片側通行では心霊主義の意味が減じてしまう。

 つまり、静岡オフ会は、授業ではなく、遠足なのである。いや、野外学習という名目の遠遊というべきか。むしろ大切なのは滝行の成功よりも道中で交わす会話こそに価値があるのかも知れない。

 事例1

『花ひらく時はいずれや春の内』

 時機(チャンス)は、あなたの都合の中にあるのではありません。あなたが時機に合わせなければいけないのです。――決して焦らぬ事。

 事例2

『滞どめらば濁り、流せば濁る』……動こうとしてうまく行かず、待っていてうまく行かないのは、動きに問題があるのではなく、水そのものが濁っているからです。

 事例3

『統一を学んで落ち着きを得よ』

 事例4

『統一を学んで行動力を得よ』


絆の有り様

2004/11/06

2004年 11月 05日


 想像してみて欲しい。自分が縛られていることを。それが果たして、自由でないことは容易に想像が付く。

 愛しき者との絆は歓びであるだろう。尊敬する者との絆は安心であろう。では、嫌いな相手、憎む相手との絆はどうであるのか?……それが苦しみであることはいうまでもない。

 愛しき者を愛し続け、尊敬する者を尊敬し続けることが絆である。即ち愛することは歓びであり、尊敬することは安心である。では、他を嫌い、憎むことはなんであるのか?……それが苦しみとの絆である。

 人は様々な利害の中で生きる。一得一失、利を求めれば代償を強いられる。そのような中で暮らしていれば、己を守るために争うことも出てくるだろう。好き嫌いは必ずしも好みだとばかりもいえない。嫌悪は往々、必然の結果である。だがそれは身を守る為の必然であって、己と自分を結びつける絆にするのは愚かなことだ。

 人々は、感情の性質だけに注目して、愛することと憎むこととは別物であると分類し、愛することを奨励して、憎むことをやめよと説く。しかし、霊的な視点を得た者にとって、愛も憎悪も、慈しみも妬みも、皆均しく、魂に結びついた縄のようなものだ。――問題は、縄そのものではなく、それが己の魂をいかに縛り上げているかが問題なのである。

 取るに足らぬ者を誰が愛し、誰が憎むというのか? 愛も憎悪も相手を認めればこそ生じるものだ。愛も憎悪も、相手を認めた上での感情表現であり、素直さと屈託との違いが有るだけといっても過言ではない。人々は感情を扱うつもりで、実は相手との絆を扱いかねているだけなのである。

 愛におぼれて堕落するものもいるし、情けを掛けて破滅する者もいる。嫉妬をバネに努力する者や、憎悪故に身を律する場合もある。――重要なのは、感情の種別ではない。自他の絆の有り様なのだ。


霊査事例: 2004年11月3日

2004/11/03

 以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての代表的な霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。  以下に紹介するのは、精神統一の練習中に得た、参加者・個人あての霊査です。当然、対象となる相手によって正反対の霊査も出てくる事でしょう。


 事例1

  •  嫌なことから。ただ逃げ回っていても、いつかは疲れて追いつかれます。我慢していればいつかは諦めてくれるなどと考えるべきではありません。逃げるあなたに主導権はなく、追い掛ける側に主導権があるのです。目的を持って追い掛ける相手と、逃げるだけで得る所のないあなたとでは、果たしてどちらが根気が続くか? 嫌なことから逃げようとする。将来の不安を頭で考えてジタバタする――そのやり方は間違っています。
  •  防御とは攻撃の一手段、最高の攻撃を得るためのポジションに相手を誘い込むために逃げるのでなければいずれは袋小路で捕まります。

 事例2

 困った時に助けられた……その絆は一見強そうですが、人間の心理にはあまり深く染みこみません。結局、一度泥縄で間に合ってしまえば、次の災難にも泥縄を期待してしまって、普段の付き合いをおろそかにするからです。

 結局、時間をかけて育てた絆だけが最後まであてに出来るものとなります。

 次のステップという、エサを目の前にぶら下げられても前進を焦らぬ事です。ただ前に進めばよいと思わず、後の人々のために道を築きながら進む覚悟で進みましょう。

 事例3

「まあいいか」という声が聞こえましたが、いえいえ、それはいけません。

 それはつまり、強引な人相手は急ぐけれど、忍耐強く、また、誠実な人ばかりを後回しにするということです。

 なるほど強引な人相手の仕事を優先すれば、後々うるさくないように思えるでしょう。しかし、「あいつは、脅せばいくらでもやる」と思われたが最後、くだらない仕事まで机の上に乗せられていってしまう……その一方で、誠実で思いやりのある人々との間がだんだん疎遠になって、気がつけば、あなたは独善家の御用人になってしまいます。

 事例4

 人の苦しんでいる様をみてとれる――それこそが幸せです。

 「私は幸せです」と自認する多くの人々は、ただ自分の境遇を正しく理解してはいません。

 たとえば、真冬の中のささやかな陽気を小春日和などと申しますが、小春日和は寒さの中休みであって、春はまだ先のことです。または、親や配偶者の庇護下にぬくぬくと温室暮らしをして、我が春を謳歌する……境遇もまた財産ではありますが、使えば減るたぐいの財産なのです。このような恵まれ方を仏教では福徳と呼びます。

 それに対して、「人の苦境を理解出来る」ということは、人の過ちさえも反省材料にして成長が出来るということです。これを功徳と呼びます。

 後はせめて、人の不平不満に感化されることの無いように。

 多くの人々は、痛みの伴う過ちからだけ、学ぶことが出来ますが、人の過ちから学べる人は幸せの中で学ぶことの出来る、真に恵まれた人なのですから。

 事例5

 豊かさの中でより豊かになれる方法を見いだせるのは、ごく一握りの創造性を備えた人々です。

 多くの場合、人は苦境をバネに成功を勝ち取ります。艱難辛苦とは、苦しみのゴッタ煮であるというより、むしろ、成功手段のゴッタ煮なのです。ただ、アクが強くて皆はそれに気がつかぬだけのこと。

 そう、苦境の中で、自分が苦しいことを知っている人とは成功とは縁のない人です。安楽の中で成功出来ず、苦境の中で成功出来なければ、一体どこで成功出来るのでしょうか?

 あなたはそんなにつまらない人間ではありません。その程度のことは前世で充分にクリアーなさっています。ただ、今時の世の中はどうにも近眼的で、あなたもそれに感化されているだけのことです。

 家族を持てば、悩みの中にでも家族を気遣うゆとりが欲しいというのは解ります。でも、あなたは人生のパートナーを過小評価してはいませんか。


 事例6

『口をとがらせない!!』――と、叱る声が聞こえます。良く聞いてみましょう。

『世の中に矛盾が多いのは、人々の理想が高く、物質の制約が大きいことのギャップの現れです。理想を棄てるか、欲を棄てるか。そのどちらを棄てても矛盾は減りますが、そこに進歩はありません。

 矛盾とは、嘆くものではなく、克服するものです。皆、皆、矛盾と取り組み、悪戦苦闘、心を痛めてがんばっているのです。そんな中で、矛盾の多さに憤りを感じるのならばなおのこと……あなたが罵って世の中が変わりましょうか?――世を誹るよりも、悩める人に同情を寄せなさい。その方がよほど有益です。』

 察する所、どうもあなたも……あなたも、自分の感情を満足させること事実を改めることよりも大事にしがちです。それはいずれあなたを打ちますよ。


お知らせBy老神いさお。

・スマートホン
iPhone/Androidで閲覧時に、最適化したページが表示出来るようになりました。よろしければ、ご感想をお寄せ下さい。

・サイト再構築中
移行途中のデータが時折、トップページに掲載されますが、編集作業の都合ですので、今しばらくご容赦ください。旧作については、本文右上に日付が記載されます。

・ページ更新
 現在:1056㌻
 復旧予定: 残り480㌻位・・・

老研カレンダー
11月 2004
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930EC
12月 2004
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031EC
老研イベントリスト
みにみにぶろぐ
  • ・その後悔の帳尻が合う生き方をしているか?
  • ・我が国だけが原子力を全廃しても、隣国が原子力発電を推進すれば、危険性は無くならない。
  • ・生きるとは生むことである。
  • ・いろいろなる不平不満はあるだろう。だが人は歩んでいる。
  • ・与えられる事を当たり前に思っている者が飢える。
  • ・なぜ、争うのだろう? 事態はただ現実への妥協を求めているだけなのに。
  • ・ 見せられると信じたくなる
  • ・豊かな者は足りぬものに気が付かず、知りたる者は、知らざることに気が付かぬ。……
  • ・ 心に不満が生じるのは、あなたが焦っている証。もう少しゆっくりと生きなさい。
  • ・不平不満が生じるから醜いというのではない。不満を溜めたままでいるから醜いというのだ

More »

サイト内検索
サブ・サイト